Googleレンズという便利機能で宿題に関して賛否両論あるらしい。
まあ、賛否両論であるのは当り前だ。
なぜなら、この問題は永遠の論議の話題である「なぜ勉強するのか」に集約されるからだ。
少し違う言い方をすれば、人によって「なぜ勉強するのか」「なぜ宿題が必要なのか」という視点・見解が様々だから、それに従って勉強・宿題に対する取り組み方が十人十色となる。
今回のGoogleレンズの仕組みが判っている/いないという問題も更に意見を食い違わせる要因となる。
仕組みに関して簡単に説明をしておこう。
Googleレンズでの宿題、という機能に関して言えば、要素が大きく分けて2つある。
1つは撮影(写真)および写真に対する文字認識機能。
もう1つはその文字(文章)に対する回答機能(検索機能)。
前者はGoogleフォトというアプリであった機能で、撮った写真に対して文字認識をしてテキスト(文字列)に変換できる。
もう一つはGoogle検索において、例えば数式なら回答を、英文なら翻訳を行う機能(?)である。
Googleレンズを使わなくても普通にGoogle検索で「3X=6」などと打ち込めば「X=2」と回答してくれる。
この2つを合体させてスムーズに行うことで”宿題回答機能”を実現しているだけのことである。
さて、この機能を使って宿題を終わらせることによる賛否だが、私はやりたきゃやればいいんでね、と思っている。
別にこんなのは昔からよくあった「友達の宿題を写させてもらって終わらす」の「友達」が「Google」になっただけ。
この件も「IT時代」「AI時代」とかそんな論点で話をしたってなんの意味も無い。
「写すとき」にある程度考えて納得しながらやるのか、いわゆる「丸写し」をしているのかは知らない。
「こんな簡単なことくだらないからやりたくない」「数学で人生無駄にしたくない」とか色々思いもあるだろう。
そんなのただの人生観の違いなんだから、人それぞれ違って当り前。論議したって何の意味も無い。
さて、ここからは私個人の見解(スタンス)を書くが、別に他人に押しつけるつもりは毛頭ない。
そんなもの聞きたくも無いのならここで読み終えていただきたい。
私は宿題というのは要る要らないの論議すらどうでもいいと思っている。
そんなものなくても、勉強するからには、それ以上の「練習」を「自主練」でやって当り前と思っていたからだ。
宿題なんか自主練の最初のウォーミングアップのひとつでしか無い。
押しつけられるのが良い悪いは感情論でしかないのでこれもどうでもいい。
単純作業が余りに多いと感じるかもしれない。もっと高等なことをしたいというかもしれない。
でも、たかが宿題に出る程度の単純作業なんぞ簡単にこなせないでどうするのだろう、と思う。
社会に出ればいつの時代でも「単純作業」は結局なくなるものではない。
人にとっては単純作業でも、AIにとっては単純作業で無いことは多々ある。
今のAIの延長線上では「意味の理解」が原理的にできないのでそこが限界となる。
まあ、そんな高度な話でなくても、ちょっと試せば今ですら簡単に答えられないものが出てきてしまう。
例えば「X2(エックスの2乗)+1=0」すら「実数解はないので回答不能」と出してくる。
「実数解なし」であって虚数解は存在する。参考に虚数解の答えも書いていれば良いのだが、今のところ出てこない。
中学生数学なら対応できるが、高校生数学には対応できない、ということだ。
数学は積み重ねなので、機械に頼って楽をしていると、いきなりハシゴを外されることになる。
まあ、わからんでもない。虚数は概念の難しさもさることながら、その文字列処理も一段複雑になってしまうからだ。
それでも所詮は一段程度だろうから乗り越えてきても不思議では無いが。
もうひとつ、「いや、回答のヒントをもらっているだけで実際には自分で解いている」とうそぶく人もいる。
これも昔からある話で、友達と勉強していて分らないからヒントをもらって「解けた」と喜んでいる類である。
なぜこれがダメなのだろうか。
数学においては「どの公式をどのように適用するのか」「この問題でどのように式を組み立てるのか」が重要な要素、というか、そこが数学を”勉強”する意味そのものと考えている。
つまり肝心なところを「ヒント」と称して教えてもらってしまい、あとはただの単純作業をしているに過ぎないので問題を解いているとは言い難い、殆ど意味が無くなってしまっているということなのだ。
これもこういうのが慣習化していると急に壁にぶち当たった様に感じるときが来てしまう。
次に英語の話をする。
仕事でGoogle翻訳を日常的に使っているのだが、まあ、まっとうな日本語/英語は出てこない。
下手をすると間違った意味で伝わりそうな代物がでてくることもある。
つまりGoogleレンズ(結局はGoogle翻訳)で出てくるものを完全に信頼してはダメである。
宿題の解答で使えるような代物でも無い。
「おい、さっきGoogle翻訳を使っているといってるじゃないのか」というのは良いツッコミである。
完全に信頼はできないが、そこそこは信頼できるから機械翻訳を使っている。
ああ、こういう意味、こういう単語があったな、と辞書を調べなくて済む。
おおよその意味を掴むことはできる。その上で精査する。
ここはちょっとちがくね?と思ったらそこは辞書を検索する。
ここの「精査」には英語・日本語をきちんと勉強していることが前提である。
特に、例えば英日翻訳というのは英語→言いたいこと→日本語であって、英語→日本語という単純作業では無い。
AIによって単純置き換えでは無くなってきたが、まだ大分怪しい。
世の中の数多の日本語・英語を読んで学習はしているのだが、肝心の”意味の理解”が原理的にできていないので、どうしても怪しい。
よく言われる、Google検索で
「おいしいイタリアンを教えて」でも「クソまずいイタリアンを教えて」でも同じ結果が出るという話と同じだ。
Googleが抽出できているのは「イタリアン」だけで、その検索結果の店に対してスマホの位置情報を元に近くにある店(両者の距離を計算して近く)から表示しているに過ぎない。
その後にこういう批判が出るとそのうち「おいしい」と「まずい」を抽出して加味するようになるかもしれない。
でも、この辺は際限が無いのでやれるだけ個別にやっているのであって限界がある。
一方で、例えば文法的に正しい言葉で書かれている「看板の文字」やらはかなり正確に変換できる。
単語や簡単な文章だけのメニューやらもそうだ。だからGoogleレンズを観光に使うというのは非常に便利な機能である。
そもそも機械翻訳と理解して使っているから多少おかしくても常識で補正する。
先般テレビでウクライナ人と日本人の両方がお互いの言葉は分らないが、Google音声翻訳で”会話”をしていた。
ウクライナ語が分る人なんてそうはいないので、通訳者なんかみつからない。だからそういう場では無いよりは遙かにマシなのだ。
日本語は明らかにおかしかったし、多分ウクライナ語も変だっただろう。
しかしお互い少しでも気持ちを通わせたい。それが目的である。なにもないよりは遙かに有用なものだと言える。
でも「宿題の問題に対する答え」は違う。必要としているのはGoogleの出した答えでは無く、あなたが考えて書いた答えである。
そこを勘違いしてはいけない。
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