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2015/08/23

余った電気は捨てる時代が来るのでは

電気を“捨てる”時代

正確には“各家庭で作って余った電気は捨てる”時代である。
いずれはそういう時代になるだろう。

この発想がでてきたのは、農家さんの生活からだ。

農家ではよく野菜とかの農作物は“捨て”られる。
売りものにならなくて自分や家族親戚やご近所さんでも食べきれないものは、まあ、捨てる。
だからちょっと痛んでいれば(家に持っていく方が面倒なので)畑に放り投げる。
厳密には肥料となって土に戻ったりではあるが。

最近は農家関係が様々な視点で取り上げられるようになったので、こういう風景はご存じの方も多いかも知れない。
農家出身や親戚友人が農家の方はいうまでもないだろう。
私は両親の家系・親戚が農家であり、子供の頃からよく遊びに行って畑仕事も手伝ったりしていたので、別に珍しい景色でもない。
最初は抵抗があったがすぐに「マヒ」する。どうせ食い切れないのである。
家庭の事情にもよると思うが、その家の場合は野菜クズとともに休耕田で育てていた鯉のエサになっていた。

基本的に良いところしか食べないので本当に良く捨てる。
スイカなんか買っても都会と桁が違う安さ(もちろんキズ品だが)なのでちょっとでも白いところはもう食べない。
ご近所さんにあげると、お返しに色々また貰う。
「農家のひとは食べ物の大切さをよく知っている」「食べ物を大事にする」なんてある意味、大嘘である。

なんでもモノというのは、ふんだんにあって売ったり使ったりしきれなければ捨てる以外にはない。
ある番組で「0円食堂」なるコーナーがあるが、あんなに手間暇なんか馬鹿馬鹿しくてかける必要がないのだ。
「余分ならそもそも買わない」「もったいない」と思うのは都会人的発想であり、自分で作ったモノで腐ったなら捨てるしかない。

それでも足りない分は買う。
メイン作物があって、自宅用野菜は家庭菜園程度にやっているのであるような農家の場合は、一部は買うこともあるだろう。
周囲が野菜農家ばかりだと、肉や卵、牛乳などは買うことになる。

太陽光発電は基本設備になる時代

「太陽光発電は高い。導入コストがかかって元が取れない。」
最近は「固定価格買取制度がないと維持できない」
未だにその“神話”は生きているようだが、どんどん状況が変わってくるのが見られる。

最近、とある建築会社の投げ込みチラシで建て売り受託の宣伝があったのだが、デカデカと「太陽光パネルプレゼント」という文字が躍っていた。
冷静に考えれば家を建てるのは1千万は越える話だし、実際にはパワコンやら配電設備などは別料金になるわけで、会社としては“プレゼント”しても“釣りエサ”としては十分元がとれる話ということなのだろう。
そうだと理解しても「うーん、ここまで来たか」と思うようなインパクトがある話だ。

最近はパネルを屋根に上げたり(高所作業である)、場合により補強工事をしたり、配線設備をする(電気工事士がいる)ための人を呼ぶのに金がかかる、つまり工事設置費の方が問題になってきているらしい。

これらは家を建てる時(全面リフォームもだろう)ならば、一工程増えるだけ“ついで”の工事程度なのだという。
柱を組んで板を張り、屋根瓦を葺くのなら、初めから強度を考えて設計しておけばパネルを乗せるのなんか“ついで”レベルとなる。
配線も電気工事士を呼んで屋内配線(コンセント設置)は必須なんだから、これも“ついで”である。
配線は壁や天井を這わせるのが面倒なわけで、壁を打つ前ならなんてことはない。
屋根から配線するのだって普通はどうせテレビアンテナ工事もするのである。仮にアンテナは別にしても配線はしてもらうものだ。
もちろん追加料金にはなるが、その為だけにプランを立てて人を集めて作業するよりはるかに安いのは当然である。

太陽電池の開発競争はまだまだ世界規模で進んでいくだろう。

発電効率も上がっていくわけだし、価格も下がっていく。
デバイスとしても、であるし、大小入り乱れての製品開発競争になるのは必至だ。
住宅発電向け、事業発電向けに限らず、一般民生用製品も含まれるから“強い”。

