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2025/08/30

八王子(高尾駅周辺)自動運転事故

実証実験中の事故が起こった。

「自動運転の暴走」という言い方すらされているが、街路樹にぶつかって停止したので乗車していた人数名の怪我による搬送で”済んだ”という気さえしてしまう。

曲がりきれなかった?

たまたま乗客していた人のブログ記事をみると、ぶつかった後の事故検証のため、事故車と後続にパトカーなどが駐車している写真があった。
これをみれば一目瞭然で、このような状態を再現するとしたら、進行方向からいきなり左にハンドル(ステアリング)を切って街路樹に突っ込みにいくしかない。

全体を見ればゆるやかに右方向に曲がってはいるが、直進道路と言っても問題無いだろう。

運転手がいたのでは?

レベル2ということで、主体は運転手であり、ハンドルやブレーキは運転手が主導しなくてはならない。
警察からの聴取に答えて、運転手曰く「ぶつかる直前にハンドルもブレーキもきかなかった」という。
実際に同乗者はブレーキされていなかったという証言がある。(最終的にはブレーキ痕の有無で確認されることだろう。)
これを聞いた人(ブログ主等)、事故を起こしている運転手自体の発言の信憑性も疑うべきであるが、本当だとしたら「レベル2の自動車として欠陥品」である。どんな理由・状況であれ、運転手の介入に対して即座に運転操作を明け渡さなければならないからだ。

自動車自体は認識していた?

自動運転・走行状態のモニターらしきものの写真も記事になっている。
それをみると自分が直線道路から左に突っ込んでいると認識している状態が表示されている。

ただ、これが自動運転の認識としてなっているのか、単なる結果として表示されているのかは不明だ。

私の見解では、これは単なる結果、カーナビの軌跡モードの高級版みたいなものにしか見えない。
なぜならその画面には今回の障害物である街路樹や周囲の自動車等がまったく表示されていないからだ。
自動運転のモニターであれば周辺の認識の様子がワイヤーフレーム(枠)でも良いから描かれるからだ。

全く不可解なのはカーナビのごとく、進行する道のりの線が書かれており、その方向と大きく異なる進行方向に進んだ、ということである。
これも「曲がりきれなかったというレベルですらない」、ということになる。

こんなレベルで実証実験?

私が調べた感じでは情報が出てこなかったのだが、空車での実証事件はどの程度行われたのだろうか、という疑問が生じる。
乗客等はその後になるに決まっているのだが、今回は乗客に被害が出てしまった。
それでも街路樹があったからよかったのであり、「歩道の暴走」や「民家等への突撃」すら起こりえたのである。駅から数百メートルのところらしいから普通に人が歩いていても不思議でもない。低速だったとしても死亡事故すら懸念される事態だったのだ。

自動運転には事故はつきもの、は理解している。「トロッコ問題」に代表されるような複雑なケースも現実には起きえる。実条件・悪条件下で想定外なことも起きえる。
だから「自動運転は事故ゼロ」と考えるのではなく「自動運転は人間の運転と同程度以下の事故率」であれば良いと考えるべきだ、という認識が拡がっているのだと思う。

しかし今回の案件は普通に日中で降雨などもない。良好な条件と言えよう。あえていうなら異常な高気温ぐらいだが、これも日本ではというレベルではそうかもしれないが一般的な自動車の走行環境としては問題があっては困る。問題なのは人間の運転ではありえない事故であるということだからだ。あり得るとしたら①運転手が発作を起こしたり気絶した等②突然前方に道路の陥没や障害物(前方車の急停止含)が生じて慌ててハンドルを切った、ぐらいだろう。それでも②ならブレーキはかける。

実証事件は一旦中止のようだが「この体たらく」では仕方あるまい。
あまりにも杜撰にしか見えない。

自動運転の是非やらを持ち出す人もいるようだが、こんなレベルで公道を走らすなと言わざるを得ない。
この自動車自体が自動運転車としては欠陥品である、ということだ。

私は自動運転の実証事件は重要だし”多少の犠牲もやむを得ない”とすら考えるほうだが、あくまで”やむを得ない”という状況であればである。海外での死亡事故はそういうやむを得ない状況と思える話なので「仕方ないよな」となる。

今回の事故が「やむを得ないものだった」という主張をするのであれば、是非とも今回の事故の技術的な原因をしっかりと公表していただきたいものだ。

どうせマスコミは放置だろうが。

ここでもチャイナリスク

特に中国製品でありがちなのだが、ほぼちゃんと動くし、問題は無いのだが、ちょっとした条件変化で途端に破綻する機器が目につく。
欠陥品もユーザーに選別させる姿勢を取っている。それが低コストとなり、価格が安い理由となっている。

