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2015/10/24

フォルクスワーゲン不正とか“杭打ち”問題とか

不正の横行

不正の横行とも見える問題が様々に発覚している。
常に考えなければならないのは、「特異な問題」なのか「これは氷山の一角」なのかである。
私の感覚では後者であるとしか思えない。

チェックシステムへの最適化

不正として片付けられるが、両者とも(本来は)チェックシステムがあったのにも関わらず、それをすり抜けた、ということである。
データの改竄であっても、その改竄を見抜けないのだからある意味“ザル”である。

一つは形式化・儀式化している場合があるためだ。
チェックシートに担当者判断や担当者を信じて検査員が根拠も無しにただ印をつけている。
問題になるかならないかは別として、多かれ少なかれ社会人なら身に覚えがないだろうか。
もちろん私にもある。現場にいればそれに抗う術は存在しない。
現場ではその問題を議論する余地は存在していない。
今回の“不正”も私には“日常茶飯事の出来事”にしか見えない。

杭打ち問題も、単に「杭の数だけ計測シートが揃って」いさえすればチェックに通るシステムなのだろう。
足りない、もしくは問題のあるデータがあったとして、本来は“やり直し”になるのだが「そんなことは許されない、なんとかしろ」と上から言われれば、当然の帰結として改竄を行うことしか(その場の)解決方法はない。

常態化すれば、何をやればチェックに通るか、というのが見えてくる。
今度はあの担当だからここさえきちんとやれば・・・という考えだす。
どこまで“手を抜けるか”も判ってくる。

これが“チェックシステムへの最適化”である。

このことを責められるのだろうか。
例えば、受験などで完全に自分の学力知識だけで試験に臨んだ人はどれだけいるのだろうか。
よほど簡単な試験でもなければ、誰もが多かれ少なかれ“試験対策”をする。
どの試験も“傾向”があるので“対策”を打つ。

私はこういう試験対策は生理的に“嫌い”だったが、それでも追い込み時期には“赤本”を買って“予行練習”ぐらいはやった。
マークシートも初めてでミスや不慣れによる損をしたらツマラナイので模試などを受けて、ある程度慣れるようにした。
時間配分や最後に判らなくてもとりあえず“塗れ”などというのも教わった。
そんなもんである。

問題を作った人がその問題を事前に漏らした大学教授の事件もあったが、それは最たるものだ。
今回の事件は司法試験という世間でもトップクラスに重い資格試験で起きたから大問題になっただけで、多かれ少なかれ似たようなことはあるだろう。
公に「ここ今度の試験に出るから」と先生が言うことすらあるではないか。
厳密に見ればこれもおかしな話ではある。
まあ、定期試験は学力を習得したかではなく、授業をきちんと聞いていたかを問うもの、という指摘もあるから、そういう目的ならば間違ってはないのかもしれないのだが。

チェックシステムは適性か

例えば入試試験では年ごとに問題作成者を変えるという対策を取っているところもあるようだ。
そうすると傾向がぶれるので傾向と対策が取りにくくなる。
それでも“周期で予測する”というのが受験産業である。

考えるべきはそのシステムが適性・的確かどうかである。
いくらたくさんチェックシステムがあっても、的を射ていなければ単なる時間の無駄だ。
歴史があり大きな会社ほど、問題が蓄積され、起こりにくくなっているが、似たようなチェックが継ぎ接ぎ的に構築されており、それが“大企業病”の一因となるという別の問題を引き起こしやすい。

フォルクスワーゲンの問題では「ハンドル操作がなかったら」「試験であると考えて」対応した、と伝えられる。
対応とは「排ガス浄化装置をフル稼働させる」ということのようだ。
試験場では“でっかいコロ”か“ジャッキアップ”して自動車の試験をすることが多い。
その場で車輪が空転するように車輪の下に丸い棒(コロ)で支える。
ある程度負荷をかけないといけないのでこの場合は“コロ”の上だろう。

なぜ通常使用で浄化装置を止める(システム的に外す)かと言えば、その装置を動かすとトルク(パワー)が落ちる、燃費が悪くなるというデメリットが生じるからだ。

なぜこの不正がバレたかというと、ある団体が実車での様々な実運転に対しての排ガスの状態を色々確認したかっただけのようだ。
別に不正を暴こうとかではなくて、ごく自然に自動車の現状把握をしたかっただけのようだ。
単に世界的に“ポピュラーな”VWのあの車が選ばれただけ、ということらしい。
ところが出てきた結果を見て驚き(そりゃ桁違いの悪い値が出れば驚く)通報に至ったようだ。

