小学校の英語教育でより明確化した英語教育の誤り
小学校英語教育が始まってから、中学校時点での英語力が明らかに低下しているという。
私は「やっぱりな」としか思わない。文部省というのは本当に能なしばかりと言えよう。
プログラミング教育も同じ事だろう。ただでさえ時間が少ない小学校時代を無駄に過ごさせてどうするのか。
中学校、高校でもろくな英語教育をしていないから全く英語力が上がらないのだ。小学校からやったってそこが変わらなければ何にもならない。
小学校英語教育を支持する人の中には、幼少期からやれば「rとlの聞き分けができる」「発音が良くなる」という”俗説”を唱える人がいる。
これの根拠が本当にあるのか、私はずっと不思議に思っている。少なくとも科学的に証明されているのか?
そもそもこんな抽象的な”設問”に明確な答えがあるわけも無い。
はっきりいって「rとlの聞き分け」なんか出来る必要は無い。こんなもの、文脈で聞き取れるのだからそれで十分だ。
もちろん聞き分けようという気持ちは必要だが、できないものはできない、だからできる限りの感覚と文脈で聞き取れれば問題は無い。
(もちろん「プロのひと」は別ですよ。)
「発音が良くなる」も数十人を一人で教えるような現状ではそもそも不可能でしょう。まさにマンツーマンで聞き取り、指導が必要だが、それだけのスキルをただの小学校教師が持っているわけが無し、そんな時間はない。英語専門教員(?)とやらの設定もあるようだが、英語はできても教育が出来るのかはなはだ怪しい基準なのだから問題だ。音楽で正しい音を発生するよりも難易度が高い。なぜなら音階なら周波数なので機械で安価に測れるから(スマホアプリでも測れるらしいし)。楽器で鳴らした音と比べれば良いから。まあ、英語の方もそのうちAIで「適切な発音」かを測れるようになるのかもしれないけど、そんな機械を導入してくれるでしょうかね。今の文部科学省(財務省)で。
小学校のうちにやっておけば良いことはある。簡単な話で「身の回りのもの全てを英語でなんというか知っておく」ということだ。
これは外国人タレントのはしりで有名なアントンウィッキーさんが提唱していた話。身の回りを知り尽くしたらこんどは外に出る、街に出る。
目にはいるモノ全ての英語での名前を知る。これだけで「英会話力」はぐんと上がる。
なぜ「日常生活レベルの英会話」ができないかといえば「日常生活で身の回りのあるモノの名前を英語で知らないから」という単純な理由。
教えるのも簡単だし、先生も「What's this?」だけでいいから楽だ。しかしこんなことすらやらないで「机上の空論」ばかりをしているのが現実。こればっかりは「学習指導要領」の必修単語の枠なんか関係ない。だって「身の回りのもの」ですよ?それが必修単語になっていない方がおかしい。せめて単語のスペルなんか後でいいから、なんて発音すれば良いかを覚えよう。それでいい。
中高まで拡げて英語教育の根本について突っ込んでおきたいと思う。
まず、英文法。英文法とは小難しい理屈をこねくりまわす、暗記科目では決してない。英語を効率よく学ぶための基礎論・体系論・コツ・ハック集だ。
それなのにまず基礎中の基礎である「5文型」ですら、あまりにもなおざりにしすぎている。
英語人では無い、特に全く違う言語体系である日本人には非常に重要で常に意識すべき”枠組み”であり、英語に接する(読み書き聞き話す)ときは常にこの「5文型のどれに当てはまるか」を意識していなければならない。意識しないで自然とこの枠組みで捉えられるようになったら上出来だ(もちろん英語ネイティブは意識せずに、SVOとかいう言葉は知らずとも当たり前に受け入れている)。
このことは常に名詞、動詞、形容詞のどれであるかを意識することでもある。その根幹があって、接続詞や副詞やらの話になり、長文ではそれが節という塊でみえるようになる。
