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2024/03/24

自民党「セクシーダンス」問題報告書に見る自民党問題点

「党組織運動本部」名義で報告書が出されたようだ。

報告書画像があったので読んでみたが、おそらく彼らは「問題は無いですよ」と言っているつもりなのだろうが、自民党の甚だ酷い問題が書かれている。
つまり、これらの報告書が”正しい”としても酷いのだから、これが虚偽だったとすればどれだけ酷いのだろうかと絶望する。
裏金問題でも同様のことが言えるが、組織として、ガバナンスとして酷いにも程がある。

●県連青年局長が一人で企画し出演交渉していた

責任を取るのは一人でかぶるというつもりでこういうことを書いてしまっているのだろうが、これが真であるのならば、自民党が酷い団体であることを示している。
懇親会の余興とはいえど、50人を招いたりする会において、一人で企画推進してはダメだ。
必ず複数人、最低現、前任者などもフォローして上げないと危険である。

負担が大きすぎるし、独善的になる(いわゆるスベる)企画になる危険性が高いからだ。
職場の忘年会などにおいてもある程度人数がいれば余興は複数人で推進しないとダメというのは誰でも知っていることだろう。
ましてや「彼」に余興の手配の手間を全部負わせておいたとすればこれも大問題である。

経費面を考えても、ダンサーを5人、肌の露出度の高い衣装、性的行為の要請などを含めれば、予算的にも決して安くない額であることが容易に考えられる。(ダンスの内容は稚拙なものだったらしいが)
それを一人の人間で取り仕切らせる事自体が問題である。

●参加者には事前に知らされていなかった

これも参加者の責任を問わせないために無関与を言いたかったのだろうが、「知らしていない」のも大問題である。
先に書いたように、全部で50人の参加者で参加料は一人あたり5千円。それに対して5人の出演料。「余興」の費用は一人あたりにして決して安いものとではないだろう。(これらの収支を明確にしていないのも報告書として低レベルである)。
「チップを予め用意」ということであれば、その費用も入っているはずである。
いくらかは不明瞭だが紙幣、つまり千円単位となろうから一人あたりの”負担額”は安くは無い。

お金をそれなりにかけている余興の事前予告の内容が「不明」というのも酷い話である。
参加者はもっと怒って良い。

●参加者の会費と県連の一般予算であり政党交付金からの支出はない

県連には党からお金が要っていないというのであろうか。否。かなりの額が行っているのは周知の事実である。
「お金には色がついていない」のだから、県連からの支出があったのであれば、自民党からも支出があったに等しい。
単に「直接お金が行っていない」だけで間接的には行っているのだから言い訳にはならない。

全額、参加者の会費となるが本来であるのだが、県連からも「いくばくか出す」というのも分からないでも無い。
しかしそういうことが分かっていながら非難されるような”事柄”を行う事自体が問題である、という観点が無いのが酷い。

とはいえ、クダラナイ、品性下劣な話である。追求するのもバカらしい。

「青年局」などと言ってみても中身はこんな下劣な「おっさん」あることがよく分かった、そんな話なのであろう。

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2024/03/10

つるかめ算に対するいまだにあるモヤモヤ感

ある記事でつるかめ算は大事で小学生段階では解放として方程式を教えべきでは無い論があった。
読んだが、結局意味私には全く腑に落ちないどころか、論旨が理解できなかった。

私は小学生の頃、算数は好きでも嫌いでもなかった、テストでは普通にほぼ満点が取れていたので得意という分野だったのかもしれないが、だからといって特段好きでもなかった。まあ、興味が無かったというのが一番近いか。
読書が好きで、国語や社会科が好きだったので一般には文系だったのかもしれない。理科もまあ好きだったが。

ただ物覚えが悪いので九九暗記のコンプリートはクラスでもビリの方だったのを苦い思い出としてよく覚えている。
最後は居残りになったような覚えもある。

そしてもう一つ理解できずに嫌悪感を持ったのが話題にしているつるかめ算である。
最初何を言っているのか全く理解できない。なにかクイズかなぞなぞの類なら理解できるのだが、学校でやるようなことなのか。
およそ応用が利くような考え方にも思えない。
もちろん小学生当時はこんなに言語化して考えたわけでも無いが、当時のモヤモヤ感を文字で書けばこのような感じだったと思う。
ともかく嫌悪感、不快感を強く持ったのは確かである。

