2012/01/12

日本の農業の実態

田原総一朗氏のPodCastにて専業農業の方々に対して講演をした際に色々勉強させられたとのことで、真の実態を述べていた。
この実態はもっと流布すべきとのことで、以下に要点だけ書いておく。

まず“農業従事者”は200万人いる。
そのうち、“農業の方が収入が多い兼業農家”は40万人いる。
専業農業の人はそのうち14万人。
では40万-14万=26万人はどういう人かというと、元は兼業農家で定年退職をした為に(給与が無くなるから)結果として農業収入の方が多くなったような人が殆どだという。
160万人の兼業農家はたいがいが休日のみ農業を行うだけで、自分の家族や親戚知人に配ることが主目的で若干を出荷に回す程度しか作っていない場合が多いということのようだ。

これは心当たりのある(こういう親戚縁者知人がいる)人も多かろう。
私自身ももいくらでも心当たりがある。
例えば昔は専業だったが大分年を取ってつらくなったので田畑を売って比較的街中に引っ越し、家庭菜園程度だけ借りて世話が楽な農作物だけやっている親戚がいる。
それでも年金暮らしだから農業収入の方が多いわけだ。

考えてみれば普通の会社に勤務していて“農作業があるから休む”なんていかに農業がさかんな地域であっても無理だろう。連休なり、せいぜい有給をうまくつかってなんとかやりくりをするのが通常となるわけで、それで農業の方が収入が多いわけが無い。

つまり我々一般のスーパー等で食料を買ってくる人間にとっては、専業の14万人の動向が重要になるわけだ。
農業従事者の高年齢化が進んでいると言うが、この数値は200万人の平均を取っただけのことでそこが農水省の“まやかし”であるということ。
専業以外の“後継者”などそもそも存在しないわけでそれがどんどん高齢化していっても不思議でもないしさほどの問題すら無い。

田原氏が言うには重要な専業の14万人はせいぜい50代くらいが平均では無いかという。
講演に来た人達はその程度で40代の人もいたという。
年収1000万を超える農業者とのことでかなり大規模で軌道に乗っている人達だろうからそうそう若い人はいないだろう。
なんにせよ専業の平均年齢をきちんと発表していないのが“あやしい”とみるのは妥当な見方だろう。

また、農水省のひとたちの人員について触れていた。
昔は農業従事者は1000万人いたとのことで現在は200万。つまり8割減っているわけだ。一方で農水省の役人は2,3割しか減っていないという。
全体政策やらあるのでそのまま8割減るべきだとは思わないがそれにしても多いのではないか、ということ。

世界からみると日本の農業生産高は世界第5位だという。
物価問題はあるにしろ、生産高でみれば農業大国の部類ではあろう。
以前にこのブログでも書いたが、日本の食糧自給率が低いというのは世界でも希な“カロリーベース計算”で行っているためだ。
普通にスーパーにいけば分かるように“カロリーをとるための食料品”よりも“カロリーの低い食料品”のほうが圧倒的に多い。
つまり生産額で言えば世界有数の生産量を誇るのだが、低カロリーの野菜やら果物やらばかり作っているのでカロリーベースで言えばたいしたことがない、というだけなのだ。

自給率(食糧安保)を論じるためにカロリーベース計算をする自体は構わないと思うが、“農業という産業”云々を語るのなら生産高ベースで論じないとおかしい。

“農業を片手間にやっている”人達をサンプルしてそれで“農業という産業”の平均年齢を出して論じるのもおかしい。
“農業従事者の平均年齢66歳”は事実ではあるのだがそれは“農業という産業”の未来を論じたり“食糧安保問題”を論じるにあたりそのことを引き合いに出すのは間違っているわけだ。
きちんと産業として支えているレベルの専業農業者を分析しないと論じることは不可能だろう。
霞ヶ関の役人というのはこういうまやかしをいうのが得意だから気をつけないといけない、ということだろう。

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2011/12/31

「6×8は正解でも8×6はバッテン?」からおもうこと

リンク: 6×8は正解でも8×6はバッテン?あるいは算数のガラパゴス性:プロジェクトマジック:ITmedia オルタナティブ・ブログ.
あちこちで議論が巻き起こっているようでなかなか奥が深い。

その1
答案用紙の写真を見て思った違和感は答えの48本のところに×がついていること。
「式が間違っていれば答えもバツにする」という宣言があったそうだが、その理論自体はあながち間違ってはいない。
あてずっぽで正解ではダメなわけで課程も合っていてはじめて正解とするということだ。
しかし便宜上×という表現にしたのだろうが、本当は○にしない(点数にしない)というというべきである。
だから後に残る答案用紙としては×をつけてはダメで何も書かないのが筋だろう。
ただ採点漏れを疑われる場合があるため、ごく小さいレ点(まあ、日本では×の意味になってしまうのだが)やドットを打って加点をしないということになるだろう。
「○×で言えば○だがたまたま合っていた可能性があるので加点をしない」という理屈を答案用紙にきちんと残す、そういうほうがしっくりとくるだろう。

赤鉛筆の訂正は子供が書いたものだと思われる。
答案用紙を返した後で答え合わせと称して先生が回答を読み上げる。
それを子供自身の手で間違えた場所を訂正していくというルーチンワークがある。
これは先生の作業の省力化と子供自身で訂正をして強く印象づけるという効果を狙ってのことだと思うし、その効果は自分の体験からしても良いことだと思う。
しかし間違ったとされる文字列に対して赤ペンで同じ文字列を書くときの子供の心情を考えると×をつけたという安易さに対して問題を感じざるをえない。

その2
「単位が違うと、式の順番が違う」

私には全く意味が分からない。
子供も理解していない。
そしてたぶん先生も理解していない(笑)

