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2016/01/30

道徳教育ではいじめは悪化しかねない

集団におけるいじめの本質とは何か。
脳科学や社会集団心理の観点から考えれば、それは集団維持における本能から派生するもののようだ。

集団の中で、他の多くの人と違った行動をとればそれは集団の危機となる。
間違った行動をとっている人がいれば彼を正してあげる必要もある。
たぶん最初は正しい行動なのかもしれない。
そして脳科学的に言えば、それは良い刺激である。

集団にとっても良い行動となるので周囲からの社会的承認も得られる。
これも人間にとっては心地よい刺激だ。基本的本能とすらいう人もいる。
多くの人々が社会、つまり職場やボランティアやSNSで求めるのはこれらの刺激である。

危険なのはこの次からだ。刺激というのはまた新たな刺激を求める。
初めは明らかに間違った行動を諫めていたのだろうが、当然問題のあった"彼”は行動を正していく。
そうすると彼に対しての”攻撃”ができなくなる。

ではどうするかといえば、ほんの些細な問題、指摘する人の思いこみや自身の価値観との相違によって、問題を”でっちあげる”ようになる。
「炎上Twitter」にみられるような、社会的承認を得る(いいねをもらう)ために無茶苦茶な行動に走るのと同じ構造だ。

これは「道徳心の強化」で解消できる事項なのだろうか。

解消どころかかえって悪化させることにはならないだろうか。
構造を考察していくとそう思わざるを得ない。

「道徳心」の多くは「特定の考え方の強要」である。
それを良い考えとして指導し、画一化していく。(その考えの善悪は問わない)
集団生活の中ではある程度はやむを得ないことかもしれない。
しかし、なにが「良い」でなにが「悪い」か、は、ある範囲については共有できるが、ある範囲については異論が出てくるものだ。

どんな意見でも百%の同意は得られない。
たいがいは数%の異論は生じるものである。それがむしろ普通ではないのか。
学校のクラスが四十人程度だとすれば、一人は”異端児”がいても不思議ではない。
それはその一人が悪いのではなく、人間、いや生物の多様性として当然生じる”もの”である。
(話はそれるが日本の国会の「全会一致」というのは海外の人には「気持ち悪いもの」とみえるらしい)

仮にその一人が”排除”されたとしても、他の何かの案件でまた別の一人がでてきてしまう。その閾値が変わるだけのことである。
現象面で見れば、出てくるまで状況が変化していくだけのことなのだ。

もしある意見に対して百%の同意があったとすれば、むしろそれは疑わなくてはならない、危険性がそこにはある、という思想家もいるぐらいだ。
だから異見を重用し論議を深め、最後は多数決になるのが民主主義の多数決主義だ。
異見を排除し、多数決で強行するのは誤った多数決主義である。
それが多発しているのは・・・いうまでもあるまい。

道徳という形で、特定の考えに対して「正解」を定義したとすれば、それに異論を唱える者は「誤ったもの」というお墨付きを与えてしまうのである。
この構図が実に危険である。
つまりそれがいじめの要因へのお墨付きを与えてしまうからだ。。

どれを正解にするか、が問題なのではない。
どれを選んでも問題が起きるのが当然の帰結なのだから。
どれかひとつを正解として指定すること自体が問題なのだ。

では解決策は何か。それは多様性の承認である。
画一化とは真逆である。

道徳の時間で出来る可能性はある。
道徳では「なにが問題なのか」「どうすれば良いのか」ということを考える。
しかし正しい回答を導き、答え合わせをする」ことは間違っている。

「どれだけの問題点が考えられるか」「そこから導き出される解決策をどれだけ考えられるか」について、いっそその数の勝負で評価をすべきでは
ないだろうか。
また”奇抜さ”について評価するのも良いかもしれない。
人の思いつかないことを思いつくことは特に現代にとっては重要なことだ。
教科化に伴う点数づけもそれに従えば客観的にも適合する。