まあ、算数授業全体の中では些細なもので、最後の5段階評価への影響は無い程度の軽微なものだったから、どうでもいいと思った。
実際、これができなくても後に差し支えは一切無かった。
算数というものは積み重ねであってどこかで躓くと、底へ戻って足場を固めないとどんどん分からなくなるもの、というのは当時から感じてはいたが、これは例外なんだ、本で言う「コラム」「ちょっと休憩」的なものだったのかな、と思って通り過ぎ去った。
本で調べると(当時はネットはなかったからね)和算のひとつということもわかり「ああ、日本の数学歴史の一部を紹介したのだな」とも思った。

そして中学になると数学と名が変わり、方程式というものを学んだ。
「なんだ、これで解けるんだ」「代数。なんて万能な考え方があるんだ、すげー」と驚き賞賛した。
そして数学の面白さに魅せられ、数学が好きになった。

数の概念、量の概念、というものを勉強し涵養するのは非常に重要な事だと思う。
1万と10のどちらが大きいか、何倍かを直感的に感覚的に把握することはもちろん重要な事だ。
円やグラム、平方メートル等をつければ正に生活に直結する話だからこれを否定する人はいないだろう。
「算数」というのは主にこういった感覚を身につけることだといっても不思議では無いだろう。

最近「キャッシュレス支払」になるとお金の感覚がとかいう人もいるが、おそらくこういう感覚で算数をきちんとやってこなかったのが主因だと思われる。
今まで意識しなかったのは現金でやっていれば札や硬貨というモノで量的把握ができるからごまかせてきただけなのだ。
算数で量的感覚を身につけていればレシートや支払一覧、銀行残高等の数字をみて把握できるのだから。

つるかめ算は、ある意味、算数で問題解決できる限界を示している、と私は認識している。
新たな技術、テクニック、手法等々を手に入れれば、今までの苦労がなんだったんだ、と思えるほどになる例はいくらでもある。
代数を始めとした方程式、高校や大学では代数学として学んでいくが、これは実に強力な方式である。

だからこそ、小学生の段階では、その前につるかめ算という枷を敢えて嵌めて気持ちを諫めるという考えなのかもしれない。

その強い力を手にしたからこそ、それを駆使して、従来の様々な、算数ではどうしようもない、世の中の数多ある困難、課題を解決していくことが使命となっていく。その入り口に立っていることをもっと明示して教えるべきでは無かろうか。

そのひとつが「式を立てる」という基本的行為である。
立てた後の解くという行為はさしたる問題では無い。(もちろん簡単には解けない方程式はいくらでもあるが)

それこそコンピューターを使ってごり押しで解く方法もあるし、AIでさらっと解ける簡単なものもある。
まったく解き方を知らないというのも問題なので一通りは習得することはもちろん必要なことではある。
式を変形することで新たな発見があると言うことは数学や物理学の研究においてはごく普通のことだからだ。

特に近代においては、数式によってある物理現象が”予言”され、現実世界で確認される。
宇宙や量子力学においては特にそうだ。人間の感覚では「ありえない」と思ってしまうが、数式がそう言っている。その時点では真実は不明。しかしその後、実験・実証・観測される。
有名な例としては、SFではウラシマ効果と呼ばれる「光速に近い速度で航行する中では時間が遅くなる」現象や、光が重力で曲がるということ、生活に密着している話では太陽電池(光電効果)や原子力(質量とエネルギーの等価)等が挙げられる。

話が逸れたが、現実世界の投影として、式を記述する、という行為が一番重要な課題である。
特に高校物理あたりから、言葉では無く物理現象を式で表現するというのが当たり前になってくる。
問題(課題)を式として書くのが”回答”と言っても良いぐらいである。

