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2015/09/26

アベノミクス新第三の矢…これが「矢」?

もうデフレではない?

まだ物価上昇率は相変わらずマイナスなのだが原油安のせいにして「実質プラス!」と言い張っているらしい。
経済成長はプラスだが、デフレ時代の象徴と言われる民主党時代もプラスであり、今はその時の半分である。
雇用率も民主党時代前から上昇しており、民主党時代もそのまま上がり、現在もその延長線上にあるだけだ。

まあ、デフレではないが、インフレでもない。それをゼロ成長時代という。
結局日銀の言う2%は良くて瞬間風速程度だったし達成した感は全くない。

すると、円高・株価下落を避けるために金融緩和は続けるという極めて危険な状態となりかねない。

強い経済:GDP600兆

三本の矢とは戦略であり、指針であるはずだ。
あまりにも漠然としており、戦略の欠片すら感じない。
「強い経済」なんて誰でも望んでおり、バカでも言える。
強い経済のために、どうするのかを宣言するのがアベノミクスでいう三本の矢をではないのか。
文脈が破綻していて意味不明だ。

もっと酷いのは額設定はどうも2020年あたりに、ということらしく、自身の任期の無い時点の数値目標を立てており訳が分からない。
まあ、後で総括するとしても、オリンピック開催で特需を狙って「ほら達成した」とでもいうつもりなのか。

他の2本も数値目標は似たような辺り、もしくは更に後ろでありやっぱり「先送り内閣」と言わざるを得ない。

子育て支援充実

休職・育休をとれるような制度整備というが、そういう言い方では結局は企業頼みではないのか。そんなものは政策ではない。
また、希望出生率1.8になんら直結しない。

もっと根が深い、男女同じくして労働条件そのものに踏み込まないと解決はしないだろう。
「女性が輝くなんたら」よりも本来は「男女機会均等」が本論の筈である。
そこへたどり着くための施策も、男性への異常な労働条件の問題の解決が本質である。
女性はそれに様々な要因で“ついて行けない”から“女性は輝け”ないようになっている。
それの要因の一つが、女性に負担が大きく、男性も手伝えない状況に陥らされるために出産・子育てができないということなのである。

企業頼み以外に施策として出来ることはある。
例えば法定残業割増しを5割以上にすることである。
企業経営者は5割以上になると残業させるより人を雇った方が安くなると言う声を聞く。
逆に言えば今は残業させた方が安いから、夜遅くまでこき使っているのであり、それが家庭を破綻させている。
口先ではなく、真に「残業しないでさっさと帰れ」と経営者は思うようになるのだ。

しかし、ホワイトカラー・エグゼンプション実施や派遣法改正で「真逆」に舵を切っている安倍内閣が出来ることとは到底思えない。

社会保障制度改革

「介護離職ゼロ」を意識したというのはあっぱれだが、あまりにスケールが小さい。
だいたい自宅介護・家族による支援を強く打ち出して、これも「真逆」に舵を切った安倍内閣が出来ることなのだろうか。
全く理解に苦しむ。

だいたい社会保障とはなんなのだろうか。
医療・介護・年金・・生活保護などとっても難題山積である。

例えば医療改革はとても重い。
しかし医薬品のネット販売を結果的に規制を強めただけだ。
社会保障、とりわけ医療費(薬品価格)を下げるのなら、ジェネリックを進めるのなら、処方薬の解禁をしなくてはおかしい。
単純な価格競争は限界がすぐに来るのでジェネリックは自然に強く薦めるだろう。
ネット販売は「かかりつけ」をやりやすいし、メリットも多い。

しかしその本丸を全く“無視”して些末論を大事のようにし結局うやむやにした。

第二ステージとは

第二ステージというのは「選挙対策ステージ」であることは明らかであろう。

第一ステージを総括しないでうやむやにするという意味もある。
致命傷になりかねない安保法制は終わったので、今度は選挙対策に迎合的政策をどんどん打ってくるのは目に見えている。

「GDPを増やす」という宣言は、だから来年度予算に向けて、支出をがんがん増やしても大丈夫、という理屈への布石であろうことはごく自然の展開だ。
その予算が“効いてくる”あたりがちょうど選挙期間であり、単純な国民はころっと騙されることであろう。

目標額が取らぬ狸の皮算用であっても、目標を検証する時には安倍氏は総理ではない。
ましてや、来年の選挙では評価することが不可能な目標にあえて設定した、と考えるのが自然だろう。

ところで第一回アベノミクス三つ目の矢は存在したのだろうか。
どこに撃ったのだろうか。
私には全く見えなかったのだが。

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2015/09/25

100均

リンク: 【山田祥平のRe:config.sys】100均を信じるか、信じないか - PC Watch.