それなのに5文型は一番最初に触れた後、殆ど無視される。酷いものだ。無視して「英単語を英語に変換して」「フィーリング」で組み立てて日本語訳をでっち上げて読解したつもりになるということをいくら繰り返しても英語力なんかつくわけがないし、「喋る速さ」でそれができるわけがないから聞き取りも単語が聞き取れたとしても文章としての意味を取ることが出来ない。
さらに倒置である疑問形や仮定形などは特に、この5文型が原則、通常形態であると染みついていればこそ、倒置(変則並び)の特殊さを感じられ、通常状態とは違う、疑問形や仮定形という特殊な感情表現である、という理屈や感覚的な納得感が出る。
それがないから「ただの覚えるべきバリエーション」的な捉えになってしまい、面白みを失わせてしまっているのでは無いのか。
では、それ以外の”長い”英文法の時間をなにで”潰している”のだろうか。それは些末な例外事項を理解し、それを使った引っかけ問題に引っかからないことを教えているのだ。本来なら基礎(本筋)をしっかりと反復理解した上で例外事項を味わうものなのだが、それをしない。
例外事項についても「こういうトリッキーな表現をすればいつもと違った感情表現になるのだな」という納得感で面白みが出る。
そもそも文法なんてテストでも基礎の定着をしっかり問うだけで良いのに、それでは「点差がつかない」から例外事項でひっかかるかどうかで点差、成績の差をつけようとする。本当にくだらない。実際、大学入試です中低レベルの大学ではその傾向が見られるようだ。
もちろん高レベルの大学ほどこんなくだらないことを問うことは無い。難易度を上げるのなら込み入った長文や、わざと「造(単)語」を入れ込むことで混乱させようとする(文脈からその単語の意味を推定させる)。単語を拾うだけでは誤解する、きちんと”枠組み”を把握して論理立てて読まないと誤解するような(誤った解答になるような)文章を構成する。もちろん英語ネイティブには難が無い自然な英語で。
根本が間違っているのは、英語で考える訓練を一切していないということにある。英語を読み、日本語訳を出させ、その結果で英語が”読めた”のかを判定する。これが果たして「英語の授業」なのか? この形質が定期テストにも連携すると最悪だ。「授業で模範解答とした日本語」以外は大幅減点することをはじめる。これは教師は自分のやった授業をきちんと聞いていたかを判定するという名目で正当化もしているのだろう。するとどうなるか。生徒は英語を勉強するのでは無く「授業でいわれた日本語訳を完璧に覚える」という行動に陥る。
こんなことをしていて「英語力がつく」道理などどこにもない。
実際に学生のころ、私の友人などで起きていたことである。私は中学校も半ばで学校の英語教育はおかしいと感づいて冷めた目で見ていた。これは良書に恵まれたことが幸いしている。そのころから「英単語はきっちりと把握はした上で」授業に臨み、初めて文章として見た英語を理解して日本語で意味を発していた。日本語としては不完全なものを発するので、どうもすこぶる英語教師からの評判は悪かったらしいが一向に気にしなかった。英語の授業なのだから予め完璧な日本語を用意しておくのはおかしいと考えていたのだ。
だいたい英語のスカスカの行間で一時間に1ページも進むかどうかなんてそもそもどうかしている。日本語訳を練り込んで何の意味があるのだ。そんなペース、日本語なら詩(ポエム)を多方面からゆっくり鑑賞するとしても長すぎる時間だろう。そもそも英語と日本語では語順(単語の並べ方)が違うのだからそのことを前提に「英語をどう理解するのか」を学習するのが本筋ではないのか。ただでさえ中高程度では学習時間は全く足りないことは知られている。それなのに、せめて、なんでそういう教育をしないのか。いや、そういう教育をしないから何年英語学習を続けても英語力がつかないのでは無いのか。
そういう根本的な誤りを正さないで「小学校(幼少期)から始めれば解決する」なんて・・・ありえない。バカなのか。
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