日本では十分すぎるほどの余裕度を取って製品設計するから余程ひどい条件でもない限り破綻しない。十分すぎるほどの良品検査を行っている。両者とも品質保証体制でフィードバックをしているからそこにコストがかかる。だから高コスト、価格が相対的に高くなる。それを「過剰品質」と叩く輩もいるが、それが”ジャパンクオリティ”なのだ。
どちらが良いか、という議論ではなく、このことをしっかりと買う側、使う側も認識して行動する必要がある。

最近の「モバイルバッテリー発火問題」もその一つである。
「落下させたバッテリーは使うなと注意喚起」しているが、そもそも日本メーカーなら「ある程度の高さから落下させても電池にダメージが起きないような設計をする(落下試験を実施する)」という発想をする。
そのために緩衝材を入れるからどうしても大きくなるし、重くなるし、値段も上がる。
そのこと消費者は「デカいから嫌」「高いから嫌」といって嫌う。そして「落して」なおかつ「使い続けて発火させる」のだ。

例えば高温になったら充電を中止する機構を入れれば良いのだがそういうのすら嫌がる。
そうすると「ちょっと熱くなった程度でつかえなくなる」として嫌がるのだ。
もちろんそんな回路を入れれば値段も上がる。ネット通販が盛んになって1円単位で可否を決めるから本来は必要というレベルすら切り捨てる製品が横行する。

私はそんな状況を憂う様な出来た人間ではないので、単に呆れて見ているだけなのだが。

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2025/08/24

18歳未満のスマホは完全に親の責任

 

だって法律上そうなっているんだから仕方ない。

・携帯電話の使用は通信事業者との契約で成り立っている。
・契約は18歳未満、12歳以上は保護者同意の下、結べる
・12歳未満は契約が出来ない

つまり個人で携帯電話の契約が出来るのは18歳以上である必要がある。
それ以下は個人で契約はできない、というのが日本の法律である。

別の言い方をすれば「子供は携帯電話(スマホ)を好き勝手に使うことはできない」といえる。

12歳未満の場合

よく「子供に買ってあげる」という表現を使うが、法的には「あげる」ことはできない。
契約者本人であっても契約の譲渡はできないからだ。
あくまで子供に貸与しているに過ぎない。法的な所有権はどうであれ契約者なのだから。
本当は貸与も問題があるのだが、通信事業者側(ドコモとか)も黙認しているようなのでそこは突っ込まない。

従って貸している親がきちんと管理をするのは義務というか当然の話になる。
それで何か犯罪を起こしでもしたら、あくまで所有者たる親のほうが責任を取るのが当然の理になる(それは親の責任とかいう話ではない)。

従って「買ってあげる」ではなくて、子供にも渡すときに「あげる」ことはできない、「貸しているだけだ」というのをきちんと説明する責務がある(これは観念論でも便宜的な言い方でもなく、単なる事実説明である)。
電話の使用には契約というものがあるため、一般的な家電や遊具の類とは話が違うのだ。

当然ながら「契約」も理解できない子供であれば携帯電話を貸与してはダメ、ということが当然の理屈となる。
よく「携帯電話は何歳から?」という話が出るが、これの理解も最低条件となろう。

12歳以上、18歳未満の場合

この場合は本人契約が可能となる。法律的に本人の”所有”ができるようになる。
ただし、保護者同意の下の契約となる。
普通は保護者が同席しての契約取り交わしをしているだろう。
その中で保護者の監督責任というものも当然発生する。
また保護者の監督責任を果たすためにも、保護者の意思により契約解除も可能である。

契約時において使用者たる子供にも、そのことをきちんと説明する必要がある。

 

以上のことから「親が携帯電話(スマホ)を取り上げる是非」など論議にもならないということがわかる。

どちらの場合においても電話(通信)機能の利用可否は親が握っている。
通話・通信の契約を止めることは親の自由である。

ただし電話機(スマホ)自体を取り上げるのは確かに賛否が分かれる。
”あげた”以上は子供のものだからだ。通信事業者もスマホは子供なり親が買い取ったものだから関与しない。

もっとも実態的には契約を止めてしまえばWiFiを使わなければ殆ど無用の長物と化す。
WiFiが家にあればそれは親が掌握しているだろうから。
それでもカメラとして使ったり通信を使わないアプリを使うのは子供の自由であろう。
いうまでもないが、そこまでいけば“問題”は殆ど解消しているだろう。

