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2017/01/31

欠席連絡…今時FAXのアホな理由

まだこんなレトロなことをやっているのか。
唖然としてしまう。

いまだにFAXが残っているのは日本ぐらいだろうと言われている。
会社でも残しているところもあり、世界の失笑を買っている(というのは言い過ぎだが)。
学校からなんかとっくになくなっているかと思ったら、学校が自ら使えといっているレベルとは呆れてしまう。

リンク: (2/2) 欠席連絡は「FAXで」 小学校で「メール不可」の深い理由 : J-CASTニュース.

東京都教委の義務教育指導課では1月30日、J-CASTニュースの取材に対し、学校によって違い、調査したことはないとしたうえで、次のように話す。

    「FAXは、都内では聞いたことがありませんが、電話で連絡したり、連絡帳を預けたりすることが多いと思います。連絡帳にしている学校でも、近所に友達がいないなどの理由があれば、電話やFAXでもいいとしているはずです。ただ、メールについては、連絡に使うのは極めて難しいでしょう。教員が保護者と私的な用件に使うなどの恐れがあり、外部の人とやり取りができないよう厳重に管理されているからです」

意味不明である。
まず調査したことはないというのが意味が分からない。
では、教育委員会は、子供の欠席連絡をどうすれば良いと考えているのだろうか。
「…でもいいとしているはずです」という極めていい加減な回答。

メールがなぜ難しいのか。記事も「深い理由」とか、どこが深いのか。

私的用件に使う危惧があるというのなら、学校でアカウントを取れば良い。
アカウントとパスワードを共用する。
一般教師が信用できないというのならば、校長、教頭、学年主任、養護教員ぐらいで共有したメールアドレスに連絡するようにすれば良い。相互チェックである。
念を入れるのならば、メール発信履歴を取れるようなメールサービスを頼めば良い。
県の教育委員会でメールサーバーレベルで契約して管理しても良いだろう。

文科省の児童生徒課でも、「FAXは、あまり聞いたことがありません。電話か連絡帳が多いと思います。メールは、連絡に使うのを認めている学校はないのではないか」と取材に答えた。

文科省もいい加減である。
先のサーバーなど、文科省レベルで管理しても良いはずだ。
プライバシーやメアドなどの個人情報、そんなものはいくらでもITで保護できる。
保護しながら内容を監視することなんか簡単な事である。

それにしてもこんな連中が「IT教育」とか笑わせる。
連絡帳を持たせて走り回らせておいて、「IT教育でメールの活用」とか言うのだろうか。
なんの冗談だろうか。
こういう「現実と教育の乖離」が「教育として根本的な問題」だと思っていないのか。

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2017/01/29

トランプ大統領発言「自動車貿易の不公平」は何が問題なのか

トランプ発言で右往左往しているのだが馬鹿馬鹿しい。
きちんと発言を精査して考察すべきではないのか。
トランプ氏の発言を、テレビ朝日「TVタックル」で使われたビデオの訳を引用する。

もし日本にアメリカ車を輸出したときに日本国内で売れないようにされ、一方で膨大な台数の日本車をアメリカに売りに来たらそれは不公平だ。
もしそうであれば不公平であるのは間違いない。

この発言自体は間違っていない。その仮定した事実があれば確かに不公平である。

ただし、その「もし」という仮定が正しいのかというのが次の問題である。
違うのであれば、そもそもの発言自体が無意味である(不適切である)。

なぜかマスコミはそこを追求しないし、検証しない。
マスコミが言うように関税だけ見れば無税である。
しかし関税だけをいうのは間違っており、過去には「非関税障壁」という言葉を持ちだしてバッシングされた歴史がある。
つまり非関税障壁として考えられる諸制度まで検証し考察すべきではないのか。

政府は「日本車と米国車では差違はない」といっている。
私はその点は否定しない。あるのなら米国が具体的に提示すべきであろう。

一つ懸念があるのは、以前から言われている「日本自動車市場のガラパゴス化」である。
ここ10年くらいでどんどん市場の歪みが進んでいると言われている。
現在では、市場全体をほぼ“軽自動車”と“ハイブリッドカー”で二分しており、その他は非常に小さくなっている。

一方、世界市場を見れば“軽自動車”なんてカテゴリーはないし、世界規模ではハイブリッドカーは主流ではない。
欧州ではエコディーゼルが主流であるし、米国は一気に電気自動車に移行しようとしている。
つまり、世界市場を相手に企画している企業にとっては日本市場自体が“特異”なのである。

このように日本市場を特異化させているのが、自動車にかかる税制の問題である、という事実が成立していないのか。
税制とは、日本の政府・政策・制度に責任があるということである。
これが“非関税障壁”である。

軽自動車の税金が安いのはいうまでもないし、ハイブリッドも長らくエコカー減税により恩恵を与え続けてきた。
彼らがこれらの“事実”を“非関税障壁”として突きつけてくる危惧はないのか。
「馬鹿馬鹿しい」と一蹴する多くのマスコミには危惧を持ってしまう。

先に軽自動車税を値上げしたが、まだ差があることには違いがない。
これは米国の圧力であるとも言われており、少なくとも米国はこの問題を承知している。
しかしなぜか日本ではきちんとした論議が起きない。

これは対外国の問題だけでは無い。
ハイブリッドは一見先進で良いように見えるが、その一方で複雑な機構を要求しており、充電システムがなくても燃費が良くコストパフォーマンスの良い車の発展を阻害していなかったのか。
これへの開発リソース注入が自動運転を遅らせていなかったのか。

基本的にチープになるしかない軽自動車や、走りに不満が起きるハイブリッド車(特にプリウス)の二択のような市場となり、「乗って楽しい車」「持って嬉しい車」の選択肢をどんどん減らしていったのではないか。
「若者のクルマ離れ」というのはこれが原因ではないのか。

経済面だけで言えば、間違いなくクルマなんか買わずにいた方が良い。
乗って(自分で運転して)楽しい、所有欲を満たしてくれる、から、クルマを買うのではないのか。

他にも、重いクルマに重税のかかる重量税も、比較的重い米国車には“不公平”に見えるだろう。
標的になるのは、軽自動車と普通車間の格差撤廃はもとより、様々な自動車税(日本は他の先進国に類を見ない重税国であるといわれる)の軽減を求めてくるかも知れない。

私はトランプ氏を歓迎するつもりはないのだが、こう考えてみるともしかしたら日本人の負担も軽減する話が持ち上がってくるかも知れない。

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2017/01/28

突然壊れる自転車はなぜ存在するのか

リンク: 「マジで死にかけたんですけど」 突然壊れる“自爆自転車”の恐怖 (4/5) - ITmedia ニュース.

自爆自転車というのは不適切な煽り題目に見える。
記事にある二つの事故は「買ってから二日」「買ってから二週間」である。
「買ってからすぐ壊れるのはおかしい」と言いたいのかも知れないが、私の感覚で言えばむしろ逆である。

これはいわゆる「初期不良」と見られるからだ。
初期不良はいわゆる検査では通過したが実際の現場でアウトとなった事象だからだ。
検査基準が“ザル”だったのか、検査員が気を抜いて通してしまったのか、それは神のみぞ知る、である。
こういうのは実際に数週間使ってみると発覚するもので、メーカーに叩き返す性質のものである。
これの延長が「一年間のメーカー保証期間」であり、一年間以内の不良はおおかたがメーカー側の責任である、という考え方から来る。

設計上の問題なのか、部材の問題なのか、生産上の問題なのかは分からないが、いずれにしろ販売したメーカーの責任であることは変わりない。

溶接や接合の不良、強度不足などで走行中に部品が破損したケースが66件で最多。組み立て段階でハンドルやチェーン、ペダルがしっかり固定されていない締め付け不足も目立った。

記事によるとこのように書いているが、これらの見立てが正しければ、生産(製造)上の問題である可能性が高い。次には部材上の不良の可能性がある。
つまり、以下に日本メーカーの設計販売であっても、それが“日本設計だから問題が少ない”という事には全く繋がらないと言うことだ。
おそらく生産地である中国では、設計通りに生産できないことなど普通である。

いや、少し感覚的には違うか。
設計の意図通りに、問題の起こらないように生産する、という発想が日本の工場では普通にあった。生産での品質を少しでも上げていこうという考えがある。

このメンタリティが、中国人には無いのである。というか日本以外にはそうはない。
彼らは生産方法の説明に書かれた範囲内、数値内で最も手抜きしたやり方でやる、と考えるべきだ。

