日本学術会議の任命拒否は総理大臣が行っていない
なぜかマスコミはこの点について言及していないのがわからない。
総理大臣は拒否した6名の名前がリストに載っているのをみていないという。
つまり6人の拒否は総理大臣は行っていない。だからといってこの問題は収束しない。
むしろ大問題なのはこの点ではないのか。
様々な議論が迷走しているが、どんな理屈があろうと、ここがおかしいことを認識、追求すべきだ。
「総理大臣の一存で任命しなくていいし、説明も不要だ」という点すらもはや是非論の意味が無い。
そもそも総理大臣が意味不明の弁解をしているが、そもそも総理大臣はこの6名の拒否を行っていないのだから弁解すら不要だ。
問題は推薦者たる日本学術会議が提出したリストが「推薦者または任命者以外の誰かの手によって」変更され、任命者である総理大臣が受理し、任命が行われたということ。
これは総理大臣自らが説明したことから推定される事実である。
任命権は総理大臣にあるのだから、推薦者リストから勝手に権利者以外が外すと言うことは越権行為であり、違法行為ですらある。
それは日本学術会議から受け取り、総理大臣にリストを渡すに至る、その間にいた「誰か」である。
問題とされるべきは、その人間(組織)ではないのか。
推測されるのは内閣府の誰かでであるが。
“エラい人”が決済する前に手を患わせないでその部下達が審査してから上申するというのが常識的で実際的だろう、とうそぶく人もいるかもしれないが、法律上はそうなっていないのだからダメだ。「内閣が」ならまだしも「内閣総理大臣が」なのだから。
仮にそれが常態化、常識化しているというのなら、そこから“改革”すべきだろう。
もしそれが適切であるとしたいのであれば明文化(法改正)すべきである。
さて、問題はそのこととも絡んでくるがいわゆる「解釈変更」問題を指摘しなくてはならない。
現在の任命形態を規定した法律制定時に当時の中曽根総理大臣が「拒否しないでそのまま任命する」と答弁している。
そして法文を「まっとうに」解釈すればその義務はない、当然だ、解釈変更などではないと現総理大臣が述べている。
このこと自体が大問題であると指摘せねばならない。
これは特に安倍政権時代に政府与党は物議を醸した法律をいくつも成立させているが「法文が曖昧だから明記すべきだ(要するに法文を変更してから再採決すべき)」という野党などからの指摘に対して、総理大臣や所轄大臣が「○○と解釈するものであり、指摘のようなことではない」として法律を通してきた。
当然野党は「今の政権では大丈夫かも知れないが、何十年も経って別の政権になれば法文自体が解釈の対象になるからダメだ」と述べてさらに追求している。しかし結論として「大丈夫」と押し切ってきた。当時の菅官房長官も改めて問われてこのような答弁を何度もしている。
自分達が法律を制定するときはきちんとした法文を作らずに法文通りでは問題があるにも関わらず「解釈答弁」で押し切ってきた。
一方で過去の法律に対しては、曖昧な法文に対して解釈答弁を附帯せず、自らの解釈をもって「法律の範囲内」とする。
要するに菅氏という国会議員は自分の都合の良いようにものごとを解釈して強行する、筋の通らない政治姿勢を持っている酷い人である、ということを露呈している。
菅総理が仮に「必要なのは法文通りの解釈のみであり、答弁は意味を持たない」というのなら、今後の法制定においてイバラの道を歩むことになろう。
また、再度強行するような法制定・改正をしようものなら、マスコミ、民衆、国会議員(特に野党)の方々はこの点を挙げて追求すべきだ。
おそらく今までの議員はこのようなことになるから過去の法的決議における答弁(法的主旨説明や解釈)を大事にしてきた。
菅総理はそれを良しとしないということなのだろうか。
このような姿勢というのは間違っていない、いや、正しい姿だ。庶民政治家ならではの間隔として褒めるべき事かも知れない。
しかし実際の政治運営においてはイバラの道。今後の政権運営(特に法制定)においてどうなるのか、注目せざるを得ない。
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