これなら大丈夫と安心ができるなんらかの指針があってほしいとは思う。

理論的に無理だ。
これなら大丈夫なんて最大公約数的な基準を作れば必ず“過剰品質”となる。
問題というのは、例えば0.0001%ぐらいの確率で起こること、1%ぐらいの確率で起こること、のようなものがある。
確率の変化が起きるだけで、必ず何らかの問題は起きる。

更にこれは“単なる感情論”ですらあり、定量化できない。
例えばちょっと発熱したって「ま、いいか」で捨てるだけの人もいるし、買った店に怒鳴り込む人もいる。
「あなた」が満足する安心を担保するものすらどう作れば良いのか判らない。
ましてや全国民となれば不可能なのは考えるまでもない。

PSE(電気用品安全法マーク)やJET(第三者認証マーク)のマークがついていても全面的な信頼は難しいということなのだろうか。

こんな規格は「最低限これだけはクリアしておけよ」というものに過ぎない。
過剰な要求をすれば、それはコスト高に直結するし、国際社会では“非関税障壁”と言われることすらある。
その代わり「事故を起こしたら回収しろよ」「従わなければ商売させないからな」という制約があるから、会社もそれとのコストと天秤をかけて考えているだけの話だ。
(回収なんかしたらその製品はもちろん、全社利益すら吹っ飛ぶという会社にとってのリスクがあるのだ。だから不具合が出ても“黙っている”会社が出るのだ。)

そもそもこの安全マークを受験するのは製品と同様という言い方はあるものの、あくまで“サンプル”である。
ある程度複雑な製品はきちんと全数テストをするかもしれないが、“たかが”電源延長コードやUSB電源なんぞがやるとは思えない。
せいぜいが抜き取りではないのか。
それすら“怪しい”のである。

車の免許証みたいなものかもしれない。
免許を取れたということは公道を走るための最低限の資格を得ただけである。
それで無事故でずっと運転できるなんてなんら担保されていない。
しかし免許無しで運転すると事故を起こしていなくても問答無用で厳罰である。

充電器の顛末について

ケーブルが短絡して発熱に至ったのだろうか。
およそ電源に関するものなら発熱、溶融、発煙、発火、こういったリスクを持つ。

USB充電器というのはどうやらACからUSB端子で電源を取り出すもののようだ。
充電で使うものだからそういう名称なのだろうか。

機器としてはAC電源を入力とし、USB端子から5V電源を取り出すもの、ということだろう。
USBケーブルの問題ということであれば、短絡(またはそれに近い状態)といえる。

一般に回路基板では「短絡・開放試験」というものが行われる。(特に電源では)
回路のあちこちで部品を外した、または短絡(ショート)させた状態にしてみて、また任意の点をショートさせて問題が起きないかを確認することをいう。
それによってどのような問題まではOKかは各会社の裁量と思われる。

触って火傷する発熱、発火はNGというのは大概共通だろう。
最悪なのは炎上したあげくACの方を短絡してブレーカーを落すようなものだろうか。

では発熱でプラスチックの筐体が変形する、煙が若干出るのはどうだろうか。
この辺の裁量は機器や会社によってまちまちのようだ。

ありがちなのは一瞬煙が出るが、静かに自己破壊し回路が停止する。
自己破壊というのを低コストで行うのはなかなかに難しい。
煙(といっても線香より細い煙である)を全く出さないというのは意外と面倒である。

一番良いのは短絡を検知して速やかに回路停止し出力をやめる。
問題の短絡がなくなればまた出力し出す。こんな回路である。

設計は可能だが、「良い」と思われるものは高価になる。

純正ケーブルを使えという理論

製品の問題というのは大きく分けて2つある。
一つ期待通りの性能が出ないことである。
もう一つは安全性が損なわれる、危険が起きると言うことである。

前者においては「純正ケーブル」理論は正当化される、実際正しいことは多い。
どうも電圧が低くてたびたび充電が止まるとか、ショートさせたせいか壊れて電圧がでなくなったのか、この程度はまだ前者である。

純正ケーブル関連でよく言われるのは、画像が悪いとか、ノイズが乗るとか、せいぜいが時々誤動作する(画像が真っ暗になる等)とかだろう。
質の悪いケーブルを使うと、機器は問題なくとも、動作としておかしくなるからだ。

しかし後者ではこの理論は通用しない。
例えショートさせても「安全に壊れる」必要がある。
仮に子供がイタズラして5Vの両端子をショートさせても、傷害を負わせたり、ましてや発煙発火し火事するなんて論外とも言える。
この点での論点はもはや「この現象で驚かれるかどうか」というレベルである。
たまたまホチキスの針がUSB端子の奥に入ってショート状態になっており、それをACコンセントに挿してしまう、なんてこともあり得る。

要するに使用条件なんて殆ど関係ない話なのだ。
炎天下で異常に暑い場所で使用するとか、水場で使うとか、火気のそばで使うとか、明らかに使用者が避けることが十分に可能である場合ならともかくである。

例えば昔はテレビの上に花瓶を置く家庭が多かったため、使用中にテレビの上から水をある程度こぼしても危険事態にならないこと、という安全試験や設計がされていた。
また今でもコインが落ちたり、故意にねじ込まれて中に入った程度は想定されること、とされてこれも同様である。
ただし、危険事態にならないだけで、普通に壊れて当然なので勘違いなさらぬよう。

安全確保にコストをかけるメーカーとかけないメーカー

1%の不良率を0%にするのは大変だが、日本のメーカーはそこに大きなコストをかけているという。

コストとは一体何か、少しだけ考えて欲しい。
過去に起こった事象や様々な想定を行い、様々な温度条件や湿度条件、機械的負荷を想定して試験を行っている。
試験機械を購入維持するのもお金がかかるし、時間や手間というコストもかかる。
その結果を評価し、時には改善をするのもコストがかかる。部品や素材変更で高くなることもある。
日本のメーカーは1%(百分の1)なんて単位では仕事をしていないはずだ。
使うのはppm、つまり百万分の1という単位である。