かといって日本品質を保つべく細かく数字で縛ると“生産できない”レベルになる。
それは中国人だからできないのではなく、日本人でも出来ない。

例えば「歪みなくきちんとネジをしめる」というのをどう数値化すれば良いのか。
角度で指定するとしても、いちいち角度を測ってネジを締めることは現実にあり得ない。
日本人なら「抵抗なくすっとネジが入ればいい」と解釈して作業をする。
自分が検査員だったらと考えて作業をするのでこのレベルの問題はそもそも起きない。

ここの違いが、「メードインジャパンは素晴らしい」神話を作ってきたのである。

日本設計の中国生産というのが、むしろヤバイ可能性が高い。
素晴らしい日本の工場作業者に“助けられてきた”ので多くの日本人設計者の考えは甘い。
それでも出来たものを検査して愕然としてから修正するからまだ品質を保てる。

ただし工場の日本からの海外移転によって、日本の工場も危なくなっているだろう。
これらのメンタリティは“空気”であり、継続しなければ消滅してしまう。
いや過去形かもしれない。

さて、ゴチャゴチャいっても現実は何も変わらないので手段を考えよう。

記事にあるように「プロに見てもらって検査して貰う」というのは非常に良い手段である。
購入店で問題ないことを確認してもらってから売ってもらうのも考えである。
締め付け不足やらが問題なら、プロに一度バラして貰って再組み立てをして貰えば余裕で回避できる。
工場における締め付けなどは流れ作業でやっているだろうから、「時々手抜き」が発生しても不思議ではない。
溶接不良なども見る人が見ればわかるかもしれない。

安全性が不足すると“死にかける”自転車を、通販とか素人しかいない量販店で買うなど愚の骨頂である、と考える。
速度を全く出さないママチャリでだらだら運転をするのならともかく、ガチで走るつもりならガチな自転車専門店で買うのは大前提だろう。
自分でメンテナンスをやるレベルなら、自分で一度バラして組み立てるのも手である。

最初は「おそるおそる使う」というのも考えである。
どんなものでも最初は「取説通りに」使う。
それでおかしくなったら堂々とメーカーに突き返せるからだ。

自転車などは壊れたら怖いので、最初は慣らし運転をする。
自転車の機構をならす意味もあるし、人間側をならすという意味もある。
徐々に負荷をかけていく。
いきなり公道で走るのではなく、なるべくガラガラのサイクリングコースで徐々にあげていく。
そうしてから「引っ張ったり」「ねじったり」と負荷をかけていく。

申し訳ないが、買ってから二日で公道を高負荷で走って壊れた、というのは、確かにメーカー側に問題があるのは否定しないが、「うーん」と感じてしまう。

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2017/01/26

Nitendo Switch ARMSへの既視感…奥が深そうだ

プレイ画面の動きにどこか既視感があり、操作方法を知ってなるほどと分かった。
バーチャロン(SEGA)である。

操作方法が似ているとありがちな動きが似るものだがなるほどその通りである。
バーチャロンは面白かった。
SEGAサターンに移植されたが、思わずこれだけのために専用スティックを買ってしまったぐらい面白い。
ゲームセンターでやっているとすぐに乱入されて練習が全く出来なかったという現実もある。
私は開始が遅かったこともあり巧い人は全く話にならない。フルボッコと言う奴である。
チャロンの話はとりあえずこの程度にしておこう。

ARMS特訓動画とかがあったが、紛れもなく、かなりガチな格闘ゲームである。
なぜ打ちっ放しミサイル等ではなくて、腕が伸びて、としないといけないかといえば、攻撃で腕が伸びた瞬間が“隙だらけ”であることがポイントなのだろう。

片手だけ攻撃なら腕による防御態勢が取れるが、両手を出してしまうと無防備となる。
伸びて相手に届くまでの間があるというのも重要である。
相手の動きを読んで、攻撃を打ち込む、が基本である。

普通の格闘ゲームは相手の動きを察知してとか、ある程度読みで、とかになるのでかなり慣れなるまでが難しい。フレーム単位の反応というものもある。
そこをある程度「簡単にした」「見えやすくした」と言える。

しかし、だからといって初心者ゲーではない。上級者になればフェイク、フェイントを入れた動きや、動く先への打ち込み、パンチ相殺などが普通となるだろう。
引きつけてから相殺(打ち落とし)をした方が次のアクションに有利だから、間に合わずに失敗するリスクも考えてどうするかを瞬間的に決めないといけない。

モーションでやるから、疲れるのではという声もあるようだが、ジョイスティックを動かす程度の動きで十分のようである。
パンチを出すのはボタンがいいかなとも思うが、実は連打できるゲームではない(必殺発動の連打はあるが)。
無作為に連打していても隙が多くなるだけで損であるとも言える。

これだけのために買ってもいいかも、と思える。

ところで格闘ゲームと言えばストリートファイターだが、現役はⅤなのに、スーパーストリートファイターⅡとかなめているとしか思えない。
バーチャルコンソールかよ、というツッコミをしたくなってしまう。それならせいぜい2000円程度でよろしくね、という感じだ。
最低でもファイティングスティックは用意すべきである。パッドなんかあり得ない。

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2017/01/25

LED照明の何が良いのか

東京都知事がLED照明推進事業(補助金投入)をするという。
環境省の小池大臣がダブって見えたがその時の見識も入っているのだろう。

LED=省エネと勘違いしている人も多い。そんなに単純ではない。
だから値段の高さで敬遠する。
他にもメリットは多い。

白熱電球での違い

省エネという意味ではこの二つの差は大きい。
60W程度の電球なら、LEDでは10W未満でいける。
この消費電力量もあるが、発熱の差もとても大きい。
また、W数の小さい電球は赤みがかかってしまうが、LEDは普通に白色が得られる。

なによりも寿命が違う。
白熱電球はフィラメントで発熱発光しているために、どうしても寿命が短い。
LEDではコンデンサの寿命の問題になろうから何十年も持つ可能性がある。

ただし、安物は発熱処理や設計が悪い、また部品をケチっているものが多く、すぐに部品が傷んで壊れる。
ノイズを出してラジオに影響があるなんていう粗悪品すらあるようだ。
そこまで酷いなら回路の部品を痛めつけている可能性が高い。

蛍光灯との違い

蛍光灯との消費電力での差は倍と言うほども無い。

でもLEDならではの高機能の魅力が高い。
値段差もそれほどあるとも思えないので壊れたら買い換える選択肢として考えると良いのではと思う。

シーリングライトの薄さ

蛍光灯の太さはいかんともし難く、シーリングといいながらそこそこ厚い。
ところがLEDは本当に薄い。発光体自体が米粒のような大きさで、降圧回路の薄さ勝負になろう。
気のせいかもしれないが、紫外線量が少ないからか虫の寄りつきも少ないようにも思える。
蛍光灯は紫外線を発生させて蛍光体で可視光線にしているので、紫外線は避けられない。

調光できるがゆえの省エネ

かなり細かい段階で光量を変えられ、その延長上で常夜灯もカバーする。
あまり細かいと調整が面倒という判断か、例えばうちのものは10段階であった。
また、一度調整した後、徐々にこっそり暗くしていく機能もある。
人間の目というのは暗順応するのでゆっくり暗くされるとそれが分からないのだ。

またワンボタンで思いっきり明るくするモードを備えた機種もある。
捜し物をする時に使うモードらしいが、一時的に細かいモノを見るときは便利かも知れない。

時計が入っており、時刻を見て光量を調整する機種もある。
就寝時間に合わせて徐々に暗くすると寝入りをよくできるかもしれない。

調色もメリット大

LEDならではの機能として調色がある。
調色できない機種もあるが、調色も選択肢として考えると良いと思う。

蛍光灯でも暖色・寒色があるが、暖色はかなり赤く、寒色は白く中間がない。
暖色は夏場は鬱陶しい反面、冬場は見た目も良いが、蛍光灯を衣替えするのアレだ。
人間は壁などが赤いと暖かく感じ、青いと寒く感じる(体の表面温度に違いが出る)というのは実験で確認されている。
これが正に暖色・寒色と言われる所以である。

一日を通しても、通常は白色が良いが、寝る前辺りから暖色にすると良いという。
暖色は眠気を誘うらしい。
“ブルーライト”を気にする人は多いようだが、それなら照明もブルーライトカットすべきではないのか。
買い換えてからは、実際に私は寝入り時間に近くなると暖色にしている。
これは思い込みでも構わないわけだが、眠気にさそわれるような気分になり、効果はあると思う。