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2025/08/21

マクドナルド ハッピーセット ポケモンカード

昔からマクドナルドはバカだと思っていたが、今回の顛末で本当にバカだと確信した。

こんなものは対策は至極簡単である。希少価値を無くせさえすれば良い。

「大好評につき第2弾やります!!」と全く同じ構成で同じ事をやる。
それでも”大好評”ならば「大好評につき第3弾やります!!!」とまた同じ事をやる。
第10弾でも20弾でも沈静化するまで延々とやりつづければいいだけだ。必ずいつかは沈静化する。

同じ印刷物である書籍は大人気であっという間に売り切れれば「大好評につき緊急大増刷!」が可能なわけで同じ事だ。
売れ行きに陰りが見えて多少残る位になったらストップをかければ良い。
完全に残ったらあとはハッピーセット以外にもオマケでつけて捌ききれば良いだけだ。

もちろんこのような大増刷も可能とする契約を版権元とすることは必須である。

ターゲットである小さな子供はカードが日本中に溢れかえったり、希少価値が無くなってもなにも問題と思うわけがない。
彼らは欲しいか欲しくないかだけであって、そんな高度な情報は知りもしないし、知ろうとも思わない。
だから全く問題がない。

ワンピースカードを取りやめたそうだが、これもバカである。カードの希少性により起きる問題。本質が同じなのだから、全く同じ対応で解決する。

食品ロスがどうとか、転配ヤーがどうとかクダラナイはなしだ。
こんな単純で簡単に思いつく対策すら出てこない、それがバカだというだけの話だ。

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2025/08/16

企業の生産性が低いのを社員のせいにするな

日本は生産性が低いのは日本の税制度がおかしいのが根本にあり、企業もそれに沿って事業をしてきた結果が、生産性の低さであるといえます。
社員のやる気ややり方、努力不足のせいにするような論調があるのが非常にムカつきます。

税制度の問題とは何か。それは法人税(利益課税)を下げたことと、消費税を導入し高くし続けてきたことです。
失われた何十年とこの動きが一致しているのは偶然ではなく、理屈から言ってもごく当たり前に説明ができます。
それをざっくりとした話ですが書いておきたいと思います。

前提知識として会社の会計・決算書の話をします。

全体の流れが掴めれば良いので本当にざっくりとした話だけします。

まず、売上、というものがあるのは誰でも理解できるでしょう。どんな会社であれものやサービスを売るのが企業・会社であり、売上を上げなければ話になりません。
これは一年単位で計算するので年商という言い方もできます。

次に当然売るものやその原料・資材などを買って(仕入れて)きます。
これを差し引いたのが粗利(売上総利益)と呼ばれ、ほぼこれに対して一定の割合の消費税を国や地方に納めている、という形になります。(結果としてそういう形になるということです)

次に販売管理費を引きます。ここに社員や会社で必要な経費、具体的には光熱費や事務費や交際費、社員の給料やボーナス・退職金の積み立て(支払)、福利厚生費なども含まれます。つまり社員の給料やボーナスを上げ下げするとここの費用が変わるということを理解しましょう。また設備投資などもここに入ってきます。社員から見てのいわゆる経費がここに含まれますから、出張精算もそうですし、例えばIT化でPCをリースしたりライセンスを持ったりすればここの費用になります。

この販売管理費を引いたものを経常利益と言います。

ここに事業外収入支出、金融関係の収支を加味することで純利益というものが出てきます。
その純利益に対していわゆる法人税がかかります。

税金を払った後、つまり税引後の残金が本当の意味で、手元に残ったお金、ということになります(これを税引後純利益ともいいます)。

株式会社であればここから一定の割合で株主に配当します。本来ならこれを社員で山分けしてもいいような話ですが、実態はそうはなっていない、ということにも着目すべきです。
この現金が翌年に持ち越されることになります。ここが着目すべき点なのです。

この流れを理解しておくと、株式投資には必須とも言える決算書を読むにあたり(これすらを知らないでやるのは投資ではなく単なる投機、バクチのようなものです)、いわゆるキャッシュフローの部が分かりやすくなると思います。

これらを踏まえると法人税を下げ続け、消費税を上げ続けるということで、設備投資が抑えられ、給料が抑えられ続け、設備投資も抑えられ、生産性が上がるわけもない、というのは当然の結果である、と理解できるのではないでしょうか。