そこを追求するあまり「日本品質=ジャパンクオリティ」となった。高品質の褒め言葉である。
その反面、高いという言葉も受ける。

中国の製造サプライヤーに製造を頼る同社は、とにかく不良品を見つけたときには知らせてほしいと訴えている。

良い姿勢、ともいえるが、無視するよりはマシという感もある。
クチ悪く言えば「ユーザーに耐久評価試験をさせている」に等しいからだ。
多くの日本メーカーはきちんとお客様に渡す前に試験をして良いものを出している。
お客様に試験をさせるとは何事だ、という声が聞こえてくるような気がする。

表面的な値段を下げるために、日本メーカーが普通にやっていることを、購入者、ユーザーにさせている、という図式なのだ。

それでもただの代理店で、コスト厳しいサードパーティ市場で生きて行くにはこれが限界なのかも知れない。
どっかの怪しげな部品・機器をただ流して売っているところよりは何万倍もマシだ。

リンク先記事のUSB充電器の代理店は“正論を言われて固まっている”のかもしれない。
メーカーは“そんなこと言われても知らん”なのかもしれない。
そんなこと言うなら買うな、と居直りかねないのが“彼ら”なのだ。

それ故に日本のメーカーは入る隙が無い。

考え(ルール)が真っ向から違うのだから、戦えるわけがない。
日本がレベルを下げるか、“彼ら”が上げるかである。

100均との付き合い方

別に押しつけるつもりはないが、私なりの基準を書いてみる。

まず食料品・食器等、食べ物に関する類は一切手をつけない。
一般店にもあるようなもので適正な価格の場合は除くがタッパの類も買わない。

例外としては先般2個で100円の小さいタッパを買った。
よく小物入れとして買うこともあり、今回は購入した後、穴開け加工をしてRaspberry Piのケースとして使っている。

安全に絡むもの、重要なものも一切買わない。
表から現象が“見える”ものかどうかが重要な点だ。
最悪“素材”としてどう成立するか、また、そもそも素材を買うことは多い。

劣化も問題となりやすいので、外観・機能・性能含めて劣化(時系列変化)するかもある程度見る。
当然ながら用途で比較的長く使うか、利用用途も加味して考える。

あとは“臭い”だ。
なんらかの“嫌な臭い”がするものはたいがいなんらかの問題がある、と私は判断する。
(臭いが無ければ安全、などとはもちろん思っていない)

もちろん日本の安全基準はクリアしている訳だが、日本のそれは決して「世界一厳しい」わけではない。
欧州や米国とりわけカリフォルニア州は厳しいが、そこで禁止されるが日本では規制外という化学物質はいくつもある。

有害とされているもの、意見が様々だったり、人間への影響が十分分かっていないものは結構グレーで日本ではセーブだったりする。
そういうものがイタチごっこでもあるのは「危険薬物」の既成状況をみれば判るだろう。

さらに東南アジア、東アジアでは更に緩いのは想像に難くないだろう。

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2015/09/19

安保法案と顛末を傍観して

「民意が反映されない」レトリック

安保法案で6割を越える反対があるにも関わらず可決した。
しかし3割は賛成であるというのも事実である。

また、自民党支持率も3割近くある。これは数ヶ月のこの法案による“非難”の中でも微動はもちろんあったが下がっていない。
“鉄板”の数字とも言える。

一方で国会の議員数で自民党だけでも余裕で過半数を超えている。
なぜこんなことが起きるのか今一度考える必要があるだろう。

考えると言っても答えは簡単だ。
投票率が5割近くと、あり得ないほど低いからである。
自民党支持が3割しかなければ本来なら“自民圧倒多数”にはなり得ない。
昨今の投票率は5割程度である。
そこで“わずか”3割の自民党支持者がきちんと投票すれば、それは6割という意味を持つようになる。
実際、今の国会ではそういう形になっている。

あの民主政権の時も、今の自民党政権でも、自民党への投票数は同じだった。
いや、むしろ少ないぐらいだ、という数字がある。
増えたのは民主党への投票数だった、というだけのことだ。

別に次の選挙に民主党に入れろという話ではない。
同じ程度の投票率で終われば、また自民党が大勝して同じ事がまた起きるという事実を認識してどう行動するかは各自が考えれば良い。
少なくとも、自分が投票しなければ自民党に投票しているのと同じである、という認識を持つことである。
(自民党の支持数が最大であるという実態は変えようがないので、この事実は回避できない)

もう少し具体的に言えば、現状に抗う手段はただ2つぐらいだろう。

1つは選挙で自民党以外(別にどこでも良い)に投票するしかない。
ある意味、最も簡単で楽なやり方だ。別にサイコロを振って決めても良い。
流石にそれは…と思ったら少しでもマシなところに入れれば良い。
民主党はどうしてもイヤだと思ったらそれは抜いてサイコロを振れば良い。

ばらければ国会運営は大変だが、今回の様な“強行”や“独裁”は起きなくなる。
“決められない国会”と“独裁・強行”のどちらが良いのかは各自の意思である。
独裁・強行を是とするのなら無投票の方が良いだろう。

1つは地元(選挙区)の自民党議員(候補者)に食らいつくことである。
基本的に自民党は支持するが今回のことは疑問だという人にもお勧めだ。
これはより積極的政治関与であり、教科書的には薦めるべき方法である。
議員にとって世論で反対が強いこういう展開の後で一番怖いのは地元に戻って“非難”されることだという。
しかし「地元民に説明ができない」ことにはできれば反対したい、という圧力が展開を変える可能性がないとも言えない。
とりわけ税金問題はこの傾向が強いし、先の秘密保護や今回の安保も苦労したようだ。
ただ末端議員が“党の決定”には抗えないのも事実ではある。
それが議会制民主主義の限界であり、総理大臣の間接選出制度の限界である。