個人的にその中のどれが正解かを考えるのは構わないと思うが、どれを選んだか自体は評価すべきではない。
なぜそれを選んだかの理由をどれだけ合理的に説明できるかを評価する。

なぜ道徳でやるかと言えば他の教科に比べて回答や過程の多様性を期待できるからだ。
例えば算数や数学の答えに多様性を求めるのは無茶だ。いいところ解き方ぐらいだ。

このような道徳教育であれば、いじめの緩和になると思うが、むしろ逆行するだろう。
「正解」との適合性で評価するのは他の教科でもなされることだし、評価する方も楽である。最悪、むしろ悪夢の展開ですらある。

例えば性的マイノリティの社会的承認、性差を認めた上での男女平等等がある。もっとも簡単で具体的なのは夫婦別姓の承認なのだが、それすらも意味不明の理由で、現在の政治は拒否の表明をしている。
安倍政権下で特に自民党の考え方(憲法修正草案)が表に出てきているから、特にそれは明確になっている。安倍氏自身はもっと極端のようだから始末におえない。

「かかあ天下」が伝統ならば、むしろ日本の会社組織における女性の社会的マイノリティは古い欧米的社会構造に倣った人たちが作り上げたものでしかない。
農村、つまり農業では男女平等であった。
特に武家階級で男性優位社会を勝手につくって、それを必要以上に重要視しただけだ。それは武家社会の伝統かもしれないが、日本の伝統などと称するのは、長い歴史と広い社会をみれば噴飯ものですらある。

たかが明治以来の社会的行動を伝統というのはあきれてものが言えない。
たかが武家社会のほんの歴史の一瞬の一部の階級の行動様式を伝統というのか。
日本の皇紀としては2600年もの歴史があるというのに、たかが百数十年程度で日本の伝統と証するのか。
日本の伝統を真に重んじる人はもっと怒るべきである。

さらにいえば世界的に見てグローバルスタンダードでない、つまりガラパゴス化した社会であるという言い方も出来る。その点でも問題だ。

いじめの本質にあるのは、特定の人間の偏見と狭小なものの見方、思いこみや好き勝手なその場しのぎの判断や考えではないのか。
パワハラやセクハラ等のハラスメントも根っこは同じに見える。
この問題が起こったとき、その特定の行為は氷山の一角の場合が実に多くはないだろうか。
根本は、その人の狭小なものの見方、知識不足の場合すらあるのではないだろうか。

教育というのは知識の増強であるし、広いものの見方を醸成するものではないのか。
道徳を教科とするのなら、その点に反してはならないはずだ。
道徳心の醸成などという曖昧かつ狭小なものに終始するとすれば実に危険である。
やるべきことは合理的かつ多様な思考力の醸成、多様な知識(を得たり活用するための姿勢)の付与である。

しかし仮にこのような考えで進めようとすれば、これらを「本来の道徳ではない」というような訳の分からない理由で反対が続出して却下されるだろう。
今までの道徳教育がそうではなかったからだ。(それでも今まではこころある教師はそういう要素が入っていたかもしれないが教科化でそれすら否定されるだろう)
今までやってきたことを「本来」と称している狭小なものの見方だと私は思うのだが、頑として曲げない人が必ずいる。
それが大概は「エラい人」なので始末が悪い。
結果として「道徳教育の強化」には懐疑的と言わざるを得ないのだ。

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甘利大臣辞任は潔いのか

甘利氏の大臣辞任が決まった。
潔いという意見がネットででているが、アホかと思う。

余りに周到に「ひっかけられた」ために言い逃れができないと判断したと考えるのが妥当だろう。
今回は音声記録があるために、最後はそれが決定的証拠になってしまう。
思い出すために一週間の時間をとったが、それは彼らと自分が交わした言葉などから推定されてしまう発言が存在したかどうかを思い出して整理していたのだろう。
また記事の第二段をみてどれだけ相手が掴んでいるかをみたかったのだろう。
その結果、これはアウト、と判断したということだろう。

