つるかめ算に対するいまだにあるモヤモヤ感
ある記事でつるかめ算は大事で小学生段階では解放として方程式を教えべきでは無い論があった。
読んだが、結局意味私には全く腑に落ちないどころか、論旨が理解できなかった。
私は小学生の頃、算数は好きでも嫌いでもなかった、テストでは普通にほぼ満点が取れていたので得意という分野だったのかもしれないが、だからといって特段好きでもなかった。まあ、興味が無かったというのが一番近いか。
読書が好きで、国語や社会科が好きだったので一般には文系だったのかもしれない。理科もまあ好きだったが。
ただ物覚えが悪いので九九暗記のコンプリートはクラスでもビリの方だったのを苦い思い出としてよく覚えている。
最後は居残りになったような覚えもある。
そしてもう一つ理解できずに嫌悪感を持ったのが話題にしているつるかめ算である。
最初何を言っているのか全く理解できない。なにかクイズかなぞなぞの類なら理解できるのだが、学校でやるようなことなのか。
およそ応用が利くような考え方にも思えない。
もちろん小学生当時はこんなに言語化して考えたわけでも無いが、当時のモヤモヤ感を文字で書けばこのような感じだったと思う。
ともかく嫌悪感、不快感を強く持ったのは確かである。
まあ、算数授業全体の中では些細なもので、最後の5段階評価への影響は無い程度の軽微なものだったから、どうでもいいと思った。
実際、これができなくても後に差し支えは一切無かった。
算数というものは積み重ねであってどこかで躓くと、底へ戻って足場を固めないとどんどん分からなくなるもの、というのは当時から感じてはいたが、これは例外なんだ、本で言う「コラム」「ちょっと休憩」的なものだったのかな、と思って通り過ぎ去った。
本で調べると(当時はネットはなかったからね)和算のひとつということもわかり「ああ、日本の数学歴史の一部を紹介したのだな」とも思った。
そして中学になると数学と名が変わり、方程式というものを学んだ。
「なんだ、これで解けるんだ」「代数。なんて万能な考え方があるんだ、すげー」と驚き賞賛した。
そして数学の面白さに魅せられ、数学が好きになった。
数の概念、量の概念、というものを勉強し涵養するのは非常に重要な事だと思う。
1万と10のどちらが大きいか、何倍かを直感的に感覚的に把握することはもちろん重要な事だ。
円やグラム、平方メートル等をつければ正に生活に直結する話だからこれを否定する人はいないだろう。
「算数」というのは主にこういった感覚を身につけることだといっても不思議では無いだろう。
最近「キャッシュレス支払」になるとお金の感覚がとかいう人もいるが、おそらくこういう感覚で算数をきちんとやってこなかったのが主因だと思われる。
今まで意識しなかったのは現金でやっていれば札や硬貨というモノで量的把握ができるからごまかせてきただけなのだ。
算数で量的感覚を身につけていればレシートや支払一覧、銀行残高等の数字をみて把握できるのだから。
つるかめ算は、ある意味、算数で問題解決できる限界を示している、と私は認識している。
新たな技術、テクニック、手法等々を手に入れれば、今までの苦労がなんだったんだ、と思えるほどになる例はいくらでもある。
代数を始めとした方程式、高校や大学では代数学として学んでいくが、これは実に強力な方式である。
だからこそ、小学生の段階では、その前につるかめ算という枷を敢えて嵌めて気持ちを諫めるという考えなのかもしれない。
その強い力を手にしたからこそ、それを駆使して、従来の様々な、算数ではどうしようもない、世の中の数多ある困難、課題を解決していくことが使命となっていく。その入り口に立っていることをもっと明示して教えるべきでは無かろうか。
そのひとつが「式を立てる」という基本的行為である。
立てた後の解くという行為はさしたる問題では無い。(もちろん簡単には解けない方程式はいくらでもあるが)
それこそコンピューターを使ってごり押しで解く方法もあるし、AIでさらっと解ける簡単なものもある。
まったく解き方を知らないというのも問題なので一通りは習得することはもちろん必要なことではある。
式を変形することで新たな発見があると言うことは数学や物理学の研究においてはごく普通のことだからだ。
特に近代においては、数式によってある物理現象が”予言”され、現実世界で確認される。
宇宙や量子力学においては特にそうだ。人間の感覚では「ありえない」と思ってしまうが、数式がそう言っている。その時点では真実は不明。しかしその後、実験・実証・観測される。
有名な例としては、SFではウラシマ効果と呼ばれる「光速に近い速度で航行する中では時間が遅くなる」現象や、光が重力で曲がるということ、生活に密着している話では太陽電池(光電効果)や原子力(質量とエネルギーの等価)等が挙げられる。
話が逸れたが、現実世界の投影として、式を記述する、という行為が一番重要な課題である。
特に高校物理あたりから、言葉では無く物理現象を式で表現するというのが当たり前になってくる。
問題(課題)を式として書くのが”回答”と言っても良いぐらいである。
つるかめ算で言えば
頭の数=鶴+亀
足の数=鶴×2+亀×4
という式を自ら考えてその場で立てる(書ける)というのが重要である。これ自体は初歩の初歩だが基本である。
知っているべき知識(情報)は、鶴も亀も頭は一つ、足は鶴が2本、亀が4本、これだけで良い。
普通の人ならこれは知識というほどのもので無くて、鶴と亀の姿が思い浮かべれば済む話。
その知識をもとにこのような式を思い浮かべることが肝要なのである。
そういう姿勢で日頃からいれば、鶴や亀では無く昆虫やらタコやイカになっても応用が利き、難なく式を立てられる。
またこの式は「鶴も亀も頭は一つ、足は鶴が2本、亀が4本」という知識(情報)を記述しているとも言え、読み取ることが可能だ。
こういった見方ができることも重要な素養であろう。
ありがちなのが、こういうのを「公式」と称して「暗記」させること。これは大間違いである。
塾とかで「覚えて少しでも速く答えを出して良い成績をとる・・・」とかいう甘言を吐くが、長期的に見て害悪と断言する。
「つるかめ算」しか知らないと「つるかめ」以外の課題に対応できない、答えが出せないなどと言ってしまうのだ。
また「数学は公式が多くて嫌い」と言う人がたまにいるが、そういう人は上述したような学習法、教えられ方をされてきた可哀相な被害者なのである。
本当の意味での公式(定理といっても良い)なんかほんの僅かで、それについてはもちろん、その意味と共に理解しつつ、寸分違いなく覚える必要はある。
しかし多くの参考書に載っているような公式と呼ばれるものはそれの変形でしかない場合が殆ど。何度も変形しているうちに覚えてしまうのは構わないが、いきなり変形したものまで覚えようというのは無駄である。
基本形だけしっかり覚えておけばあとは覚えていればラッキーと思えば良い。全部完璧に覚えなきゃというプレッシャーも無駄。
まあ、稀に頭が良くて記憶力無尽蔵みたいな人もいるので、そういう人であれば覚えることを止めはしないが。
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