「6×8はバツだよ派」の主張をいくつか読んでいくと、小学生に算数をキチンと理解させるためにはバツにすべき、と真摯に考えていることが分かってきた。

・「掛けられる数」と「掛ける数」があるし、その区別は重要
・それが分かっていないと、算数を理解していく上でつまずいてしまう
・だから文章題の式を書かせる時に順番をチェックすることで、理解を確認しよう
という考え方。

これは本当だろうか。私には全く理解できない。 私はかけ算九九を覚えさせられている段階でかけ算においてはひっくり返しても同じであることを認識していた。 なぜなら私はともかく丸暗記が苦手だ。いまもそうだが幼い頃から人よりも劣っていることを認識していた。 しかしそれをなんとかごまかそう(カバーしよう)とは努力していた。 当然ながら九九もなかなか覚えられない。定期的にテストがあるのだがどうにも不合格だ。 ある日、九九の表をじっと見ていると“対称的”であることに気がついた。 そう、九九は81個あるが実は覚えるのはその半分程度で良いのだ。 さらに1や2が入っているところは覚えるまでも無い。 そう考えると覚えるべきところは存外少ないことに気がついた。 不合格といってもそこそこは覚えているわけで改めて集中して覚えるべきところは実はほんの僅かだったのだ。 この課程はおそらく数分にすらならなかっただろうが、何度も不合格で自分でも嫌になりかけていたときにこのことに気づいたことでなにか一気に明るい気分になった。 このことを今でも強く覚えている。 そう、算数なんて覚えることはほんの僅かで良いんだと。 算数が数学になり、いつしか理系人間になってもそこの根本はまったく変わっていない。 理解さえすれば“覚える”ということさえ必要無いんだと。 だからくだらない規則やらなんでも公式といってみたり、解き方をパターン化して覚えろと言ったり、そういう教え方にはまったく反対するし、そういう考え方自体がつまらないとさえ思う。 さて話を戻す。 「掛ける数」と「掛けられる数」という言葉は知っていたがそのこと自体が重要だとは全く思わない。 存在するが重要では無い。 「割る数」と「割られる数」の関係を説明するのに重要だという論があるがそれはおかしい。 割り算に関しては極めて重要だが、掛け算に関しては重要では無い。 それだけのことだ。 掛け算の交換はベクトル(行列式)では成立しないということを言う人もいるがそれは高校生になってからだ。 文系では大学進学において必要ないことも珍しくないし日常生活でもまず必要が無い。 そこまでのレベルが前提なら「ベクトル世界では交換できない」と認識すれば良い。 交換は基本は不可と考えて「スカラー量では交換できる」と再定義しても良いだろう。 さて交換すると意味が違ってきてしまうからダメ、という論に対してはその通りだ、と思う。 意図を持って数式を記述するというのは極めて正しい態度だと思う。 しかしそれがこの題でいう「6×8は正解で、8×6はダメ」の理由にならないのだ。 既にこのことを指摘している人も多いので繰り返さないが、どちらの式もそれぞれに意味がある。 別の言い方をすれば観点や見方、結果として結論までの課程が違う。 それのどちらも正解だ。 どちらかが×でどちらかだけが○ということではないのだ。 それにも関わらず、よくわからない理由付けをして8×6を否定するから訳が変わらなくなるのだ。 単位系を持ち出しているのはダメだろう。 技術的に考えてもここで単位系を持ち出すのは危険だし、やりかたも間違っていると私は思う。 単位系というのは非常に難しいし、理論的な構成単位と便宜的(慣習的)な単位系もあり扱いが難しい。 記事ではくだんの娘さんが「ずつ」という言葉に縛られてしまったのは最悪の結果だと私は思う。 娘さんも娘さんなりに先生の言う言葉を理解しようとしているのだと思う。 何が正解なのか、を懸命に自分の中で消化(昇華)しようとしているのだと思う。 その結果としてこうなってしまったのはとてもまずいことだと思う。 他の人のコメントにもあった長方形の面積を求める「たて×よこ」もそうだし、電力を求める「電圧×電流」もどちらが先という意味合いは全くない。 実話かどうかは定かでは無いが、長方形を45度斜めに置いたらどちらが「たて」で「よこ」か分からなくなって面積が求められなくなった(図には寸法として数字が入っている)、なんて話を聞いた事がある。 たてやよこという概念自体が便宜的なものでとりあえずどっちかを決めてしまえば良いだけの話なのだが、ことばだけに雁字搦めにとらわれるとこういう事態になりかねない。 おそらくは「教科書通り」に教えるとこうなってしまったのだと思う。 教科書的な教え方といういいかたもあるように、網羅的に教えると大変だし混乱するから画一的に一面だけをとりあえず教えるという姿勢がある。 しかしそれは洗練された理屈に対してのみに限定されるべきだと思う。 現実問題として少なくとも掛ける数と掛けられる数を問題にすることはない。 それよりもどうして逆では×なのかの理由をきちんと教師が説明できていない。 逆にすれば違う見方になる。それは事実だ。 そしてその見方も間違ってはいないではないのか。そこをきちんと検証しているのだろうか。 便宜的な理由でそこを省いてはダメだろう。 結果としてすくなくともこの記事の娘さんはきちんと理解できず、誤った解釈をしてしまっている。 そしてそのことで混乱していることは大問題では無いのか。 これらの課程はこのことに限らない。 原発問題の根本、電力政策議論、TPP参画の問題、消費税の議論、どれをとっても構図が同じように私には見える。 ある論を正論と規定し、それ以外を“論破”して否定する。 自らの“正論”は決して攻撃せずにそれ以外をあらゆる方法をもって否定する。 そこまで言ったらの“正論”も否定されるではないかということはは全く無視する。 通常の論議はあらゆる論点をまず並べ、それから色々な観点で評価・精査していく。 当たり前だがどの論点も長所短所を持っている。 その上でどれが現実的に良いかを評価する。 可能ならば折衷案を出して長所を伸ばし短所を削れないか考える。 本来はそういった作業をすべきで“結論ありき”論議が政治の世界では多すぎる。 いうまでもなくこの論議とやら自体が“官僚による仕組まれた出来レース”だからこうなっている訳だが、それを当たり前とおもっているのが官僚だったりするようだ。 官僚は上記のようなテストを上手にパスしてきた人間が多いのでそれを無意識のうちに踏襲するのはなんら不思議では無い。 もちろん新入りの時はそれに懐疑的に思っているとしても、上司やらがそういうことをやって指示するのでそれに刃向かわず(刃向かえばそこで脱落組)に仕事に慣れればそれ以外はできなくなっていくのも自然なことだ。 そして政治・行政では正解が無いのでそのことを否定されないし、なっても否定されるのは官僚ではなく矢面に立っている議員の方だ。 まあ、政治の世界をどう変えるかは話がでかすぎるので別にしておこう。 我々としては小学2年生の算数からちょっと離れてこう考えてみたい。 とりあえずは教科書通りでは6×8という式がある。 かけ算は逆にしても良いので8×6という式も考えられる。 では8×6というのはどういう意味があるのだろうか。 発想の転換とはこういうことなのだ。 自然科学の発展、とりわけ物理学の発展というのはこのことが重要なのだ。 「現代物理学」というのはおよそ現実的な実感から乖離している理論が多い。 だからこそ難解と言われる訳だが、その理由の一つに数式での話の展開がある。 ある現象から一連の式が成立する。 それを数学的な法則に従って色々こねくりまわしていく。 その結果、ある式が導き出される。 その式を解釈するとある物理的な意味を持っていることが分かる。 好例としてはかのアインシュタインが導き出した「E=mc^2」であろう。 この式を解釈すると、それまで普遍とされていた質量(重さ)は実はそのものがエネルギーと等価である、つまり質量をエネルギーに直接転換できれば莫大なエネルギー(cとは光速である。しかも二乗!)を得られるという結論なのだ。 これの実応用例の一つが原子力となっているわけだが、現実にほんの僅かな質量変化から莫大なエネルギーを得ることができている。 原子力というのは放射能という副次作用があって現実世界で大問題になっているわけだが、放射能自体がこの質量変化(質量崩壊)によって生じるもの故に不可分となっており、裏表の存在と言える。 またこれもアインシュタインの導いた「光量子論」もそうで、光というのは実は粒子であってそれをエネルギーに転換できるという理論である。 これの実応用例としては太陽電池である。 最も“ダーティ”なエネルギーとされている原子力と最も“クリーン”なエネルギーとされている太陽電池とが同じ人物からの発想から生まれたというのも皮肉な偶然なのか必然だったのか。 彼の発想力やもののみかたは“奇人”と評されるくらい自由奔放だったという。 なんにせよ、ある式に対して色々な見方をして色々な意味を見いだす、というのが重要なことなのだ。 これは無論“式”に限らない。 ある事実に対して様々な観点でみるように努めねばならない。 その幅を自ら狭めないようにしなければならない。 マスコミが劣化しつつあるという現在。 事実が仮に偏向されているとしても誤った数字や事実はそうはでてこまい。 一方でネットの発展にあわせ、恣意的であるとしても諸データや議事録や審議映像などを公表を余儀なくされている様々な政治・行政の情報。 そこからどれだけのことを見いだせるか。 今年はそれが特に感じられた一年となったが、来年はますますこの傾向は強まるだろう。