つるかめ算で言えば
頭の数=鶴+亀
足の数=鶴×2+亀×4
という式を自ら考えてその場で立てる(書ける)というのが重要である。これ自体は初歩の初歩だが基本である。
知っているべき知識(情報)は、鶴も亀も頭は一つ、足は鶴が2本、亀が4本、これだけで良い。
普通の人ならこれは知識というほどのもので無くて、鶴と亀の姿が思い浮かべれば済む話。

その知識をもとにこのような式を思い浮かべることが肝要なのである。
そういう姿勢で日頃からいれば、鶴や亀では無く昆虫やらタコやイカになっても応用が利き、難なく式を立てられる。

またこの式は「鶴も亀も頭は一つ、足は鶴が2本、亀が4本」という知識(情報)を記述しているとも言え、読み取ることが可能だ。
こういった見方ができることも重要な素養であろう。

ありがちなのが、こういうのを「公式」と称して「暗記」させること。これは大間違いである。
塾とかで「覚えて少しでも速く答えを出して良い成績をとる・・・」とかいう甘言を吐くが、長期的に見て害悪と断言する。
「つるかめ算」しか知らないと「つるかめ」以外の課題に対応できない、答えが出せないなどと言ってしまうのだ。

また「数学は公式が多くて嫌い」と言う人がたまにいるが、そういう人は上述したような学習法、教えられ方をされてきた可哀相な被害者なのである。
本当の意味での公式(定理といっても良い)なんかほんの僅かで、それについてはもちろん、その意味と共に理解しつつ、寸分違いなく覚える必要はある。
しかし多くの参考書に載っているような公式と呼ばれるものはそれの変形でしかない場合が殆ど。何度も変形しているうちに覚えてしまうのは構わないが、いきなり変形したものまで覚えようというのは無駄である。
基本形だけしっかり覚えておけばあとは覚えていればラッキーと思えば良い。全部完璧に覚えなきゃというプレッシャーも無駄。
まあ、稀に頭が良くて記憶力無尽蔵みたいな人もいるので、そういう人であれば覚えることを止めはしないが。

 

 

 

 

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2024/03/03

電気自動車はなぜ失速しているのか

電気自動車のトップ企業(?)が腐っている

トップが米国テスラと中国BYDというのがどうしようもない。
少なくともこの2企業は単純に新興企業で自動車づくりが分かっていない。

なんでこの2企業がトップ企業になってしまっているかといえば、EVがどうしても高額になるから。
まっとうに作れば論外に高額になり、”間違った”やり方でごまかす以外の方法しか無い。
なぜ高額になるかと言えば、バッテリーが高いから。バカみたいにバッテリーを積んでいる。
車種(航続距離)にもよるが、本体価格の半分以上がバッテリーの価格とみられる。
クルマでは無くてバッテリーを買っているようなものだ。

そこでテスラは奇をてらって様々に目先を変えて高額で売っている。
高級志向で、かつ環境問題に意識高い系のセレブを狙った戦略で成功した。
モーター車ならではの力強さ、スポーティさを前面に出した。

BYDは中国を始め、補助金政策をうまくつかい、品質や安全性、サポート体制などは度外視してでもEVとしては破格の低価格を狙った。

その結果、両社により「自動車としてはどうしようもない低レベルの自動車」が生まれた、という顛末だ。

一方で従来の自動車メーカーがどうして”電気自動車”では”負けて”いるのか。
多くのメーカーは従来車と同様の品質を狙って(当然そうなる)でEV車を造った。だからBYDには到底勝てない。
同系列車と比較できるエンジン車も一緒に出荷しまう事例もあった。
当然の結果として、エンジンモデルと比較して酷く見劣りのするEVが生まれてしまったという顛末だ。

具体例としては、あるランクル車の話。同様のクルマでエンジンとEVモデルを発売した。
結果、エンジン車では2t程度なのだが、EVでは4t弱にもなってしまった。
当然のようにEVは数百万も高い。これではEVモデルが売れるわけが無い。