例えば派遣社員問題もそうです。単に人件費を下げる派遣社員や非正規社員を登用していると生産性は上がりません。なぜなら生産性向上を妨げているのは多くは会社の制度や慣習、ルールによるものだからです。そこに抵触する変更は”社外”の人間がいくら言っても通るわけもありません。そもそも従業員としての活動も制限が多いのです。会社が依頼した業務のみを遂行するのが大原則です。依頼もしないカイゼン活動など提案のみならずそれに時間を費やしたことが判明したらマイナス評価しかありません(もちろん最終的に生産性向上のコンサルティング目的で派遣社員を入れて現場情報を収集するのは別の話です)。人件費が下がり、生産性が一見上がるような数字になるのは入れ替えた時だけです。持続性の観点で言えば状況は悪化しています。

税制上、現在もなお、どんどんこの問題を悪化させている、少なくとも悪化への追い風になっていると言えます。
別の言い方をすれば税制上の優遇措置の影響が高さ・効果を考えるのなら当然のように誘導されているとも言えます。

念のため補足しておきましょう。

このような構造をざっくりでも理解しておけば、税を取る方=財務省からすれば法人税ではなく消費税が安定しているのは容易に理解できると思います。
景気などによって売上というのは意外と変わらないのです。儲けを無視しても売上を確保するというのはどこの企業もやるからです。結果として数割も増減すれば大きい方で半減もしたら経営の危機とかに見られてしまうからです。
トランプ関税ですら、本来関税分はそのまま転嫁=値上げにするべきなのに、売上が減るからと言って儲けを削ろうとしているくらいです。
売上や仕入れの部分では殆ど変化がないので消費税というのは安定した財源となるのです。

一方で法人税は最終の残金にかけるものですから、いわゆる儲けを削ったら大きく減少してしまいます。結果として最終利益は赤字やゼロに近くなったりします。もちろん景気が良ければ額も大幅に上がるのですがね。

財務省としては消費税を上げて法人税を下げた方が、景気高揚策をしなくて済むので、財務省としては楽な構造になっているというところに着目をすべきです。(もうひとつ外形標準という、会社の規模に応じてかける税金というのもあります。こっちはとる方からすればもっと楽な税です)

では、どうすれば良いのか。
簡単です。この状況を逆にすれば良いだけのことです。

消費税を下げ、法人税を上げれば良いだけです。
もちろんゼロイチの話ではありません。両者の按分を考え直せ、という話です。

単純に会社の存続を考えて、極論を言えば、翌年への繰越金などはゼロで良いのです。
一般家庭と違い、老後の心配なんてないし、病気の心配もありません。子供にかけるお金なども含め、衣食住等や経費含め使いたいお金をを全部差っ引いたあとの残金の話なのです。
「宵越しの金は持たぬ」でいいのです。来年もまた稼ぐのですから。

つまり極論を言えば残金は全部国庫(地方)に納める、でも良いはずなのです。

もちろん株主への配当金は必要ですから。それなら株主配当金なども含めて本当に全部引いてからで考える手もあるでしょう。

また翌年赤字で倒産が怖くてお金を貯め込むという心理も当然分かります。そもそも公助も含めて積立金のようなものを整備することは必要でしょう。事業継続のための公的融資の在り方も考える必要もあるでしょう。それらの積立金を引いてからの宵越しの金で考えれば良いのです。個人や家庭だってそのために保険を掛けていますよね。事業継続保険金、不景気保険みたいなのだってありでしょう。その掛け金も経費として認めれば問題ありません。

そうして「どうぜ国にとられるのなら社員に配ったり、生産性を上げるために投資した方が得だろ」と会社に判断させ、誘導すべきなのです。

給与は恒常的でキツいというのなら賞与(ボーナス)でもいいのです。社員にバラマキをしての問題なんか、会社外からの妬みぐらいです。こんなのは今期だけというのなら設備投資と称してなにかどんと買えばいいのです。生産性を高めるための投資も含まれます。これらの投資により社員のつまらぬ精神的負担が減り、よりクリエイティブなところに頭を使えるようになります。よりカイゼンも進むのです。

福利厚生施設・設備でもいいでしょう。例えばトイレを綺麗に改装したっていいのです。綺麗な化粧台をつけたっていいのです。
こういう細かいところが社員のエンゲージメントを上げていくのです。極端な話、薄暗い汚れが染みついている和式トイレだったら誰が務めたいと思うでしょうか。

そもそも法人税を下げたのは海外からの企業誘致が大きな理由として挙げられていました。
起業ハードルを下げる試みも色々されました。

しかしそれが果たして正解だったのでしょうか。

むしろ害悪のある企業、ダミー企業による悪事の方が目立っている始末です。
そしていわゆる内部留保に対する批判も高まっています。大企業ばかりではなく中小でも内部留保の拡大が観測されています。