交換機会が激減する

蛍光灯式では、蛍光灯、常夜灯、グローランプを変える必要がある。
これらは消耗品であり、交換するのが当然となっている。

LED方式では、LEDが壊れるということはまず考えられないし、そもそも交換不能だ。
電気用品なのでいつかは壊れるが、消耗品部分がない。

御高齢の方ほどLEDを敬遠するらしいが、交換がしんどい人ほどLEDに変えるべきではないのだろうか。

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2017/01/24

Nintendo Switch オールドゲームマニアの目から

正直言えば、うーん、と言ったところ。
別に持ち運べるゲーム機は欲しくはないというか、テレビに大写しで遊びたい。
高いか安いかと言えば、コントローラ+ドックで1万円、高性能タブレットゲーム機で2万円という評価を考えれば高くはない。
モバイルWiFi持っていればネット端末にもなる。

ごく平凡なものになってしまったが、まあ、それが世の趨勢なのだろう。
XBOXはもとより、PS4も「プワマンズゲームPC」となった現在、任天堂もそれに倣わないと生きていけない。
奇抜なハードは淘汰される。古くはSEGAサターンで、SEGA以外は使いこなせなかった高度さ故にバーチャシリーズを実現できるハードを持ちながらもサードパーティは一切「普通のゲーム機」レベルのゲームばかりだった。
Wiiもリモコン、WiiUも画面付のコントローラが災いしたのだろう。
リモコンなんかサードパーティは適当に使えば良いのに、下手に使おうとしてスベっていたゲームばかり。無理にモーションコマンドを要求するなっていうの。
それでもWiiが売れたのはその取っつきやすさ。そして確かに面白いゲームはあった。

今回の特筆ハード機能は、モーションはもとより、「HD振動」と「IRカメラ」なんでしょう。
コントローラは大人なら手のひらに収まるような小ささ。ボタンの押しやすさは大丈夫か、と思う反面、モーションにはむしろプラスになるとはいえる。
2つのコントローラは両手の中にしっかり握れる。

2組4個のコントローラも普通に使えるから、両手に握って、両足の靴下の中にいれて、計4つでモーションキャプチャをやって欲しい。
そう、ダンスゲームである。
開発能力もあり、DDRで一世を風靡したコナミが待ち遠しい。
コンセプトは良かったがモーション認識が残念で終わったダンスコレクション(バンナム)もリベンジして欲しい。
また、リモコン+モーションでも操作に苛立ったWiiSportsも是非リベンジして欲しい。

やはり懸念はゲームタイトルであり、実質任天堂のみしかまともなゲームがない現象である。
Wiiでは大分色々出て買ったが、WiiUでは酷いものだった。まったく食指が伸びない。
WiiではVCも大分買ったが、WiiUでは特にアーケードの新作が皆無でほんの数タイトルしか買っていない。
もうそんな寂しいタイトルしか版権を取れるのが残っていないのかという残念さであった。

マリオが“久しぶりの箱庭マリオ”であることも不安感を招く。
ゴール到達型ではなく“箱庭型探索”は64のマリオ64,GCのマリオサンシャインである。
64とGCというのは任天堂の暗黒期を招いたハードである。

ただでさえ感覚の掴みにくい3D化、またゴールを探し回るという難しさから、取っつきにくさ、それを超えても途中でギブアップした人も多いのではないか。
実際私は操作がクリティカルになり始めた辺りで散々“カメラに殺されて”嫌になって放り投げた。私には“カメラに同期して(追っかけて)操作を合成する”なんてできない。
ゲームの世界に没してしまうので自分で動かすのならともかく“勝手に動くカメラの動き”を意識するのは生理的にできないのだ。
それで正直64自体が嫌いになり、あまり触らなくなった、というのは言い過ぎか。
マリオは看板タイトルであるが故に、即ハードの評価にもなりかねない。
サンシャインでは大分軽減されたとは聞いたが、既にやる気がなかった。
実際に更にカメラを極力固定したり、実質2Dビュー面もあるとされたWiiのGalaxyでもきつかった。
Wiiで基本は「普通のマリオ」に回帰したからWii/WiiUはマリオをまたやってみたくなったのだし、実はGalaxyは合わなかったらさっさと捨てるつもりでいたぐらい。

一つの方向をうらなうのが「1-2-スイッチ」でしょう。
Wiiにおいては「初めてのWii」が大きかったと思います。
リモコンの機能を総覧体感でき、操作練習ソフトであり、シンプルなのに奥の深いゲームだったりします。
発売当時の半数は優に買ったとも言われ、ハード購入時に薦めるのも「とりあえず初Wiiと…」と言われました。

Nintendo Switchでは「二人」をやたらと強調しますが、一人でもきっちり遊べるのが基本だった(任天堂自身がそう言っていた)はずです。
二人で遊んで楽しいのならコンピューターゲームである必然はありません。一人でも遊び込めて二人でやればもっと楽しい、が基本のはずです。
その点でも初めてのWiiは優秀でした。
「ガンマン」以外は詳細が分かりませんが、ガンマンの楽しさも「うーん」という感じで伝わってきません。所詮は二人いないと成立しないような。

とりあえず新作ゼルダはWiiUでやって様子見となりそうな予感がします。
マリオメーカーやWiiFitも続けたいので捨てられないし。

いわゆるアーケードジョイスティックはまた出ないだろう。
Wiiも残念なものしかなかったので、結局クラコンとSEGAサターン用のアーケードスティックをバラし、キメラしての自作となった。
今度はPROコンをバラしての対応になるのかと思うと面倒になりそうだ。
ベストはUSBジョイスティックが使えれば良いのだが、そういう“エコシステム”を考えないのが任天堂の悪いところである。

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2017/01/23

会社や工場での自家消費太陽光発電

日経BPのメールマガジンだったかに書いてあった話だが、会社や工場などで自家消費用太陽光発電で電気代を減らすという動きが出ているそうだ。
これが今後ビジネスとして伸びていくという主旨のようだったが。

別に全部太陽光でやる必要はなくて、足りない分は買えば良い。
太陽発電設備の運用費や減価償却を考えて、それが減らせる電気代分よりも安くなれば経費削減になるのだから設備投資する。
ごく単純な経済的論理である。
太陽光発電が安くなれば、また電気代が高くなれば、この動きは加速することになる。

これが拡がると「晴れた日には電力需要が減る」という現象がでてくることになる。

現在の電力需要の推移は、日が出ると共に上がりだし、夕方にちょっと上がった後は夜更けに向かって下がっていく。

太陽光発電が拡がった時には、日が出ると徐々に電力需要が落ちていき、夕方から上昇しだして夕飯前後でピークを迎え、深夜までは昼よりも電力需要が多くなる、なんて時代がくるのかもしれない。、

電力会社は太陽光発電がお嫌いのようだが、需要側の変動には文句は言えない。
平均(総量)的には電力需要は確実に減っていく。
省エネはもちろんだが、このような動きで需要が減っていく。

電気代が高くなればなるほど、この動きは加速することになる。
そのうち、多少は“捨てても”いいから発電設備を強くした方が得になるかも知れない。
そうなると日中の“節電の努力”が無意味となる時代がくることになる。

この次の段階は蓄電池併用である。
平均化した方が得となればそのコストとの見合いとなろう。

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2017/01/22

高齢者交通事故防止策はどこに問題があるのか

ある番組で高齢者の交通事故問題を取り上げていた。
やっぱり脳の問題やら、認知症に絡めてしまっている。

老齢の再講習とおぼしき「慣れていない車だからうまくいかない」という映像も出ていた。
自動車免許というのはどの車を運転してもきちんとできないといけないのだから、その言い訳が出てくること自体が免許がどういうものか認識できておらずアウトである。

運転免許

以前も書いたが、運転免許なのだから、更新時に運転技能を確認してダメなら継続不可が当然である。

運転免許が特段厳しいわけでもない。免許には生涯有効もあれば、定期的な更新・試験を行うものもある。
運転免許には期限があり、その継続はわざわざ試験場に行って試験(講習)を受けることが義務づけられているではないか(ゴールド特例はあるが)。

実際に、視力が足りなければ継続して貰えない。しかし眼鏡を作って矯正して再度望めばOKである。
同様に更新期間内に教習等で補強し再試験を受ければ継続可能とすれば良い。
現在は視力だけというのがそもそもおかしく、交通知識、認知力、判断力や操作能力、体力等、最低限の確認をするだけの話だ。交通知識はごく常識的な標識だけで良い。
何度もやった結果、継続を断念するのは自由である。

肝心なのは認知症がどうこうではない。どうも今の制度はそれに偏りすぎている。
もしかしたら40代でも受からない人がいるかもしれない。でもそれは仕方ないだろう。
20代で取ったが運転していないし、するつもりもないから不要も選択肢である。
免許更新は集金システムではないはずだ。きちんと技能確認をやって欲しい。