「ユーザーの選択を与えた」結果としてEVが売れないという現実が起きてしまったのだ。

いうまでもなくテスラは「唯一の選択肢」しか提供しない。
BYDもEVしか作っておらず、特に中国本土の首都圏では実質EVしか買えない状況を政治的に作り出しており、他に選択肢がない。

日本勢はエンジン車に拘っているから、という理由はある意味で当たっている。
現在の自分の持っているガソリン車(ハイブリッド車)と共にラインナップに並べられるようなクオリティのEVを作るのは非常に難しいから、というのが実態では無いかと思う。
テスラやBYDは自ら従来エンジン車のラインナップを持っていないからこそ、その辺を頓着せずに製品展開ができたともいえる。

テスラやBYDは特に日本進出では大爆死しているそうだ。
日本人は日本車のお気楽さにどっぷりと浸かってしまっている。なにせ運転は楽だし、よく動くし、壊れないし、長持ちする。メンテなどはディーラーに丸投げすれば良い。

そもそもテスラに限らずアメ車は昔から日本人にはすこぶる受けが悪く、デカいし、使いづらいしと評判が悪い。しかもテスラは米国でも故障や不具合が頻発しているのだから話にならない。
中国BYDでは「よく言っても質は中程度のくせにバカ高い」「命を預ける自動車で中国製とかないわ」など、全く食指が動かないのは当然のことであろう。
日本人は保守的とかいう見当違いな批評をする奴らもいるが、単純に賢くて、安くて良い日本車をどっぷり享受している(できている)のだから、そこからあえて苦難の道に進もうというバカは少ないというだけの話である。

日本メーカーは遅れているのか

EVをやらなければ世界に遅れるだの、家電やスマフォ戦争敗戦の二の舞だの、意味不明なことを言う輩も多い。
エンジン車終了、ハイブリッドなんかじゃダメという知ったかぶりをする輩も多い。
多分ハイブリッドが何かすらも知らないのだろう。
そもそもハイブリッドというのは雑種という意味で、動力機構としてエンジンと電気(モーター)の二つの性質を複合しているという意味に過ぎない。

EVは電気のみで動く自動車である。
PHEVはハイブリッドと言われるが、基本的構造はEVだ。勘違いしている人が多すぎる。
EVとどこが違うかと言えば、エンジンを積んでそれで発電することもできる、というだけのものだ。

中国でEVに発電機(要するにエンジンだ)を積むような改造をしている人もいるらしいが、まさにPHEVである(笑)。

PHEVというものはEVと同じ使い方ができる。ただし積んでいるバッテリーが少なめなので、ガソリンも入れておけばバッテリー残量が減ったらエンジンが自動的に動いて発電して補充することもできる。

PHEVとEVの何が違うというの?

ここまで言えば分かるだろう。PHEVが作れるレベルにあれば、EV時代への対応はなんら心配は無い。
仮に本格EVの時代とやらに突入したとしたならば、どっさりバッテリーを積んで、発電用エンジンを外してしまえば良いだけ。
技術的な難易度など取るに足らない。

それでも心配があるとすればバッテリーマネージメント(温度管理とか)のノウハウ(研究や実験)とかは蓄積しておく必要ぐらいだろう。
まあ、所持者の動画レビューなどをみると、テスラやBYDのEVにそれらをまっとうにやっているとは到底思えないのだが。だから今、実車で今、蓄積しているのだ、というのなら理解できる。まあ、私は実験台にはなるのはまっぴらご免だが。

従って、純粋なPHEV(EVモードで走れるという奴)を出している会社は全く心配してはいない。
ただ、エンジン車の補助でモーターというようなハイブリッドだけという会社には不安がある。
少しでも速くPHEVという形のラインナップは置いて、技術ノウハウをためておく必要があるだろう。

現在をみると(当然ながら)PHEVで良いのではという世界の流れが起きている。

そもそも技術的に考えてPHEVでずっと行って何が問題なのだろうか、とも思っている。。
エンジンといっても様々な種類があり、今の代表はガソリンであるだけだ。広く視野を持てばガスタービンや重油で動く「エンジン」なんか普通にあるし、古くは木炭・石炭だってある。