「消費税を下げろ!(ゼロにしろ)」は目先の消費者動向だけではないのです。
「財源ガー」という人には「法人税を数十年前に戻せばいいんじゃね?」と返すべきです。

これらを含めて見直しを是非ともしていただきたいものです。

繰り返しますが、これは財務省からすれば「税収が不安定化する」「景気対策(にかかる支出)を考えなければならない」とデメリットしかないので絶対に反対します。当然社会保障を人質に取って脅しすら掛けてきます。しかしそれは、あくまで取る方の理屈です。

それを動かすのは政治です。政党の理念や意思、考え方です。

今回、50年近く続いてきた「暫定税率」の大きな障壁がようやく動き始めました。
維新の会が抵抗しているせいで軽油は置き去りとなっていますが、少なくともガソリンの撤廃の年内実現はほぼ確定的になっています。

これは間違いなく国民民主党が掲げ、参議院選挙で支持され、他の野党も同意し、自民党大敗を受けて自民党も折れた、という結果です。
衆議院で与党過半数割、参議院も過半数割したため、野党統一であれば法案が通るからです。与党自民党が折れたのも形として「野党強行採決」(という表現もおかしいですが)で法案が通ってしまう形を作るのは嫌がったからでしょう。

政治は動くのです。なぜ動いたかと言えば「ごく当たり前の正論が誰もを納得させた」結果だったと言えます。


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2025/08/15

“戦前”をもっと論議すべき

終戦記念日。この時期になると、各地での空襲、広島、長崎、終戦という流れの中で「戦争の悲惨さ」を伝えるという。
それも必要な事であるが、それ以上に必要な事をなぜ語らないのだろうか、マスコミも紹介・論議しようとしないのだろうか。

それは”戦前”である。いつからこの太平洋戦争、大東亜戦争に至り、この敗戦に至ったのか。
明治維新後の富国強兵、日清戦争、日露戦争がどのように絡んでいったのか。
なぜこんな”悲惨な”戦争に至ったのか。悲惨というのは負けた結果であって、始めたときは幸福絶頂と国民皆が思っていたいのか、そうではないのか。どういう国民世論やマスコミ、政治・政局はどうであってどういう議論で戦争に至ったのか。

憲兵やら天皇が元首等という社会体制もあるものの、一部が暴走したのではなく、国民世論も支持していたのではないのか。

戦争反対という題目であれば、注目すべき、論議すべきは戦前の状況であり、その時の状況、制度、世論、マスコミ報道、書籍等の事実を整理し、直視し、なぜ開戦に至ったかを、論議すべきではないのか。

私の感覚では、硫黄島を守れなかった時点で日本の敗戦はほぼ確定的である。
米国他が進めていた戦争(勝利)という事業で考えれば「山場は越えた」のがそこで後はどれだけ低コストで早期完了を遂行するかである。
沖縄占領で決定的となり、もう終戦締結をどうするかというフェーズに入っている、という感覚である。

原爆投下や東京大空襲などは様々な実験の意味合い、早期妥結の方策として行われたと考えるのが妥当であろう。
だから「原爆で悲惨なことに」「大空襲で悲惨なことに」をいくら繰り返し伝えてもそれだけではダメなのは明白ではないのか。

空襲を行う、特にB29などの大型戦略爆撃機が登場するのは当時の軍事装置からすると(勝っている方からすれば)ほぼ戦争の流れで最終盤に投入するものである。なぜならこの機体は対戦能力はなく機動力も低い。輸送機と同程度でいわば”丸腰”である。前線には投入するものではなく実質的に完全占領、制空権を完全に掌握していなければ動かせないからである。役割は「もう終わってんだからさっさと降伏しろよ」を実力行使で言っているに過ぎない。

単に「悲惨だから戦争反対」というのは私にはお花畑意見にしか聞こえない。空爆の悲惨さを伝えてくれるのも大事だが、そういった空気もきちんと伝えてほしい、と私は思っている。実は私は昭和一ケタ位の父やさらに年の離れた叔父から聞いた事がある。
例えば戦争という流れの中で「人間魚雷」「カミカゼ特攻」をしている時点でもう終わっているのである。しかしそれをなぜ行ったのか、それに対してマスコミや世論はどう反応していたのか、そこが問題にならないのはなぜなのだろうか。
この辺のことは語りたがらない。どうやら自分達も高揚していた部分もあり、戦争を完全否定していたわけでもないから、それに罪悪感を感じてなくもない、という微妙な部分もあったようである。
その頃のマスコミ、新聞に関しては新聞社自身がアーカイブして残しているから機会があれば見ると良い。”あの”朝日新聞ですら戦争大賛成の紙面ばかりであったことも頭に入れていかないといけない。政府意向のいわゆる大本営発表という側面もある。だから話は簡単でないし、その辺の知識量、人による偏りで意見が多様化するのはごく当たり前の話と思う。私だって偏っていると思う。だからこそいくらでも情報が欲しい。