ドライブレコーダーで冷静に見よう

ドライブレコーダーが流行っている。
事故責任の立証に使えるから、というのがポイントらしい。
こちらが直進していて相手が飛び出した場合などは、水掛け論になりやすいが、映像を見せれば一発である、ということらしい。もっともだ。
いくら高くても数万もしないから、一回の軽い事故で"元が取れる"かもしれない。

自分の運転を見直すきっかけにもなるだろう。
客観的に見ると「だれだよこの下手くそな運転は」となるのは容易に予想が付く。
端から見ていると危ないのに、頑なに大丈夫と言い張る場合には、録画して後から見ると気がつくこともあるだろう。
自分の運転は上手だ、と根拠の無い確信を持っている人ほど、つけて見て冷静に見るのが良いようだ。

自動運転に期待できるのか

よく自動運転とか期待する向きがあるが、そんなものは無茶に決まっている。

自動ブレーキや発進制約等はかなり限定的だ。
コンビニのガラス張りの"壁"やガードレール、段差を検出できるのか。
まだまだ技術的に足りない。それらが普及するまで待っていられるのか。
これらはまだ10年単位の話である。今の問題は待ったなしである。

そもそも機能が付いていれば当然ながら高価になりがちである。
事故車の映像を見ると悪いが揃って「やっすい車ばかり」である。
「アシスト車限定免許」でも設定するならともかくそんな高価な車を買うわけがない。

一日中周遊するバス

一般車の自動化は遠いが、それよりは先に期待できる自動運転車はバスである。
鉄道網がない地方での公共交通網はバスである。
コミュニティバスや周遊バスがあるが、これが一日に数本も珍しくは無い。

なぜ先行できるかと言えば、経路が決まっているので、事前に学習が必要としてもそれが可能であること、事前確認で事故確率を予見しやすいこと、などがある。
道路の整備(標識や分離線や停止線等をきれいに保つ)も重点的にやって安全性を高めるなども出来る(一般車もリスクが減る)。
無人だから人件費や運転手の疲労は関係ない。一日中グルグル回っていても良いだろう。

第三の自動車

それでもやっぱり自分で自由にいけることが必要な地方もある。
"第三の自動車"の設定が必要ではないのか。

以前、スクーターのエンジンで非力だが、エアコン付の空間がある"自動車"が販売されたが消えてしまった。
それはスクーターではなく軽自動車扱いにしてしまったからではないか。

問題は免許もそうだが自動車税の問題で非常にコストが掛る。
それでスクーター並みの速度しか出せず、良くて二人乗りでは誰も買わない。
例えば思い切った様々な制限をつけても無税に近いモノを設定すべきではないのか。
電気自動車に限定しても良いかもしれない。

法整備問題

自動運転自動車もそうだし、第三の自動車の件も、肝心なのは法整備である。
そして政府がやるべきなのは、変に煽ることではなくて、技術の発展を阻害にならないような法整備を今すぐやることである。
安倍総理の自動運転に関するとんちんかんな発言を見ていると心配になってしまう。

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統計値になぜ騙されるのか

「嘘は言っていないが、本当のことも言っていない」という言葉がある。
最近はこういうのが多い。

国会の質疑・討論でも、質問に対して答えていない事例が多く問題である。
私が見ていると質問の主旨を念頭に置いて回答を聞くようにしている。
まあ、最初は関係ない話で始まるかも知れないからその質問の枠に入る言葉を探しながら聞いている。
なのに結果として回答がないまま、答弁が終わってしまうことが実に多いのだ。
私からしてみれば「あれ?答えは?」ということになる。
困ったことに些末議員ならともかく、総理大臣たる安倍総理に多いし、最近は各大臣も見倣っているのかどんどん悪化している。

また、論旨をすり替えている事例も多い。
その中で、統計の数字自体は間違っていないのだが、間違った適用をしていることが多いのだ。(わざとなのか無知なのかは知らないが)

そして聞く方も統計のことをよく知らないが問題である。
統計の手法はいくつもあり、それがどのような意味を持つかを考えないといけない。
グラフの一つをとっても、印象が全く違ったものになる。
言いたいこと、自分の主張を表わすグラフを作るのが普通である。

しかし、統計を信用するなということではない。

その数字自体はおそらくは間違ってはいない。
しかしそれが、どのような意味を持つのか、、それが主張に合っているのか、ねじ曲がった解釈をしていなおか、その数字は別の意味にも読み取れるのではないか等を考えることが重要なのだ。

今回はひとつだけ典型的な例を挙げておこう。

「平均」という言葉

「統計の数字」というだけでころっと騙される人は多い。
「平均」という言葉は分かっているようで分かっていないケースが多いからなおさらだ。

平均というと一般的には「全部足して、足した数で割る」ことを連想する。
そこそこ統計を勉強すると「算術平均値」「中央値」「最頻値」のどれなのか、ということを考えるようになる。(というか、高校の数学で学ぶ話である)
これは非常に重要なことである。

「平均年収」という言葉は良く出てくる。
いわゆる貧富の格差がでかくなればなるほど問題となる。
算術平均で見ていると実態の感覚と乖離していき、また現実が見えなくなっていくからである。

簡単のために10世帯で考えてみよう。
A地域では1世帯が10億円、後の9世帯は100万円とする。算術平均では約1億円である。
B地域では10世帯とも100万円とする。算術平均では100万円である。

A地域は「セレブばかりの地域」でB地域は「貧乏人ばかりの地域」に見えてしまう。
しかし実態はいうまでもなく、AもBも(一世帯を除いて)同じである。

もちろん統計としての数字は間違っていないが、本当のこと(多分議論している根拠となる実態)を表していない。

地域の年収や税収を知りたいのなら適切な統計だが、その地域の暮らしぶりを知りたいのなら統計手法の適用が間違っているのだ。

年収の実態を知る場合は中央値という平均値が採られる場合が多い。

中央値というのは、全部の値を大きさで並べ替えてその中央にある値を調べる。
大きい順に並べれば10億、100万、100万、…とならぶから、中央(5番目か6番目)は100万になる。
つまり平均値(中央値)は100万円ということになる。

実態に合っているではないか。
突出したごく一部の億万長者の存在が平均値を引き上げてしまうことがないからだ。

様々な統計で「平均」という言葉が出てくる場合は、このどちらなのか、どちらが適切なのかを考えて見ると騙されなくなる。
そして騙そうとする人がいることにきちんと気がつくことが重要なのである。

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2017/01/21

働き方改革?残業問題は解決できるのか

働き方改革とかいうのが今年の重点政策らしい。
金融緩和や利下げは限界に来ているため、他に活路を見いだそうと言うことだろう。

限界というのは別に腐している訳ではなく、これ以上は円安という観点で日本の国民生活自体がヤバいことになるからだ。
円安というのは輸入品の値段が上がると言うことである。
昔も工業製品の原材料は海外依存であったが、食料品や衣料品はある程度国内で周り、製造業でも製品を輸入するよりは原材料の方が遙かに効率が良く影響が少ないからである。

いうまでもなく様々な工場は海外に移転し、様々な製品が海外工場に依存する、つまり輸入依存になってしまっているからである。

なぜ残業が必要なのか

残業が発生する原因はいくつもあります。
今回は絶対的な業務量が多く、誰がどう効率的にやっても捌けない業務量が会社内にあると仮定します。

論理的・科学的に業務量を見積もって一月に2000時間の作業量があるとします。
一月20日として、10人の部署で行うとすれば、一人辺りで一日10時間になります。
一日の労働時間を8時間とすれば2時間の残業が必要となります。

「最も暇な月」でこれで、月によってはもっと多くなると仮定します。
さて、ここで会社には二つの選択肢があります。

一つは今ある人員で、残業でやって貰う。
一つは人員を増やす。

多くの会社では前者を選びます。これが慢性残業といわれる状態です。
これは習慣とかではなく、法制度的、金銭的な理由です。
その点を突き詰めていきます。

再度言いますが、残業問題は根が深いです。
他にも様々な複雑な問題が絡んでいます。
それでも「とりあえず高くしてみる」べきです。

また、この論議で「グローバルな」「欧米並みの」という言葉がなぜか出てこないことに疑いを持つべきでしょう。
やっぱりこの言葉は都合の良いときだけの「みんなやってるから」なのかと思わざるを得ません。