売電・蓄電は必須なのか

まあ、売れるなら売るに越したことはないが、面倒なら売らない。
元が取れれば別に売る必然はない。それだけのことだ。
この話では固定価格買取制度なんか関係ない。

一家庭の消費電力量は間違いなく下がっていく。
太陽電池パネルやパワーコントローラ、蓄電設備等も下がっていく。
原発を再稼働しようがどうなろうが、どちらにしろ電気代(単価)は上がっていく。

結果、太陽光発電(自家発電)設備を入れる敷居はそれにつれて下がっていくのは必然だ。

蓄電は発電できない夜は買えば良いんだから別に必須ではない。
考えてみれば、一家庭で電気料金ゼロを無理にする道理はない。
電気代を減らすために発電をするレベルでも良いはずだ。
夏場の天気の良い日なら自己消費と釣り合うぐらいにしておいて不足分を買っても良いだろう。
(パネルが安くなればそんな“ケチな真似”しなくても良くなっていく。)

もちろん蓄電が安くなれば設備を入れて夜間も電気代ゼロを目指せば良い。
太陽電池で購入する電気をコストが合うレベルで減らせればそれで十分だろう、という発想である。

充電池はこれからもどんどん安くなる。
電気自動車の増加は紛れもない方向だし、スマホやタブレット等電池製品がなくなることはない。
しかも長期寿命や小型化もどんどん進むわけで、安くなっていくのは必須だ。

現在でさえ日産の電気自動車「リーフ」に積まれている電池で、一般家庭で二日ぐらいは持つ電力を貯められるという。
これと同じレベルの一般家庭向け充電設備より、リーフの方が安いという訳の分からない状態だという。
これは補助金のたまものの結果もあろうが、競争原理が働き出すとコストはぐんぐん下がっていく。

まあ、時代時代で選択肢があり、後付けで充電をつけても良い話だ。要は費用対効果の問題である。

個人へこういう行動を規制する術は無いし、そういう需要形態に応えるのも供給者の仕事である。
なんか蓄電設備は必須みたいに煽るが、個人家庭向けにおいては妙な話である。

別の観点ではコジェネなどで夜間動かす発電設備を併設というのは一つの考えかも知れない。
これからもまた別の観点で家庭発電奉仕が出てくるだろう。
妙な法律を作って邪魔だけはしないで欲しいものである。

マクロ的に見れば

マクロ的に見れば、各家庭で電気を作るようになれば、日中、特に昼間の電力需要はどんどん下がっていくことになる。
家庭のみならず民間企業だってこういう動きが出てくるのは当然だ。
「電気料金の上昇」というのは経営者にとって経営リスクである。
多少高くても自力供給や購入量低減が経営リスク低減と考えても不思議ではない。

当然、全体を見れば年間を通してのピーク量も下がることになる。
電力設備はこの需要のピークに合わせて作られるから、電気会社の設備も減る。
これは電力会社にとっての“危機”である。
なぜなら電力会社の利益は“総括原価方式”と言って設備の量に応じて設定されるからだ。
必要な設備が減る=利益が減るという図式になる。

そのうち、需要量が昼夜逆転するかも時代が来るかも知れない。(その前に蓄電が進む気がするが)
夏場は発電量が上がるので「夏場の電力不足」なんてなくなり、むしろ需要量が減る可能性もある。

たぶんこれは節電の効果が大きいのだとは思うが、今期は電力逼迫の兆候すらでてこない。
「頑張って火力発電で賄っている」というのは、私には空々しい嘘にしか思えない。
原発事故以来、確実に年々消費電力量は減っている。
事故後最初の夏の最大で6000近くまで跳ね上がった。
今年は最大で4500程度が良いところではなかったろうか。(あまり見ていないが、特に暑い日だけみてこうである)
今日は比較的涼しく休日だからだろうが、3200程度である。(東京電力:単位は万kW)
仮に発電設備が6000とすれば、その半分程度使っていないか、発電して捨てていることになる。

全体が減っているから夏場に増える量も少なく逼迫していない。
今は夏場の方が要求量が多いが、冬の方が増えるぐらいかもしれない。

さらに長期的に見れば人口は減る一方だし、産業も代わっていく。
産業は電気をモノに変えるような産業(鉄鉱や製造)からITやサービスに移動している。
電力需要量は落ちるのは必然だ。
つまり電力業界自体が既に斜陽産業になりつつある、ということなのだろう。

小売り自由化やらは、それらの業界変動への必然なのかも知れない。
地方は余るほど自家で発電され、首都圏では発電所や地方で余った電気に頼る生活というのが起きるのではなかろうか。
もちろんこの世界では固定価格買取制度なんかとっくになくなっている。

