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2025/08/02

高学歴とは髙経験値

高学歴社会がどうの、という話を最近よく見かける。
特に目立つことのないレベルの人間を測るにおいては、学歴が簡単だ、という事に過ぎない。

もう少し絞った言い方をすれば、高学歴とは知的活動における経験値が比較的高いだろう、ということ。
実経験値とか、実践的な活動とかは学生レベルでは大差がないので、学歴で見るのが一番楽という事に過ぎない。

就職とか、オーディションの類で言えば1次選考・書類選考において最低限の条件(足切り条件)として設定されるものに過ぎない。

近年において重くなってきているのか、軽くなってきているのかという点も論議される。

私的には軽くしていくべきでは?とは考えている。なぜなら高学歴が必ずしも経験値が高い結果ではない可能性が増えてきているからだ。
昔は高学歴を自らの手で掴んでいる事例が多かったので良かったのだが、最近は塾産業の発展、高精度化などで”金で買える”ようになってしまってきている。「傾向と対策」なんてものは昔からあったが今から比べればカスみたいなものだ。私立学校などは大学入試対策を基準に動いているようなものすら見受けられる。塾も昔よりもさらに酷くなり、第2の学校、いや、主客転倒しているぐらいに感じる。

ただ変化はあるものの、そういう状況の変化とは無関係の人達もいるし、ちゃんと自分を確立しながらその流れを上手く使っている人もいる。

やはり高学歴の方が社会においても重用される、就職しやすい、金を稼ぎやすいということは間違いない。
再度言うが、それは学歴という経験値を見ているから。

もちろん学歴で経験値を積むだけではなく、他の見える形で高い経験値を積み、提示することでも評価はされうる。
それが例えばスポーツ(部活動)であり、ボランティア活動であり、一芸という奴である。他にもいくらでもあるだろう。
一方で学業ではないそれらが、結局重用されないのは評価が難しいという点にある。

スポーツのおいてそれが「経験値を積んだ結果」なのか「フィジカルモンスター」に過ぎないのかは判断は難しい。前者なら高評価だが、後者であるのなら一部の業界を除いて一般人と同様の評価しかできない。

ましてやボランティアであれば数十人程度の団体を率いていたのならまだしも、参加してました程度では経験値として評価できない。

一芸に至っては世界、少なくとも日本トップクラスでなければ無意味に近いだろう。それは例え学業を疎かにしたとしても、それに青春時代の全身全霊を投じたいう経験値が欲しいのであり、その結果が欲しいのだ。
それの社会的価値(その人から見れば貧弱な価値観)でどうしても測ってしまうものなのは仕方ないし、それを成し遂げたことの価値・経験値を推し量るのが困難であるのも事実といわざるをえない。

知識量と思考能力

高学歴と学力の高さはほぼ比例する。学力の高さとは知識量の豊富さであり、思考能力の高さである。
これこそ経験値という点で重要な点である。

LLM方式のAI(人工知能)が最近脚光を浴びている。
思考力はほとんど皆無なのだが、圧倒的な知識量を入力し、機械的に整理し、それと照らし合わせるだけであたかも人間と会話しているかのような振る舞いをすることができる、ということが実証された事例である、と私は理解している。
知識とは真逆のものとすらいわれる、感情の豊かさすら感じさせることもできている。

人間の思考能力などというが、実は莫大な知識量を人間の脳によって高度に圧縮(ただし非可逆圧縮)しただけのものなのだろうか、と考えることも最近あるぐらいだ。
発想の豊かさが無いとも言うが、それももっとランダム性のある回答をするように仕向ければ良いだけで、実際にその辺の設定ができるようになっている。設定ではなく「真面目な論議」と「ざっくばらんな論議」の両方を「空気を読んで」発言するようにもなってくるだろう。

