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2018/05/02

高度プロフェッショナル制度への多数の疑問点

髙プロ

髙プロに関する国会論議が始まったようだ。
マスコミは酷いし、ネットでの論議を見てもなんとも意味不明だ。
みんな会社員として仕事をしたことがないのだろうか(まあ、マスコミに出ている芸人や評論家の方々はもとより違うから仕方ないか)。

「賛成」の方はどうやらみんな経営者や労働者は両方とも聖人君子か、もしくはただの「強者の論理」でしかない。
一方で「反対」の方は「残業代ゼロ法案」とばかり連呼して、それが賛成派の不評のもととなっている。

「ダイアモンドオンライン」のWeb記事は「条件付き賛成」で読む価値があったが、その条件については、私には「絵空事」としか思えなかった。
やっぱり「強者の論理」であり、そこまで言わずとも日本の社会は条件を満たすほど成熟していない。

未成熟である以上は保護しなければならない、というのが私の基本的立場である。
問題なのはそういう「強い人達」だけに適用されるのなら良いのかもしれないが、そんなに現実はお花畑ではないということだ。

強者の論理、弱肉強食を是とする論理を振り回すのは安倍政権の基本的姿勢であるとも言える。
それが法律というもので定義される制度上の欠陥、または配慮の無さに繋がっていると言える。
制度に欠陥が無いというのであれば、それは経済界への配慮の結果であるとみなされても仕方ないだろう。

「時間管理」をしたいのかしないのか

髙プロは勤務時間の制約をしないという基本姿勢であるはずなのですが、一方で会社に時間管理を求めています。これがシステムの最も奇妙な点なのです。

勤務時間管理はよほどセキュリティガチガチのビルで、ビル内の在不在だけでみなすとでもしなければ自動的にはできません。つまり労働者の協力が必須となります。

労働者には勤務時間は自由であるとする一方、会社側には労働時間の管理を求めている、という点がおかしいのです。
労働者側は会社側に知らせる義務は本来ないのですし、やりたくもないと思うのが普通の感覚ですが、会社としては「法律上、労働時間を把握する義務があるから協力しろ」という言い訳が成立してしまいます。

これはそもそもの制度設計がおかしいのです。
勤務時間が自由なのだから一切時間管理はしない、時間的拘束はしないということを原則論として全面に出さないとおかしいのです。
これを基本として様々な制度設計や制約をかけていかないと(もちろん法文として明文化しないと)ダメなのです。

もちろん、実際の実務として定期・不定期の会議やら打ち合わせやらもありますから、例えば「時間の拘束は週○時間以内」とかの制限をすべきです。
時間だけではこれらを悪用して早朝と深夜にごく僅かな時間で拘束をかける危険性もありますから、いわゆる「インターバル規制」に準じた縛りを入れる必要もあります。

また、成果を問うことについても厳しく制限をすべきです。
例えば「毎日成果を問う」とすればそれはすなわち”日々のノルマ”であり、そもそも論として髙プロの主旨になじみません。

成果報告が半年に一回が妥当なのか、月一が妥当なのかわかりませんが、少なくとも毎日はあり得ません。

これらを会社に対して厳密に制限すれば、時間管理などせずとも健康管理問題などは生じません。
会社に時間拘束されず、少なくとも報告が月一なら体を壊してまで無茶な労働はしません。
(いうまでもありませんが”連絡”は構わないというような抜け道も塞ぐ必要があります)

これらに対する制度設計上の配慮が一切感じられないのがこの制度の基本的な欠陥であると考えます。

なお、健康上のセーフガードとしている「80時間以上の残業をしたら健康診断」など失笑するしかありません。
テレビの論議であの4項目のテロップを見た時、「全てを厳守ならギリギリ許容ラインかな」と私は思ったのですが、どれか一つとは呆れるしかありません。

過去、私自身、激務の中で体調を崩し「最低月一の健康診断」を受けていたことがありますが、根本的な要因への改善(業務内容の改善など)が一切されないのですから全く意味がありません。
正直な感想をいわせてもらえばその産業医は無能であった、または、この健康診断等でなんとかなるという考え(制度)は全く無意味だったと言い切ります。

「成果を評価できる」という欺瞞

成果の評価なんて凄く難しいことです。
様々な成果の評価制度なるものが存在しますが、その評価制度が”評価を上げた”という話を聞きません。

そもそもその前提としての目標も極めて曖昧であり、ジョブデスクリプションって何?という人が殆どなのですから。
実際になにをやったか、ではなくて、評価報告をどれだけ良い作文ができたか、が重要視されます。
いや、それ以前にいかに目標を「それっぽく、しかし曖昧に」設定できるかが重要といえます。

本気に成果というものを考えていないという実例があります。
失笑レベルの話なのですが、私の勤務先ではほぼ季節毎、または不定期に“業務応援”という奇妙な風習が存在します。
もちろん緊急事態だったり当該部門の人員ではとてもやりきれない業務が“発生”したからという理由なのですが。

同じグループの業務をお互いに手伝うというのはある程度お互い様であり、私はそこまで目くじらを立てるつもりはないのですが、この業務応援というのは他部門の業務を行うことです。
もちろん相応の上層部の判断を仰いだ上での他部門への“応援”なのですが、それは一切自分の成果になるものではありません。
現在行われている評価なんて極めていい加減なものなのでどうでも良いと考えている人も多いですが、厳密に評価されるとなれば「ふざけんな」でしょう。

「成果にのみ報酬を払いたい」という欺瞞

一見正当に見える「成果にのみ報酬を払いたい」という主張。
そもそもこの考えがとんでもないのです。

例えば職場環境整備には金がかかります。
効率よく業務をするためにはそのための労働環境や設備などが必要です。
この労働環境には様々な事務手続き等の“雑務“に関する手続きなども含みます。

これらをいい加減にすると時間比例報酬であれば業務効率が下がるために結果として会社は損をしてしまうためバランスを取る必要があります。
しかし「成果にのみ報酬を払えば良い」となれば、これらへの投資が不要となります。

これは従来の会社生活の中でもトップの“業績重視”という重み付け意識によって、微妙ながら確実に連動している、というのが少なくとも私の実感です。
例えば設備に対する決済が殆どおりなくなる、という現象です。
この設備があれば何倍も効率よくなるのですが、設備導入を禁じられたために効率が悪くなっても会社としては痛くもかゆくもないのです。その効率の悪さを”残業してでもやれ”というだけなのですから。

このような稚拙なことが起きないようになんらかの歯止めが必要でしょう。

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