そういえば現在でも事業者によって“余った”電気はガンガン“捨て”られている。
事業者は常に需要を予測して発電を行っている。
ほぼ一日単位で変えているようで、つまり一日のピークを予測して昼夜関係なくその目標の分、発電をしている。
大概昼間がピークだが、真夜中も同じ発電量なのでその差の分は“捨てられて”いる。

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2015/08/11

原発再稼働におもう

川内原発再稼働にあたってニュースで取り上げられていた。

少しは事業者としての考察があるかと思えば、案の定皆無のようである。
まあ電気事業者としては経営が大事であるし、いざとなれば東電の時のように国がなんとか破綻は回避してくれるだろうから考えなくても当然と言えば当然だろう。

責任の“なすりつけ合い”という図式で、政府答弁と規制委員会と事業者と地元自治体が上げられるが、私はこの図式はおかしいと思う。

技術的な常識として、誰がおかしいかと言えば、どうみても政府答弁である。
「世界一安全な…」をバカの一つ覚みたいに繰り返しているがこの前置きはまったく“免罪符”にも、ましてや科学的根拠も全く感じられないし、実際ないだろう。

仮に本当に世界一だとしてもそれは全く意味がない。

どんな安全基準をもってこようと、事故は起きる。
問題はそれをどれだけ抑えるためのコストをかけるかと、起きた時のコストをどう考え負担するかという点である。
この観点で言えば「世界一安全な基準」にする事自体も、通常コストがかかりすぎるが故に単純には良いとはいえない。

規制委員会委員長の発言はその点ではまだ納得ができる主旨であると言える。

世の中には様々な安全基準がある。
例えば自動車にもあるし、鉄道、航空機のもある。
家庭用の電気製品にすらある。例えばいつぞや記事に書いたPSEマークもある安全性への適合を示すマークであり、適合しないものは販売不可である。

いうまでもないが電気製品による事故もおきるし、自動車事故は日常茶飯事レベルだ。
鉄道事故や航空機事故もつい最近ニュースレベルの事故が起きている。

利便性と事故による影響、それへの後始末。
そのサイクルで日々はうごいているとも言えるだろう。

原発は特別、一緒にするなというのはおかしい。
どれも機器自体が要因となることもあれば、人的要因であることもある。
それでも原発以外は大問題(後には引かない)にはならないのはどれも補償が十分に行われているということに他ならない。
もちろん慰霊等が長く続く場合はあるが、補償という意味では決着がつく。

ところが原発事故に対する決着は、もう4年も経つのにまったく決着からは程遠い状態である。
事故処理の一つである、廃炉すらまだほんの着手レベルである。

補償処理が終わっていないというのはそもそも論外である。
仮に終わっていたとしても、万一の後の事故処理の体制の論議が未だまったく不十分であること、補償体制が全く十分であることが問題なのだ。

自動車事故で言えば自賠責保険と任意保険がある。
自賠責は強制加入であり未加入だとその自動車の運転は不可であるという縛りがある。
これは民間レベルではなく、国土交通省所管の事項、つまり政府レベルの話である。
昨今では自賠責だけでは“事故破産”する人が頻発しているため、加害者被害者双方の“保護”のため考え直すべきだ、という論議が強くなっているように思える。

フクシマ原発で実際に東電が“事故破産”しているのにもかかわらず、そのことへの反省がまったくでてこないのは私には理解できない。

自賠責保険すら整備されていない状況でその自動車の運転を許可している、というような状況であり、それを政府が問題視していないということが問題なのである。

保険に全く入らないという選択もある。
それは資産を潤沢に持っているという前提である。
普通自動車による一般道での事故なら数億もあれば解決がつくだろう。
だから政府が全部責任を持つという選択肢もある。つまり税金をぶっこむということだ。
(国民がどう思うかは別問題としておく)
しかし政府はそういう方向も全く示していない。

もうひとつは原状回復か、代替え(多くは金銭)補償かである。
これも4年も経つというのに、まだ曖昧なまま進んでいる。

「規制基準をクリアしている」などというのはただの一条件でしかない。
他に考えるべき事はこの補償問題も含めて山のようにある。
それが今まで足りなかったことが問題であるという反省がないし、対応がない。
すこしは進歩しているのかと言えば、この4年間でなにもみえてこない。

