« オープンソース陣営による特許侵害を主張したマイクロソフトの狙いは? - CNET Japan | トップページ | 私は昔から覚えようともしない。~電話番号:8割が「覚えられなくなった」--「恋人の携帯番号を覚えている」1割:ニュース - CNET Japan »

2007/05/30

MYUTA裁判について

ブログやネットニュースでは論議を呼んでいる、いわゆるMYUTAというサービスについての裁判の判決文が公開されたので読んでみた。

要約がニュースで取り上げられていたが、まったくその論理展開が理解できず、記者が端折ったのではないかとおもっていたが、そうではなくそもそも判決文自体が理解に苦しむものであったことが判った。

この判決文を読んでみておかしな点が3点。
これによって判決結果そのものもおかしなことになっていると感じる。
どう読んでも、その論理展開の不自然さから、「原告のいいたい事は認められる部分もあるが、結論としてはこうなのである」、という結論が先にありきの文章の形態にしか見えない。

さて、その3つを指摘していきたいと思う。
1.主体の解釈
2.不特定多数の解釈
3.公衆送信とはなにか

1.主体とは何か。誰が主体なのか
まず、複製行為の主体の捉え方がおかしい。
これは誰であるかが争点としてあげられているので十分注意して述べられているはずである。

主体であるかどうかはその行為の物量ではなくそのものが行ったことが支配的であるかどうかであろう。
本件ではどの楽曲に対して行為を行うか、つまりユーザーが主体であって、それ以降の行為はまさに定型的・機械的な操作であってそこに主体性は存在しない。
さらにいえば単純な複製・変換行為に過ぎないし、技術的難易度は関係しない。
単なる複製であることについては判決文の中で裁判官自らが述べているのである。
それなのにその行為が煩雑で量が多いということだけでそれが支配的であり主体があると考えるのにははなはだ違和感を感じるを禁じえない。
主体性というのはそこに決定する意思が存在するか否かであって、その過程の複雑さの度合いや数、技術的難易度をもって主体性を論ずるのはどう考えてもおかしい。
しかしながらこの判決では、その機材を所有し管理しているものが主体であるという判断をしている。

ユーザーは自分が曲をアップロードすれば、自動に自分の携帯電話でダウンロードできる、という結果となることを知っているのである。それは決められた定型的な作業でありそこには意思の関与は無い。
これではユーザーが主体であるということにならないのが不思議で仕方が無い。

拳銃についてにあてはめてみよう。裁判官の論理で言うと、拳銃の引き金を引いたことは操作の端緒となる関与をしたにとどまるものというものであり、弾が発射されたという結果は拳銃の構造によるものであり、その拳銃をつくり、管理している拳銃メーカーにあるものである。(ここで拳銃はメーカーより借用したものとする)
拳銃の弾の発射によって人が死んだのであるが、それはユーザーには主体はなく、これは拳銃メーカーが作成、管理しているよるものなのでメーカーに主体性があり、メーカーに責任がある。
また、拳銃はユーザーが自分で作成できないほど高度な技術を用いて作られているからである。
なお、ユーザーは拳銃の引き金を引くことによって弾が発射され、それにより人が死ぬということは勿論知っており、なるほど、それによってユーザーに責任があるというといえなくもないが、そのことは主体性に関してはなんら関係ないことである。

とまぁ、こんなおかしな論理展開なのである。
常識的に見て、拳銃を撃った人間に責任は無く、拳銃メーカーにのみ責任が問われるなどと、全くこの法理ならまかり通るのであろうか疑問でしかたない。

2.不特定多数の解釈

インターネット接続環境を有するパソコンと携帯電話(ただし,当面はau WIN端末のみ)を有するユーザが所定の会員登録を済ませれば,誰でも利用することができるものであり,原告がインターネットで会員登録をするユーザを予め選別したり,選択したりすることはない。