これが終わりではない、というのも事実だ。“忘れない”ことが最も重要だ。
為政者にとって最も利することは“忘れてくれること”というのは古今東西変わらない。
たかが法律が改正されただけのことである。
別にこの法律が未来永劫続くわけでもない。
戦争法案と思うのなら、戦争が実際に起きる前に、同じ手続きでまた変えることは可能だ、ということを忘れてはいけない。

そしてそのチャンスは来年にも国政選挙という形でやってくる。
避けるべきは再び騙されないことである。

「世界情勢の変化」とは

意味不明で理解不能な説明の繰り返しだから国民不信が募る。
理屈上も、直感でも言葉に真意が感じられない。

尖閣の問題も今始まったことでは無い。
緊張が走ったのは民主党時代のアレというぐらい前の話であり、その前から“来襲”はいくらでもある。

北朝鮮だってさほど変わっていない。
そもそも北朝鮮と日本の間には韓国がある。
大陸間弾道ミサイルを撃ち込まれても迎撃は可能だが、反撃においては実際は何もできないのが実態ではないのか。
北朝鮮は隣国ではない。交戦するとすれば韓国の頭ごなしになるが、そういう“戦争”ができるのだろうか。やや遠回りにしても中国という話になるともっとあり得ない話だ。
それによって北朝鮮と韓国間の戦争の再開(間違えていけないが、この両国は未だ戦争中である)を引き起こしかねない。

だいたいこの2つは「個別的自衛権」の話である。

ただこの議論の中で様々な人が発言するので中にはぽろっと本心も出てくる。
BSのある番組での自民党役職のある議員の発言が的確で正直だと思った。

それは中国がGNPで世界第二位になったということが発端である。
別の見方をすれば第二位の日本が三位に落ちた。
結果として米国が日本から離れ、中国に急接近を始めた、というのだ。
この事実と、ここ数年での急変化である、ということに異論を持つ人はおそらくいまい。
日本から離れたのかはともかく、急接近は確かに見られる。

加えて第二位になったことで中国の国際的な位置、発言力を強めているというのも事実だ。
中国を中心とする例の開発銀行の話もその一例である。

すると世界的な“平和協力”という名の軍事的協力の中でも米中が肩を並べて“共同作戦”の演習を行うことすら至極当然に起きてくるだろう、という。

その一方で日本の現状を見ると、日米演習は日頃行っているものの、「平和憲法」や様々な法律の壁で様々な“制約”を受けているという。
つまり踏み込んだ演習をしたくてもできないのが現状なのだそうだ。
例えば日本近辺での演習はできても、米国周辺での演習すら確かにやっていない。
このような「現実」を見ると、焦りを感じているようだ。

なるほどと思う。ごく自然な展開だし、様々な事実の整合性がとれている。

米国の存在は大きい。
緊密に演習を繰り返している中国と様々な法を盾に“付き合いの悪い”日本の「どちらを選ぶか」と言う時に、万一でも中国を選ばれたらと思うとぞっとする。
とりわけ自民党議員や霞ヶ関がこう考えてもまったく不思議ではない。

故・浜田幸一国会議員(通称ハマコー)が、ある番組で「日本は米国のポチである」と言い切った。突っ込まれても更に理由も付け加えて何度でもである。
未だに印象が強く、これを基軸にすると様々な永田町論理、霞ヶ関論理の説明がつきやすいから困ったものだ。

不可解と追求もされた、安倍総理の米国での“約束演説”。
あれも米国の関心を引くために“シッポを振った”と思えば容易に説明がつく。
米国もシッポを振ったので「良くできました」と拍手してあげただけのことである。
米国側もそこに突っ込まれれば「まあ勝手に言ったことだから」とスルーする程度の事である。
一度ご主人様に約束したことだから、国内でどう批判されようとがむしゃらに遂行する。
ご主人様である米国は「あ、そ。」ぐらいの反応(関心)だろうがそれは関係ない。

「そういう苦労も知らないで」と思いながら勝手に頑張っていたのが総理大臣であり、自民党なのである。なんとも滑稽ではないか。
総理や自民党は「国民のためにこれは必要なんだ」という思いは、極めて本心なのだと思う。
しかし理由付けが“ウソ”で“格好つけ”だからウソっぽくしか伝わらないだけのことだろう。

一国の総理のはずなのだが、やっていることは所詮はポチなのだから、もちろんそんなことを正直に国民には理由として言えない。

ポチが言い過ぎなら、上司に大見得を切って右往左往している中間管理職のようなものだ。
呆れて見ていたが、ごまかしごまかしを続けて形だけでもなんとか完遂したことになったのか、という情けない風景である。

問題なのは今後である。
こういう無茶苦茶のあげく事を成し遂げた後にツケが回ってくるのは担当レベルであるのは良くあることである。
つまり国民である。

だからこそ「いい加減な条文で成立しては困る」なのだが、そこは彼らにとっては重要ではないのだから話はどこまで行ってもかみ合わない。
結局「パワハラ」で押し切られてしまった。それだけのことだろう。

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2015/09/18

国勢調査

国勢調査でIDとパスワードを未封で投函したとして問題になっているようだ。
私は自分で回答しており、“システム”を知っていたので「何を言っているんだ?」と不思議で仕方なかった。
大手新聞のサイトでさえ下のような報道をしているので、不安が拡がったようだ。
リンク: 国勢調査、封せず個人情報配布 IDなど盗み見の恐れ:朝日新聞デジタル.