残業手当の最低を上げる

現在は安すぎる。
どのくらい安いかと言えば、人を雇わずに残業させた方が安いくらい、安い。
これが先に述べた残業させる理由です。

人を雇うと言うことは、いわゆる賃金はそうだが、“一人あたり”で勘定できるコストがかかっている。
例えば机や椅子やPCなど一人に一つは必要なものがある。また社会保険料や健康保険料、厚生年金の会社折半分というのがバカにならない。

テレビ等でこの手の論議があると、そこに出ている経営者はこれらを考えると「5割増くらいになると新たに雇う方が安い」という声を何度も聞いている。
本気で残業を減らし、雇用を増やすのならば、これ以上の率まで上げれば良い、という理屈になります。
もちろんこれだけで解決するモノでは無い。
必要条件であって十分条件ではないからです。

しかしこれは基本中の基本なのだから変えないと(上げないと)ダメなのです。

累進割増し制度で更に強化

罰則付で長時間の規制をやるといっているが馬鹿馬鹿しい話である。
どうせ例外事項で骨抜きになってしまうのが見え見えである。

法的に「過重労働」という概念があり、それは月80時間超過の場合です。
この辺りになればどう考えても「計画的残業」としか思えないレベルになります。
よって10割増程度まで上げてやるのが良いのではと思います。

他にも35時間(いわゆる三六協定の境目)や50時間程度で段階をつけて上げていくのも有効と思われます。

残業は突発的事項に限る、という原則に立ち、残業の恒常化については例外事項、という理屈で思い切って高くしてしまえば良いだけの話です。
例えば100時間を超えたら20割増でも良いでしょう。

残業代不払いは厳罰

こういうことをやると「残業不払いが常態化するのでは」と主旨をすり替えることが多いようです。

いうまでもなく、今の甘い“処罰”も厳格化するのは大前提です。
会社名の公表はもとより、実刑が必要です。
担当部署はもとより経営責任者、労務や経理の責任者である総務部や経理部の長も責任を取るべきです。
この考えが甘いから現場がいい加減になるのです。

一番遠いと思われる経理部を例に取りましょう。
会社全体で労働時間が多いというのは様々な数字から経理部は理解しているはずです。
すべての行動には出費や収入があり、経理上の数字に出てくるからです。
わからないとしたらそれは単なる事務屋で経理部なんか不要でアウトソーシングでもすべきです。
労働時間が多いのに払っている残業代が少ないというのはおかしいという認識を持たないとおかしいのです。
グルであると言う認識をしないとおかしいのです。

重い刑罰にしないといけない、というのは、残業をさせることが悪なのではなく、きちんと人員管理をして支払いをするという曖昧性のない議論だからです。
残業代不払いは「会計操作」「粉飾決算」という法人としての犯罪行為と「奴隷的使役」「軟禁」「恫喝」等の人権侵害等の刑事的犯罪の疑いも含まれます。
本来、労働(インプット)に対する対価(アウトプット)を払わずに利益(アウトプット)を得ているのですから、会計上数値の操作をしていることに疑いはありません。

粉飾決算は「脱税行為」につながり、そこまであれは「国家反逆罪」です(脱税は重罪です)。
その辺の意識が薄すぎるのではないでしょうか。

不払いは「重大な社会的悪」です。
不払いが発覚し確定したら、本人や周辺の人達への不払い分はもとより、懲罰的な追徴金を払うことを命じ、また国への罰金も徴収すべきです。(労働管理局に“ムダな仕事”をさせているのだから最低でもそれを補うべきである)

これは、うっかりミスによるものではなく、確信的・組織的に行われるものであるから罰として重くすべきです。
懲罰については金銭的、社会的制裁も含めて考慮すべきことでしょう。
ガイドラインとしては齟齬がせいぜい月に数時間程度以内、ということにはなると思われます。
どんなに適当でもその程度のものです。

年間割増しも考えるべき

過労死や様々な労災は年間の超過時間に大きく関わっていると考えられます。
通常残業無しであれば、たまに一ヶ月程度はほぼ寝ないで働いても、まあ、大丈夫です。
自殺するレベル、病気になるレベルは半年や一年近く、そしてそれの終わりが見えないから絶望してしまうのです。
例の「電通」自殺事件も異常な超過勤務が継続したことが本質的問題と思われます。

上記の月間割増しに加えて、またはもう少し抑える代わりに、年間通しての超過に対して厳しく臨むという考えもあります。
例えば半年で区切って超過時間に対して割増しを払うべきとする考えもあります。
支払いとしては事務的軽減を考えてボーナスと同時が丁度良い節目でしょう。

年間で見ると特定月が忙しくて特定月が暇という業種もあるでしょう。
それならば年間で管理すれば良いことです。
特定月は所定労働時間はマイナスであってもよく、残業の多い月と相殺するという考えもあるでしょう。
最後に半年に一度精算するという考えもあるでしょう。
これは「年俸制度」が可能であればそれと大差はありません。

金で解決できれば良いのか?

こういうと「金で解決できればそれで良いのか」という人がいます。

私は良いと思います。
ただ、問題があるのは、そのお金が安すぎることです。

残業だらけであっても、大金が入るのなら適当なところで退職という考えもあります。
ぶっちゃけ、通常の3倍稼げるのなら、10年働いて30年分の年収を得るという計算もありです。
10年で引退(後は適当に安月給で働く)で突っ切るというライフプランを立てていれば気が楽です。
それが今の割増し程度では相当やっても大した額にならないから問題なのです。

良くベンチャーの創業者は文字通り寝食なく働くと言いますが、それは創業者利益として後々に大量のお金が入るからそれができるのです。(もちろん自分の想いの実現だからということもあります)
そんなものはない一般社員にも同レベルの要求をするのが問題なのです。

そんなに高いと残業代で労務倒産する?

必ずその論議がでると「労務倒産」してしまうと言います。
あくまであげろというのは「残業代」です。

だったら残業させなければ良いんです。

なぜ残業代で労務倒産するのか私には理解できません。
もとからまっとうな経営をしていないということを自白しているのでしょうか。

残業させないで会社から追い出す習慣

「だらだらと残業代を稼ぐために働く奴がいるからこんな制度は問題」という論があります。
おかしな話です。
経営レベルなり、現場の管理職が残業をさせないで職場から叩き出すべきです。

残業はもとより、通常の業務をだらだらとやっていることを諫めないのでしょうか。

業務管理(アウトプットや進捗)をきちんとやっていれば良いだけです。
この管理が、管理職の基本業務ではないのでしょうか?

逆に言えば、いい加減な管理が残業を生んでいるという問題でもあるのです。

これらはいくらいっても改善されません。
だからこそ残業代をべらぼうに高くすることで真剣に考えさせると言うことなのです。

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2017/01/20

人工知能っていつになったら驚異になるのだろうか

リンク: 人工知能とどう向き合うか〜小学校の学校便りから:デジタルセラー中山の視点:オルタナティブ・ブログ.

要旨としては、人工知能は人間がはるかに及ばない処理能力を持っていて、一定の範囲の仕事は人工知能にとって変わられるだろう、ただ、これまでに直面したことのない内容に答えることや直感で判断することは苦手であり、そういったいわばクリエイティブな部分においては人間がこれからもやっていく、そういった対応力、応用力、創造力を育む教育が今後より重要になっていく、ということでした。

正にそのとおりである。
よしんば、人間に限りなく近くなっても、所詮は「エキスパートバカ」である。
自分が人間であるという経験を元に、様々な判断をするという部分はどうしても“学習”できない。
これを可能とするには、アンドロイドのように人間として、一般的家庭の人間に混じって生活をするという経験を積まないといけない。
将来的にはこれも可能とするのかも知れないが、“超人”である“彼”が立脚する“思想”の時点でずれていれば、生活で得られる“解釈”も一般人から見てもずれたものとなってしまうだろう。

これは人間同士でさえも起きえることなのだから、ましてや人工知能ではいわんやである。

日本の学校教育も変わらなくてはいけない

「ゆとり」で若干弱まったときもあるが、所詮は「記憶偏重型」教育、「上意下達型」教育ではないのか。
「考える」「理解する」教育と言っても、誰かが「考え」「理解した」結果を教え、覚えているだけではないのか。
いうまでもなく人工知能は“覚える”のは非常に得意である。丸暗記こそ得意中の得意である。
むしろ関連づけをしながら覚えるのが苦手である。それには“分析コスト”がかかるからである。

数学で言えば、たくさんの“公式”を暗記して、瞬発的に計算できるような能力は要らない。
文章を読んで、問題を抽出し、それを解決しうる最適な計算式を立てて、既存の僅かな公式を適用して、うまく答えを導き出すことが必要である。
人工知能で大学入試問題を解かせるプロジェクトがあったが、究極の課題は「問題を理解させること」だったという。
実は人間でも同じだそうで、計算式を解く以前に、計算式を立てられないのだと思う。

