道徳教育ではいじめは悪化しかねない
集団におけるいじめの本質とは何か。
脳科学や社会集団心理の観点から考えれば、それは集団維持における本能から派生するもののようだ。
集団の中で、他の多くの人と違った行動をとればそれは集団の危機となる。
間違った行動をとっている人がいれば彼を正してあげる必要もある。
たぶん最初は正しい行動なのかもしれない。
そして脳科学的に言えば、それは良い刺激である。
集団にとっても良い行動となるので周囲からの社会的承認も得られる。
これも人間にとっては心地よい刺激だ。基本的本能とすらいう人もいる。
多くの人々が社会、つまり職場やボランティアやSNSで求めるのはこれらの刺激である。
危険なのはこの次からだ。刺激というのはまた新たな刺激を求める。
初めは明らかに間違った行動を諫めていたのだろうが、当然問題のあった"彼”は行動を正していく。
そうすると彼に対しての”攻撃”ができなくなる。
ではどうするかといえば、ほんの些細な問題、指摘する人の思いこみや自身の価値観との相違によって、問題を”でっちあげる”ようになる。
「炎上Twitter」にみられるような、社会的承認を得る(いいねをもらう)ために無茶苦茶な行動に走るのと同じ構造だ。
これは「道徳心の強化」で解消できる事項なのだろうか。
解消どころかかえって悪化させることにはならないだろうか。
構造を考察していくとそう思わざるを得ない。
「道徳心」の多くは「特定の考え方の強要」である。
それを良い考えとして指導し、画一化していく。(その考えの善悪は問わない)
集団生活の中ではある程度はやむを得ないことかもしれない。
しかし、なにが「良い」でなにが「悪い」か、は、ある範囲については共有できるが、ある範囲については異論が出てくるものだ。
どんな意見でも百%の同意は得られない。
たいがいは数%の異論は生じるものである。それがむしろ普通ではないのか。
学校のクラスが四十人程度だとすれば、一人は”異端児”がいても不思議ではない。
それはその一人が悪いのではなく、人間、いや生物の多様性として当然生じる”もの”である。
(話はそれるが日本の国会の「全会一致」というのは海外の人には「気持ち悪いもの」とみえるらしい)
仮にその一人が”排除”されたとしても、他の何かの案件でまた別の一人がでてきてしまう。その閾値が変わるだけのことである。
現象面で見れば、出てくるまで状況が変化していくだけのことなのだ。
もしある意見に対して百%の同意があったとすれば、むしろそれは疑わなくてはならない、危険性がそこにはある、という思想家もいるぐらいだ。
だから異見を重用し論議を深め、最後は多数決になるのが民主主義の多数決主義だ。
異見を排除し、多数決で強行するのは誤った多数決主義である。
それが多発しているのは・・・いうまでもあるまい。
道徳という形で、特定の考えに対して「正解」を定義したとすれば、それに異論を唱える者は「誤ったもの」というお墨付きを与えてしまうのである。
この構図が実に危険である。
つまりそれがいじめの要因へのお墨付きを与えてしまうからだ。。
どれを正解にするか、が問題なのではない。
どれを選んでも問題が起きるのが当然の帰結なのだから。
どれかひとつを正解として指定すること自体が問題なのだ。
では解決策は何か。それは多様性の承認である。
画一化とは真逆である。
道徳の時間で出来る可能性はある。
道徳では「なにが問題なのか」「どうすれば良いのか」ということを考える。
しかし正しい回答を導き、答え合わせをする」ことは間違っている。
「どれだけの問題点が考えられるか」「そこから導き出される解決策をどれだけ考えられるか」について、いっそその数の勝負で評価をすべきでは
ないだろうか。
また”奇抜さ”について評価するのも良いかもしれない。
人の思いつかないことを思いつくことは特に現代にとっては重要なことだ。
教科化に伴う点数づけもそれに従えば客観的にも適合する。
個人的にその中のどれが正解かを考えるのは構わないと思うが、どれを選んだか自体は評価すべきではない。
なぜそれを選んだかの理由をどれだけ合理的に説明できるかを評価する。
なぜ道徳でやるかと言えば他の教科に比べて回答や過程の多様性を期待できるからだ。
例えば算数や数学の答えに多様性を求めるのは無茶だ。いいところ解き方ぐらいだ。
このような道徳教育であれば、いじめの緩和になると思うが、むしろ逆行するだろう。
「正解」との適合性で評価するのは他の教科でもなされることだし、評価する方も楽である。最悪、むしろ悪夢の展開ですらある。
例えば性的マイノリティの社会的承認、性差を認めた上での男女平等等がある。もっとも簡単で具体的なのは夫婦別姓の承認なのだが、それすらも意味不明の理由で、現在の政治は拒否の表明をしている。
安倍政権下で特に自民党の考え方(憲法修正草案)が表に出てきているから、特にそれは明確になっている。安倍氏自身はもっと極端のようだから始末におえない。
「かかあ天下」が伝統ならば、むしろ日本の会社組織における女性の社会的マイノリティは古い欧米的社会構造に倣った人たちが作り上げたものでしかない。
農村、つまり農業では男女平等であった。
特に武家階級で男性優位社会を勝手につくって、それを必要以上に重要視しただけだ。それは武家社会の伝統かもしれないが、日本の伝統などと称するのは、長い歴史と広い社会をみれば噴飯ものですらある。
たかが明治以来の社会的行動を伝統というのはあきれてものが言えない。
たかが武家社会のほんの歴史の一瞬の一部の階級の行動様式を伝統というのか。
日本の皇紀としては2600年もの歴史があるというのに、たかが百数十年程度で日本の伝統と証するのか。
日本の伝統を真に重んじる人はもっと怒るべきである。
さらにいえば世界的に見てグローバルスタンダードでない、つまりガラパゴス化した社会であるという言い方も出来る。その点でも問題だ。
いじめの本質にあるのは、特定の人間の偏見と狭小なものの見方、思いこみや好き勝手なその場しのぎの判断や考えではないのか。
パワハラやセクハラ等のハラスメントも根っこは同じに見える。
この問題が起こったとき、その特定の行為は氷山の一角の場合が実に多くはないだろうか。
根本は、その人の狭小なものの見方、知識不足の場合すらあるのではないだろうか。
教育というのは知識の増強であるし、広いものの見方を醸成するものではないのか。
道徳を教科とするのなら、その点に反してはならないはずだ。
道徳心の醸成などという曖昧かつ狭小なものに終始するとすれば実に危険である。
やるべきことは合理的かつ多様な思考力の醸成、多様な知識(を得たり活用するための姿勢)の付与である。
しかし仮にこのような考えで進めようとすれば、これらを「本来の道徳ではない」というような訳の分からない理由で反対が続出して却下されるだろう。
今までの道徳教育がそうではなかったからだ。(それでも今まではこころある教師はそういう要素が入っていたかもしれないが教科化でそれすら否定されるだろう)
今までやってきたことを「本来」と称している狭小なものの見方だと私は思うのだが、頑として曲げない人が必ずいる。
それが大概は「エラい人」なので始末が悪い。
結果として「道徳教育の強化」には懐疑的と言わざるを得ないのだ。
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