実動作とテスト動作の乖離

つまりは実運転で試験をしていれば容易に見抜けたということでもある。
しかしそれは実際には難しい。

別に排ガス規制だけの問題では無い。
もうずっと言われ続けている「カタログの燃費と実燃費」の乖離である。
最近はエコカー人気やらで性能=燃費なのか、と言いたくなるほどだから余計に問題となってしまう。

いわゆる日本での“燃費”とは“JC08”と呼ばれる“走行パターン”で走ったときの燃費である。
当然走行パターンは人によって差があるし、これにはエアコンやヒーターで食う燃費は含まれない。

更に言えばこの問題は自動車だけでは無い。

家電での“消費電力”という指標も非常に難しい問題を抱えている。
具体的にテレビを例に取って説明したいと思う。

テレビで言う“定格電力”というのは、ある状態での消費電力を指している。
最近のテレビは様々な“エコ機能”があるので実態の消費電力はずっと低かったりする。
定格電力は180Wと記載されているのだが、店頭で測りながら地上波放送を映している状態では100W辺りを行ったり来たりする風景もよく見る。

そこで“年間消費電力量”という指標もある。
ある時間つけてある時間は消している、“一般家庭”の使用想定で一年間使ったらどれだけになるか、という計算である。
当然一日中つけっぱなしの人からみれば少ない値だし、殆ど見ない人には大きい数字となる。
それでもこれはいわゆる待機時電力も入ってくるのでより近い数字であるといえる。

最近はここにも“インチキ”が横行しているとも聞く。
この電力は映像表示モードが「標準」であるとして計算する。(メーカーが最も推奨するモードで、普通に買って設定をした場合になるものとされる)

ところがこの“標準”の時に画面がかなり暗く設定されているものがあるという。
テレビは画面の明るさで大きく消費電力が変わるので、数値上良く(少なく)するには暗くするのが簡単である。

店頭ではほとんど「ダイナミックモード」に設定されるのが慣習なのでお客さんには判らない。
私にはこのモードは画質最悪な白飛び黒つぶれなので当然標準にするのだが、私から見て格段に暗くなるものも実際に見ている。
当然お客さんからクレームが起きる場合も考えられるが、その際には「明るさ」を変えたり「ダイナミックモード」に設定するという説明をして逃げていると考えられる。

良心的な店は初めから標準にしているところもある。(ダイナミックは画質が悪いし最近は常時は消しているぐらいで、電気代も食うからということもあるようだが)
見ると“笑えるほど暗い”ので当然売れないようで、しばらくしてみるとそのメーカーの扱い自体が消えていたりする。
しかしこういうのは“カタログ販売”つまりネット販売では“騙され”やすい。

実動作と適切なテスト

テストというのはどうしても“性能機能の一部を切り取って”やるしかない。
限られたリソースの中でやらなければならないので難しい。

理想を言い過ぎれば、コストや時間的にあり得ないものになってしまう。

最近は特に複雑だ。
様々な条件で動的にきめ細やかに動作を変えるものが作られ求められる。

ダイソンの掃除機に対して、他のメーカーの掃除機に対して“クレーム”をつけている。
これも消費電力だが、他メーカーは吸引力が落ちてきたらパワーをあげて(当然消費電力をあげて)いることは不正だというのだ。
消費電力テストではゴミを吸い込まずに“空回し”なのでこの“不正”に対応できていないようだ。
従来はなかった“エコ機能”が測定数値と実態との乖離を生んでしまう。
もちろんダイソンは“吸引力の変わらない掃除機”がウリなので自分の長所を大きく打ち出している“宣伝行為”とも言える。

掃除機は(モードは別として)常に消費電力が一定である、という前提が崩されつつあり、それにテストが対応できていないと言える。
この場合はある一定のゴミを実際に吸い込みながら運転を続け消費電力量の総量を提示する、等が必要となってこよう。
それでも“ゴミ”が再現可能な素材形状である必要性など、実態との乖離が生じやすい。

テストには限界がある

消費者としてはテストやチェックには限界がある、ということをもっと自覚する必要があろう。

そう考えたときにやはり原発の審査基準に思いが行ってしまう。
審査基準もテストやチェックの一種である。
当然限界があり、一定の不信を持つのがむしろ本質的で必要なことでさえある。
テレビの電気代が思ったより高かった、マンションでの不正すらどうでもいいくらい、原発事故の深刻度は地球規模で重大なものだ。
「世界一厳しい」すら怪しいものだし、よしんばそうであったとしても基準に疑いはある。
IAEAも認めた、としても、所詮は彼らも原発側の人間である。

また、その運用方法に問題があれば、全体の問題となる。
杭打ち問題では、末端でのデータ捏造があった。
データ検証システムの杜撰さもあるし、多重下請け構造の問題もある。