今でも式が立てられればPCが計算してくれる。たとえ計算式の変形や公式で解けないような方程式(一般には“解”を作れない)も、現実としての解があれば“しらみつぶし”などの方法によって解くことができる。
だから式を立てるのが現実の課題だ。

Google先生とは

ネット検索するとはどういうことだろうか。
なにか疑問に思ったら、その単語を打ち込んでみる。
Google等の検索エンジンは直接答えを教えてくれるわけではない。
そのことを知ってそうな人(サイト)を紹介してくれる仲介業者のようなものだ。
人工知能を活用し、近いはずのGoogle社は、真っ先にGoogle検索システムに応用するはずである。
しかし、Google検索の結果はまだまだ「とんちんかんな答え」が多い。
まだまだ「このていたらく」であると言わざるを得ない。

SEO対策やらそれにまんまと引っ掛かる検索エンジンのせいで、下位のサイトを手繰ってようやく適切なものが見つかることも少なくない。
そもそも勝手に検索ワードに横消線を引いて関係ないサイトを上位にするという感覚が理解できない。
そういうところがほとんどなくなるという段階を経て、単なる仲介役ではなく、様々なサイトを見てまわって知識を集約し結論を出してそれを提示する。
そういうレベルになって、ようやく“人工知能は自分のやる仕事に取って代わるほど驚異かな”と思うレベルではないのだろうか。

公務員こそ真っ先に人工知能に取って代わられる

ところでお役人が言わないことで、もっともあり得る話は「お役所の仕事は真っ先に人工知能に取って代わる」ということである。

前例主義、法令遵守、定型業務、硬直した思考。これらこそ人工知能が最も得意とする分野である。
一方で「国家百年ビジョン」「弱者にやさしい施策」などは難しいだろう。
よくわからない、不明確な命題だからである。

もちろんそういう方向の話もあり、そういう人達もいる。そういう人達は残るが、定型業務を繰り返しているだけの人達は真っ先に…である。

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2017/01/19

最近のEVの燃費は如何ほど?

だいぶ前に電気自動車(EV)の燃費換算をしたような気がする。
ある記事で数字が出ているので換算してみよう。

リンク: 無線BMS、EVの走行距離をガソリン車並みに延伸 - EE Times Japan.

標準的なBMW i3のバッテリー容量は33kWhで、満充電時の走行距離は200kmである。ワイヤレスBMS搭載のコンセプトカーは同じバッテリースペースで55kWhまで容量をアップしている。これによって400kmの走行が可能となる。実際には、バッテリー容量を65kWhまで拡張できるスペースがまだ残されている。ここにフル実装すれば、500kmより長い距離を走行できるようになり

当り前だが「33kWhで200km」ではない。
ガソリンメーターが0になっても数十km(一般には百km弱といわれる)ように、タンク容量=走行距離ではない。

33kWh / 200km
55kWh / 400km
65kWh / 500km

これらの差分をみるべきだろう。
22kWh / 200km → 11kWh / 100km
10kWh / 100km

まあ、計算が面倒なので二行目の方を採っておこうか。

0.1kWh/kmなので、1kWhは家庭用で27円すれば2.7円/kmである。

ガソリンはいくらかが問題である。
ここでは本体価格をきちんと求めておく。
ガソリン税は道路整備目的税や一般税がとられており、それは電気代には掛っていないので不公平だからである。(消費税は両方にかかっているとする)

ガソリンを130円/リットルとすれば、ガソリン本体の値段は(130x(1-0.08)-56)x(1+0.08)=69円である。
なお、なんでこんなに面倒臭い式になるかといえば、ガソリンに対する税金は本体価格に関わらず一定(56円程度)であり、税金分にも消費税(8%)がかっているからである。

EVでは2.7円/kmだから69円ではどれだけ走れるかと言えば
69[円]/2.7[円/km]=25[km]

つまり燃費でいえば、25km/リットル程度ということになる。
電気とガソリンの間の不公平税制がないと仮定すればこの値である。
昨今の燃費競争が30km以上になっていることを考えると、悪いくらいである。

ただし現実はどうであるかを計算する。
130[円]/2.7[円/km]=48[km]
実際には48km/リットル相当というとても良い数字になる。

実はそれほどEVの燃費は良くないのだが、ガソリン車ではがっぽり税金を取られているので、その税金負担がない電気自動車はとても燃費が良くなっているのが現実である、ということである。

ここで改めて意識しないといけないのは
・電気代は世界情勢に対して、ほとんど影響がない(燃料調整分の変動はある程度)
・ガソリン代は世界情勢に大きく影響される。(百円を切ろうかという時代もあれば、二百円を伺うときもあった)
・ガソリン代にはとても高額な税金がかかっている。(税金で倍近くの価格になっている)
ということである。
ガソリンへの税金は道路目的税も含まれており、一般財源も入っている。

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2017/01/18

なぜ自民党は皇室典範に手をつけたがらないのか

天皇生前退位の問題において、自民党は皇室典範を極力いじりたくないという意向が見えている。
皇室典範に手をつけようとすると女性宮家がどうのとか、女性天皇・女系天皇の話が出てきて改定論議が収束しないから、という説が出ているが、私はそれは違うと思う。

実際にテレビなどでの発言を見ると、民主党等の野党も「別に生前退位だけでいい」「他の部分はまた後で論議して見直せば良い」と言っている。
むしろ自民党の方が煮え切らない言い方を繰り返しているようにしか見えない。

まず前提となるのが、皇室典範というのは戦後、一度も改定がされていないという事実がある。厳密に言えば、戦後の政治組織に合わせた名称置換えの類が行われただけで、いわゆる内容にはノータッチである。
要は意思や意向は全くなく、機械的作業である。

改定をすると言うことは、変えるその部分のみならず、それ以外の場所を「是認」することと捉えることが可能である。
これは微妙な話なのだが、「問題のあるところだけ変えたのだ」という言い方が成り立つと、「それ以外は問題がない」というとらえ方も出来、是認になりえるのだ。

別の言い方では今は全く手をつけないことでその存在を黙殺しておきたいという気持ちがあるのだ。
改定に参画すると言うことは、その気に入らない法案に向き合うことは余儀なくされるので非常に気分が悪いのである。

要するに何が言いたいかといえば、今回の件で改定に手をつけたくないという人は、今の皇室典範が実はかなり気に入らない、もっと根本的に変えたいと思っている、という可能性が高いと言えるのである。
もちろんそんなことを言えば色々と問題になるので絶対に言わない。

それは自民党は天皇を元首にしたがっている、という考えとも繋がっているように見える。

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2017/01/17

なぜ「日本の生産性」は低いのか

リンク: BUG024 - 日本の生産性が先進国中最下位とか、どこそこの国に抜かれたとか、どうしても信じられないんですが:エルカミノリアルは今日もバグだらけ:エンジニアライフ.

上記のブログを見て自分の思慮の浅さに愕然とした。
「労働生産性」という言葉は良く聞くが、その定義について調べようとしていなかったからだ。

労働生産性とはそもそも何か

この言葉が出ると必ず「業務の効率化」とか「効率」の話が出てくるからすっかり勘違い=騙されていたのだ。

労働生産性=GDP÷就業者数(または就業者数☓労働時間)

不可思議なのは日本は世界第三位のGDPであるのに「低い」と言われていることである。
日本の人口は世界10位だという。GDPを議論できる国で、日本より人口が多いのは米国と中国だけである。
生産性が高いと言われる欧州各国は桁違いに人口が少ない。最も多いのがドイツで日本の3分の2である。

まずうさんくさいのがGDPという数字事自体である。
GDPって何?と調べると色々な解説があるが、きちんとした定義がない。
そもそも国が発表しているその数字の算出根拠は公表されていない、つまりその定義は非公開なのだ。

次に就業者数である。
いうまでもなく、日本は非正規雇用者、つまり賃金の低い人が多い。
近年ではワーキングプアという週5で8時間働いても年収が百万台とかの人も良く聞く。
その人の稼ぎが必ずしもその人が産み出した価値ではないが、もし価値が高ければそれはその人の賃金が不当に安い(雇用者のぼったくり)ということになる。つまりある程度は比例する。

労働生産性を高めるとは

仮に「労働生産性」を国家的に高めよう、と考えれば、高く売れる業種だけ選びそこで仕事をする人達だけを働かせて、低い業種は潰して仕事を無理に作らず失業させておく、という施策が適切である。
具体的には農業・漁業・林業・福祉関連は潰して、証券・金融・銀行業やITベンチャー、マスコミ業など高給取りを推進する。

“就業者”であると認められる以上は、パートタイムのようなのは論外で、必ず一定以上稼ぐようにノルマ的に働かせることが重要である。

もちろんこれは極論である。

現在やっている「自由な働き方」をやれば、ゆとりを持つために仕事を減らして自分の給与を下げてもよいという人も出てくるだろう。これは逆行している。

この就業者数というのは国内だけである。
直接金銭を稼ぐ、いや、お金が実際に動く仕事をすると良いのだ。

海外工場移転が「生産性」を下げた?

