選挙ポスター問題
東京都知事選で、選挙ポスターに関する問題は賑わしている。
前々から思っていたのだが、選挙ポスターというのはそれ自体が大きな問題をはらんでいるのではないのか。
各人の勝手で他人(機関等含む)の確認もなしに自由に張れる、つまり野放し状態である。その一方で勝手に汚損等をすると罰せられる。
なんともちぐはぐな不可思議な制度設計である。
しかも各立候補者が自分で貼らないといけないからともかく尋常無くお金がかかるという。
これが立候補者の貧富の差で貼れる量が変わってきてしまい、当確に影響を及ぼす、と言われている。
このことは例の政治資金の話でたびたび「政治には金がかかる」という言い訳の一つにされている。
私は選挙ポスターというのは最低限の告示と同レベルと考えて全て公費でやるべきだと以前より思っている。
立候補者は選挙管理委員会(か委託された先)に出向いて写真撮影をしてもらう。自然と顔を盛るのは化粧で可能な範囲となり、化粧も撮影現場では待ち時間で可能な程度のみと限定すれば良い。
あとは選挙管理委員会がポスターを作成し、印刷し、掲示を行う。つまり公費でやるべきだ。
レイアウト指定の自由度や立候補者の事前確認等の細かい規定は各選挙管理委員会で決めれば良いだろう。
自分の名前の文字位置やフォント、大きさ等ぐらいは立候補者の希望を聞いてもいいのかもしれない。
ともあれ、どんな規定であろうが「全員公平」であり「平凡でつまらないものを目指す」ことであれば特段の問題は無い。
なまじ適当な紳士規定でやるから「ビジネス」なんて言葉が飛び出してしまうのだ。
そもそも論からしておかしいと言わざるを得ない。
選挙ポスター自体の不要論もあるぐらいだ。「今、選挙戦が行われていますよ、もうすぐ投票日ですよ」「こんな人が出ていますよ」という最低限の告示として公が行い、往来の人間に知らせるものと再定義するべきでは無いのか。選挙の告示ポスターの延長上のもので、やはり文字と名前の列記だけではイマイチなので、やはり顔写真が出ていれば目を引くのは人間として当然のことである。
「スローガン等も書きたい」「それではつまらない」「事実上の検閲への一歩だ」などと反論する人もいるのかもしれない。
「表現の自由」「選挙活動の自由」などはポスター以外でいくらでも発揮していただければ良い。
従来の公約などをちりばめたチラシ、SNSをはじめとするネットでの公報、街頭演説、記者会見、いくらでもあるではないか。
ポスターは一つのレギュレーションの中でやっても何ら問題は無いのでは無かろうか。
そしてこの方式はもう一つ重要なメリットがある。
ポスター作成には当然デジタルデータで出稿印刷するのだから、ネット掲示用のデジタルデータに簡単なデータ変換で得られる。
外を簡単に出歩けない人にもネットで寸分違わない同じものを見ることが可能となるのだ。
また、例えば老人ホームや病院、駅などで、デジタルサイネージディスプレイで表示できれば投票率向上にも繋がることだろうし良いことでは無いのか。
デジタル化=スマホと短絡的に考える人も多いが、一方で公共の場の大画面ディスプレイというのは地味に増えており、表示情報としてのネットにおける選挙情報の公的整備をもっと進めていただきたい、と思っている。いわゆるデジタルディバイドの解消となりえる。
| 固定リンク
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- 空気中の二酸化炭素の濃度をお米に例えてみる(2024.08.15)
- 選挙ポスター問題(2024.06.22)
- 史上最低?東京15区衆議院選挙(2024.05.01)
- 自民党「セクシーダンス」問題報告書に見る自民党問題点(2024.03.24)
- 【続】「博多女子中が入試願書出し忘れ生徒三人が受験できず」にみる締め切り日への認識(2024.03.02)
コメント