多重下請け構造における問題なんぞは電力会社がその代表選手ですらある。
本質的に疑いを持った方が自然である。

「審査基準をクリアしたから安全」なんて考えが甘すぎる。
単なる「ペーパー審査」と「運転前審査」でしかないからだ。
それだけでなぜ安全が担保されるのか、理論的におかしいのである。

そこまで重い話でなくても、様々な試験・テスト・チェックは「何をしているのか」を知っておくことは重要だろう。
例えば自動車の燃費基準であるJC08とはどういうテストなのか、それが実際に自分の運転パターンと照らし合わせると見えてくるものがあると思う。
自動車はJC08に合わせて燃費のチューニングは多かれ少なかれ行っている。これを非難しても意味が無い。
燃費を何より重視するのならJC08を“見倣って”運転すれば燃費が良くなる、とも言える。

例えば定常運転で60km/h走行と、50km/hとでは燃費が何割も違う場合もある。(これは私の車の燃費計機能での話だ)
郊外で周りの流れに合わせると60km/h以上になることは珍しくは無い。しかしそれを“抑えれば”かなり違ってくると言える。
急加速が良くないことは知られているが、緩やかすぎる加速もトータルで良くないこともある。
低速すぎると却って燃費が悪いので“適切な加速”を見いだす必要がある。
私の車ではだいたい40km/hが燃費が良さのピークに見える。
よって極力30km/h~50km/hあたりの状態に収めるか、停車(アイドリングストップ)状態にしておくことがコツとなる。

住宅の話で言えば、自分の目で見る、というのも重要であろう。
日本の“青田買い”習慣が問題ともいわれるが、逆に言えば購入を決めてから建てられている過程を見ることが可能とも言える。
もちろん工事現場に勝手に入ることは危険だが、例えば後は内装の段階で一度内覧を要望するとか、基礎を一通り打った状態で見せて貰うとか、そういう“関与”が重要と言われている。
昔の一軒家は注文住宅が多かったために、現場の指揮官である棟梁との顔合わせや現場の人と顔見知りになったりするし、田舎なら差し入れとかしたりする。
棟上げは「セレモニー」なので施工主であるお客さんを呼ぶのが常識ですらあるようだ。

実家の隣の家で全面取り壊し新築があったが、コンクリ基礎の中に昼飯の弁当のゴミを放り込んでコンクリを流し込んだという。
ある意味常態化している行為らしいが、良く聞く話だが、いくら見えないからと行ってゴミをお客さんが住む下に放り入れるという感覚が私にはムカツク。
知り合いの元大工からすれば「あり得ない感覚」だそうだが、昨今の“組み立て住宅”やらいわゆる“大工という職人不要”の中で収入減や嫌気がさして辞めたような感じなので異端の感覚なのかも知れないがそこは判らない。

思い入れが強く、理想を言い過ぎる人間が減っているのは確実なことだとは思う。
「テスト・チェックに通りさえすれば良いでは無いか。」そういう人間が比率として多くなっていく。
“成果主義”はそれをさらに助長する。
成果とは何で評価されるのかを考えれば当然の結果である。

過剰品質と言われるジャパンクオリティは成果主義がなかった時代の遺物である。
今はその時の“勢いの残り滓”で保っているに過ぎない、そんな感覚がある。
それは海外企業への依存などでもどんどん破壊されている。

学校でさえも試験対策の塾やらの発達・競争で“通ることが目的”という度合いが高くなる一方だ。
東大や上級大学姓との質の劣化も根っこは同じなのだと思う。
昔は本当の意味で「勉強の好きな、できる子」だけが入学できた。
ところが「塾でしっかり対策をしてきた子」が増えれば、全体の質の劣化は当然の結果である。

だからこそ自衛するしかない。別に試験やチェックを否定する訳ではない。
試験に通ったというのは、あくまでその試験に通っただけのことである。

盲目的に通ったから良いのでは、と思うのではなく、どういう試験なのかを知り、少なくともそこはパスしただけに過ぎない、という見方をすべきである。
そこが自分にとって不満なら自分で確認するか、試験を変えるように要求するかである。

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2015/10/12

家族の絆を守る特命委員会

「家族の絆を守る特命委員会」などという、聞いただけで気持ち悪くなるような委員会が存在しているらしい。
一部の“極右議員”の集まりなら良いのだが、そして安倍総理も「そちら側の人間」であるようで、これも問題である。
(まあ、安倍総理が“極右”説もあるので一致しているとも言えるが)

ここでいう「家族」とは世間一般、安倍総理が好きなはずの「グローバルスタンダード」な家族とはかけ離れている。
伝統的な、といえば聞こえが良いが、どうやら「日本の旧い封建制度」でいう家族を想定しているようだ。
この点で、彼らが“右翼”ではなく“極右”であるということを示している。