他の記事を見てみると、あまり書かれていないようなので“システム”について書いておく。

まず、IDとパスワードでログインすると“白紙”の解答用紙が出てくる。
つまりIDとパスワードだけを入手してもそこには全く個人情報がない。
むしろ「最初から入れて置けよ」と思うぐらいである。
更に言えば調査員には必要人数分の紙が配布され、誰にどのIDが行くかは“任意”なのかもしれない。(ただ調査区番号や世帯番号なる数字があるので把握はされているのかもしれないし、“名簿”が存在しているかも不明である。ただの通し番号なのかもしれない。)

なんにせよ、住所氏名など個人情報の類は一切存在していないのは事実だ。

一通り入力を終えて“送信”しようとするとパスワードの変更を要求される。
一般的に言う「パスワードの変更画面」が出てくるような感じだ。(もちろんここでは「戻る」か「送信」しか選択肢はないので強制だ)
このパスワードは変更・修正に必要なものだという。
当り前だが、この段階でパスワードさえきちんと変えておけば、投函された紙を盗み見されていても意味がない。(最初と同じパスワードを入れて拒否されるかは不明)
調査期間中という短期間でIDだけあってもパスワードをクラックするのはかなり困難だろう。

「なりすまし」を懸念している声もあるが、それに何の意味があるのかも不明だ。
国勢調査は基本的に「ビッグデータ」であり、個々の情報に大した意味はない。
回答した当人に直接的になんら利益・不利益はない。
数人のなりすまし(改竄)をしたからといって利益を得るものがいるとは到底考えにくい。
(全国的な組織“犯罪”として行われるのならまだ理解できるが)

もともと国際調査なんてある程度はアバウトなもので、不在なら答えようがない。
半月も出張になればまず不可能だ。
調査員がなりすましたのか無回答としたのかは不明である。

こういうシステムだから担当レベルでも「別に封しなくてもいいんじゃね?」と判断してもなんら不思議でもない。

私としてもこの程度で十分だし、更にコストをかける必要もないんじゃないかと思う。

なのになんで新聞記事やらネットで騒がれているのか不思議で仕方ない。

懸念するのはあまりにも浅い判断で大騒ぎすることの問題である。
個々人では調べられることには限界があるが、それでも今回を含めて、あまりに表面的で反射的に過剰反応するのはどうかと思う。

問題なのはこういう大手新聞の記事で無意味な不安を煽るような事を書くことである。

よく「ネットでは」と言われるツイッターなんかはただの「つぶやき」なので、むしろそこでの発言を“騒ぎ”とみるほうがどうかしている、とも思っている。
何かツイッターをやっている会社との間に何か裏があるのかと思えるくらい、大手マスコミ(テレビや新聞)で取り上げられるから始末が悪い。
たかが一私企業のサービス上でのことで何を大騒ぎしているのだろうか。

せいぜいがただの世間話や口コミ、“拡散”は流言飛語といったレベルであり、意味はゼロではないがその程度のものでしかない。
それをきっかけに気持ちにかかり調べる事は重要なことであるが、誰とも分からない人の発言を真に受けてしまうのはただの“バカ”である。

まあ、国会議員でさえ、ツイッターのデマを真に受けるぐらいだから仕方ないのかも知れないがもう少し頭を動かさないとかなりヤバイと思う。

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2015/09/12

鹿児島知事の「三角関数」発言

そもそも理系とは何か

三角関数が役に立たないような言い方は、多くの理系人間には反感を持たれたのでは無いか。
私は中高学業で文系学問の“オカルト”さに辟易としてしまい脱落した。
理系の方が何倍も楽で、三角関数あたりからむしろ数学の面白さが見えてきたクチである。
世の中の現象を数式で表すための足がかり(入り口)が見えてきたあたりである。

そもそも理系の学問とは何のためにあるのか。
それは私は“未来予知”である、と考えている。
未来予測といっても良い。
実際にやらないでも、予知(予測)できるのである。

人間というのは「未来」を知りたい。
その出発点に立てると言うだけで、ワクワクするのも当然では無いのか。

例えば物理学の最初は「モノを落した時どうなるか」である。
十分重く空気抵抗がなければ、例えば鉄球を3mの高さから落したら何秒で床につくか。
これは物理用語で「自由落下」という基本中の基本である。

高校の「物理」ではごくごく単純な限定条件ばかりで現実味から離れすぎてつまらないと思う人もいるようなのだが、私は「世の中そんなに単純なわけない」と思っていた。
最初は限定つけまくらなければ解けるわけがない、と思っただけだ。
むしろここから様々な条件を“緩く”しても解ける(予測できる)ようになるのだろうとワクワクしていた。

様々な物質・物体の動きを解析し、「こういうケースならどう動くか」を予知できるのである。
見えないモノが見えるようになる。未来を予測できる。これが面白くない人がいるのだろうか。
もちろん精度は色々あるが、「少なくともこの範囲になる」ことが分かることもある。

話を三角関数に持っていこう。

様々な物質の中で、多くの物質が持つ性質として「波」という現象がある。
水による波が一般的だが、音波も電波も「波」という単語がついているぐらいで波である。
光も波(電波)の性質も併せ持っている。
電波となると磁力波がセットになり、磁力波により電流が発生する。よって電流も波で考える。

波を数式で表すための重大な要素が三角関数なのである。
三角関数の一つ、正弦関数(サイン関数)をグラフで表すと、通称「サイン波」という波になる。
あらゆる波はこのサイン波の合成で表そう、というのが基本となってくる。