アウトなら事態が悪化するだけであり、即辞職の方が良いと考えたのだろう。
マスコミ対策・世論対策は小泉内閣での成功もふまえ、安倍内閣では周到だ。
今回の反応も見込んだ上での施策だと考えた方が妥当である。
好感を示したという半数はまんまと引っかかったわけだ。

「秘書がやった」は本人の政治信念がどうこうではなく、さすがに少しは政治的に成熟しつつある日本ではもはや通用しない言い訳であろう。
小渕なにがしのあれは「あまりにひどい」の分類になる。
「ベッキーよりまし」などは比較対象がまったく次元が違う。
論外なひどさに惑わされて「今回のは良い対応だ」とするのがそれこそ次元が低い。

想定外の辞任発表にマスコミの追求が弱かったことについて「気を使った」はともかく「敬意を表した」という憶測もある。
本当のことは当然当人しかわからないが、その憶測ははずれだと思う。
単に想定していなかったので想定質問を用意していなかっただけ、と考える。
アドリブが効かなくてフリーズしただけだろう。

最近は事前の周到に用意した対応をする人が多い。
そしてそれ以外はからっきしダメなのだ。
典型的なのが大学入試への対応で、一般的な学力ではなく、試験に適応した力をつけている傾向が年々強くなっている。
子供の頃にそういう悪い癖をつけ「三つ子の魂百まで」になってしまっている。

今回のことが大問題なのは、TPP担当大臣だったことである。
TPPというのは利権の固まりである。
農業だけがやたらと表にでるが、包括的条項であり世の中の仕組みの多岐にわたる。
「管轄」などは特定できないほどの広さである。

李下に冠をたださずというが、どこを歩いても李下である職を拝していながらの不祥事は論外である。
そもそも安倍政権で大幅に許容した民間企業からの政治資金寄付自体が問題である。
問題と言われながらも無視しながら強行しその結果がこれなのだから、ある意味自業自得ですらある。

なお、個人的にはTPPという考えには賛成だが、甘利氏の締結した内容には全く不満なので彼の辞任については惜しいとも何とも思わない。

それにしても公認の石原氏は大丈夫なのだろうか。
「最後は金目でしょ」という失言はまだ記憶に新しい。
あれでの辞任だったか改造に伴う不継続だったかはもはや興味ないので覚えていないが、失言辞任だった感は否めない。
それをさらに重要度の高い担当大臣にするというのも全く理解できない。

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2016/01/21

電力小売自由化、が正しい言い方

電力自由化は正確には「電力小売り自由化」である。
この言葉をきちんと使っているマスコミは余りに少ない。
ここでもまたミスリードである。

小売りの自由化だから作るほうと運ぶほうは変わらない。

通販で考えるとわかりやすいかもしれない。
例えばA社の品物を買うとする。
決済はクレジットカード。どちらもゆうパックで送ってくる。
違うのはどこで注文するかだけだ。どこで買ってもおそらく同じ工場作られている。
しかも両方とも一度通販会社の倉庫にすら入らず、メーカー直送である。

さてこれでどれだけの価格の差がでるだろうか。
誰が考えても殆どないのがごく自然だ。
ただ売っている会社は選べる。これを「自由化」と称しているわけだ。
むしろ様々な会社が自由に参入できる。むしろこれが「自由化」である。
各種業種にとっては新規市場が開かれるわけで手放しでおいしい。
実態が仲介(悪くいえば中抜き)事業だからリスクも少ない。
業界を向いている安倍政権というが、これもまた安倍政権らしい。