戦中当時ですら、いわゆる今のサヨクのような戦争反対者もいれば、論理的に戦争を反対していた人間もいた。昭和天皇も開戦に躊躇したとの記録もあり天皇は元帥というものの、周囲の意見を聞き入れて開戦したともとれる話もある。
単純に独裁者が戦争突入を強行したという感じもしないのである。軍トップにおいても賛否渦巻いていたこともよく知られている。

だからこそ、もっと「開戦記念日」にフォーカスして、それまでの経緯というのを振り返ってほしい、と思うわけである。
これをすると「開戦」を賛美するのかとか訳の分からないことを言う人が出るのは容易に想像できる。だからマスコミは動かない。
それはこの論議が難しいので今のマスコミの知性では無理なのだろう、というのがまずあるだろう。
反対意見をいうのは、これを直視されると困る人達がいるからだ、と私は思っている。真因を直視されると困る人はいる。

戦争ビジネス、いわゆる死の商人はどこにでもいて、平和な世の中だからこそおいしい商売をしている。根っこにあるのは世界情勢の不安であって、それが解消してしまうと売上が悪くなる。もちろんその利権に巣食っている連中もいる。

だからこそ一般国民はもっと知るべき、勉強すべきだ、ということを年に一度は想いを馳せるべきではなかろうか。

 

 

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2025/08/02

高学歴とは髙経験値

高学歴社会がどうの、という話を最近よく見かける。
特に目立つことのないレベルの人間を測るにおいては、学歴が簡単だ、という事に過ぎない。

もう少し絞った言い方をすれば、高学歴とは知的活動における経験値が比較的高いだろう、ということ。
実経験値とか、実践的な活動とかは学生レベルでは大差がないので、学歴で見るのが一番楽という事に過ぎない。

就職とか、オーディションの類で言えば1次選考・書類選考において最低限の条件(足切り条件)として設定されるものに過ぎない。

近年において重くなってきているのか、軽くなってきているのかという点も論議される。

私的には軽くしていくべきでは?とは考えている。なぜなら高学歴が必ずしも経験値が高い結果ではない可能性が増えてきているからだ。
昔は高学歴を自らの手で掴んでいる事例が多かったので良かったのだが、最近は塾産業の発展、高精度化などで”金で買える”ようになってしまってきている。「傾向と対策」なんてものは昔からあったが今から比べればカスみたいなものだ。私立学校などは大学入試対策を基準に動いているようなものすら見受けられる。塾も昔よりもさらに酷くなり、第2の学校、いや、主客転倒しているぐらいに感じる。

ただ変化はあるものの、そういう状況の変化とは無関係の人達もいるし、ちゃんと自分を確立しながらその流れを上手く使っている人もいる。

やはり高学歴の方が社会においても重用される、就職しやすい、金を稼ぎやすいということは間違いない。
再度言うが、それは学歴という経験値を見ているから。

もちろん学歴で経験値を積むだけではなく、他の見える形で高い経験値を積み、提示することでも評価はされうる。
それが例えばスポーツ(部活動)であり、ボランティア活動であり、一芸という奴である。他にもいくらでもあるだろう。
一方で学業ではないそれらが、結局重用されないのは評価が難しいという点にある。

スポーツのおいてそれが「経験値を積んだ結果」なのか「フィジカルモンスター」に過ぎないのかは判断は難しい。前者なら高評価だが、後者であるのなら一部の業界を除いて一般人と同様の評価しかできない。

ましてやボランティアであれば数十人程度の団体を率いていたのならまだしも、参加してました程度では経験値として評価できない。

一芸に至っては世界、少なくとも日本トップクラスでなければ無意味に近いだろう。それは例え学業を疎かにしたとしても、それに青春時代の全身全霊を投じたいう経験値が欲しいのであり、その結果が欲しいのだ。
それの社会的価値(その人から見れば貧弱な価値観)でどうしても測ってしまうものなのは仕方ないし、それを成し遂げたことの価値・経験値を推し量るのが困難であるのも事実といわざるをえない。