三角関数

三角関数無くして、現代の情報社会は成立していないぐらいに重要な関数なのである。

三角関数というのは基礎段階の説明では「三角形の角度と辺の比率との関係」なのであるが、その関数の性質故に、物理学・数学においてとても重要な役割を持つようになった。
三角関数、微分積分、また自然数eや虚数の性質は理系にとって基礎中の基礎であるといえる。
これらはどれも屋台骨であり、ここがあやふやだと途端に躓くことになる。

高校ではほんの入り口で、まだ「退屈でつまらない基礎練習」で終わってしまうのだが、大学から一変する。
大学レベルの電気・電子・情報の学問・理論において、三角関数なくして何も語れない。
どの教科を見ても三角関数を知らないと言葉通り話を進められないのだ。

もちろん他の理系学問においても三角関数が少なくとも見え隠れする筈である。

かの知事は大学は法学部卒だから理系学問を知らないのかもしれないが、無知にも程がある。
しかもこの発言は教育関連の会議の場であったというのだから、鹿児島県の教育を心配してしまう。

例えば携帯電話でも使用する“電波”。
“波”を扱うのだからこれを何かで表現しなくては理論は進まない。
それならば“波”はサイン波(またはその合成)であることが前提とするのが適している。
“周波数”や“位相”も結局は三角関数を基礎とする数学・物理学用語である。

例えば画像圧縮技術。
写真を撮ると保存されるJPEG形式や、地デジ放送やスマホでの動画撮影、YouTube他にアップされる映像、最近は映画館の映像もデジタル化され配信される。
元の映像ではサイズがでかすぎてネット上(地デジなら放送電波)に載せられないから“圧縮”をする。
この基礎的技術の中に“離散コサイン変換”という、その名前が入った方式がある。
画像処理において、三角関数の合成でその画像を“表現”する。
様々な周波数と大きさを持った三角関数の合成でその画像を表現できるという理屈なのである。
圧縮というのはたいがい「ここまで高い周波数のところはいらないんじゃね」ということで高いところで表している三角関数のいくつかを取り除いて保存してしまう感じだ。保存する情報が減るのでファイルサイズが減る。
その分、人間の目には「ぼやけた」感じに見えるだけなので具合が良い。
動画ではこれを時間軸方向にも行うことでファイルサイズを減らせる。

電子・電気回路も三角関数がないと説明できない理屈がたくさんある。
まず交流電気の波形は“サイン波”である。
直流電気を扱うにしても、デジタル化すると電流の“インパルス”的な挙動が基本的になってくる。
これの解析も三角関数の合成に対する扱いとなる。

CPU動作速度等が高速化すると電流が“電波”的な挙動になっていき、電流という粒子の流れのイメージよりも、導線上に沿って電波で伝わっていくというイメージの方が的確になっていく。
また、物理的に電磁波放出のやっかいさが増していくわけで、電波をイメージできるようになることが重要になってくる。
電波をイメージにするには当然電波の動きを学問として知らないとできない。
この学問は電磁気学というものがあるが、これも三角関数は当然である。

電気は“一瞬で伝わる”と観念はレトロな話で、今のCPUの速度で考えると、一命令動くうちに物理的な回路(基板)の角にまで電子が伝わっていない、なんていうレベルの高速なのである。
あらゆるものは光の速度を超えられない、わけで、光の速度でも遅くて困ってしまう話になる。
最近はCPUの速度自体は上げ止まりになり、熱量削減のほうが注目されるようになっているが、これはこういった事情から“限界”に来ていることもあるだろう。
ここではかなり適当な言い方で書いているが、こういった話も三角関数無しでは「話にならない」のである。

三角関数の恩恵というのは世の中に溢れているものなのである。

理系女子という“偏見”

女子に三角関数は要らない、というのは理系に行くな、ということに等しい。
現実として理系の女子は少ない。

先の項では県知事を批判したが、実はこういう県知事みたいな人間が教育に携わっているから(今まで多かったから)なのだろうと思う。
またそういう認識の人が世間一般にもゴロゴロいるからなのだろう、と思う。
彼一人の特異的な失言と言うより、世間一般の“常識”なのだろうとすら思う。

企業において「女子採用は男子社員のための福利厚生」等という暴言を(酒の場らしいが)人事部が言ってしまうこともあるようだ。
政府や関連による「女性登用」の発言も、女性蔑視(別視)が見え隠れするのは気のせいだろうか。

私は女子が理系に向かないなんて全く思わない。
大学の時にいた女子も別に男子となんら変わらない学力や考察力を持っている。
大学入試をきちんと通ってきたのだから、論議の余地は無い。

入学後の教養課程での積み重ねかたで、また基礎力に差がつくものである。
女子だからという偏見に打ち勝つためか、とてもよく勉強している、と感心する。
多くいる男子と比較しても上位の学力や視点を持っていると感じる人ばかりとすら思える。

理系の女子は男子化している、といわれるのが、別にそんなところも感じない。
まあ、普通である。聡明という感触の人もいれば、普段は「ぽやー」としている人もいた。
ただ周囲の密度的に女子が少ないのでその点は可哀相ではある。
普通に孤立化しやすい。
男子の中にばかりいれば周囲に合わせてある程度“男子化”するのは当然と言えば当然ではある。

女子は理論的で無いというがこれもおかしな偏見だ。
今日、あの有名な脳科学者も言っていたが、脳において男女差はみられないという。

あるとすれば“後天的獲得形質”、つまり社会や教育(当然家庭教育も含む)による刷り込みである。
実際に日本社会での女性の“理系率”は世界各国から見ても最低のグループだそうである。