これらを支持する人達はどうにも非論理的で盲目的だ。
ぶっちゃけていえば「伝統的」ですらない。

そうやら伝統や絆という言葉で飾って極右を隠しているだけのようだ。
真剣に盲目である人もいるようだが、いくつかの政策をみていると、なかなかに巧妙な“既得権推進委員会”であるように見える。

夫婦別姓に見る結婚観

特命委員会は夫婦別姓絶対反対である。
選択的夫婦別姓すら強く否定なのである。

夫婦同姓というのは、“家を受け継ぐ”前提となっている。
夫婦というのは個々人によって構成される、というのが現代的であるはずだが、それを否定する人も多い。

多くの結婚式では未だに「A家・B家の結婚式」という言い方をする。
結婚式の進行の中でも「両家の・・・」という言葉は良く出る。

友人を呼ぶのはもとより、遠くの親戚まで呼ぶのが通例になっている。
「会うのは5年前のDちゃんの結婚式以来」の叔父さんと会うなんてのも珍しくは無いだろう。
これは家を守る、その前提として親戚の合意を得る的な意味合いが強いからと考えられる。
特に“本家筋の叔父さん”を呼ばないと末代まで言われかねない。

嫁入り(婿入り)なんて言葉も、“家”を単位とした観点である。
2つの家族を結びつけるのが結婚式であって、その接点がその夫婦である、という位置づけである。
政略結婚、なんてその最たるものである。
だから彼らにとっては“夫婦別姓”なんていうのは“結婚”とすら認められないとんでもないものである。

夫婦強制同姓は社会的“規制”の一種である。
女性が輝く社会とか、働き方の多様性社会とかには夫婦別姓は“重要な規制緩和”ですらあるのだが、この“岩盤規制”は一切打ち破るつもりはないらしいから呆れるほか無い。
夫婦別姓は“グローバルスタンダード”である。
強制的なんか、先進国ではむしろ少なく、強制を排除しろ(要するに選択的別姓にしろと)国連から是正勧告を受けているぐらいなのである。
ここでも安倍総理ならではの「都合の良いときだけグローバルスタンダード」が表われている。

伝統を守る、というが、こんな伝統があったのは、せいぜいが明治時代からであることは小学校で学んだだろう。
一般人が姓を名乗れるようになったのがこの時代からなのだから。
それ以前は姓を持てたのは一部上流階級だけである。
日本国2600年以上(皇紀での考え)の歴史の中で、姓を持つことすら許されなかった時代の方が圧倒的に長い。
つまり彼らの考えは上から目線であり、皇族華族上級士族目線の“家族”なのである。

普通の百姓(うちの家系もそんなものである)では姓は形式的なものであり、屋号で呼んでいた訳である。
つい最近まで、いや、現在でもその風習は残っている。
流石に若い人達は避けている感もあるが、爺婆の年齢では普通に屋号が飛び出すのだ。

夫婦控除

特命委員会は夫婦控除という摩訶不思議な税制提案を出してきた。

今、やろうとしている安倍政権の三本の矢などの政策から考えれば「子供控除」「介護控除」「老齢者控除」等の扶養者控除を打ち出すのが論理的である。
夫婦控除というのは論理的に角度を変えてみれば「独身税」である。

この裏には「事実婚」を減らしたいという意図があるようだ。
なぜ減らしたいかは良く理解できないのだが。

昨日のある番組で、自分を育ててくれた祖母の介護で未婚のまま老後にかかろうとする双子姉妹の話が出ていた。
自分が結婚することで二人で頑張ってきた“家族の絆”が壊れてしまうことを懸念したという。
普通に考えて、親の介護を背負っている身では交際も出来ないし、結婚も相手が引くだろう、という思いもあっただろう。

夫婦控除というのはこういう人達を配慮しているとは到底思えない。
もっといえば、介護離職も問題になっているし、介護離婚もあるのではなかろうか。
きちんと「介護控除」「高齢者控除」の類はどう考えても必要な話である。
普通に昔の配偶者控除でも経済的な助けになっただろう。

そもそも夫婦控除による誘導では「国家を維持する」という観点ですら合理性を欠いている。
その目的では夫婦だけでは足りず、子供が二人以上いないと“維持”が出来ない。
減税するのなら、その状態になってからが合理的だ。

また、シングルマザー(ファーザー)という形態もある。
その場合は子供が一人以上いれば“維持”していることになる。
(数字だけ見れば一人の親が一人以上の子供を育てれば“維持”可能だ。だから夫婦なら二人以上となる)
もちろん親が亡くなって祖母が育てる、等と言った場合も同じ論理となる。
孫を育てるというのは間違いなく二人目以降であるからだ。