一番典型的なのはローソンの参入である。
いうまでもないがそこの社長の・・・まあ、みなまではいうまい。

各社の競争内容も実に不健全である。
実質の競争が出来ないので「2年縛り」等の長期契約特典や、契約時ポイント還元などの一時特典で縛るやりかたが横行している。

宣伝の仕方も酷い。
政府は「各社に比較できる料金説明を」といいながら具体的方策はなにもしていないようで、モデルケースが各社バラバラである。
3人家族一戸建てケースといいながら月の消費電力がバラバラだ。
さらにいうと月○○円のケースといいながら年間で○○円安くなるという表現をする。
だいたい月毎の料金は季節で大きく変わるのだから月○○円のケースとは意味不明だ。
これではまったくわからない。

なぜこんなことになっているかといえば、実態よりもお得感を大きく見せたいから、としか考えられない。
そしてその得と思ったぶんは、実は囲い込み「縛り」をくらったことで相殺されかねない。
いうまでもないが、こういう長期契約をするときは、解約するときのペナルティ(解約手数料等)もきちんと確認すべきである。
安いと思ったのに、途中解約による手数料で全部とんだらあほらしいことこの上ない。

さらに罠がある。これらの割引は一般家庭より高い水準が設定されている。
自分の使用条件ではほとんど割引にならないケースになりかねない。
一人住まいや日中は殆ど家に人がいない共働き等は要注意だ。
そして10Aや20A契約では割引対象外というのもある。
昔建てた家でほとんど家電が無いような家ではありえるケースだ。
契約の段でがっかりしないようによくよく細かい文字まで読むことが必要だろう。

これもアベノミクスのように恩恵を受けるのは「電気をたくさん使う人=金持ち」ほど多く恩恵を受け、逆に貧しく質素に暮らす人には恩恵がごくわずかとなる。

話はさらに先がある。
小売り自由化の先は発電と送電も分離・自由化である。
いうまでもないが、発電なんて自由化が出来るわけがない。
正確に言えば競争が生じる自由化が出来るわけがないということだ。

勘違いをしている人がいるが、自由化すれば競争が生じるとは限らない。
巨大資本が必要な石炭発電、さらに加えて税金投入を含む国家支援が必要な原子力発電は新規事業者ができるわけがない。
再生可能(持続可能)エネルギーの殆どはまだ補助金による価格安定が必要な状態だ。
石油やガスは専門業社ならともかく素人には手がだしづらい。

むしろ政府役所がやりたいのは各電力会社の吸収合併らしい。
これはなにがなんでも継続しないと破綻してしまう原発事業を持続させるためにも重要なのだろう。
世界最大手の東京電力すら原発の上部隔壁が蒸気で吹っ飛んだ"程度”で経営破綻するのである。
そのリスクを減らすのは巨大化が最適である。

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2016/01/16

廃棄カツ横流し、スキーバス事故

「安物買いの銭失い」とはよく言ったものだ。
安ものには何かワケがあり、結局は損をする。

銭や腹をこわしかねない程度ならまだいい。
命まで失うという取り返しのつかない損をしてしまっては悔やみきれない。

「価格破壊」「安値に挑戦」なんて言葉に踊らされないように。
「なにかうまくやっているんだろう」ではダメだ。
破壊したのは本当に価格だけなのか。他の何かも破壊しているのが普通だ。

「うまい話には罠がある」なんて言葉もある。
なにか"罠"があると考えてそれを見極め、その"罠"が自分には問題ないことを認識してからにしよう。
それはリアル店舗でも、ネット上でも同じことではないだろうか。

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2016/01/11

原油安デメリット解説への不審感(今朝の番組)

原油安の“デメリット”について先の記事で書いたが、このデメリットの要因の“一説”を朝の番組で解説していた。
まったく説明不足しており、納得できない。
むしろ不信感の方が大きくなった。

わざわざ前置きで“一説”と断っているのが不審である。
番組側としても完全に納得していないままその説明をしているとも取れるのだ。
いわゆるフリップで説明しているのだが本旨が「残り三分の一」でやっと出てくる、舌足らずなのだ。
なぜ舌足らずなのかと言えば「そこを突っ込めばボロが出る」からだろうとしか思えない。 当然不足感があるので自分で埋めようとしてどう進めても論理破綻してしまうのだ。