持続可能エネルギーとしては穀物燃料(e-Fuel なんて名前もあるらしいが)が一番有望株なのかもしれない。
昔、ブラジルでアルコール車ということが強く言われたが、結局、穀物の高騰や乱高下が石油の比では無いためお話にならなくなって今は埋没しているという過去もある。
これこそ、日本人は(食品では)大嫌いな「遺伝子組み換え」でガチガチに病虫害や悪天候に強く、低肥料で高収穫、さらに窒素や二酸化炭素の固定化も狙えるような、安定供給できる燃料用穀物を開発したら良いのでは無いかと思うのだが。
最近ジェット燃料でも注目されるユーグレナ起源の液体燃料もある。もちろん水素も期待されているし、燃料電池という話もある。
エンジン駆動車だと、クルマとしてのトルクがとかオクタン価がとか言って選択肢は狭いが、発電するだけなら選択肢がぐんと広がる。
別にどれを発電機として載せたって、自動車としての動的性能は(重量による影響以外は)同じなのだから。

純粋EVが世界を制して大丈夫か

全固体電池を言い出す人もいる。充電時間はこれで解決すると。
いやいや道路を走りながら充電できれば、なんて夢物語を言う人もいる。そんなものコスト的に絶対無理なのに。

電気自動車の根本的な問題は、電気で動くというそのもの、または充電という行為そのものにある。
電線で充電できるエネルギー密度を考えると、ガソリンに比べて圧倒的に低いのだ。
そのくせ、問題が大きい。これはいかなるEVであっても、性能が上がっても解決しない問題である。
(唯一モーターが革新的に省エネになれば別だが、それは物理的にほぼ無理と言って良い)

環境問題とかいう、比較的どうでもいい問題ではない。
電気という社会インフラ(整備)全体に及ぼす深刻な問題である。

まず低速充電、家庭充電においては一般的には3kW程度の充電設備になる。
3kWというと100Vで30Aであり、これは多くの一般家庭(40Aが多いかもしれない)の契約アンペア数と同じである。
つまり充電を始めると1家庭でブレーカーが落ちるレベルで全力で使う電力と同じだけ消費するということである。
もう少し具体的に言えば、エアコンが全力で稼働して15A、電気ケトルで湯を沸かして11A、掃除機を動かすと8Aとかでブレーカーが落ちる、という感じだ。ちなみに液晶テレビは40型でも大概1A以下程度で取るに足らない。

つまり、一つ家庭に充電設備を置くと言うことは、必要な電力需要で一家庭分(実際にはそれ以上)増えるということになる。
これは電力会社が持つべき負担が倍加すると言う意味である。社会インフラとして簡単な話では無いのだ。
(夜間が殆どじゃないかという反論は意味不明で、昼までも充電するかもしれないのだから)

そして急速充電設備。これもなかなか大変だ。大容量(高速充電)タイプでは一基で100kwを越えるものもある。(もっと大きいものもある)
100kwを家庭で言えば33戸分にも相当する。これが5基もあれば150戸の村がひとつ出現した以上のものだ。
そこまでは高圧線を引いて専用の変電設備が必要ではというレベルである。

もう少しいえば、夏や冬に電力逼迫を理由に「節電」をいう時があるが、これは実は電気会社が持っている発電設備以上に、潜在的な最大需要で計算されうるほどの家庭が、現状ある、ということの証左である。
簡単に言えば、各家庭がブレーカーが切れる寸前まで電力を使い出したら、間違いなく発電機側が悲鳴を上げて落ちるということである。
これが胆振の名が全国に広がったことで有名な、北海道で起きた広域停電である。

EVにシフトしていくというのは、この状態を悪化させることである、ということは回避しようが無い。
これはもちろん原発再稼働がどうかなどという些細なレベルでは無い。

言ってみれば、一般人の生活に必須である「電気・ガス・水道」の一つである、電気というインフラと共有してしまっているという点が本質的に厳しい問題である。
リスクヘッジという話は、手段の多様化、いわゆるマルチパスと密接な話である。
EVの普及(依存という表現もできる)してしまうと、電気というインフラに多大な影響を与えることになる。
それによって一般生活における電気の使用にも影響を与えてしまう、ということである。