日本では理論的な(理屈っぽい)女子は嫌われる、という世間的な風潮があって、それが理系的形質を削いでいる、と言う方が納得がいく。
子供が言葉を発するようになって、それを親が制御していく。
もちろんそれは当然のことだ。
その過程で「男女差における世間一般の常識」を押しつけているのではないか。
発する言葉や行動を抑えられると、思考の中でもその発現に至るものが抑制されるのは当然だ。

子供に筋の通った理屈で論破されると快く思わない大人は極めて多い。
社会でも上下関係でその理屈の意味が違ってきてしまうびだから大差ないと言えばそうだ。

子供や女性は「感受性が高い」事が良いとされ、理屈っぽいことが否定される傾向が見られる。
その二つは背反するものでは無いはずだ。
物事を高い感性であえて曖昧にキャッチし、想い、理屈(理論)にきめ細かく分析して更に高見を目指す。
そういうことが重要なのでは無いかと思う。

結果として女性の思考や理論性が形成されてしまっているだけと考えた方が妥当だろう。
子供が変に理屈っぽいのも“可愛げが無い”と嫌われるが、それが女子だとなおさらではなかろうか。
もっと感情豊かに考えろ、理屈で割り切らず相手の無理難題も抱えろ、理不尽でも堪え忍べ、というような無茶苦茶を押しつけてはいないのか。
理屈・理論よりもオカルトや気まぐれ、無茶苦茶を容認してはいないか。
日本女性の奥ゆかしさ、とかいう美辞麗句で押さえつけてはいまいか。
「社会で作られる性差」という奴である。

理系女子という言葉も、むしろ言葉狩りすべき、蔑視の言葉である。
「リケジョ」なんて言葉までいくと虫酸が走るほど、気持ち悪い言葉に私には感じる。

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2015/09/06

U18ベースボールワールドカップ

もう大分前からやっていたそうだが、なぜかこれの存在を私は知らなかった。
どんなレベルなんだろうという興味もあったので全試合観てみた。

今年の圧倒的な強さだけを見ると、過去に優勝が無いのは不思議なくらいだ。

どんだけ格差があるんだよ、というくらいに大差、コールド試合の連発。
しかも完封試合だらけ。
優勝常連という米国相手は3-0と大差はつかないが、言ってみれば完封勝利。
「宿敵」韓国にもコールド勝利と、どこが宿敵なんだというレベル。

あまりに差がありすぎて試合を見ていても途中何度もチャンネルを変えるというつまらなさとさえいえるものだった。

初めてなので試合運営形式が日程を見ても良く理解できなかった。
とりあえず理解した後にやはり?マークがつくのが「決勝戦」というシステムである。

12カ国を2グループにわけて6カ国で総当たり戦。
次は各グループの上位3カ国ずつで総当たり戦。
ただし、計6カ国で既に当たったところとは先の総当たりの勝ち負けを引き継いだ上で、まだやっていない国との試合を行う。
このシステムはなかなか良い。最小の試合数でかつ組み合わせの運不運が少ない。
WBCの訳の分からない複雑怪奇なトーナメントもどきより格段に良い。

よく分からないのが決勝である。
普通に考えたら二回目の総当たり戦でもっとも勝ち数の多いチームが優勝で良いでは無いか。
全勝のチームと三勝三敗のチームがあたって、たまたま全勝のチームの打線と相手チームの投手の相性で全勝のチームが負けたら興ざめである。

まあ、上位の勝ち数が並んだらそのチームで再試合(決勝戦)を組めば良いだろう。
野球では得失点差で優勝というのは、どうにもなじまない気がするからだ。

これは今の日本プロ野球(米国メジャーもだっけか)のプレーオフも同様に興ざめである。
リーグ優勝したのに、なぜか日本一を決める試合をする権利が無い。
リーグ三位だったのに、たまたま終盤の十数試合絶好調だったので日本一になった、なんてことも起きえる。
それが面白いのだ、という人もいるのだが、私にはなんとも面白くない。
なんのための130試合なのか。下の順位はさすがにハンデがつくが、どの結果になってもどうにもスッキリとしないのだ。

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2015/09/05

五輪エンブレム騒動(2)

審議の途中で、国内の某ロゴに似ているから修正をして採用、という経過があったそうだ。
なんとも笑えない話である。
修正が必要と言うことは、そもそも類似性を生みやすいレベルのモノであり、修正しても他のモノに似てしまう危険性が高いということである。
修正を指示した奴もよほどいい加減なのだろうか。
ロゴの審査委員長がそれを知らなかったというのもあまりに酷い話である。

前回も書いたが、パクリがあったかどうかなんてやはり意味の無い議論である。

そもそも論で言えば、あのエンブレムは単純すぎるから既存のものに似てしまっただけのことではないのか。
「俺はあれの面積を求めたいだけなんだ」なんていうウィットのある記事もあったが、それほどに幾何学的であり、単純であったということである。
英文字「T」と○(多分日の丸か英文字のO)だけでデザインしようとすれば海外含め“偶然の一致”があちこちであっても不思議でも何でも無い。

当り前だが複雑であればあるほど“偶然の一致”の確率はどんどん下がっていく。
例えば漢字である「東」「京」をデザインすれば、広く見積もっても日本と中国だけ注意すれば良い。
英語圏でも「漢字はカッコイイ」のようだから、「東京」の文字をうまく入れれば、これぞ「クールジャパン」である。
どうしても英文字に拘るなら、せめて「K」「Y」も入れ込んでいればこれも確率を減らしてくれるだろう。