私のような景気の素人で推論を進めると容易に破綻してしまう理屈を、なぜ経済評論家などのプロが“解説”と称して話をするのか。
なぜ破綻しない論理できちんと解説できないのか。不思議でならない。

アメリカ側の事情

輸出額の低下=収入の減少によりアメリカの経済に悪影響あるという。
それによってドル安となり、相対的円高になるので日本の輸出産業にとってマイナスになる。
そういう説明だ。おかしくなはないか。

アメリカが石油を輸出する、というか輸出ができるほどの量を確保している“シェールオイル革命”が起きたのはそんなに昔の話でもない。
それによって好景気になったという話もそんなにはない。(もちろん好材料の1つではある)
逆に言えばそれに打撃(減収)があってもアメリカ経済全体にさほどの影響が出るはずもないのだ。(シェールオイル前にも産油国ではあったが内需向けだけである)

今の原油安を“支えて”いるのはシェールオイルの安値である。
最初はコストが合わないと言われたシェールオイルという採取方法だが、技術の積み重ねでどんどんコストが低下した。
米国内での同業者間のつぶし合いはあるだろう。
しかしいくら安くしても中東の産油産業をつぶすことは不可能だから、この低下が一時的な“ダンピング”とは考えられない。
そもそもこれで米国経済を落すようなまねをする(というか低下する)わけがない。
影響が大きいというのなら、どれだけの低下になっているのか数字が出てもおかしくない。

なにによりも、現実にドル安円高になんぞなってはいないではないか。

先取りをして日本株の売りになっているというのなら、こんないい加減な憶測や前評判で、これほどの株の売りになるというのなら、これほど株価というのは景気などとは無関係であり、そんなにいい加減なものなのか、という話になる。

だいたい、ドル安になれば米国経済の輸出産業としては大きなプラスである。
いうまでもなく米国は輸出大国である。農業を含め自国に豊富な資源を有しているから恩恵は日本の比では無い。
なのに米国の株価も下がっている。

なんでこれで説明になっているのか、おかしな話である。

中東の事情

中東側としては価格低下によって収入が減少している。
だから中東の政府系ファンドがその減少にあわせて株を売りに出ている、というのだ。

確かにいわゆる“オイルマネー”による株の保有というのは無視は出来ない量だと言われる。
そもそも海外の投資家を日本の株式市場に招き入れるというのは、その国の事情で大きく左右されるということなのだ。
このような原油安で株低下が問題だというのならば、アベノミクスで推進している海外投資家の比率を増やすということを批判する必要がある。
これを肯定するのならば今の原油安は当然のこととして受け入れる必要がある。
この観点を突き詰めると話が矛盾しているのだ。

この価格低下はそれほどに厳しいものなのだろうか。
このような形での株売却はいわば貯金の取り崩しである。
取り崩していけばいつかは底をつく。

自らの売却で株価を下げてしまえば、自分の資産を目減りさせてしまう。
そうなればいくら台所事情が厳しくても目に見えるほどの売却は難しくなる。

この価格低下は一時的なものなのか、といえばそれはNOであろう。
突発的事項ではなくて、アメリカの技術進歩(市場原理)による“成果”である。
これが否定されるのは資源の枯渇しかない。
しかしそれは少なくとも何十年という先だからこの方式が発達したのだ。

米国的に見ればその次は持続可能エネルギー、持続可能社会であり、脱石油社会である。
(いうまでもないが米国企業にとって原発なんぞはコストの合わない資源である)

中国の景気失速

チャイナマネーの方がむしろ危険だろう。
政府系も個人系も目先である。

ただ中国国内失速で、投資家の目がむしろ米国や日本に向かうとすればどうなのだろうか。
まったくわからない。

とりあえず中国の内需減少で輸出産業の低下は避けられず、中国需要頼みの会社は厳しいだろう。
もともと中国(というか海外)で売れないと会社がアウトという構造が問題だったのではないか。