政府はいまだに「原発安全神話ボケ」しているのだろうか、としか思えないのである。

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RaspberryPiでNASを立てたとしての速度を簡易的に測ってみた

RaspberryPiでNASとしてのパフォーマンスはどの程度あるか調べてみた。
ごく単純大雑把に、実験的に仕立てただけなので、いうまでもなく目安と思って欲しい。

  • Raspberry Pi(Debian)にUSB-HDDを繋ぎ、Sambaで外部に公開する。
  • Samba設定は認証・暗号化なし
  • USB-HDDはRaspberry Piでext3で初期化
  • クライアントはWindows8.1PCで巨大ファイル(5G程の動画ファイル)をRamディスクからコピー(フォルダ名はCD)

小さいファイルたくさん(ランダム性が強くなる)と大きなファイル(シーケンシャル性が強くなる)があるが、前者は結果の安定性が難しい話になり、面倒なので省略。
Windows8.1ではコピー中の様子がグラフで出るのでそれで確認してみる。
ベンチマークソフトを探しても良いのだが、実際の作業もこういう形になるだろう。

Ram2pi_usb

結果は概ね5MByte/秒である。このまま続けても同じ感じだろうということで切った。
このときRaspberry Piのデスクトップ上の負荷メーターは100%に張り付いていた。
CPU的な処理の上限にぶつかっているのだろう。
ちなみにSDメモリ上のフォルダでも測定したが、ほぼ同じ速度であった。
また、読み書きとも大差はない。

40Mbps(BitPerSecond)ということなので、圧縮したHD画像ならリアルタイムでも満足する速度は出ているとはいえる。
地デジ・BSのビットレートは平均で概ね15Mbpsである。
ただしBDに記録されているデータとしてはやや足りない、という程度のレートである。

その昔、俗に言う白箱やら玄箱やらがあったがそのパフォーマンスよりは良いのでは無いか、と思われる。(まあ当時はSATAでもない時代でHDDも遅かったが)
それを不足と言っては可哀相かも知れない。

以下は蛇足というか周辺確認。

いちおうUSB-HDDのパフォーマンスを疑う必要はあるので、USB-HDDを直接PCに繋いで確認はした。
同じハード構成でNTFSで初期化してUSBで接続して測定したところ、概ね25MByte/秒であった。
NASとしてのパフォーマンスの制限(律速段階)にはなっていないだろうと思われる。
ちなみにHDDは360Gの時代のものだが、2Tのものに変えても同じだった。
HDD速度よりUSB-HDDのチップの限界がでているものと見るべきだろう。

Ram2usb

まあ、クライアントPCのパフォーマンスを疑うのもなんだが、試しにうちのサーバーPCをNASとしても使っているのでそれによる測定もしてみた。
J1900ICというAMD系の低消費電力CPUを積んだマザーボードによるサーバーである。
結果としては65MByte/秒なのでクライアント側の影響は十分少ないとみて良いだろう。

Ram2j1900_2

最初はビットレート高く(100Mbyte/秒)が徐々に下がって変動が大きく出ているが、これは8GほどRAMを積んで64bitOSで稼働しているため、余剰メモリによるファイルキャッシュの影響が出ていると思われる。

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2015/08/08

石破大臣の「徴兵制否定」論拠

BSプライムニュースで石破大臣が昨今起きている“徴兵制への道筋論”があることへの否定について説明をしていた。
これはなかなか興味深い論だったので取り上げておこう。

徴兵制は違憲であるからありえないという論拠である。

まず幸福追求権についてである。
これは言い出しておきながら自ら否定しており、国家の存続という公共の福祉の観点からはこちらが勝るのでこれではおそらく防ぎきれないだろう、という見解だ。

「意に反した苦役」の禁止に反するのではないか、という論である。
「苦役」は難しいが(私も難しいと思うのでつっこまない)、「意に反した」に相当するのでこれは憲法違反だろう、という論拠である。

つい「なるほど」と思ってしまいそうだが、数分後に「ちょっと待て」という思考がもたげてきた。
意に反しない徴兵なら合憲になるという論理でもある。

いわゆる戦争映画、戦中映画やドラマを思い出してみよう。
赤紙召集がきて、我が子が家から出るところを母親が見届ける場面はある意味“お約束のパターン”である。
ドラマ上で心情を描写している流れを見ている視聴者にとっては「意に反して」心の中で泣きながら出兵を見送る母親と苦悩する子の物語である。