これは相互的なことであり、一般生活による影響で電気が供給されなくなれば、EVの運用にも影響をきたす。
EVを持てば緊急時にはそこから電気を取れるのでハッピーみたいな喧伝もある。確かに技術的に可能だが、それは運も左右する。
長距離旅行から帰ってきてバッテリー残量ゼロで充電しようとしたら、停電。こんなケースだって当然あり得る。
どちらかが補完もできる可能性もあるが、共倒れになる場合も当然あり得る。

ガソリン車なら、ガソリン入れてから帰宅していただろうから、車中で一夜やり過ごせたのにという可能性もある。
一方でEVだったから電池共有して普通の生活で一夜過ごせた、となるかもしれない。
この辺はどっちが良いかというのはその人の考え次第だろう。

最後に興味深い話があったので書いておく。
これは本当かわからないが、100kw超クラスの充電器が並んでいるところで、自分だけの充電の時は良かったのだが、隣に別のクルマが来て充電を始めたら自分のところの充電速度が落ちた、なんて話もあるようだ。
これは技術的には充分ありえる話で、100kwで充電できる、というのはあくまでその充電器の最大性能(カタログスペック)でしか無い。
そこまで引き込んでいる電線の容量(引き出せる電力という言い方もできる)が足りなければ電圧が落ちるため、供給する電流量を落とす、つまり給電量に制限をかけるという動作をしてもおかしくは無い。
これはネットワーク回線における”ベストエフォート”の考えに近い。

PHEVならこんな事例も

一方で自治体の災害対策の中で、緊急用電源としてPHEVを配備するという動きが広がっているそうだ。
つまりPHEVを発電機+充電設備として活用するということだ。避難場所にはクルマから電気を取り出せるようなプラグを用意する。これは普段はEVの充電設備としても使えるようなものを設置しておけば良い。一般家庭ですら設置できるものだから簡単な話だ。
発電機や充電設備はなかなか移動設置が大変だが、PHEVなら必要な場所への移動も超楽々である(笑)。

このためだけにPHEVを買う必要なんかない。普段は役所等の業務用車として使えば良い。
一般の会社の社用車でも補助金を出して、買わせるのもありだろう。もちろん緊急時には徴用するという約束で。

 

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2024/03/02

【続】「博多女子中が入試願書出し忘れ生徒三人が受験できず」にみる締め切り日への認識

追加記事があったので読んでみた。
当該学校に電話取材をした話である。

統括教頭(ってこの学校は教頭が複数名いるのか?)の弁明では
「気の緩みがあったと認めざるを得ません」という。

「やっぱり」と私は思った。
「やっぱり気の緩みか」ではない。

「やっぱり属人的でいい加減な管理下でやっていたのだな。学校としての日程管理もやっていないのだな」という意味である。
そういう杜撰なことを学校として行っているから、気の緩みなどと言う曖昧なもので取り返しのつかないミスを起こしてしまうのだ。

願書対象の高校が、県立高校であると思いこんだという(特殊な高校だそうだ)。
これも個人の知識という属人的なものに頼っているからだ。記録では無く記憶で仕事をしている証左である。
名称に「県立○○高校」と明記してあればともかく、勝手に県立と思い込むこと自体が仕事のやり方として間違っている。
いや、それすらも県外の高校であれば違うのかもしれないのだから「福岡県立○○高校」と明記されていなければ、とすべきだろう。
そして「福岡県立は全て○月○日である」とどこかに明記してない限りは「他の日にちかもしれない」と思慮すべきである。

本来であれば出願書に締め切り日が書いてあるのが望ましい。高校側にはこのような配慮が欲しいところだ。
書いてなければ中学側において記入しておけば良い。(書いてはいけないとしても同等の他の適当な手段が思いつくだろう)
それに加えて、前述したように中学としての提出予定日も記入しておくべきだろう。