子供を育てるという観点だけで言えば、養子を取って育てる、等という形態も考えられる。
その際には、その親が同性婚でも特に問題は無い。

こういう多様性を認めた上での、助けるべき人達を助ける制度から遙か遠いところにある。
一人一人の年収が同じ場合、論理的に経済的に最も豊かに生活できるのは子供のいない夫婦という形態である。
比較的豊かな人に比較的多くの税負担を求めるのが正当とすれば、むしろ逆である。

この委員会に安倍総理が肩入れしているとすれば「多様性」なんてよく言えたものである。

無理ゲー

この委員会の名前は深澤真紀さんという方のラジオ放送での発言から聞いたものである。
・夫婦同姓死守で“家庭に入れ”という思想的な刷り込み
・“家庭に入った”から親の介護をやるのは当然だ
・もちろん女性の活躍社会で(男並みに)活躍しろ
・出生率向上が必要だから子供を産め、もちろん育てろ
要するに安倍総理他が言っているのは“こういうこと”である。

彼女はこれを称して「無理ゲー」と吐き捨てた。
まったく同意である。
この件に限らず、現政権がやろうとしているのは理論的整合性がなく「無理ゲー」である。
もっと言えば究極の女性蔑視である。考えがあまりに浅いのである。

こんな無茶苦茶を押しつけようとするからダメなのだ。
家族を持とうとしなくなるし、子供は論外だし、さらには会社で別に活躍したくもない、なんて事になってしまうのである。
中には頑張ってやろうとする人もいるかもしれないが「燃え尽き症候群」になってしまう人も出るだろう。

だいたい「夫婦になれば控除になるから」なんて理由で夫婦となるのか。夫婦を維持しようとするのか。そんなものを絆というのか。
あまりになめているとしか思えない。

こういう政策は真逆である、という言い方もしていたが、私も同意である。
もっと「夫婦」「家族」をゆるくしなければ改善しないだろう。
それが先進国のグローバルスタンダードである。

“日本の伝統社会”ではシングルマザー否定である。
しかし比較的出生率が高い欧州ではシングルマザー比が比較的高いという。
それはシングルマザーもしっかり支えているからである。

「女手一つで苦労して育ててくれた」というのは、その個人を褒めることには異論はないが、
日本という社会構造としてはまったくをもって貧しい国家である。

遺産控除

この委員会はさらに奇妙な控除案を出してきている。

遺言を事前に書いておくと遺産が控除されるという制度。
遺産で揉めると家族の絆が破綻するので、事前に遺言を書くことを広めましょう、という論理らしいが、この制度で改善されるのか。

遺言というのは有効性をきちんと担保するには、自筆ではなくお金を払って立ち会い込みでやるのべきだそうです。
自筆(専門家によるチェック無し)だと却って揉めることが多いことも考えられるでしょう。
僅かな文書の不整合をあげつらって無効を騒ぎ立てる人は必ず出てくるからです。

当然プロの証人はそれなりの資格がいるわけで、当然料金も発生します。
つまりその方達への需要喚起ですね。簡単な利権の構図です。

もちろん遺言をきちんとするは良いことだとは思います。
しかしこれが目論見としている遺言普及、そして「家族の絆を守る」ことに有効なほどに繋がるのでしょうか。

遺産が低額であれば、そもそも基礎控除等でかからない額になることも当然多いはずです。
当然ながら遺書による控除は意味が無くなります。

そもそも遺産で揉めるのは高額よりもむしろ控除が掛からないような低額の方が多いとの、訴訟統計からの読み方もあります。
遺産があれば生活がかなり助かる、という向きの人は所得が低いということは容易に想像できます。

それに低所得者は弁護士を雇う確率が低くなるのも容易に予想されます。
もつれたとしても、プロの弁護士に任せていれば、結果的に家族間のいがみ合いは最小限で済むでしょう。
素人同士が非論理的・感情的な論争を繰り広げるから事態が悪化するのです。
感情のもつれですから、家族感情が破綻してもそれは至極当然です。

金持ちほど自分の遺産に対する心配は大きく、遺書をきちんと書く理由になるでしょう。
貧乏人ほど「まあいいや。たいしたことないし」で済ませるのが実態かも知れません。
しかし都会の一等地なら貧乏ボロ屋であっても土地を売ったら高額になることがあるでしょう。
だから遺産というのは面倒なのです。

こう考えると遺言による控除は「金持ち優遇政策」が目的であろうと容易に推定できます。
それならば今までの安倍政権の政策と整合性がとれています。

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2015/10/10

アベノミクス“先送り”三本の矢

一般ビジネスから見て、こんな“スローガン”を掲げたら「却下」であろう。
実際、新三本の矢の、市場への影響は無いか、むしろ落胆に近いようだ。

具体性があまりにも乏しく、達成目標期限があまりにも遠い。
どれも2010年以降とか、ありえない。
国家・役所が掲げるのならまだ良いが「安倍政府」としてのスローガンとして成立していない。
なぜなら安倍政権(総理大臣就任期間)は自民党の規律で「2008年で終了」が決まっているからである。
故に、どんなに遠くても2008年迄の目標としていなければ無責任な目標である。
(長期目標は構わないが、中期目標として掲げていなければおかしい)