製造業で考えてみる。
直接金銭を稼ぎ出さない間接部門は海外に出して(アウトソーシング)、稼ぐ工場部門などは国内で動かして部品やユニットを企業間で売買したり、最終製品を作って国内で捌いたり海外に売りつける。これが上げるための施策である。

なんだ。ひところの、昨今の日本と全く逆のことではないか。

簡単な話である。日本の工場の海外移転、本社機能を日本に残すというのが、実は「労働生産性を低くしている」のではないか。

数字を上げるためのテクニック(工場移転)

しかしここにもやり方の落とし穴がある。せめて軽減できるワザがある。

日本のノウハウを海外工場に移管する時のテクニックである。
たいがいは無料で教えて帰ってくる。それがダメなのだ。
回り回って品質が良くなるから自分達の利益になる、だから無料でもいいのだ、という日本人の発想が間違っている。

海外の工場にノウハウを置いてくる代わりに、きちんとお金を持って帰ってくる。
自社の海外工場というのは子会社であって別会社。売上であるからGDPに勘定されるはずである。
決算上の利益・損益では相殺されるだろうがそこは論点ではない。

更に言えば、定期的な指導・監査やら工場設備のメンテナンス、部品などは握っておいておいしいところでお金を吸い上げればよい。
これによって日本から派遣した人達の稼ぎを具体的な数字で作ることができる。
こうやってお金を日本に持ってくればGDPを押し上げてくれる。
タダの出張で帰ってくれば会社としての稼ぎには勘定されない。

ところがここも日本の会社は「独り立ちさせる」などという美辞麗句でやらないのだ。

数字を上げるためのテクニック(クロスライセンス)

これは特許のクロスライセンスにも言えるのではないか。
日本の企業間では一種の紳士協定なのか、“お互いを訴えない”という形が多いように思える。
結果としてお金がまったく動かず、売上にならない。
特許はそれができるまでに少なからず人員がかかっているのにも関わらずである。

ここで“実質0円”だが、お互いに一千万円ずつでも払ったらどうであろうか。
GDPでいえば二千万計上されることになるではないか。
もちろんきちんと実施相当額を計上して算出するのである。
微妙に差が出たら、それは払っても良いし、“値引き”でもして合わせれば良い。

前者では発明をしたその従業員の(発明による)稼ぎはゼロだが、後者ならそれなりの額が数字として出てくる。

効率を上げても労働生産性は上がらない

「労働生産性」というのは生産効率の類とは全く関係ないということがわかる。
いってみれば一人あたりのお金を動かした額にしか過ぎないということである。
コンビニでいくら効率よく働いたって、銀行員よりもお金を稼げない。

上記ので挙げた例はわかりやすいものに過ぎない。
このように会社が「ただ働き」させているのだから「労働生産性」があがるわけがないのだ。

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2017/01/15

豊洲問題はなぜわかりにくいのか

私は東京都民ではないので、まあ、豊洲問題はどうでもいい。
元々築地ブランド自体もあまり信奉していないし。

一度だけ築地市場外店舗街には行ってみたことはある。
まあ、異様な世界だ。
そういう意味では面白いが、また行ってみたいとも思わない。
古いからと言うのもあるがモノの鮮度があるのかもしれないが、どこも汚いし。

牛丼の吉野家一号店が築地というのは判る気がした。
なにせどこにいっても魚臭いから、昼飯ぐらいは獣肉が食いたくなるのだろう。

余談が長くなったが、今回の豊洲騒動は様々なわかりにくい問題をはらんでいる。
マスコミがあおるので世間一般を巻き込んで議論になっている。
いわゆる地方行政のいい加減さもあるし、マスコミ報道自身の問題もある。
いわゆる有識者や専門家の会議なるものの怪しさというのもある。
専門家の発する言葉は難解であるのにマスコミは咀嚼しないで垂れ流す。

豊洲問題はわかりにい“環境問題”もからんでいる。
原発の時もそうだが、健康被害にからむ環境問題というのはわかりにくい。
私は専門家とはとても言えないが、会社で“環境問題”には時々絡んでいるので、専門家と一般人のちょうど間みたいなものである。
解説するにはちょうど良い塩梅だと思う。

なぜ「基準値」の話がわかりにくのか

「基準値を超えた」というが一体“何の基準値”なのだろうか。

常識的にもわかるとおもうが、「工場」と「家庭」で基準値は違って当然だし、工場でも化学工場と食品工場で違っても当然だろう。
だから今回基準とすべき、基準値というのは「魚介類や野菜市場」として問題のない値を、そもそもの「基準値」として設定すべきなのが当然である。

法的基準はもちろんある。魚介類の市場用なんて法律でわざわざ決めているとは思わない。
通常はそれに上乗せして独自の基準値を設定するのが通常である。
いわゆる“マージンという尤度”を設定するのである。
それと比較してどうであるか、を議論に出すべきだし、当然報道もその立場で言うべきである。

報道で言うのならまず「根拠となる法的基準値こうで、それに余裕をもたせたこういう基準値を設定した」がそもそもの出発点である。
もしそれがないのなら、それ自体が大問題とすべきである。

しかし「専門会議では基準値を超えているが市場として使っても問題ない」という発言が出てくるから意味が全く理解できなくなるのだ。
一連の話を聞いていると「なにか理想的な基準値」を設定しておいて、それを越えたのだが「問題ない」というように言っているようなのだが理解できない。
専門者会議というのは本当に専門者がやっているのか?とすら疑問に思ってしまう。

私は現在の数値が市場として問題のない値なのかは判らない。
私が問題視しているのは「いったん決めた基準値」を「超えた」から問題だというだけの話である。
基準値というのは市場として使って問題ない値を論議して決めた値ではないのか。
それを目標として土壌対策などをしてきたのではないのか。

もし「超えたからと言って問題とは言えない」というのならば「ではどのような根拠で、どのような意図でその基準値を決めたのか」という基準を決めたときの論議過程のいい加減さが問題となるのだ。
これは市場問題全般の「論議の不透明さ」にも繋がっている。

なぜ値が前回と大きく異なったのか

大きく変わったので「暫定値」という言葉が出た。
まあ、判らなくもない。
継続的な調査において大きく違った値が出れば、何か間違いがあったのではと考えて仮置きするのはわからないでもない。

問題は値の変動と言うよりも、今までは「検出されず」だったのに値が出てきているということである。
検出されずと言うのは、通常は測定器の性能(測定限界)よりも低い含有量であり、存在を認められない、または自然界に通常存在しているのと同じ又はそれ以下である事を挿す。

例えばデジタル計量計を考えてみよう。
0.1g単位の測りでは、例えば0.13gのものを測った場合は0.1gと表示されるだろう。
では、0.03gのものを測ったら?
それは0.0gと表示され測れない。つまり何も測っていないのと同じである。これが測定限界である。

通常は環境測定値の基準よりも何桁も小さい値も測ることが出来る。(物質によっても変わるし、自然界に普通にある・混入しやすいものは難しくなる)
それが基準値にかかるほどに“増えた”ということが非常に不審感を持たざるを得ないのである。

少なくとも「前回以前」と「今回」の違いをきちんと精査すべきである。
どちらかにミスがあった、問題があったというのは間違いがない。
測定方法の定義上で、ぶれの余地があったのか。
測定者が変わったのか。測定装置が変わったのか、なにかしら変わったから変わったのだ。
すべて同じなのなら「暫定値表記」を外すべきである。

排水ポンプを動かし始めたという話が大分前にあったが影響している可能性もある。
例の地下空間に水があるために動かし始めた(そもそも市場運用開始後は動かす予定だった)ものである。
そうなれば今回の方が運用中の状態に近いのだから、今回のものが「正しい」値で、前回までのが「参考値」ということになる。

もちろん、前回までのものが昨今起きている「データ改竄」であったとすれば大事件であり論外である。
さすがにそれはないと信じたい。

なぜクロスチェックが必要なのか

今回の測定結果をみて、「クロスチェックが必要だ」という声が出たという。
ダブルチェックという言葉の方が判りやすいと思う。
複数の調査方法や測定者(会社)に依頼する等が必要であるということだ。
そもそも懸念がある場所なのだから初めからやれよ、と思うのだが、当事者達はそうではなかったようだ。