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2011/11/18

記者腕章貸して厳重注意に論議 ネット上では「問題なし」が圧倒的 : J-CASTニュース

リンク: 記者腕章貸して厳重注意に論議 ネット上では「問題なし」が圧倒的 : J-CASTニュース.

   大沢克之助編集局長は、取材に対し、こう説明する。

    「人道的な緊急措置でやむを得ないとは認識していますが、記者倫理からみて、腕章を渡した行為は慎重さに欠けていたということです。まず、腕章は、報道目的に使うのが主ですから、目的外使用になります。そうすると、腕章への信頼性が失われる危惧があります。さらには、ジャーナリズムの中立性が損なわれる可能性も否定できません。もちろん、報告や連絡、相談という社会人、職業人としての倫理からどうかということもあります」

何を言っているのか良く理解ができない。
腕章というのはそんなに特権的なものなのか。
例えば警察などの制服や緊急車両などは特権の性格を持っており安易に貸すことは非常にまずいであろう。
これは国家という背景を持つ特権であるという性質もあるからだ。
しかし報道機関の腕章など一私企業が所有するモノであり、仮にその現場に入るための符号であるとすれば警察も報道も同じ立場ではないのか。
貸したという状況も、貸して貸した人間の見ていないところで濫用されると場合ですらなく、貸した人間が見ている範囲内での行動となる。
報道を特権行為かなにかと勘違いしているのだろうか。

   もし記者から相談を受けていたとしたら腕章を貸したかについては、大沢編集局長はこう言う。

    「非常に難しい判断ですね。仮定の問いには、答えにくいです。一般論としては、人命がかかっていてやむを得ないとして、腕章を貸すこともあると思います。今回についてもなかなか言えませんが、記者については、もう少し対応の仕方があったということです」

この見解も随分とひどいものだ。
どうしたらいいのか自分では即断ができないことを述べていながら、現場の記者にはもっと別の対応があったのではないか、としている。
現場の人間は常に反射神経的にベストな判断をしている筈だ。
ましてや人の生き死にがおきかねない現場では一瞬の判断が要求されるだろう。
自分ではできないくせにそのレベルのことを部下に要求する。
人として、社会人として問題なのはいったいどちらなのか。