さて、そういうのを無しにして極めて表面的、客観的に見てみよう。
赤紙を見て母親は「ありがとうございます」とすら述べる。少なくともそれを見て憤ったり大声を上げたり持ってきた兵に向かってくってかかったり等は一切ない。
子供もそれに対して異見はおろか感情すら表に出さない。
家を出るところまで淡々と過ごし、家を出る時には、周囲の住民を含めて「万歳三唱」で送り出し、子供も「お国のために頑張って参ります」と言う。

これを客観的に見て「意に反した」という事実が存在したか、といえば「意に反していない」と言わざるを得ない。
(あくまで表面的な事実関係が問題なので「心情的に推し量る」というのは無しである)

別に言い方であれば「意に反した」というのは客観的事実ではなく、その人の主観的感情や意思であり、正確に知ることは不可能である、といえる。
戦争という極限状態や言論思想的統制が行われた状態下においては、法文的に極めて脆弱な縛りであると言える。

もうひとつはワーキングプア、または貧困再生産問題である。
貧困であるが故に軍隊に入る、日本の場合は自衛隊に入るという問題である。
戦争が徴兵制を呼ぶのではなく、戦争を余儀なくされるような状況に陥ることで徴兵への道が自ずと緩くなると言うことである。
ここにも「意に反して」はいないという状況が作り出される。

もちろんこんなことは妄想であって欲しいのだが、論理的には道筋があり得る以上は、考査しておかねばならないだろう。

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私は今回の法案が戦争に繋がるから徴兵制に繋がる等とは短絡的には思ってはいない。
(まだこの程度の踏み込みで戦争を引き起こすとは思わないが、戦争や紛争・内紛・テロの類に巻き込まれる可能性が高まったと思っているだけだ。)
ただ、こういう論法や政治的手法で、こういう法律を作るようなことをするのなら、徴兵制だってやりかねない、とは考えている。

「民主政治だから大丈夫でしょう」なんて微塵とも思わない。
あの「ヒットラー=ナチス党政治」は世界でも論理的で名高いドイツ人によって、民主政治の中で合法的に台頭・成立し、あのような「禍根」にまで至ったという事実を思えば、時にとんでもない非論理的がまかり通る日本で起きないなんて言えるわけがない。
特に最近の政治状況を見ていると非論理性がおびただしいことこの上ない。

この法律制定において思ったことは、それなら早急に原発はやめた方がいいんでない?と思うだけである。
もうすぐ川内で再稼働するつもりらしいが、まだ避難訓練すらしていないらしい。
危機感のなさといったら呆れるばかりである。

原発というのは格好のテロの標的である。
たかが原子炉一棟程度を破壊する破壊力さえあれば社会を十分混乱に貶めることができる。
いや直接の物理破壊でなくてもいくらでも手はある。
フクシマで爆発した原因は「たかが」冷却用電源の喪失であることを忘れてはならない。
今のテロというのはむしろそういう方が常識とも言える。

しかもテロリストからしてみれば都合良く、原発は例外なく無防備な海岸線に置かれている。
そこからわずかな距離の領海の線を外れれば排他的経済水域ではあるが公海である。
領空侵犯への対策は万全だが、領海外ぎりぎりから飛び立つ飛行物の迎撃ができるほどには戦闘機は超速ではないのは当然だ。

今までは中東の一般民にすら「どこにも与(くみ)しない平和国家」として認知されていたようなのだが、これからはそうではないとなると決して安穏としてはいられないはずである。
標的をどこにするかは、日本国家・政府の理屈で決めることではなく、テロリスト達が“勝手に”決めることである。そこを忘れてはならない。

「(平和)支援をする」と言っただけで、それを国民を殺す理由にする集団が存在することは大きな痛みと共に知ることとなった。
それに屈するかどうかは別問題として、支援によって危険性が高まるのもまた事実として認めないと何も始まらないのではないのか。

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小学校で株売買講義

小学校で株売買を教えたという報道を偶然テレビで見た。

何に驚いたかと言えば、一私企業(一業界団体としても良い)が学校、しかも小学校に入り込んで自社(自業界)の“商品”の宣伝をしていったということである。(もちろん“商品色”を限りなく薄めたのは当然だろうが)
公共・中立であるべきはずの、しかも一番“抵抗力の低い”小学校で行うということが驚きである。
(しかも見たところ生徒達は中学年ぐらいに見えたのだが)