ここでも摩訶不思議な論理が展開されている。
つまり客のほうからアプローチし、会員登録した場合には、業者から見ればどうであれ不特定多数であると考えるというのだ。
こんな形態はほとんどの商売、サービス提供において一般的な話ではないだろうか。業者が客を選ぶのはキャッチセールスぐらいのものである。
契約を行うにあたり、それは一対一であるとされるのが基本であるのにも関わらず、ここだけ都合よく不特定多数という論理を持ち出しているのが理解に苦しむ。
それでは仮に会員が一人しかまだいない状態のときでも不特定多数であるというのか。
会員となった客、もしくは非会員の人に対しても区別せずに行うサービスであれば不特定多数に対するサービスといえよう。
しかしながら会員に対して個別に認識をしてサービスを行う形態であるにもかかわらず、不特定多数という表現をするのは全く理解に苦しむ。

3.公衆送信

「公衆」とは,不特定の者又は特定多数の者をいうものであるところ(著作権法2条5項参照),ユーザは,その意味において,本件サーバを設置する原告にとって不特定の者というべきである。

既に不特定というものについて誤った解釈をしているので、それを根拠にした公衆の認定も誤っているのはいうまでもない。

よって,本件サーバからユーザの携帯電話に向けての音源データの3G2ファイルの送信は,公衆たるユーザからの求めに応じ,ユーザによって直接受信されることを目的として自動的に行われるものであり,自動公衆送信(同法2条1項9号の4)ということができる。

既に誤った推論によって公衆というものを考えているので、この文章を単体で見れば整合性が取れてしまっている。
特定の会員と、会員がアップロードしたデータ、ダウンロードできるデータについては厳格な関連付けがなされている、ことは裁判官も認識をしている。それにも関わらず、それでは公衆であると裁判官は考えているのである。

判決文にも詳細な認証方式が述べられているが、インターネットバンキングやトレードでもここまで厳密に個人認証をしているものはないのではないだろうか。
なのに公衆にデータを送信していると断じる感覚にはまったく理解ができない。

例えばインターネットバンキングにおいては個人情報が(確認や変更に際し)ユーザーの要求によって表示されるわけであるが、その仕組みがある自体、公衆送信されているという表現をするのである。
携帯電話でも同様のサービスもあるし、オンラインショッピングでも同様である。
すべてのオンラインサービスにおいて、個人情報などは不特定多数に対して公衆送信されている、という表現が適切であると裁判官は述べているのである。


さて、私はあまりこのサービスの是非について述べる気はない。
しかしながら今回の件で裁判官が、ネット界の一般的見識、それどころか、一般人の常識的な感覚からも乖離した解釈や論理展開をするものなのだ、ということに驚きを感じる。
この解釈において裁判官が正しいのか、私が正しいのかは断じるつもりはない。

すくなくとも私やネット界での常識と、裁判官の解釈とは、理解できないほど乖離しているのだ、このような状態で裁かれる可能性が大いにあるのだ、という認識は持っていなければならない、ということは確かなことなのだろう、と今回感じたわけである。


なお、この判決を下した高部眞規子裁判長は「あの一太郎・アイコン裁判」でジャストシステム敗訴、松下勝訴を下した人である。
このときも私は判決文を読んでその論理展開の理解に非常に苦しんだ。
そしてこれは控訴されて高裁で逆転判決がなされ終結したとのことである。
(つまり判決は間違っていたということに他ならない)

|

« オープンソース陣営による特許侵害を主張したマイクロソフトの狙いは? - CNET Japan | トップページ | 私は昔から覚えようともしない。~電話番号:8割が「覚えられなくなった」--「恋人の携帯番号を覚えている」1割:ニュース - CNET Japan »

法律」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: MYUTA裁判について:

« オープンソース陣営による特許侵害を主張したマイクロソフトの狙いは? - CNET Japan | トップページ | 私は昔から覚えようともしない。~電話番号:8割が「覚えられなくなった」--「恋人の携帯番号を覚えている」1割:ニュース - CNET Japan »