知識量と思考能力

高学歴と学力の高さはほぼ比例する。学力の高さとは知識量の豊富さであり、思考能力の高さである。
これこそ経験値という点で重要な点である。

LLM方式のAI(人工知能)が最近脚光を浴びている。
思考力はほとんど皆無なのだが、圧倒的な知識量を入力し、機械的に整理し、それと照らし合わせるだけであたかも人間と会話しているかのような振る舞いをすることができる、ということが実証された事例である、と私は理解している。
知識とは真逆のものとすらいわれる、感情の豊かさすら感じさせることもできている。

人間の思考能力などというが、実は莫大な知識量を人間の脳によって高度に圧縮(ただし非可逆圧縮)しただけのものなのだろうか、と考えることも最近あるぐらいだ。
発想の豊かさが無いとも言うが、それももっとランダム性のある回答をするように仕向ければ良いだけで、実際にその辺の設定ができるようになっている。設定ではなく「真面目な論議」と「ざっくばらんな論議」の両方を「空気を読んで」発言するようにもなってくるだろう。

詰め込み教育という言葉がちらつくが、大量の知識を与えるのが問題なのではなく、整理しないでどんどん詰め込んでいることが問題だったのではないか。倉庫に何も考えずにどんどん入れたら取り出せなくなってただの”ゴミ箱(ゴミ屋敷)”となってしまうようなものだ。

いわゆる「ゆとり教育」では「ゆっくりと知識を整理しながら蓄積していきましょう」だったはずなのだが、単に与える知識量を減らしただけで終わってしまったから失敗したのではないのか。

話が逸れたが知識量は多ければ多いほどいい。もちろんそれはキチンと整理されてというのが前提だ。
整理して蓄積したものを引き出すのが入試や学校での定期試験であり、それができてきた証が「学歴の高さ」ということになるわけだ。

勉強というのはその基礎的知識が重要なものが殆どであるが、仮に社会で不要な知識であったとしても、一度頭の中に入れて、整理して、引き出せるようにするという過程をより高精度に確実にできるようにしておく、ということも重要なのである。

それができるというレベルは高学歴が証明しているともいえる。
どんな大学も知識においては「指導要領」を越えてはならないという縛りがある。その上で差がつくのは頭に入れる知識量、単に覚えている知識で差を見ればどこも同じなのであるが、「大学のレベル」という差があるのはどれだけ多様な状況に対応できる整理が出来ているのか、的確に引き出せるように出来ているのか、という過程において差がついていると私は考えている。

この点においても塾による”弊害”を思うところがあるのだが、話が長くなるので割愛する。

知的経験値

学歴というのはその学校の入試で認められ、その学校で勉強してきたという経歴であろう。
全く同じ学校(大学なら学部)を出ている人がいれば、それがいかような状況であるかを高い精度で推し量れる。
カリキュラムがあり、どのようなレベルで教えており、どのような定期試験(単位認定試験)が行われているかも推定できる。

これが知的経験値として判断できるということになる。

会社側も必要な経験にも違いがもちろんあって、なんとなく”仕事を覚え”ればなんとかやっていける職種もある。
一方でベンチャーなどは特にそうだが、常に新規事業をまっさらなところからやることになるところもある。このような場合は「誰かに教えられたこができる」ではなく、自分でどうやったらいいかを考えて仕事を進めねばならない。これも経験値の差が如実にでる。全く新しいと言っても似ている事例はある。自分の経験の引き出しからの多さが成功の鍵を握る。基礎学力とその事例を応用してやっていくことになる。

だからこそ、より知的経験値の多い、高学歴の人間を求めると考えれば良い。

目標立案とKPI

もう少し社会、企業寄りの言い方をしてみよう。

昨今特に言われるのが「目標立案」と「KPI」である。
いわゆる目標を立てる、それを実現するためのより短期的な数量目標を立てると成功しやすい、つまり求められる。
つまりこれが出来ることが社会・企業にとって必要、ということだ。

高学歴とは(はっきりと意識していないとしても)これを自ら実践していて成功した人材である、と捉えることができる。
目標とは例えば「東京大学に入学して勉強する」というものだ。そのためには入試で合格を勝ち取らねばならない。
KPIにおいては例えば「全国共通模試において数学・物理で偏差値○○、英・国・社で偏差値○○」という目標を立てる。
人によってはこれを維持となるか、高2までに上げていくになるのか違いはあるし、得意科目の偏差値は高めにするのもありだろう。
さらに現在から入試までにどのような推移で上げていくかも設定することも必要だろう。