それにしても中東・米国・中国によって日本の株式市場がこれだけ荒れるのである。

株価は景気指標なのか

内需主導の日本経済の時は、日本の株価が景気の反映というのは正しかったのだろう。
そのころは投資家も日本の比率が高く、日本の事情が大きく反映していた。
「株の持ち合い」も結局は景気の反映の色を強くする。

この乱高下を他の国の事情だとしよう。
それによって数千円も乱高下するのが実態だとしよう。

その点を肯定するのなら2万円をつけた高い株価も世界の景気に支えられた“バブル”であったともいえる。
こんな実態だとしてもまだ「日本の株価は日本の景気の反映」と言えるのだろうか。

昔は米国が風邪を引くと日本も引くといわれたが、今は世界が風邪を引くと日本も引くと言うことになる。
米国と経済協調をとるのはある程度可能だが世界中は不可能だ。

日本の株価を景気の指標にするのはもうやめた方が良い、というか馬鹿馬鹿しい。
下劣な言い方をすれば個々の“マネーゲーム”の集大成でしかない。

結局、今の原油安騒動から見えてくるのは、そういう結論になってしまう。

それでも番組の中で「結局は内需拡大が必要」という声が出た。
まだ救いがある。

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2016/01/09

今年も始まって、はや一週間

新年になってから一週間ほど経ったが、なんか去年にも増してイラッとする報道が多くて困る。 非論理的、いや論理が破綻している発言が横行している。 論理をねじ曲げる、無茶苦茶な論理を否定しない、破綻していても気がつかない(ふりをする)。 前にもどれかの記事で書いたが、戦争を止めるには「どのように戦争に向かい、なぜ開戦したのか」を知る方が重要だと考え始めている。 (「終戦」や「戦時中」を知ることも不要とは言わない。しかしそれを「悲惨」とか「むごい」とかそういう括りで捉えて、「だから反対」という論理では戦争は止められないだろう、と考えている。) その中で1つ言えるのは、まさに今の風潮がそれに近づいているのでは、と感じつつある。 “戦争法案”なんかはその一端に過ぎない。ただの前提づくりでしかない。 戦争は政府や軍部、ましてや天皇陛下だけが作ったものでは無い。 一般国民やマスコミ等もそれを鵜呑みにしていたということもあるのではないか。 この点も過去に書いたが、法案の中身の是非以前に、その過程に問題がある。 それも上に述べた“無茶苦茶な論理”の横行である。 安倍総理が戦争に導く、なんてことは思っていない。戦争はそんな軽いものでは無い。 しかし安倍総理的なスタンスが、戦争を始める構図に近づけてしまうということが懸念なのだ。 それが日本全体で「当り前」になってしまうことが問題なのだ。 戦前を知っている“ご老人”達が感じている危惧はもしかしたら意識せずともそれなのかもしれない。

遅いぐらいの国会開催

例年より早く開催された国会と繰り返されると、なんかムカッとする。

もう去年の年末のことを忘れてしまっているのだろうか。どれだけ鳥頭なのだ。

TPP締結後など、臨時国会の召集を求めていたにもかかわらず政府与党はこれを蹴った。
法律的に言って、違法とまではいかないが法の精神に反することであり、異例のことでもあった。
それでも“妥協点”として年始直後に開催することで“納得”させたのである。

本来は去年の年末の臨時国会でやるべきことを、やっと今の国会でやっている構図だ。
つまりは“遅い”国会が“ようやく”開かれているというのが正しい認識である。

原油安

原油安になり、経済に打撃と言っている。
原油高の時も経済に打撃と言っていたはずだが、一体どっちなのだ。

原油というのは原材料である。
これが高くなって得をするのは生産国である。
一部の取扱業者も得をするがそれは“便乗値上げ”に成功した場合に限る。

安くなって得をするのはそれを利用してものを作ったり、石油(ガソリンや重油など)を使っている業者である。
運送業や、農業や漁業、電気会社、もちろん一般の自動車を使っている人達は直接影響を受ける。
ガソリンは競争がある場所では既に(十円単位で)100円台になっているのでその恩恵は月に千円単位にもなる。
せこい軽減税率など鼻で笑うようなレベルなのだ。