やれ、電子化すべきだの、高校側のやり方が硬直的だの、訳の分からない理由を並べたてるのが見苦しい。
単純に管理能力が足りない。きちんと機械的に、確実な情報に基づいて愚直にやれば全く問題が無い事務処理ができていない。

「うっかりして間違えた」のではない。管理をまっとうにやっていないから間違えたのだ、という認識を持つべきである。

だから、今後の対応策は「間違えないように徹底する」「十分注意した作業を行う」「ダブルチェックをする」ではない
ミスが起きえず、かつ合理的で少しでも早く確実な作業ができる作業手順、ルール作り、総合的な管理体制を構築するすること、である。
その上でルールの意味の理解を徹底して、なおかつ確実に実行させることに他ならない。

こういう風に書くと「杓子定規」「ここまでやることはない」「かえって手間ばかりかかって不合理」等の批判が起こる。

それは正に「こういう風に細かくクドクド書いているから」であって、実際にやってみると存外適当にやっているのと大差は無く、むしろ楽なケースが多々起きえるのだ。しかも属人的な運営ではないので不測や想定外の事態にも強い。
属人的に適当に「個々の判断」でやっていると作業をする毎に結構頭を使って疲れてしまう。無駄な行動もしてしまう。
予め充分に練られたマニュアルに従ってやっていると実はとても楽なのである。(その分マニュアル作りは大変だけど)

さらによくある反論として「マニュアルに頼ると考えなくなるので良くない」「マニュアル人間になって良くない」という。
これもありがちな勘違いである。
楽をするのもありだが、できるならその作業をしながらもっと良い方法、楽な方法を考えることが望ましいのである。
そしてそれを持ってマニュアルを改訂するのが望ましいのである。

良くできたシステムの中では「マニュアルを定期的に更新すること」とされている。
これは正にこのことを明確な文章で推奨しているのだ。
定期的に更新するためには上記のように作業をしながら改善策を考える必要がある。
「定期的の期日が来たから更新しなさい」と言われて頭を抱えて無理矢理ひねり出しても全く無意味なのだ。

特に日本はこういう文化が会社等にもないし、学校でも教えない。
そりゃそうだ。学校でもこのようにやっていないのだから、教えられるわけが無いよな。
それならせめて指導する文部科学省などで学習指導要領の中で、と思うが、官僚どももわかっていないのだろうな。

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「博多女子中が入試願書出し忘れ生徒三人が受験できず」にみる締め切り日への認識

この事件の話よりも、驚いたのはこの記事に対するヤフーニュースのコメントである。

受験申請を受け取る高校側への配慮を求める、または批判の類や教育委員会まで話を拡げる声がかなりあり、それに賛同マークも多い。
どうみても問題はこの中学校にあるとしか思えないのだが、それに対する擁護も驚くほど多い。

顛末の詳細は分からないのだが、記事によれば
・私立博多女子中学校で、(学校がとりまとめていたとおぼしき)ある高校への三人分の入試願書を出し忘れ、受験不能となった
・願書締め切りは2月16日正午で、学校は20日と勘違いし、16日午後2時半ごろに願書を提出、不受理。
もちろん大分熱心に掛け合ったようだが不受理は変わらなかった(私からしてみれば当たり前)。

こんなもの、中学校が悪いに決まっている。「教師は過剰労働」とかどんな理由があろうとダメだ。
実行難易度なんかゼロに近いだろう。単純に日程管理ができていない、という一言で終わる。

こういうのを擁護する連中が多いのは、いかに「締め切り」に対して甘い考えを持っている連中が多いのか、ということに尽きる。

まず、締め切りを「20日と勘違い」がお話にならない。
およそ勘違いなどと言うものが存在しえるような管理をしているのが問題である。
「記憶で仕事をするな、記録で仕事をしろ」というのはよく言われることだが、「願書締め切り」の日付をどのように記録、管理していたのかが重大なポイントとなる。
しかし、これすら本来なら大した問題では無い。