数値目標をかげたのは素晴らしいとか勇気があるとか、全く的外れも甚だしい。
その目標が達成できなかったそしりを受けるのは、その時の総理であり、安倍政権では無いのは明白だ。
つまり無責任甚だしい、責任先送りである。

中身を論議する前に、表面だけ見てもトンチンカンであると言わざるを得ない。
どうやら自民党への事前説明もなく、党幹部へ根回しがあった程度のことだったようだ。
つまりは独断である。

とりあえず、審判は来年の参議院選挙である。
最低限、具体的な道筋、つまり「矢」を用意して、今後一年の短期目標が出て、それが達成されたかどうかが審判の対象となろう。
最低限ではその次の衆議院選挙までの短期目標は必要であろう。
それすらも用意できないとすれば、参議院選挙は「落第」とせざるを得ない。

それにしてもなぜ「評価」できるのだろう。
評価できるのは金融緩和をやって“まっとうな為替レート”と“企業実力の相応の株価”に“戻した”だけのことである。
第一次安倍政権時代も含めてデフレと円高進行でどん底だったものを“普通”に戻しただけのことだろう。

しかしこの状態は輸血・カンフル剤を打ち続けている(金融緩和の続行と年金による株買い)を続けているだけであり、当然長続きはしない。
もって安倍総理の在任期間中ぐらいだろう。

だからこそ、在任中に好転と輸血・カンフル剤を止めても維持できる状態にしてもらわなければ、安倍総理の実績は“マイナス”ですらあるという結論になってしまう。

だから2010年以降に達成するような目標を掲げてもらっては困る。
長期的にはこうなる、と言うのは良いことだが、単年での、せめて数年後のビジョンも必須である。

どうやら細かいことは決まっておらず、「一億なんたら大臣」に丸投げの様相である。
それにしても最近の流行なのか、非役所系の“なんたら担当大臣”のてんこ盛りである。
河野大臣に至っては最初の会見で、全部言い切れなかったほど肩書きが多いのはもはやバカとしか言いようが無い。(当然バカなのは考案・任命した人間である)

役所横串の大臣で動くという発想は良いのだが、機能しているとはどう見ても思えない。
特に定番化しつつある少子化担当や拉致問題などはその顕著である。
そろそろその原因について点検が必要だろう。

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2015/10/03

安倍総理の国連舞台での大失態

安倍総理の国連の場での記者会見の回答は大失態ものでは無いのか。

「日本への難民に関して日本はどのような姿勢をとるのか」という質問に対して「少子化対策としては…」とか答えた映像が流れた。

私はこの映像を見て唖然としてしまった。
あまりに酷すぎると同時に、日本でいつもやっている失態を世界にも晒したのかという残念な気持ちである。

あまり失態として報道されないが、国内ではしばしば他の人の回答に答えようとせずに、自分勝手な論を話はじめることをしばしば見かけたからだ。

最初に感じたのは選挙終了後の報道番組でのことである。
宮根氏が今後の政策について突っ込んだ質問をしたところ、まったく関係ない話を(まるでどこかの原稿用紙に書いているような文章を読み上げるかのように)喋りだしたのだ。
私も唖然としたし、なにより質問した氏が一番驚いていたように見えた。

国会等でも「そのボケっぷり」には拍車がかかっていた。
一番それが酷かったのが、例の秘密保護法案と安保関連法案であろう。

野党が審議を尽くしてないという言葉は、法案提出した内閣が全く質問に答えておらず、はぐらかしてばかりだ、という事も指している。
私もかいつまんでだが国会審議の様子を見ていて、回答者になっている総理を初め各大臣は「こいつら頭がおかしいんじゃないか」と思うほどに質問に答えていない。

回答を聞いていても、その質問に合致する事柄が殆ど出てこない。
普通の人なら質問内容とその回答の合致をみて、初めてその内容を把握ができるものだろう。
内容の是非はその後の話だ。
その内容が正しいかは非常に難しいのでその場では判断しない。
それよりはまずは論理の整合性や論理的に見て質疑回答のどちらが優性かを感じるだけだ。

しかしかみ合っていないので頭の中に何も残らない。
回答を聞く時には、その質問にあった内容だけを選択して質問にかみ合わせた形で頭に残しているからだ。
だから時間ばかり経って何も残っていない、ということになる。

