リンク: 6×8は正解でも8×6はバッテン?あるいは算数のガラパゴス性:プロジェクトマジック:ITmedia オルタナティブ・ブログ.
あちこちで議論が巻き起こっているようでなかなか奥が深い。
その1
答案用紙の写真を見て思った違和感は答えの48本のところに×がついていること。
「式が間違っていれば答えもバツにする」という宣言があったそうだが、その理論自体はあながち間違ってはいない。
あてずっぽで正解ではダメなわけで課程も合っていてはじめて正解とするということだ。
しかし便宜上×という表現にしたのだろうが、本当は○にしない(点数にしない)というというべきである。
だから後に残る答案用紙としては×をつけてはダメで何も書かないのが筋だろう。
ただ採点漏れを疑われる場合があるため、ごく小さいレ点(まあ、日本では×の意味になってしまうのだが)やドットを打って加点をしないということになるだろう。
「○×で言えば○だがたまたま合っていた可能性があるので加点をしない」という理屈を答案用紙にきちんと残す、そういうほうがしっくりとくるだろう。
赤鉛筆の訂正は子供が書いたものだと思われる。
答案用紙を返した後で答え合わせと称して先生が回答を読み上げる。
それを子供自身の手で間違えた場所を訂正していくというルーチンワークがある。
これは先生の作業の省力化と子供自身で訂正をして強く印象づけるという効果を狙ってのことだと思うし、その効果は自分の体験からしても良いことだと思う。
しかし間違ったとされる文字列に対して赤ペンで同じ文字列を書くときの子供の心情を考えると×をつけたという安易さに対して問題を感じざるをえない。
その2
「単位が違うと、式の順番が違う」
私には全く意味が分からない。
子供も理解していない。
そしてたぶん先生も理解していない(笑)
「6×8はバツだよ派」の主張をいくつか読んでいくと、小学生に算数をキチンと理解させるためにはバツにすべき、と真摯に考えていることが分かってきた。
・「掛けられる数」と「掛ける数」があるし、その区別は重要
・それが分かっていないと、算数を理解していく上でつまずいてしまう
・だから文章題の式を書かせる時に順番をチェックすることで、理解を確認しよう
という考え方。
これは本当だろうか。私には全く理解できない。
私はかけ算九九を覚えさせられている段階でかけ算においてはひっくり返しても同じであることを認識していた。
なぜなら私はともかく丸暗記が苦手だ。いまもそうだが幼い頃から人よりも劣っていることを認識していた。
しかしそれをなんとかごまかそう(カバーしよう)とは努力していた。
当然ながら九九もなかなか覚えられない。定期的にテストがあるのだがどうにも不合格だ。
ある日、九九の表をじっと見ていると“対称的”であることに気がついた。
そう、九九は81個あるが実は覚えるのはその半分程度で良いのだ。
さらに1や2が入っているところは覚えるまでも無い。
そう考えると覚えるべきところは存外少ないことに気がついた。
不合格といってもそこそこは覚えているわけで改めて集中して覚えるべきところは実はほんの僅かだったのだ。
この課程はおそらく数分にすらならなかっただろうが、何度も不合格で自分でも嫌になりかけていたときにこのことに気づいたことでなにか一気に明るい気分になった。
このことを今でも強く覚えている。
そう、算数なんて覚えることはほんの僅かで良いんだと。
算数が数学になり、いつしか理系人間になってもそこの根本はまったく変わっていない。
理解さえすれば“覚える”ということさえ必要無いんだと。
だからくだらない規則やらなんでも公式といってみたり、解き方をパターン化して覚えろと言ったり、そういう教え方にはまったく反対するし、そういう考え方自体がつまらないとさえ思う。
さて話を戻す。
「掛ける数」と「掛けられる数」という言葉は知っていたがそのこと自体が重要だとは全く思わない。
存在するが重要では無い。
「割る数」と「割られる数」の関係を説明するのに重要だという論があるがそれはおかしい。
割り算に関しては極めて重要だが、掛け算に関しては重要では無い。
それだけのことだ。
掛け算の交換はベクトル(行列式)では成立しないということを言う人もいるがそれは高校生になってからだ。
文系では大学進学において必要ないことも珍しくないし日常生活でもまず必要が無い。
そこまでのレベルが前提なら「ベクトル世界では交換できない」と認識すれば良い。
交換は基本は不可と考えて「スカラー量では交換できる」と再定義しても良いだろう。
さて交換すると意味が違ってきてしまうからダメ、という論に対してはその通りだ、と思う。
意図を持って数式を記述するというのは極めて正しい態度だと思う。
しかしそれがこの題でいう「6×8は正解で、8×6はダメ」の理由にならないのだ。
既にこのことを指摘している人も多いので繰り返さないが、どちらの式もそれぞれに意味がある。
別の言い方をすれば観点や見方、結果として結論までの課程が違う。
それのどちらも正解だ。
どちらかが×でどちらかだけが○ということではないのだ。
それにも関わらず、よくわからない理由付けをして8×6を否定するから訳が変わらなくなるのだ。
単位系を持ち出しているのはダメだろう。
技術的に考えてもここで単位系を持ち出すのは危険だし、やりかたも間違っていると私は思う。
単位系というのは非常に難しいし、理論的な構成単位と便宜的(慣習的)な単位系もあり扱いが難しい。
記事ではくだんの娘さんが「ずつ」という言葉に縛られてしまったのは最悪の結果だと私は思う。
娘さんも娘さんなりに先生の言う言葉を理解しようとしているのだと思う。
何が正解なのか、を懸命に自分の中で消化(昇華)しようとしているのだと思う。
その結果としてこうなってしまったのはとてもまずいことだと思う。