KPIとかいう言葉は知らずとも日頃から意識し、実践している人が結果として高学歴を得ている傾向が高いと考えられる。
学生時代になんとなくスマホを見て暇つぶしだけしていた人とはこういう点でも経験値に雲泥の差が生まれてしまう。

もっといえば「東大」は困難と途中で判断し、目標設定やKPIを見直すというのも重要であり、貴重な体験、経験値である。
学力を上げるためにもう1年時間が必要と考える(浪人して実現すべき)話なのか、目標を下げても現役合格するのが良いのか。経済状況や自分が本来やりたいこと等を照らし合わせて再考すべき時もあるだろう。それが「東大・京大卒ではないが一流大学現役合格」という学歴なのかもしれない。「一浪で東大」ならまだいいが、不合格となり「二浪で一流大学」となるリスクもある。これは目標の見誤りと見なされてしまう。

業務の中でも「やっぱり当初の計画は無理」「社会状況が変わったから変えるべき」「会社の状況から見て縮小すべき」というネガティブな判断を迫られるのも起こりえることだ。
一度目標を立てたから絶対完遂、と拘って、結果として会社が大損益を出してしまうことだってある。会社とは利益を出すものなのだから単なる誤りでしかない。
これも冷静に今自分の置かれている状況・状態を判断して、正しい判断ができるのか、それをやってきたことも経験値として重要なことだろう。

計画・実行・反省(PDCA)

目標とKPIよりも短期的なものとして、いわゆるPDCAというものがある。
PDCAとはPlan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)の略語。

PDCAサイクルと言われるくらいで、常に日常業務の中で回していくものとされる。

これも言葉では難しいが、日頃から無意識にやっている人もいるだろう。

一日の暮らしをとってもPDCAサイクルになる。朝「今日はあれとこれをやる」と決めて、一日を過ごし、夜に「なにができたか、できなかったか、どれだけできたか」をチェック(評価)する。そして反省(どうしたらできたのだろう、計画に無理があったのか)して、改善、つまり翌日の計画をよりよいものにする。

これは学業、勉強においても同じ。例えば小テストは絶好のチェック機会になる。小テストの結果もきちんと向き合って、できなかったところを改善する(勉強し直す)という日々の姿勢が学力を向上させる。「小テストの結果悪かったけどまあいいや」とテスト用紙を捨ててしまうと学力は上がらない。
ましてや中テスト、定期テストは非常に重要である。赤点だと補習というが、100点満点でない限りは間違えた箇所、理由、原因を分析してもう一度勉強し直すことが重要だと学生の頃から私は考えていた。例え「ケアレスミス」であってもなぜ「ケアレス」だったのか、問題を読み間違えたのか、知識・記憶が曖昧だったせいなのか、思い込みだったのか、書き間違えたのか、そういったレベルまできちんと自分を把握することが必要ではなかろうか。この辺の深さが学歴の高さと関係するのだろうと考える。

学歴とはこういう積み重ねの結果であるといえる。

自制心

学業、勉強というのは殆どの人間にとって大変で、つらく、つまらないものなのだろう。
一方で楽しいと「勘違い」できるのも1つの才能なのであろう。私にはそれがあったので助かっている。

また、本心から思うことができずとも、自分に言い聞かせてやるということも才能かスキルの1つなのだろう。

これは社会で働くにあたっては必要なものなのだと考える。

当人が好きであり、得意な仕事につけるとは限らない。「これも経験」といわれてもつらいだけの仕事はいくらでもある。
ピッタリの仕事を割り当てられるなんて奇跡に近い、非常な幸運と言っても良いだろう。

会社の中では様々な業務が混在しており、採用した人間をそれらに割り振っていかねばならないのが現実だ。
希望業種に割り当てられない人も当然ありえることである。

それもある程度は我慢し、やってくれる人間でないと雇う側としては面倒で仕方がない。
高学歴の人間はプライドが高いので我慢しないのでは?と思われるかもしれないが、一方で、事情や意味合いをきちんと説明して納得してもらえ、ある程度の我慢をしてくれるのも高学歴の人間である、というのも事実だ。

例えフリーランス、個人事業主になっても同じだ。本業は好きなことができるとは限らない。「選り好みもそんなにはできない。食うためにはこういう仕事も受けないと」という事態はいくらでもあるそうだ。

こういうのが自制心、自らを律し、制御できる人間であり、長期的に考えることができるというのも、やはり高学歴の人のもつ経験値、成功体験によるところが大きいだろう。

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