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2011/11/16

アイドル声優のブログの閉鎖・休止が相次ぐ 「愛してる」「結婚してくれ~」叫ぶ粘着ストーカー : J-CASTニュース

リンク: アイドル声優のブログの閉鎖・休止が相次ぐ 「愛してる」「結婚してくれ~」叫ぶ粘着ストーカー : J-CASTニュース.
ブログの閉鎖休止までいかずともコメント欄やトラックバックの禁止をしてしまえばいいと思うけどなあ。
有名人では結構コメント欄禁止のものや一端保留して検閲後に公開するパターンは多い。
本人が検閲するのが嫌なら事務所のひととかの他人に頼めば良いだけだと思う。

こんなことで相次ぐのは悲しいなあと単純に思うだけなんだけど。
そういうのを考えるのが面倒ならはなからコメント禁止にしてもいいんだし。

ネットの世界は現実世界の投影なのでどうしても行き過ぎた人間が出るのは仕方ないので、それはそれでネットの仕掛けを使って遮断するしか無いしそれができる。

「ブログに書いた私生活の情報」に関しては本人が統制するしかないわけで、これに関してはブログに限らずツイッターでも問題になっていることだから「自己発信の自己管理」というものはこれから形を変えていくらでもあることだと思う。
何が要因だろうとストーカー行為は単純に犯罪行為なのでそれはそれで法的措置をとればいいだけのことだし。

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2011/11/14

ナベツネ騒動

リンク: ナベツネ騒動、最大の「ピエロ」は江川か  裏にチラつく「巨人戦」の視聴率事情 : J-CASTニュース.

まあ、この記事の内容には首をかしげるところもあるがその辺を突っ込むのは面倒なのでやめておこう。

今回のような内紛は別に珍しいことでも無く、しばしば起きていた。
しかし文部省に行って涙ながらに告発するという点では珍しいと言える。

ネベツネの方針で色々と一度決まった話が変わるのはよくあることで、英断と思えることもあるが首をかしげることも多かった。

このようなやり方に呆れてジャイアンツ球団を嫌いになった人も珍しくは無いだろう。

この構造の最大の問題は権力と責任である。
トップにいる権力の行使にはその結果に責任が生じる。ごく当たり前のことだ。
しかしその責任を取る、いや少なくとも責任を感じた言動はすべきだろう。
それが一切無い。
それどころか責任を他に求めて非難したりもする。

そもそも讀賣グループを束ねる会長という上位職が、たかがその中の一会社の球団の人事に口を出すということ自体が異常だ。
好みや意向を言うのはともかく、具体的な人物まで指図して実際に動いて現場をひっかきまわすのは上司として最低のやり方だ。
現場の人間が上司に上告するのは当然だが、逆に現場の上司をすっ飛ばして現場の人間に指示を与えるのは現場の混乱を招くため社内の統制上、間違っている。
それがコンプライアンスかというと疑問ではあるが。
その辺りの感覚が上司に欠如しているというのが問題なのだ。

現場に任せられないという時点で会社の組織上、問題だろう。
単純に自分を抑えられないという幼稚さなのかもしれないがそれで現場が混乱するのだから大変だ。

ところで視聴率の件だが、これも中途半端なグループ経営が直接関係しているのだろう。
昔は中継は地上波しか無かった。
記憶違いで無ければホームゲームだけでは無くビジターゲームも放映していたはずだ。
しかも延長戦もいとわず重要なゲームであれば無制限。
平常時でも10時くらいまでは延長していた。
そのこと自体で批判もあったが、野球ファンにとっては良いことに違いない。

ところがどんどん縮んでいき9時前でカットされることが多くなった。
元々負け試合は早々にカットすることもあったが、弱かった年はそれも当然増える。
弱くても負けていても応援したいのがファン心理なのだがそんなのは無視だ。

一方でデジタルBS放送が始まると系列のBS日テレでホームゲームは全試合最初から最後までやるようになった。
デーゲームでも夜間に再放送を行う。
またCS放送ではG+(ジータス)という放送を行っている。
これもホームゲーム限定とは言え最初から最後まで放送する。

つまりこの時点で3局同時放送という時間帯さえ存在するわけだ。
単純にここで視聴率の分散が起きるのは当然のことだ。
視聴率というのがこれらの合計でいっているのならともかく日テレだけの話としたら見込み違いも甚だしい。

まずいのはこれらはホームゲーム限定のため、ビジターの期間には放送が無いことが多い。
もちろん巨人戦はなんだかんだで視聴率(収入)があるため他局で放送されるがそんなには多くは無い。
大事な試合がビジターになってしまうと中継がされないということになる。

元々プロ野球は巨人戦しかまともに視聴率がとれない、というのは昔からの話である。
いうまでもなく巨人のファン(アンチを含む)が多いということであり、それを支えていたのはほぼ全試合をなんらかの形で中継を行っていたことが大きい。
巨人の試合はホームビジター関係なく日テレ系がほぼ独占し、おこぼれを他局が放送していた感じすらあった。
これらはスパイラル的なもので、どこかが崩れれば縮小の一途となる。

視聴率の低下というのはこういう根深い問題だから、監督が華があるとかそんな小さい問題では無いのではないか。

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2011/09/29

ライター規制

リンク: ライター規制:火遊び防止へ27日から実施 業者に苦情も - 毎日jp(毎日新聞).