ただし測定限界以下だったのが数値が出てくるというのはさすがに検査方法の違いというのは考えづらい。
数値としては何倍かは違ったりはするかもしれないが、せいぜいそんなものだろう。
通常は基準値なんか下回って当然で、基準値ギリギリなどと言うのは“合格は運次第”なので通常の感覚では論外である。
例えば100点満点の認定試験で合格点は50点以上、というのなら、まあ満点を目標に、どんなに体調が悪くても70点ぐらいは取れるぐらいにきちんと勉強しておくものであろう。

難しいことは抜きに、一回は複数業者に調査させてみるというのは良いかもしれない。
もはや“信用問題”になりつつあるからだ(すでにになっている?)
それでどれだけばらつくのかというのを一度明確にするのは手であろう。
そもそもこういう環境測定の結果をどうやって捉えたら良いのか、おそらくはそこから分からない人が多いだろうからである。
普通にこれだけはばらつくものですよ、ということを示しておくのも良いことと思う。

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2017/01/04

プログラム教育は必要なのか論議

大分前からこの論議はされている。
そもそも必要なのか論議である。

私はプログラマーを増やすという観点では疑問視しているが、子供の資質を育むという観点では賛成である。

教育としてのプログラミングとは

例えば、学校の体育で「サッカー」やら「バスケットボール」やら「バレーボール」やらについてルールの勉強をして、基礎的な練習をしていちおう試合まで行うだろう。
メジャーなスポーツなら学校大会をやるかもしれない。
でも、プロ選手を育成したり抜擢するわけではなかろう。またそれでプロになりたいという人なんか皆無であろう。

体育という教科でやること、そこで肝心なのはルールというものがあり、それを遵守しながらプレイを行うという面白さを知ることではないのか。
また、とりあえず経験があると観戦するにも面白さは段違いであろう。
もっと色々思いつくが、私が思う限りはそれらと同じ論理である。

「将来のIT人材の確保」とか「プログラマー不足に備えて」とかいう言葉を聞くと「こいつわかってねー」「バカじゃねえの」としか思えない。
「プログラマーなめんじゃねえ」という憤りを感じることもある。
プロというのは学校授業レベルでなんとかなるものではない。
最低限として「部活」でどっぷりとやっているのは前提であるし、多くのトッププレイヤーはもっと小さい頃から訓練を重ねている。

プログラムで学べることとは

そんな中で私が大いに共感する、良い記事を見つけたので紹介する。

リンク: PCを使ったプログラミングが子供の可能性を大きく広げる.

    また、プログラミングを学ぶことで、子供のこれからの人生で大きな助けとなる3つの力を身につけることができる。その3つの力とは、「論理的思考力」「問題解決能力」「情報収集能力」である。

同感である。
私は中学校の頃プログラミングの面白さにハマり、趣味としても、四半世紀を軽く超えた。
プロとしてプログラムをした時期もあったが、そうでない時期も多い。
それでもプログラミングで得た“能力”は直接的・間接的の両方で役立ってきたのは事実である。

これらは社会人になってから勉強・学習するのにも必要な能力である。
人間がある程度成熟した社会の中で生きていくためにも必要な能力と言っても良い。

プログラムとは文書である

プログラム界で有名だと思う(知らなくても共感されることの多い)言葉の一つがある。

「プログラムは、あなたの思った通りには動かないが、あなたの書いたとおりに動く」

会社というのは文書で動く。ある程度大きくなればそうであるほどそうだ。
社内であれば、通達・作業書・手順書・連絡書・議事録等々。
少なくとも対外的には文書というのは大きな意味を持つ。
契約書や覚書、それ以前の様々な交渉もあるだろう。

文書を書くというのは仕事としては重要なものである。
文書そのものが業務の結果として評価されることも多い。

しかし他人を動かす文章というのは難しい。

思った通りに動いてくれないものだ。
私がその時にちらつくのはこの言葉である。
「なんだ、コンピューターに比べればよっぽど意図を汲んでくれている」
電話をかけてあれこれ説明すれば理解してくれる場合も多い。よっぽど融通が利くものなのだ。

プログラムというのはコンピューターに提出する文書なのだ。
様式は厳密だし、細かいところにも注意が必要だ。
自分の思ったようになかなか動かない。

しかし、改めてプログラム(文書)を追うと、なるほど書いたとおりに動いている。
コンピューターに「そこはなんとかしてくれ」と言っても聞いてくれるわけが無い。
この“いらだち”は永遠の課題なのかも知れない。(この克服が“永遠の麻薬”的な面白さなのかもしれない)

そもそもプログラムとは“式次第“議事進行”といった意味もある。
例えば“結婚式のプログラム”とは式の進行表のことである。

会社業務とプログラム的思考

会社組織自体も含めて“システム作り”というのはプログラム用語でも使うし、会社での一般用語としても使われる。
自分の思い通りではない部分との“インタフェース”をどうするか。
これはAPIとしての定義のようなものだ。
どこで切り分けるのか、“ラッパー”を置くか。足りない機能をどう保管するか。
機能、部署から作らねばならないかもしれない。

これだけやればなんとかなるだろう、ではなくて、実例を一度想定して仮想的に動作させてみる。
これはデバックである。
他人の評価的なデバッグの前に、自分の頭の中でプログラムをすっと動かしてみる。
ある程度の経験を積んだプログラマーは、無意識にやってしまうものだ。

知識というよりも、プログラマーとしての習慣づけ、考え方、作業の流れ等が、ビジネス様式とマッチし、役立つ事が、おそらく多くの人が思っている以上にあるのだ。
いわゆる“先進のビジネススタイル”とやらが「それってプログラマー的には当り前じゃね?」と思うこともある。

要件定義

プログラムを作るプロセスの中で重要な事に“要件定義”というものがある。
要するに“何を作るのか”を決める一つの側面である。

工場なら品質基準があるだろうし、商品開発なら製品仕様というものがある。

もっと日常生活で考えてみよう。

例えば子供に買い物を頼むとすれば
・○○スーパーに行き、そこで買うこと
・豆腐一丁とニンジン二本、ジャガイモ一袋、牛乳一リットルパック一つ
・三百円以内で好きなお菓子を適当に
・お財布には千円だけなのでそれ以内で
こういう“定義”をして守ってくれるとすれば、大きく予想を外れない。

子供はこの要件を満たしながら、自分に有利にお買い物をしようとするだろう。
それを見越して、重要なのは例えば買う場所を指定することと、牛乳の大きさをきちんと定義することである。
ミニパックの牛乳にしてお菓子を余分に買われるのが問題だからである。
かといって銘柄などまで指定するとまだ漢字が読めない子には頼めない。
そういう塩梅を考えて指定することも重要なことなのである。

これからの社会とプログラム

阿吽の呼吸や根回し・説得が支配する日本のムラ社会を脱却し、海外の“常識の通じない人々”に物事を伝えるという機会がこれからはどんどん増えていくだろう。
口約束ではいつの間にかなくなるから、きちんと文書化したり法的措置すら付けることも必要だろう。
よく批判される外資系ハンバーガーショップの接客マニュアルは、必要された結果であり、とても重要なものなのだ。

ボーダーレス、グローバル化が進んでいけばそういう人達のと交流が増える。
その点でも「もっともわけのわからん常識もなく融通の利かないコンピューター」と付き合うことになるプログラミングというのは役立つのではあるまいか。

実際の教育はどうすべきか

これは難しい。
グラフィカルで簡単な(安易な)プログラミング風な“積み木”でもさせるようなものを“プログラミング”と称するのは私は適切とは思えない。
もちろんC言語のような不条理な言語をやれといったり、昔やらかしたCASLなんて言語をぶちあげるのも感心しない。

最悪なのはプログラム言語の“文法”を覚えて、小さいプログラムを書いて終わりというパターンである。
言語なんか道具の一つなのでそっちはどうでもいいのである。

前述の話を再度だそう。
学ばせるべきは「論理的思考力」「問題解決能力」「情報収集能力」である。
これを体感できるようなプロセスを踏めれば良い。

サッカーでただボールを蹴って「サッカー」と称するのは幼稚園か小学生低学年迄である。
ルールの中で組織的・戦略的に試合を動かそうとするところまでが本当は欲しい。

最初からうまくいくとは思えないから、何度も試行錯誤して良いものにして行って欲しいと思う。
むしろそういう姿勢で教育を創り上げていくことが大事なのだろう。

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