もちろん、原油価格が下がれば電気料金にも反映される。
石油による発電はもはや一桁%になりつつあるが、多くを占めるのはガスである。
ガスは“石油連動価格制度”なので石油が下がれば一緒に下がる。
当然ながら(燃料調整費として)電気料金の総額は下がっている(はずだ)。

その浮いた分が他の購買に回れば景気は良くなるはずだが、まあ、元がきついので変わらないのだろう。
もちろん金持ちはこれによる購買意欲はさほど変化しないのでこれも変わらない。
そもそも“景気”は総合して庶民が支出する金額の総額なので、電気やガソリンで下がった分を他で消費しても、総額で変わらないのは小学生でもわかる理屈である。

よって打撃(インパクト)はない、というのが正解だと思うのだが、なぜか打撃と喧伝する。
株価が下がってしまっているので「中国景気」と絡めて打撃ということにしたいのだろう。

むしろ原油高で物価高になった方が、高くなった分“強制的に支出”される額が増えるので“景気は良くなる”
これが庶民感覚ではこれは“生活が苦しくなる”=“景気が悪い”となる。
これが上から目線と庶民との差ではなかろうか。

TPP影響試算

TPPによる影響試算がヒドい。

妥結前には、妥結すれば“これだけ暗黒の世界”となっていた。
ところがこの国会に向けて出された資料ではだけつによって“バラ色の未来”である。

当然ながら、プラス面は過大評価、マイナス面は過小評価である、という批判が飛び交っている。

少なくとも農業ではマイナスになるが、工業ではプラスになるはずだった。
ところが工業でプラスになる(少なくとも変化がある)のは十年以上先の話であることが判明した。

ということは農業でプラスにしておかないと、TPP自体メリット無しとなってしまう可能性が高くなってしまう。
よって“数字を操作して”プラスにするような資料が作られたのだろう。

問題なのは政府や省庁の作る資料・統計というものが、こういう“小手先三寸”でマイナスがプラスに化けてしまうということである。
集計や統計といった数字を盲信する人は多い。
しかしそれらの数字はその根拠や切り口(調査のやり方)でいくらでも操作できるものである。
必要なのはその内容である。少なくとも直感的に“総論”に違和感を持ったら、その数字の根拠を調べることが必要だ。

安倍総理は「悲観しないで挑戦しよう」とか言っているらしいがこれはただの論理のすり替えである。
少なくとも野党に対する質問の回答になっていない。
きちんと回答をした上で、自分の抱負を述べるのは構わないが、そこが飛んでしまっているのも問題である。
(もちろんこの傾向は安倍総理が“当選”した時点から頻繁にやっている欺瞞だが)

ソフトバンク1Gプラン

これもおかしな話になっている。
1Gプラン発表に対して批判めいた報道があるからだ。

そもそも1Gプランの話は先の総務省主導のワーキンググループで「1G以下の人が大半であり、実質的に3G以下プランしかないのは問題では無いのか」というところからきているはずだ。

ところが、報道では「1G以下は25%程度しかおらず恩恵を受けるのはさほどいない」という。
まるでソフトバンクを批判しているかのようにも聞こえる。

妙な話だ。

総務省主導のワーキンググループの報道は比較的大きく取り上げられていたと思う。
総じて好意的な報道であり、批判の記憶がない。
もちろんこの“事実”による批判も全く耳にしたことはない。
(私は「まあ、メール程度しか使わない、1Gしか使わない人が多いかもな」程度に思っていた)
だから「1G以下が少ない」という報道にはやや驚いた感がある。