別に小学生に株売買?とかいうつもりはないし、私は株売買をギャンブル性としてあまり捉えてはいないので、番組で多くの人の意見のようにとらえた「とんでもない」とは思わなかった。
しかし、問題点として上記のような感想を持ったわけである。

これもマスコミ的には煽りで入れたのだとは思うが、政府も容認しているどころか「ジュニアNISA設立」とかまでいったことも報道された。
これには驚いたが「ジュニア」という点ではなく「利益非課税」を検討するとしていることである。
税の公平性からまったく乖離しておりとんでもない問題だ。

「子供だから税金を取らない?」こういえば当然思うのが消費税である。
子供がお小遣いで買うお菓子まで課税しているのが消費税であり、そんな理屈は通らない。

もし可能とするなら「少額なら非課税」ぐらいだろう。
もちろんこれもやったら不公平でなぜ普通預金の数千円の利子にまできっちり課税をするのか、という不公平さになる。
利益(収入・所得)に関しては公平に課税をするという前提を崩している。

別の観点でやるとすれば既に主業で十分な収入があり、それ以外の雑収入で一定額以下なら非課税、ぐらいだろう。
(いわゆる小遣い稼ぎぐらいなら誤差として申告不要(非課税)とする特典である)
当然ながら殆どの子供ならこれも理念的に当てはまらない。

つまり「ジュニアNISA非課税」は税の整合性がとれない悪法であるといわざるを得ない。
今の政権がトンチンカンなのはこういう不整合性を平気で破壊するような言動が多いという事である。
(ジュニアNISA非課税の発言は麻生財務大臣である)

別に子供だから株を知らなくて良いとか、別にそんなことを言うつもりは無い。
むしろ「株のカラクリ」をしっかり知ってもらって、「現在の株高のカラクリ」をしっかりと把握してもらいたいと思うし、子供だけではなく当然大人も知って欲しいと思うぐらいである。

「株はマネーゲームだから」「博打だから」と言って敬遠するのはむしろそれによって騙される危険性がある。
きちんと仕組みやカラクリを知った上で、やった方が良いかやるべきでは無いのか判断すべきである。
腕利きの金庫破りが作った金庫は信用できる、とはよく言われることである。

ただし、株取引を知る前に、株とは何か、つまり会社とは何かをしっかり教えていないと話の順序がおかしいのは当然の理であり、株のことをきちんと理解できないのは言うまでも無い。
小学校の「社会科」レベルで足りるとは到底思えないし、普通高校のその手の教科でも明らかに薄すぎる。
商業高校の簿記レベルまでやれとは言わないが、その入口くらいまでは行くべきであろう。

株とは会社がお金を集めるための手段である、という根本からまずしっかり認識させないといけない。
その認識がないとただの「マネーゲーム」「博打」である。
それを資金の一部としてものの売買・製造・サービスを行い、カネを産み出す、という本来の会社のあり方をきちんと教える必要がある。
そこをやっていないのが、日本では就職での大手企業偏重や起業家が少ないという背景の根本なのだと思う。

株を買うというのは、実際に様々な“サービス”を提供してお金を儲ける人に、出資をする行為である。
それには株の前に、個人経営の人に出資するという行為が存在する。
いわゆる株上場前の中小企業のような存在である。
実際に稼ぐ人の存在を飛ばして、株の売買の説明をするのは話が飛躍しすぎであり、ただのマネーゲームとしての株式売買の説明となってしまう(仮に説明者が前説でいくら頑張ってもそれは無理難題である。)

例えば文化祭などでも“喫茶店”などを許容しながらも、お金を儲けるのはタブー視されている。
当然、部活動などでもそうだ。むしろ部活動なら活動費の一部を集めるために“お金儲け”をさせるぐらいでも良いと思う。
株売買どうこうというのはその後の話である。

例えば喫茶店で売るもの、ジュースや珈琲紅茶を買うのには「元手」が要る。
文化祭ならとりあえず学級(部)の人員から集めることになる。学校が貸与しても良いだろう。
これを拡張して“赤の他人”からお金を出してもらうことが、株を買ってもらう、に相当する。
終わってある程度儲かれば、それを頑張ったみんなで配分する。これが給与やボーナスである。
同時に“赤の他人”にも分けるのも当然の理である。これが“配当”となる。
お金を出してくれた人には珈琲一杯無料券をあげても良いかもしれない。これが“株主優待”である。