独立行政法人・製品評価技術基盤機構(NITE)によると、05~09年に全国の消費生活センターなどから通報のあったライターが原因の火災は169件。うち13件が12歳以下の火遊びで、5件で死者が出ている。NITEは「子供は火を前にぼうぜんと立ち尽くすケースが多く、被害が拡大しやすい」と分析。

まずこの分析自体に疑問を持った。
169件のうち13件が12歳以下の火遊び。
逆に言えば156件が13歳以上の火遊びか火の不始末ということになる。
こういうものをいじりそうな年齢を3歳程度からとすれば分布として3~12歳で9年で13件なので1.4件/年。一方で13歳~90歳として77年で156件なので2.0件/年。
実は13歳以上のほうが事故率としては深刻だと言うことが分かる。
下が3歳で上が90歳というのは13歳以上が少なくなるようなやや大袈裟な取り方だがそれでもこうなる。

つまり集計上は12歳以下を問題視するのは間違いであり、むしろ13歳以上の事故要因をしっかりと対策するのが全体の事故数を減らすのが有効、と考えて対策をとるのが適切な処置であり、小さい子供云々だからといって恣意的にターゲットを作るのは対策として不自然であり不適切である。
(そもそも12歳を区切りとする是非はおいておく)

被害が拡大しやすいというのは希望的観測に近く、通報があった火災というのだからそれなりの規模の火災であるはずだ。

「ぼうぜんと立ち尽くす」ことのない13歳以上のほうが件数が多いというのはどういうことなのか。
死者数はどうなのか記事に無いためわからないのだが、どちらも死者は出ているはずだ。
なぜなら火事による死者数というのは現代では深刻な死因だからだ。

そもそも火災原因としては寝タバコなどタバコ要因が多かったと思うがそれに対する規制や対策はどうなっているのか。
取る順番が間違っている。

数年前に大問題となった家電製品のPSE問題の発端も発火・火災による死者数と言うことになっていた。
あの時も現実に問題とは思えない検査方法を槍玉に挙げて新検査法に通らないと販売させないというトンデモ解釈を行ったのだがこのときも理論的におかしかった。

今回はチャイルドレジスタンスということで非常に固い操作にしたそうだ。
テレビで見た限りでは相当固い感じで大人でも女性は厳しい感じを受けた。
障碍者やなんらかの要因で筋力の弱い人、お年寄りなどに厳しいのは間違いあるまい。

さらにはおそらく火花を出すだけであろう着火器具についても同様の規制をするという。
もはやわけがわからない。

そもそもたかがライターなのになぜ親の管理責任を問わないのか理解に苦しむ。
喫煙者ならポケットにしまえば良いし、家事に使うのなら棚の上に置けば良い。
仏壇なら奥にしまえば良い。
子供の手に届かないところに置けば良いだけだ。
ずさんな管理をしている大人・親の責任が大きいのでは無いか。
実はこういう話の展開でも問題は子供では無くて大人である。

自分が子供の頃の記憶をたどると、私はあまり火遊びという記憶が無い。
庭での落ち葉を燃やしたりその後始末、花火での火の始末、台所でのガスコンロを使った料理(最初は手伝いから)、小学校では可燃ゴミは自前の焼却炉で燃やしていた。
別に火なぞ珍しいものでも無いし触れば熱いし火傷もする。
紙や布というのは容易に燃え上がるし水やら土やらをかければ消える。
フライパンや鍋が発火すれば蓋を閉めれば良い。
そんなこんなを親やら教師からも教わったし自分でも理解していった。

今の子供というのはそんなに火が珍しいのだろうか。
親も火の扱いをきちんと教えないのだろうか。

動物というのは基本的に火を怖がる。
だから子供というのは本能的に火は怖いはずだ。
しかし便利でもあることを知っているからこそ興味を持つ。
その端境が「火遊び」であると私は理解している。

だから火なんぞ別に珍しくも無い、火遊びなんぞいまさらやらない、くらいに日頃から火に接させれば火遊びなどしない。
例えば仏壇でも墓参りの時でも蝋燭や線香の火を子供につけさせる。
火を使って料理を手伝わせる。
ガスコンロを毎度のように子供自身の手でつけさせるだけでも全然違うはずだ。
料理で無くてもお湯を沸かすだけでも良い。
それが無理なら一度で良いから大人の監視下で飽きるまでライターで火をつけたり消したりを繰り返させれば良い。
むしろ飽きてからさらになんども罰ゲームのように繰り返させれば良い。
そうすればライターが嫌いになって子供のうちは二度とライターを触りたくもなくなるだろう。

この処置は危険なものを安全なものに改善した、わけでもなんでもない。
もしかしたら使いづらくしたせいで新たな危険が増えるかもしれない。

冒頭で13歳以上のほうが危険度が高い、と指摘したのはその意味もある。
確かに小さい子供の要因の事故は減るのかもしれないがその上がかえって増える危険性は無いのか。
その点についてきちんと検討がなされたのか、極めて疑問に感じるわけである。

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2011/08/24

これはなかなか良い - 【連載】Wordはなぜ思い通りにならないのか?| ビジネスPC | マイコミジャーナル.

リンク: 【連載】Wordはなぜ思い通りにならないのか? | ビジネスPC | マイコミジャーナル.

この連載はなかなか良い。
WordとはMS-Wordのことだ。
特に文章をがっつりと書く人からほどなぜか嫌われている傾向がある。

なぜかといえば文章を書く流れをことごとく壊す操作体系だからだろう。
アウトラインモードがあるのになぜか使っていて腹が立ってくる。
エディターの拙いアウトラインモードの方がはるかに良い。

大概のソフトは取説やら教科書があってもまともに読まずに使うのが普通の人の行動だ。
こうしたいという要望に対して予想をして試行錯誤で使うものだが、Wordは確実にその予想を裏切って異なる動きをする。
それでもいくつか思った通りの挙動をすれば良いのだがことごとく裏切る。
予想通りなのはカーソル移動ぐらいだろうか。
それすらもエディターを使う人には「コントロールキー併用でカーソル移動できないのかよ」と突っ込まれかねないが。

それが連載の中にある「思い通りにならない」という印象を強く植え付ける。

私自身も使いたくないのだが最近使わざるを得ない状況に追い込まれている。
色々勉強しながら文章を色々作っているわけだが、そこでつくづく思うのは「Word独自の理論で動作している」ということだ。
その理論はたいがいがトンデモ発想なので頭を抱えてしまい、笑いとともに受け入れざるを得ない。