このワーキンググループの答申を受けて、今回先んじて1Gプランの発表となったのだろう。
よって批判するならトンチンカンな答申を出したワーキンググループ(総務省他“有識者”メンバー)である。
そもそも「1Gが大半」という“データ”が間違っていることになる。
話の最初から論点がずれていたわけで、全くムダな会議であったことになる。(つまり税金の無駄遣いである)

別記事でも書いたが、その時は書き忘れていたそもそもおかしい話が他にもある。

携帯電話料金は平均1万円であるという。
一方で料金は通話等は定額でありパケットも3G迄定額である。だいたい月7千円だろう。(端末割引など一時的割引は除く)
3Gも使っている人は殆どいない=超過料金も殆ど無い、になる。

こう改めて書けば気づくだろう。
じゃあ、1万引く7千円の差額の3千円は何なのだと。

私がわざわざ言及する必要もなかろう。
高い高いと言いながら、通話やパケット料金以外の“携帯代”を決して無視できない額を払っているのだ。

だから携帯電話料金“本体”と下げて欲しいという理屈は理解するが、なんか話がずれてはいないか。

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2016/01/04

新年あけましておめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます。

・・・という言葉が間違っているという話をちらほらと見かけた。
今朝の“林先生の言葉塾”の話でもでていた。

私は思った。何が違っているのだろうかと。

「新年が明けました、おめでとうございます」
に聞こえるから間違っているという説らしい。確かにそう言われればその通りだ。

私はてっきり
「新年となりました。年が明けましておめでとうございます」の略だと思っていたので違和感がなかったし、自分でも使っていたと思う。

そういえば最近はテレビとかでも使わなくなっている気がするが、「年明けスペシャル」とかいう言葉があったわけで、その年明けとは年が終わったということを意味している。
夜明けや梅雨明けなどと同じことで、明けるとは「終わり」という意味で使っている。
どうやらその話が趣旨らしい。

なんか言葉尻を捉えてのいちゃもんのように聞こえてあまり快くない。
日本語というのは古来から曖昧でたくさんの意味を込めて発している傾向がある。
典型的なのは俳句や短歌である。
わざと複数の意味を込めて言うことで面白みを持たせているものでもある。

海外ではそういうのはあまりない。
異文化・異宗教・異民族の中では伝わらない・危険性すらあるので好まれないのだろう。

日本の単一文化・単一民族が長かった時代のおかげなのかもしれない。
固定化されたムラ社会の中で「自分の良いように捉える」ことで平穏無事にやり過ごしてきたのだと思う。
どちらが良いのか、というのは難しい話だろう。
少なくとも世界に出ていく、世界に発するのであれば、その考え、発想の根本は変えないとダメなのだろう。

話を戻すと、めでたいというのは無事一年を過ごせてまた新しい年を迎えられるからめでたいのだ。

また、新しい年になるというのは、昔は年齢が一つ上がる、つまり元旦が現在の誕生日と同じ位置づけであったことも大きいだろう。

最近はだいぶ御高齢の方が対象となるが、「数えで何歳」という表現がある。
昔は新年で年を数えていたので、現在のように誕生日で数えていない。
だから自分の歳を元旦数えでないと認識できない(良く分からないし、しっくりこない)。
出生届も誕生日を祝う風習も薄かったから、誕生日すら曖昧だったということもあるようだ。(何月かはともかく何日かは曖昧だったりするようだ)

成人の日が元旦直後にあると言うのもそのことと関連があるのだろう。
元旦に歳が上がり、成人になるのだから、“成人の日”という式典がその直後にあるのは妥当な話である。
今の誕生日数えになった時点でそのありがたみが薄れてしまっている。
例えば一月末辺り生まれだと11ヶ月後に“成人の日”を迎えるわけでなんだかシラけるのも当然ではなかろうか。

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