私も「議論が全く尽くされていない」という主張には全く賛成であった。
結果として何も残っていないのだから当然の話である。

時々「議論が尽くされた」と主張する人もいるが、その人達はきっと会話の内容を全く理解していない・しようとしておらず、時間だけ見ているからなのだろう。
質問内容自体も初めから無視しているのかもしれない。

どんなに回答で「素晴らしい発言」をしても、それが質問の主旨に合致していなければ、質疑応答としてはただのゴミ発言である。
そこを勘違いしているのではとすら思う。

総理大臣はずっと国会でそういう「ボケ」を繰り返していたので国連の場でも似たレベルで“やらかした”のだろう。

当然ながら世界の舞台ではそんなボケ芸は通用しない。周囲も許さない。
日本では「裸の王様」だっただけの話だ。

世界のマスコミには「国内の事ばかり考えて難民のこと(国際的な立場)を考えていない」と非難されてしまったようだ。
私はかなり紳士的に批判してくれた言葉だと思う。
当然批判は総理大臣本人はもとより、日本に向けてのものであり、こんな人間を総理大臣に立てている日本への批判でもある。

国際貢献といくら口先で言っても、いくら金を出しても、こういうところで「本音」を暴露してしまうとどうしようもない。
「だめだこいつ、早くなんとかしないと」に段々となってきた。

ついでに書いておくと、極めつけが「新三本の矢」である。
今日、田原氏のとある番組で野田聖子議員が答えていたが、この「三本の矢」は会見の場で初めて知ったという。
どう考えても事前に自民党の中での審議討論があったとは思えないし、党への連絡はなかった(時間的にありえない)という。
つまり安倍総理の独走(暴走ともいう)だったと言うことのようだ。

だとすればあの酷い“作文”はただの妄想なのかもしれない。

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NHK料金問題論議に関して

公平

NHK問題において「公平」等の言葉が使われる時、私は大いに懸念を感じる。
公平というのは様々な観点で存在し、NHKはその殆どで問題がある。
報道の公平なんて、料金徴収における議論では数多くの議論の中でほんの一点でしかない。

報道の公平(公正)

双方の意見に立って不公平のないように報道すべし、というのは放送業界、いやマスメディア全体の根本の筈である。
とりわけNHKに求めるものでは無い。
もちろん、NHKがやっていないとすればそれは大問題であるが、それが解消されたから公平であるとは全く言えない。

そういう中で「でっちあげ報道」問題が噴出したから問題が悪化している。
あれば公平性というよりももっと悪質だ。
「ノンフィクション報道」のはずが「フィクションでした」なので根本からひっくり返る。

報道機会の公平

スポーツ中継などは特に顕著である。
「夏の甲子園」は高校生の男子野球部活動への過剰な注視であり、公平を著しく欠いている。
“野球”に関してさえ、男子・女子、高校生・大学生・中学生・小学生・リトルリーグ・草野球という観点で様々な試合、大会が行われているがとりわけ高校生男子、しかも夏の大会のみに異常なほどの肩入れ様である。
これらの中継は年間で見てもほんの僅かで、丹念にテレビ欄を見ないと見逃すほどである。

プロを挙げなかったのは、それが民営による“興業”であり、紛れもない広告塔だからである。
多くの球団は単体で見れば赤字なのだが、それでも維持するのは広告としての効果がそれを上回るからだろう。
CMを前提とする民放は良いが、NHKでは問題である。
「ヤクルト優勝!」という報道は、どうみてもヤクルトという会社の宣伝行為である。
言わずもがなだが、NHKでプロ野球中継をするなど論外である。
メジャーリーグも論外である。

もちろんスポーツは野球だけではない。
学校だけとっても様々な部活動でスポーツが行われ、全国大会が行われているものもある。
それすら殆どが中継・報道されないのだから、どこが「公平」なのか。

ドラマ問題

最近は陰りがあるが、「大河ドラマ」は“村おこし”の良いきっかけである、とされた。
NHKが公式本を出すなど、自ら煽っているぐらいだ。
ドラマ開始からご当地は賑わい、関心が次の番組にいくまでしばらくは続く。

そのことは悪くないが、これが「公平・公正」かといえば極めて疑問だ。
最近は特に超有名人は出尽くしたとして、比較的陰にいた人達を引っ張り出している。
結果、マイナーな土地にも日が当たるようになった。
一方で“選考課程に透明度”があるかと言えば極めて疑問である。
人物選びに無理があるんじゃないの?という疑惑も出てしまいかねない。

それでもまだこれは「歴史」縛りがあるからマシだ。

大河ドラマに代わって注目を浴びているのが「朝ドラ」である。
これはなんでもありである。
「ニッカウヰスキー」創業史か、というような題材さえ取り上げるに至っては呆れてものが言えない。