その一つが、この記事でもあるが、画像を“自由にレイアウトできない”という事柄だ。
普通に画像を挿入しようとしたとき、まずはダイアログからファイルを指定して暫定位置に画像を置く。
次にそれをドラッグして好きな位置に置く。
それが普通のソフトの作法だからだ。
しかしWordはそれができない。

なぜかといえばWordの世界では、挿入する“画像”は“そのサイズの1文字”として扱うという発想だ。
その発想は普通の人ではできない。
確かにその発想を飲み込めば、Wordで画像を扱うときの訳の分からない挙動を理解できる。
まあ、近いといえばHTMLでの画像の扱いだろうか。

Wordがわかりにくい原因の一つとしては日本の文化に根ざして作っていないということも大きかろう。
さすがに今世紀に入ってからはだいぶ改善したようだが、最初は本当に酷すぎた。
ワードプロセッサというものよりも、高度なタイプライターと考えた方がしっくりくる。

例えば今でも残っているインデントの発想は未だにタイプライター文化に根ざしている。
もはや欧米でも実物のタイプライターを打ったことのある人は少なくなりつつあろう。
日本ではなおさら少ないと思われる。
その為にその発想すら分かりづらい上に、その発想を発展させた仕様にしているからもはや理解しがたい挙動となってしまうのだ。

他にもドラッグによる範囲の指定という文化がなかった仕様がそのまま生きているのか、ドラッグを無視して勝手な範囲で文字の属性やインデントや段組等が変化したりと、現代の常識にそぐわない動きをする。

そもそもWordを進化させて文書作成のオールマイティツールにしようという発想は全くなさそうだ。
Word以外にもPowerPointやPublisherといったツールを出しており、統合というよりどんどん発散させている。
だからWordは旧態依然のまま外形だけ進化してきたのだろう。
まあ、それがMicrosoftらしいといえばそうなのだが。

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2011/08/13

基地問題観点でGoogleEarthから沖縄を見てみた

沖縄軍事基地問題についてテレビでやっていた。
あれとおもったことがあったので確認してみた。

それは沖縄の8割が南半分、2割が北半分に住んでいるということだ。
Google Earthで上から見てみた。

なるほど。北半分は山が実に多い。
失礼な言い方かもしれないが、山間部や海の近くのわずかな平地部に村というか集落と言った感じで人が住んでいるようにみえる。
実際に郡、村と言った文字も見える。
南半分は平地が多く、県庁所在地である那覇をはじめとして街並みが拡がっている。
主幹道路の密度も明らかに異なる。

このような衛星写真地図で普天間と辺野古を見ると、いわゆるマスコミが語るときに使うような簡略地図とは違った見え方がしてくる。

普天間というのはまさに人口密集地の中にある。
基地の周りを町が囲んでいるように見え、四方八方どちらに飛んでもも町中の上を通ることになるし、基地内で騒音をまき散らしても迷惑に感じる人は多数いるだろう。

一方辺野古を見るといわゆる山間部である。
人口が違うのは明確だろう。
むしろどこに基地を作るんだ?というくらい平地がないように思える。
すくなくとも普天間基地と同等の平地面積をどうやって確保するんだろう、と思うくらいに平地部がない。
位置的には真ん中よりちょっと北部だから町中に出るとしたらこのあたりがぎりぎりかなあという感じを受ける。

ちなみにもう一つの大きな基地のある嘉手納は町中からちょっとはずれた北の方にあり、四方と言うほどではなく南北には人がいるが、東は山、西はすぐ海といった感じだ。

つまり普天間から辺野古への移転というのは、歓迎せざる施設の都市部から田舎への移転という側面もみえる。

移転の是非やらは正直よく分からないので言及しないが、こういう点を見ても複雑な状況があるのだなあということは感じ取れる。

もう一点、基地の経済効果について言及していた。

こういうことは諸説あると言う前提で考えるべきだとしても、数字がかなり印象と異なった。

沖縄在住の経済学者いわく、現在は5%程度だそうだ。
戦後復興直後辺りだと75%であっていまだにその印象や数字を引きずっている、ということだったが、かなり減ったということなのだろう。
まあ、考えてみれば当然であってそこも戦後復興直後は日本全体としても敗戦国であり、あちこちが空襲で焼け野原であり、またたくさんの若者が戦地投入されたこともあって経済力は低かったのはいうまでもない。
しかも最初は一ドル360円という今では考えられないほどの円安だったのだ。
物価の違いもあるが、今の4倍以上の価値となった、それだけの経済力が高くなっている。

沖縄の平均所得水準が日本の中でも最低と言っても何割低いというレベルであって全体があがった今では高いということには違いは無い。
そうなればあまり変わるわけでもない基地勤務員の地元に落とすお金の割合が下がっても不思議では無い。

しかも米ソ対立の時代は過ぎ、むしろ中国との緊張の方が強くなっている。
それでもレベルが違うし軍事費の圧縮も起きている。
つまり米国から沖縄に落ちる金が減るのは至極当然だ。

さらにいえば日本国の税金から米軍にいわゆる「おもいやり予算」で金が流れそれが沖縄に落ちているのでは(経済的に見れば基地の恩恵という観点では)なんの意味があるのかという考えもあるという。

通り一遍の報道では無くて、現地に行って取材をした上での報道だったが、やはりそういうことをきちんとすれば違った観点で色々と見えてくるものなのだなと感心した次第である。

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2011/08/08

原子力の行く末は経済性で決めるべき

「おまえらには原子力をやる資格は無い」とかさんざん自分で書いていていうのもなんだが、原子力の行方はイデオロギーではなくて経済性で決めるべきだと思う。

ただしそれには前提条件がいくつかある。
それは現在の原子力のあり方が経済性無視でやっているからだ。
いわゆる法律による保護、税金ジャブ漬け体質ということであり、まずこれらを撤廃しなくてはいけない。