詰め込み教育という言葉がちらつくが、大量の知識を与えるのが問題なのではなく、整理しないでどんどん詰め込んでいることが問題だったのではないか。倉庫に何も考えずにどんどん入れたら取り出せなくなってただの”ゴミ箱(ゴミ屋敷)”となってしまうようなものだ。

いわゆる「ゆとり教育」では「ゆっくりと知識を整理しながら蓄積していきましょう」だったはずなのだが、単に与える知識量を減らしただけで終わってしまったから失敗したのではないのか。

話が逸れたが知識量は多ければ多いほどいい。もちろんそれはキチンと整理されてというのが前提だ。
整理して蓄積したものを引き出すのが入試や学校での定期試験であり、それができてきた証が「学歴の高さ」ということになるわけだ。

勉強というのはその基礎的知識が重要なものが殆どであるが、仮に社会で不要な知識であったとしても、一度頭の中に入れて、整理して、引き出せるようにするという過程をより高精度に確実にできるようにしておく、ということも重要なのである。

それができるというレベルは高学歴が証明しているともいえる。
どんな大学も知識においては「指導要領」を越えてはならないという縛りがある。その上で差がつくのは頭に入れる知識量、単に覚えている知識で差を見ればどこも同じなのであるが、「大学のレベル」という差があるのはどれだけ多様な状況に対応できる整理が出来ているのか、的確に引き出せるように出来ているのか、という過程において差がついていると私は考えている。

この点においても塾による”弊害”を思うところがあるのだが、話が長くなるので割愛する。

知的経験値

学歴というのはその学校の入試で認められ、その学校で勉強してきたという経歴であろう。
全く同じ学校(大学なら学部)を出ている人がいれば、それがいかような状況であるかを高い精度で推し量れる。
カリキュラムがあり、どのようなレベルで教えており、どのような定期試験(単位認定試験)が行われているかも推定できる。

これが知的経験値として判断できるということになる。

会社側も必要な経験にも違いがもちろんあって、なんとなく”仕事を覚え”ればなんとかやっていける職種もある。
一方でベンチャーなどは特にそうだが、常に新規事業をまっさらなところからやることになるところもある。このような場合は「誰かに教えられたこができる」ではなく、自分でどうやったらいいかを考えて仕事を進めねばならない。これも経験値の差が如実にでる。全く新しいと言っても似ている事例はある。自分の経験の引き出しからの多さが成功の鍵を握る。基礎学力とその事例を応用してやっていくことになる。

だからこそ、より知的経験値の多い、高学歴の人間を求めると考えれば良い。

目標立案とKPI

もう少し社会、企業寄りの言い方をしてみよう。

昨今特に言われるのが「目標立案」と「KPI」である。
いわゆる目標を立てる、それを実現するためのより短期的な数量目標を立てると成功しやすい、つまり求められる。
つまりこれが出来ることが社会・企業にとって必要、ということだ。

高学歴とは(はっきりと意識していないとしても)これを自ら実践していて成功した人材である、と捉えることができる。
目標とは例えば「東京大学に入学して勉強する」というものだ。そのためには入試で合格を勝ち取らねばならない。
KPIにおいては例えば「全国共通模試において数学・物理で偏差値○○、英・国・社で偏差値○○」という目標を立てる。
人によってはこれを維持となるか、高2までに上げていくになるのか違いはあるし、得意科目の偏差値は高めにするのもありだろう。
さらに現在から入試までにどのような推移で上げていくかも設定することも必要だろう。

KPIとかいう言葉は知らずとも日頃から意識し、実践している人が結果として高学歴を得ている傾向が高いと考えられる。
学生時代になんとなくスマホを見て暇つぶしだけしていた人とはこういう点でも経験値に雲泥の差が生まれてしまう。

もっといえば「東大」は困難と途中で判断し、目標設定やKPIを見直すというのも重要であり、貴重な体験、経験値である。
学力を上げるためにもう1年時間が必要と考える(浪人して実現すべき)話なのか、目標を下げても現役合格するのが良いのか。経済状況や自分が本来やりたいこと等を照らし合わせて再考すべき時もあるだろう。それが「東大・京大卒ではないが一流大学現役合格」という学歴なのかもしれない。「一浪で東大」ならまだいいが、不合格となり「二浪で一流大学」となるリスクもある。これは目標の見誤りと見なされてしまう。