また幾何学的で機械的なデザインであるほど似てしまう確率は高くなるのも当然だ。
例えばフリーハンドで書けば似させようとしてもその方が難しいぐらいだ。
角度や比率などを工夫したとしても、基本的に定規とコンパス、それも少ない“パラメータ”(情報量)で書けてしまうデザインであればあるほど類似性が高くなって当然だ。
招致エンブレムのほうがいいのでは?というのは沢山の桜の花のあしらいのために類似確率が低くなると言う効果もある。

もうひとつ疑問がある。
商標権の問題である。
このマークを使って様々な商品を作るはずである。
日本はもとより、海外においてもパクリ商品を作らせないように、世界各国でも商標権の登録(少なくとも現段階なら申請済か)でないとおかしい。
登録になってしまえば、明白な「パクリ」でも無い限りは何ら問題は無いはずだ。
その辺の情報が一切ニュースには出てこないのが不可思議だ。
仮にどこかに棄却されればそのロゴは使うことに黄色信号となる。

ネットで検索するとどうやら取っていなかった、という驚愕の事実が書かれている。
文部科学省主導の事業がこんなことでは呆れてしまう。

今回の件の問題も、競技場の問題も、共通するのは「デザインに関するトラブル」であるということだ。
デザインというある種、空想世界のモノを、現実世界で実現した時に起こる問題である。
それを引き起こしたのはこともあろうに「文部科学省」であるということに落胆する。

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2015/09/02

五輪エンブレム騒動

東京五輪のエンブレム問題は、“原作者”佐野氏による撤回で“決着”がついた、ということになろうか。
佐野氏本人や家族への非難中傷が酷いので、というのはなんとも言い方が悪いように思う。
佐野氏本人へは“身から出た錆”だろうから仕方ないが(また同社社員もある程度は仕方ないだろう)、家族にまで非難中傷する輩がいるのはどうかと思う。

一連の“暴露”をみれば、五輪のものが“パクリ”かどうかはもはやどうでもいいレベルになってしまった。
一度“ウソ”をついてしまえば、当面は信用されないのが世間というものである。
会社取引で“ウソ”つまり不渡り手形を出せば社会からの抹殺=倒産である。

致命的なのはサントリー景品のパクリ“疑惑”だろう。
デジタル時代の“稚拙なパクリ”で、回転・反転・色入れ替えレベルでパクるという作品がいくつも発覚してしまった。
反論不能なレベルの低いパクリ故に流石に自ら認めたわけだが、一つ疑惑が起これば「他のもそうなんじゃ無いの?」と疑問を抱かせるのは当然の理である。

不思議でならないのは、個人やそれに近いサイトからパクったという話である。
パンの写真という“フリー素材”レベルのモノまで含まれる。
この程度の素材、会社として溜め込んでいないモノなのだろうか。
会社の誰かが近所のパン屋のパンの写真をとって使っていればなんの問題も無かった。

ニュースでも決め手と言われるのが「イメージ資料」である。
エンブレムが“飾られている”イメージ写真であるが、これまで他人の写真を“パクって”合成して作ったというのだから、完全に「アウト」であろう。

会社というのは信用では無いのか。
エンブレムどうこうでは無く、他のいくつかの作品に盗用疑惑が発覚し、それを作った佐野氏のデザイン事務所が信用を失った、ということであり、そこが作ったエンブレムを使うことができなくなった、という見方が適切だと思う。

実際、会社としてみたらエンブレム取り下げの話なんかは小さい話(賞金もたかだか百万円だという)で、今後彼の事務所には少なくとも表立った仕事はこなくなってしまうだろう。
このほうがよっぽど致命的な話である。
「あのオリンピックエンブレムを作った…」というハクがついたはずなのに、真逆になってしまったのだから。

例えば彼が若かりしころの問題だったりすれば「そんなものを今頃引っ張り出して」となるだろう。(いわゆる三流芸能雑誌の“スクープ”である)

しかし、これらの問題は正に“ごく最近作られた作品”なのだから弁解の余地は無い。
事務所の人間がやろうが、責任者は佐野氏なのだから、日頃の監督指導も含めて責任は佐野氏にあるのは逃れようのない事実だろう。
仮にそれを除いても「会社」の作品であるのはどうしようもない。

古来より日本には「お天道様が見ている」という言葉がある。
どんなに隠れて誰も知らないとしても「お天道様」はどこでもあなたを見ているから悪いことはしちゃいけないよ、という戒めの言葉である。

安直にパクればネットの不特定多数のような“安直な”人達にすらバレルのである。
「良く見つけてきたなあ」なんて言う人もいたが、沢山の人がいれば誰かしら一人は気がつくものである。衆目に晒されると言うことはそういうことである。
マイナーなサイト(個人のサイト)だからバレない、なんて安直にも程があるのだ。

デジタルパクリは昔で言う「模写」とは違う性質を持つ、ということも勘違いしてはいけない。
手による模写はどうやっても「完全に真似をする」というのは難しいという性質を持つ。
ある書家は「書写」を徹底的にやっているとどうしても「出てしまう個性」がある、という。
それこそが真の個性を見いだす方法である、という。

技術的習得の意味もあるだろうし、人の作品を真似るのは当然創作家ならやることだろう。
しかしそれを自分の作品だと偽って世に出すのが問題なのである。
そこを勘違いしてはいけない。
法律的な問題ももちろんあるし、そういう理(ことわり)を考えないというほうが残念でならない。

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