他の人のコメントにもあった長方形の面積を求める「たて×よこ」もそうだし、電力を求める「電圧×電流」もどちらが先という意味合いは全くない。
実話かどうかは定かでは無いが、長方形を45度斜めに置いたらどちらが「たて」で「よこ」か分からなくなって面積が求められなくなった(図には寸法として数字が入っている)、なんて話を聞いた事がある。
たてやよこという概念自体が便宜的なものでとりあえずどっちかを決めてしまえば良いだけの話なのだが、ことばだけに雁字搦めにとらわれるとこういう事態になりかねない。
おそらくは「教科書通り」に教えるとこうなってしまったのだと思う。
教科書的な教え方といういいかたもあるように、網羅的に教えると大変だし混乱するから画一的に一面だけをとりあえず教えるという姿勢がある。
しかしそれは洗練された理屈に対してのみに限定されるべきだと思う。
現実問題として少なくとも掛ける数と掛けられる数を問題にすることはない。
それよりもどうして逆では×なのかの理由をきちんと教師が説明できていない。
逆にすれば違う見方になる。それは事実だ。
そしてその見方も間違ってはいないではないのか。そこをきちんと検証しているのだろうか。
便宜的な理由でそこを省いてはダメだろう。
結果としてすくなくともこの記事の娘さんはきちんと理解できず、誤った解釈をしてしまっている。
そしてそのことで混乱していることは大問題では無いのか。
これらの課程はこのことに限らない。
原発問題の根本、電力政策議論、TPP参画の問題、消費税の議論、どれをとっても構図が同じように私には見える。
ある論を正論と規定し、それ以外を“論破”して否定する。
自らの“正論”は決して攻撃せずにそれ以外をあらゆる方法をもって否定する。
そこまで言ったらの“正論”も否定されるではないかということはは全く無視する。
通常の論議はあらゆる論点をまず並べ、それから色々な観点で評価・精査していく。
当たり前だがどの論点も長所短所を持っている。
その上でどれが現実的に良いかを評価する。
可能ならば折衷案を出して長所を伸ばし短所を削れないか考える。
本来はそういった作業をすべきで“結論ありき”論議が政治の世界では多すぎる。
いうまでもなくこの論議とやら自体が“官僚による仕組まれた出来レース”だからこうなっている訳だが、それを当たり前とおもっているのが官僚だったりするようだ。
官僚は上記のようなテストを上手にパスしてきた人間が多いのでそれを無意識のうちに踏襲するのはなんら不思議では無い。
もちろん新入りの時はそれに懐疑的に思っているとしても、上司やらがそういうことをやって指示するのでそれに刃向かわず(刃向かえばそこで脱落組)に仕事に慣れればそれ以外はできなくなっていくのも自然なことだ。
そして政治・行政では正解が無いのでそのことを否定されないし、なっても否定されるのは官僚ではなく矢面に立っている議員の方だ。
まあ、政治の世界をどう変えるかは話がでかすぎるので別にしておこう。
我々としては小学2年生の算数からちょっと離れてこう考えてみたい。
とりあえずは教科書通りでは6×8という式がある。
かけ算は逆にしても良いので8×6という式も考えられる。
では8×6というのはどういう意味があるのだろうか。
発想の転換とはこういうことなのだ。
自然科学の発展、とりわけ物理学の発展というのはこのことが重要なのだ。
「現代物理学」というのはおよそ現実的な実感から乖離している理論が多い。
だからこそ難解と言われる訳だが、その理由の一つに数式での話の展開がある。
ある現象から一連の式が成立する。
それを数学的な法則に従って色々こねくりまわしていく。
その結果、ある式が導き出される。
その式を解釈するとある物理的な意味を持っていることが分かる。
好例としてはかのアインシュタインが導き出した「E=mc^2」であろう。
この式を解釈すると、それまで普遍とされていた質量(重さ)は実はそのものがエネルギーと等価である、つまり質量をエネルギーに直接転換できれば莫大なエネルギー(cとは光速である。しかも二乗!)を得られるという結論なのだ。
これの実応用例の一つが原子力となっているわけだが、現実にほんの僅かな質量変化から莫大なエネルギーを得ることができている。
原子力というのは放射能という副次作用があって現実世界で大問題になっているわけだが、放射能自体がこの質量変化(質量崩壊)によって生じるもの故に不可分となっており、裏表の存在と言える。
またこれもアインシュタインの導いた「光量子論」もそうで、光というのは実は粒子であってそれをエネルギーに転換できるという理論である。
これの実応用例としては太陽電池である。
最も“ダーティ”なエネルギーとされている原子力と最も“クリーン”なエネルギーとされている太陽電池とが同じ人物からの発想から生まれたというのも皮肉な偶然なのか必然だったのか。
彼の発想力やもののみかたは“奇人”と評されるくらい自由奔放だったという。
なんにせよ、ある式に対して色々な見方をして色々な意味を見いだす、というのが重要なことなのだ。
これは無論“式”に限らない。
ある事実に対して様々な観点でみるように努めねばならない。
その幅を自ら狭めないようにしなければならない。
マスコミが劣化しつつあるという現在。
事実が仮に偏向されているとしても誤った数字や事実はそうはでてこまい。
一方でネットの発展にあわせ、恣意的であるとしても諸データや議事録や審議映像などを公表を余儀なくされている様々な政治・行政の情報。
そこからどれだけのことを見いだせるか。
今年はそれが特に感じられた一年となったが、来年はますますこの傾向は強まるだろう。
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