こういうのは一度やってみれば凄く実感として感じるものがあるが、机上の空論では理解度も浅いのは当然である。
私も大学で実感としてようやく理解したレベルであり、まあそれが普通だろう。
大学なら大学祭で(もちろん合法の範囲内で)いくら金儲けしても良いし、学生起業すら問題ない。
その前にしっかり「座学」をやるのは問題ない。
しかし小学生に、いきなり株売買というのはどう考えても話をトバしすぎである。

番組で小学生に感想を聞く中で「株はスリル」とか言わせてしまっている。
マスコミは面白おかしくこういう発言を取り上げたのは見え見えであるが、しかし、一人でもこんな感想を持たせてしまったとすれば、明らかに講義として失敗だったと断罪せざるを得ない。

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ついでなので今の株高のカラクリを簡単に説明しておこう。
金融緩和容認政策(アベノミクス第一の矢である)によってカネが回るようになり、また、円安となった。
これはごく自然の現象である。
円安になれば輸出産業は儲けが自動的に多くなり、海外に関連会社(資産)を持つ会社は自動的に見かけ上の数字が上がる。
(なぜ今までやらなかったのかといえば、これも自然に輸入品(原料含む)の金額が上がり、物価上昇を引き起こすからである。また金融緩和でなぜ円安となるかと言えば、円を増やせばだぶつくことになり、だぶつけば当然その価値が下がるからである。少なければ価値が上がり、多ければ価値が下がるという理屈である)

輸出企業の業績はあがるので問題は無い。
輸入企業はキツくなるが簡単に値上げに転嫁できる企業などほとんど無く、そのしわ寄せは非正規雇用へのシフトなどでごまかし続けて表面化しづらい(もちろん企業自身経営悪化などと言いたくないので頑張る)。
国の統計でも「正規雇用者の」所得の推移と書けば上がったように見せられるのである。

もちろんこんなのは最初だけである。
ただし株価を上げたり維持するのは理屈上は単純である。
株を“誰かが”“買い”続ければ(支えれば)良いのだ。
問題なのはそれが誰がやるかである。
中国株では中国政府がもろに買い支えたり大衆扇動をして爆上げしたが、それも市場がでかくなりすぎて息切れしたのであの暴落である。

日本は資本主義・自由市場ということになっており政府がやったら大問題なので迂回策を取っている。
実働はGPIF(年金基金)で買い支えている。
要は我々の納めた年金(基金)で株を買い支え続けて維持しているのだ。
基金の総額は目減りしているのは言うまでも無く、株を買うための実弾はどこから出るのかと言えば、従来、主としていて購入していた国債を売り続けている。
国債が売られれば国債がヤバイのでは、というのは当然であるから、これはタイミング良く日本銀行が買って支えている。
こういう“違法ギリギリ”のコンボによって支えられているのが現在の株高の現実なのである。

日本銀行が国債を買い支えられるのは“異次元の金融緩和”政策のおかげである。

もちろんこんなのはいつまでも続くわけがないので、企業が円高政策の中でボロボロになった体力取り戻して自ら立てるようになる、のが理想なのではあるが、それを実現させるべき「第三の矢」は全く弱々しいものだけである。
「秘密保護法」とか「集団的自衛権」とか脇道にそれている場合ではないのである。

それでも一ドル80円とかの異常円高は輸出産業が“壊滅”するレベルなので是正すべきだとは思うので、金融緩和円安容認は全く反対しないし、やったアベノミクスは良い判断と思う。
但しそれ以外は全く賛成しがたい。
つまり安倍政権の評価できるところは「金融緩和容認」の英断だけ、なのである。

もう一つ問題なのは「財政破綻による経済危機」である。
ギリシャが議論にあがってヤバイと言われるが、額だけで言えば日本はとんでもなくヤバイ。
日本の1000兆円の国債がありながら、問題ないというのはその殆どが“国民の貯金”要は殆ど動かない“実弾”によって買い支えられているのが実態である、というのがその論拠であった。
つまり「借金(ローン)もあるがそれ以上の貯金もある家庭」みたいなものでいざとなったらチャラである。
貯金とは郵貯であり、年金基金ではなかったのか。(年金とは形式上は老後の為の貯金である)
それが日銀による購入という「信用によるカネ」にすり替わっていくというのはかなり不味いことではないのか。

「蛙の生ゆで」みたいにじわじわと危機が来る話だが、「この方向でずっと」はどうみても無理筋である。

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