日程上重要なのは願書締め切り日では無く、願書受付開始日である。その上で締め切り日である。
この記事すら、そもそもいつからこの願書受付を始めていたのかすら書かれていないことが、如何にこの事件を調査した人、記事を書いた人も含めての意識がおかしいとしか言いようが無い。
中学校としては、生徒からの願書の締め切りは、どんなに遅くともこの開始日迄(実際は事前チェックや纏め作業の余裕を考えても数日早めになるだろう)に設定するのが当然である。

そして、中学校が纏めて高校へ願書を出すのは、受付開始日とするのが基本である。
当たり前だが、そうすれば間に合わなかったなんてことはまず起きえない。
数日程度”勘違い”しても大事故にはならない。そのための締め切り日までの猶予なのだから。

そもそもこのようなことは”年中行事”なのだから各高校のおおよその日程は分かっているのではないのか。
もちろん厳密なカレンダーは毎年異なるだろうが、実際問題として”シーズン”前から提出スケジューリングは始まる前から分かっているだろう。(高校側も配慮してスケジュールは大分前から発表しているのでは無いのか)

仮に多忙や人繰りでスケジューリング不可能なら、受験願書の提出代行を担うべきでは無い。
(私立で、しかもこの中学の場合、これらも含めて受験サポートをするということを売りにしている様子もある。それならば「人繰りができない」などというのは無しだろう。いくら金がかかっても人手を調達すべきである。万全を期す必要があるのだから行政書士などのこれらの業務遂行に慣れた責任を持てるプロを雇うぐらいの覚悟はすべきであろう。)

実際には学校が申請書を配布し始めた時点で、受付開始日になっているのかもしれない。
それならば例えば半月前を中学校としての締め切り日に設定するという考えもある。
例えば提出日に開始日と受付日の、例えば中間あたりに中学校としての締め切り日を設定するという考え方もあろう。
その中学側の締め切り日を設定して受験票を集め、速やかに確認し、提出するべきである。
仮に日程的にキツいのであれば、受験票なんか毎年ほぼ同じなんだから、希望する生徒には事前に去年のものを参考として配っておけばすぐに出せるだろう。

その上で中学校としての締め切り日に間に合わなかった場合には、各自で受験願書を提出するように、というルールにしても良いだろう。
この辺は中学校としての配慮可能な範囲で決めれば良い。二度手間になっても学校で取り纏めるべきと考えるのならそれもありだろう。

最悪なのは、締め切りを厳格に運用しないことにより、生徒のうち誰かが提出が遅れたせいで取り纏めが遅れ、願書提出が間に合わないという事態である。これは、遅れた生徒、巻き添えを食った生徒、学校側と、三者とも不幸である。

それが「日程管理」というものである。
まあ、およそ日程管理、スケジューリングなんて呼べるものが存在していなかったのかもしれないが。

きちんとこのような日程管理をしていれば仮に生徒が出すのが遅れても間に合うかもしれないし、そのせいで間に合わなかったのは”生徒にも一端の責任がある”になるからである。(一番ショックなのは、例えば生徒側は1月には願書を中学校に出しており、そこから半月も経っているのにこんな顛末になってしまったことである。)

問題なのは「締め切り日に出しさえすれば良いだろう」という感覚を持つこと(持っていたと思われること)である。

私は業務上締め切りを設定して依頼するものが多いが、呆れるほど日程を守る人が少ない。
はっきり言って、忙しいとか暇な奴とか、そんなのは関係ない。
いくら忙しくても締め切りを守る人はきちんと守る。忙しいのに前日中にはキチンと出してくれる人もいる。
一方でどうみても暇にしか見えないのに締め切り日を守らないという”常習犯”もいる。

結局、締め切り日を守れない奴、ギリギリで出す奴らは、「自分の中での締め切り日」を設定できない奴なのである。
そして守れなくても平然として「まあいいだろう」後段が遅延をきたしても「なんとかしてくれや」とか当り前の様に言う。

ヤフーのコメントを見てもそういう空気で書いている輩が蔓延していることに愕然と、また辟易とする。

 

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