・いわゆる原子力三法の廃止
原子力設置にあたり、多額の税金が国から投入されている。
誘致の段階も、そして運営中もだ。
つまり国からの補助金を使って原子力は運営されているのだ。
そんなことをしておいてなにが「原子力は安い」なのか理解できない。
補助金が投入されるものは高くて運用できないが必要なもの、に対してだけだ。

原子力発電が安いというのならば三法は廃止をすべきものだろう。。
そして地元への給金が必要ならば発電所を運営している会社が出すべきだ。
それで割に合わないのなら原子力は割に合わないだけのことだ。
国が負担するのはおかしい。

・有限責任条項の撤廃
震災後の「想定外」の言葉は色々な意味があるようだが、ひとつには想定外の大惨事であればその事故による被害や加害が免責されるという法律の条項を求めてのことのようだ。
とんでもない地震や津波ならば免責されるということ自体がそもそもおかしくはないか。
想定外ならば大量の血税が投入されるということは妥当なのか。
ひとたび事故が起これば想定外も想定内も無い。
要因はなんであれ事故を起こした張本人が責任をとるのが当然だろう。
無限責任を認めないこと自体が原発の危険性を物語っているわけであり経済的に割に合わないということを示しているのではないか。

・核燃料廃棄物の処理問題先送りの禁止
これも安いというウソとしてあげられることであるが、廃棄コストが盛り込まれていないという事実がある。
これだけ原発があり、もう長いものは40年も運営をしていながらいまだに廃棄物を処理する場所や方法が確立されていない。
つまりコストがいくらになるのかさえ、実績ベースで計算できない状態なのだ。
それでも最低限は見えてきているわけでそこからどれだけあがるかというレベルらしい。
それならば今から積み立ていくべきで、それは発電コストに上乗せするのが普通の感覚であろう。

・廃棄コストの先送りの禁止
電気代上昇がいわれているが、なんと福島原発の廃棄コストを電気代に含めようという算段がされているらしい。
もちろん電気代上昇には他にも要因があるわけだがうやむやのうちにやられないように注意しなければならない。
当たり前だが原発設備の廃棄コストはこれも発電コストに上乗せすべきものだ。
ライフサイクルといって作り始め(本来は開発から)かかったコストから廃棄するまでのコストは最低限きちんと生産コストとして考え商品にのせていく。
電気販売業の場合は発電コストとして計算すべきことだ。
もし廃棄費用を本当に電気代に上乗せしたいのであれば、原子力発電コストはその分の値段分、安いというウソをついていたということを認める必要がある。
本来なら発電所を作った時点から発電コストとして一部の積み立てをしていき、予定外の事象で廃棄となれば不足分は欠損決済で処理すべきだろう。
それをしないでおいて発電コストが安いというのは大嘘つきである。

大きいところではこのぐらいだろうか。
原子力のメリットはその発電コストの安さだといわれてきた。
リスクを背負ってもなおコストが安いということらしい。
それならばきっちりと他の発電方式同様の“環境”にするべきだ。
税金ジャブ付け法的過保護状態、廃棄コストを考えないどんぶり勘定の放漫運営で安いと言っても全く説得力が無い。

他の発電方式と対等な“勝負”をさせた上で、原子力にメリットがあるのならやれば良いと思う。
今のままではあまりにアンフェアでは無いか。

今の政治的議論をみてみると「再生可能エネルギー」に重きを置かれすぎているのが気にくわない。
そんなに「再生可能エネルギー」に期待をしてはいけない。
どう考えても半分も行かないだろうし、大方のプロの方々によると10%いけば上出来ではないかという。
現在は僅か2%だからそれよりは上乗せしていきたい、であって、主流にするのは難しい。
しかし再生可能エネルギーは基本的に燃料代タダであるから動かし始めれば安い。
原子力発電での発電コストの計算のように建設・廃棄費を入れなければほぼ0円なのだ。
また二酸化炭素排出もほぼ0。
変動は大きいが変動に合わせて火力で調整するのはいつものこと。
火力オンリーよりは再生可能エネルギーの分だけ発電をしなくて済むというメリットがあるだけのことだ。
所詮はその程度のもので過度な期待をすると却って否定に押しつぶされる危険性がある。
0か100かではなく、なんでもアリでやっていくべきものなのではないか。

まあ、それはそれでやるとして、水力・火力の既存施設の再稼働や、火力でもLPGやら石油だけという必要は無い。
メタンハイドレートなども注目されており長期短期で色々あろう。
どれを使うべきかは経済性が重要なことなのはいうまでもない。

単純に原子力もその中で正しく評価すべき時代になったのではないか。

ちなみに今回の事故要因は色々いわれているが、一説には「今回レベルの津波を想定して対応策をとると割に合わない」「他の発電所もそれに倣う必要が出てきてコスト的に考えられない」「よって対策はしなかった」というものがある。
想定外というのはコスト的に想定外と定義したという意味もあるようだ。
つまり安全性から対策を作ったのでは無く、コストバランスで対策が設定されたということになる。

逆に見れば今回の事故を起きなかったような発電所を作るにはコストが合わないということになる。
経営を圧迫してしまうほど高くつく、原子力発電が安いという設定ではたちゆかなくなるということになる。
本来の計算でやれば発電コストが他の方式に比べ高くなるということだ。
原子力が安いというのは安全性を軽視した結果で得られた“メリット”ということになる。

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2011/08/06

原子力安全庁

リンク: 原子力安全庁:閣内調整間に合わず - 毎日jp(毎日新聞).