芸能やコンテンツ産業問題

古典芸能は、まあ、百歩譲って良いとしよう。
ここでいう芸能は、「芸能・バラエティ」といった分野である。
年末行事とまで言われる「紅白歌合戦」も私からすれば公平公正を欠いている。

「歌」というのも殆どが「興業」である。
それが売れればそれだけでその会社の利益に繋がる。
そもそも歌番組に類するもの自体が特定会社の利益になってしまうのである。

漫才などもそうだし、およそ「芸能活動」というのはどこかしらへの利益誘導である。

マンガアニメ化やドラマ化の類も問題である。
特にマンガのアニメ化というのはCMに近い行為である。
アニメ化されればマンガの単行本の売り上げが跳ね上がるのは定石である。
深夜でとりあえず12話程度(四半期)放映するだけでも効果があるようだ。
帯に「アニメ化決定」の文字が躍ることも珍しくは無いし、本屋でも「平積み」される。

更にこの先も大問題がある。
NHKエンタープライズという会社の存在だ。
コンテンツのグッズ・DVD等を売っている会社である。

少なくとも「国民全体からの公平な負担(視聴料)」で放送して有名化したグッズやコンテンツなどを販売して儲けている会社である。
そういう負い目や負担が少ないから、その分、安いかと言えばどうみてもそうは見えない。
「ボッタクリ商売」とすら言われるものもあるくらいだ。

視聴率で作られたコンテンツが民間会社に卸されて売られている。由々しき問題では無いのか。
「公平な負担」というのなら負担をしている人には実費で販売すべきである。

若者のテレビ離れとNHKがやるべきこと

若者迎合らしく、紅白歌合戦で比較的マイナーな歌手も出るようになったが、それでも所詮は「ある程度支持された」人達だ。
若者迎合の歌番組も組まれているようだ。

昨今はミリオンヒットが出ないという。
「誰でも知っている曲」がなくなってきた。
これはJASRACの日頃の活動により「街中で聞こえる曲」を絞ってきた“実績”であろう。
「どこに行っても流れている曲」が存在し得なくなったのだ。

代わりとして自分や仲間で見いだして選び、聞く、というスタイルが増えた結果だと思う。
ネットの発達がそれに拍車をかけてた。
そのことは良いことだ。一方でマスメディアという国民一括消費の否定ではある。

だからこそNHKには「偏向」ではなく「差別偏見無く押し並べて見せる」ことに拘って欲しい。
視聴率なんか関係ないNHKだからこそ出来ることである。
「視聴率を採れるか」なんていうのも「差別偏見」のフィルターである、というところまで突き詰めて欲しい。

伝統芸能や特定スポーツ以外も、もっと公平に扱って欲しい。
かけがえのないものを、なにかしらその人にヒットすればNHKの存在意義は生じるのだ。

国会中継ももっと突き詰めるべきである。
本国会よりも現実として重要な緒委員会ももっと中継すべきであろう。
BSも活用してどんどん放映すべきである。
ネットではもちろん見られるのだが、放送でもやるべきだろう。
そう考えればコンテンツは腐るほどある。

自分の意見を出す、出てしまうものを作ろうとするから、叩かれるのだ。
NHKは本来そんなことをやるべきではない。

官房長官の見解とNHKの存在意義

徴集の公平を論じるのなら、そのお金で作られているモノの公平を先に論じるべきだ。
ここまで述べたように私には公平感を感じ得ない。
「民放よりはマシ」ではダメなのだ。

コンテンツが貧しかった時代ならある程度芸能バラエティの類をNHKがカバーすべきだったのかもしれない。
しかし今はそうではない。放送・ネット含めてコンテンツが溢れている。
NHKには原点に戻って、より厳しく公平・公正が問われるべきだと考える。
それはある意味で存在意義を問われているともいえる。

払わないならスクランブルをかけてしまえ、というのも一つの論である。
民放に感覚を近づけるのも一つの考えだ。
しかし、そうではなくきちんと徴集すべきだ、というのなら公平に徹しないとダメだ。

官房長官がこういう発言をするということは政府・総理が税金を公平に使う気が薄いのでは?という疑問に繋げた方が良いのかもしれない。
仮に現状のNHKが公平だというのなら、その感覚を疑ったほうが良いだろう。

自民党は値下げ検討と言うが、そんなのはごまかしに過ぎない。

高いから払わない(払えない)人がいるのではない。
特に「金があっても納得できないものにはびた一文払わない」人が増えているという調査結果もある。
逆に(自分にとって)価値があれば多少高くても値切りもせずにポンと払うという。

今、契約を拒絶している人達を納得させるには公平・公正性の徹底しかない。
民放と大差ないか、それ以下だから、そんなもののためにカネをよこせと言っても門前払いなのである。

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