業務の中でも「やっぱり当初の計画は無理」「社会状況が変わったから変えるべき」「会社の状況から見て縮小すべき」というネガティブな判断を迫られるのも起こりえることだ。
一度目標を立てたから絶対完遂、と拘って、結果として会社が大損益を出してしまうことだってある。会社とは利益を出すものなのだから単なる誤りでしかない。
これも冷静に今自分の置かれている状況・状態を判断して、正しい判断ができるのか、それをやってきたことも経験値として重要なことだろう。

計画・実行・反省(PDCA)

目標とKPIよりも短期的なものとして、いわゆるPDCAというものがある。
PDCAとはPlan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)の略語。

PDCAサイクルと言われるくらいで、常に日常業務の中で回していくものとされる。

これも言葉では難しいが、日頃から無意識にやっている人もいるだろう。

一日の暮らしをとってもPDCAサイクルになる。朝「今日はあれとこれをやる」と決めて、一日を過ごし、夜に「なにができたか、できなかったか、どれだけできたか」をチェック(評価)する。そして反省(どうしたらできたのだろう、計画に無理があったのか)して、改善、つまり翌日の計画をよりよいものにする。

これは学業、勉強においても同じ。例えば小テストは絶好のチェック機会になる。小テストの結果もきちんと向き合って、できなかったところを改善する(勉強し直す)という日々の姿勢が学力を向上させる。「小テストの結果悪かったけどまあいいや」とテスト用紙を捨ててしまうと学力は上がらない。
ましてや中テスト、定期テストは非常に重要である。赤点だと補習というが、100点満点でない限りは間違えた箇所、理由、原因を分析してもう一度勉強し直すことが重要だと学生の頃から私は考えていた。例え「ケアレスミス」であってもなぜ「ケアレス」だったのか、問題を読み間違えたのか、知識・記憶が曖昧だったせいなのか、思い込みだったのか、書き間違えたのか、そういったレベルまできちんと自分を把握することが必要ではなかろうか。この辺の深さが学歴の高さと関係するのだろうと考える。

学歴とはこういう積み重ねの結果であるといえる。

自制心

学業、勉強というのは殆どの人間にとって大変で、つらく、つまらないものなのだろう。
一方で楽しいと「勘違い」できるのも1つの才能なのであろう。私にはそれがあったので助かっている。

また、本心から思うことができずとも、自分に言い聞かせてやるということも才能かスキルの1つなのだろう。

これは社会で働くにあたっては必要なものなのだと考える。

当人が好きであり、得意な仕事につけるとは限らない。「これも経験」といわれてもつらいだけの仕事はいくらでもある。
ピッタリの仕事を割り当てられるなんて奇跡に近い、非常な幸運と言っても良いだろう。

会社の中では様々な業務が混在しており、採用した人間をそれらに割り振っていかねばならないのが現実だ。
希望業種に割り当てられない人も当然ありえることである。

それもある程度は我慢し、やってくれる人間でないと雇う側としては面倒で仕方がない。
高学歴の人間はプライドが高いので我慢しないのでは?と思われるかもしれないが、一方で、事情や意味合いをきちんと説明して納得してもらえ、ある程度の我慢をしてくれるのも高学歴の人間である、というのも事実だ。

例えフリーランス、個人事業主になっても同じだ。本業は好きなことができるとは限らない。「選り好みもそんなにはできない。食うためにはこういう仕事も受けないと」という事態はいくらでもあるそうだ。

こういうのが自制心、自らを律し、制御できる人間であり、長期的に考えることができるというのも、やはり高学歴の人のもつ経験値、成功体験によるところが大きいだろう。

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