 政府が5日発表した新たな原子力規制組織の試案は、新設する「原子力安全庁」(仮称)を環境省か内閣府の外局とする両論併記の発表となった。

どうもあまり変える気は無いようだ。
残念というかやっぱりおまえら原発は止めろとしか言いようが無い。
そもそも“安全庁”という言葉自体が本質的役割を変える気が無いことを示している。
むしろ行政に取り込むことで悪化する可能性すら高くなる。
名称もブレーキ役である“規制庁”ならともかくまた安全確保すればいいのだろうという根本的な姿勢を変えようとしていない。

しかも環境省配下だという。 これに対して枝野官房長官は

環境省が、原発が必要との立場をとってきたことなどが、環境省案に慎重な理由のようだ。

ということらしいが、全く同感だ。
私は経済産業省の次に不適格なのが環境省だと思っていた。
環境省が本当の意味で環境問題に取り組んでいるのならともかく疑問点も多い。
特に二酸化炭素排出量問題で排出量削減の船頭を取っているのは環境省であり、そのために原発推進論者である。
放射能汚染拡散という著しい環境汚染に対する危惧よりも、本当に必要かどうかも疑わしい二酸化炭素排出規制をとっているのが彼らの結論なのだ。

危惧と言うより、現実に今なお、汚染が拡がっているのだ。
環境庁はこの事態をどう考えているのか。
放射能による土壌汚染浄化などは環境庁が船頭を取ってとっくに着手すべきなのになにもやっていないではないか。(どうせ予算がどうこうとかいってやるつもりはないのだろうが)

環境省案は環境規制との相乗効果などが利点として想定される

というが、上記のように環境規制によってブレーキどころか、かえって原子力推進というアクセル役になりかねない。
危惧どころか現状がそうなのだから話にもならない。

内閣府案は危機管理対応や政府内の総合調整に対応しやすいとされ、閣内の意見調整が間に合わなかった。

こういうそのほうがやりやすい的なところで独立性を損なっては本末転倒だと思うのだが。
そもそもブレーキ役としては、内閣府は不的確だ。
内閣総理大臣はこれから色々な人がつとめることになろう。
反対派もいれば推進派もでてこよう。それは当然のことだ。
だからこそ内閣構成員の意向を強く受けてしまう内閣府にそれを担わせるのは不的確だ。
議員によってブレーキになれば良いが、アクセルにもなりえるのでは役割を果たせていない。

一方、人事に国会の同意が必要で、行政からの独立性が高い委員会形式は、今回は採用されなかった。

委員会方式を採用しなかった理由について、細野氏は会見で「東京電力福島第1原発事故のような緊急時には、(合議制の)委員会より庁の方が(トップダウン で)機動的に対応できる」と説明。

ここも私には理解できない。
そもそも今回の事故でも安全委員会の役割が全く理解できなかった。
彼らは一体何をしていたのだろうか。

事故の説明とかは安全委員会では無く当事者たる東京電力が行うのが当然だ。
事故の状態を最もよく知っているのは誰が考えても東電だろう。
それを代弁者のように安全委員会が説明していたのには非常に違和感を持った。
そして対応を行うのは、東電であり、政府だ。
国民に危害を与えつつあるのだから政府が先導を取って安全確保に努めるという大原則がそうだからに過ぎない。

ブレーキたる委員会は事故がおきないように平時に活躍するにすぎない。
事故が起きてしまったらブレーキ役は基本的に役割は無いはずだ。
東電や政府の説明や行動が間違っていたりミスリードをしようとしていればそれに対して見識を示してブレーキをかける役割はある。

今回のように東電の代弁や内閣の解説員をさせるつもりなら別の組織を作ってやるべきであってその役をまた“安全庁”にさせるつもりなら、また同じ事故が起きるだけだ。

つまり事故・非平常時の便宜性を重視してその立ち位置を決めるのは明らかにおかしい。
もし事故時の安全確保を行う組織を作りたいというのならそれは別にするべきだ。
そもそも平常時には要らない組織であり、有事に速やかに構成される仕組みを作っておけば良い。
例えば構成員(肩書きで良いだろう)や初動などを事前に検討して決めておけばよいだけだ。
その中に規制委員も入るかもしれない。それだけのことだ。

新組織に国会報告を義務づけたり、内閣府に新設する「原子力安全審議会」(仮称)の意見を聞くことで、透明性を確保する 考えを示した。

この論もおかしい。もともと委員会であっても報告は義務づけるべきだ。
税金を使って仕事をしている以上、国会に成果を説明する義務が自動的に生じる。
そんな当たり前の感覚すら無いのが現実と言えばそうなのだが。

報告会や内閣府の委員会審議などで透明性が確保されるなんて誰も信用しないだろう。
今の各委員会答弁での省庁の姿勢や事業仕分けでの姿勢や結果(一端廃止しても看板すげ替えでごまかそうとするなど)をみればそれは火を見るよりも明らかではないだろうか。

今回の事故はその事故の重大さに加えて、国や行政、東電、さらには安全委員会への信用が地に落ちたことではないのか。
だからその回復策のひとつとして組織換えをするという根本が結果としてないがしろにされたということなのではないか。

ちなみに菅内閣だからというのはそれはそれで問題だが、全体から見れば数パーセントの問題程度の影響としか私は見ていない。
仮に彼がやめて総理大臣やら各大臣が替わったり、仮に解散選挙が行われて自民政権になったと想像してみて欲しい。
それでなにか変わると思うか。

実際に世論調査でもそういう数値が出ている。
民主支持率が低下するのは当然としても、自民も低下、他党にも流れていない。
国民は馬鹿では無い。不支持が増えているだけという現実が物語っている。

それなのに管やめろとかにのっかって現実から目をそらさせている輩の方が危険で馬鹿馬鹿しい。
マスコミも同じだ。
政局のゴタゴタなんかどうでもよくて、例えばこのような安全庁の問題についてきっちりと報道して欲しいと思う。

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