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2015/05/30

「コピペ論文」は悪いことなのか

STAP細胞問題が発端だったろうか、いまだに論議になる「コピペ論文」問題。
これが波及して小中学校ですら行われている「コピペ作文」問題にも波及して教育論にまで話が拡がっている。

そして「東大」で「75%」という言葉のミスリードを狙ったかのような報道。(ある特定、たぶん一人程度の論文中の文章の75%がコピペだっただけのことである)
さらにインターネット悪論まででてくると少々呆れてしまう。

ぶっちゃけていえば「コピペ論文」などはインターネットどころかPCがまだ普及していない頃から存在(横行)していたことである。
特に大学では酷いもので「過去問題」と並列して「過去論文」に類するものが(紙ベースで)存在していた。
私が見た中では今や「それ何?」である「青ゲラ」のものすらあって、その歴史は長いものと推察される。(青ゲラについては各自ググって欲しい。ちなみに検索ワード「青ゲラ」だけでは鳥の青ゲラが出てきてしまうようで、検索リテラシーが試されるだろう)

つまりそれのネット版でしかない。
違いと言えば昔は一定の人脈がないと入手できなかった(アングラ品)だったのだが、今はネット検索で手に入ることだろうか。

さて、私はそれを手にする機会があったにも関わらず一度も“使った”事が無かった。
別にかっこつけていたわけでは無く、そんなものコピーして何の得があるのだろうか?と不思議に思っただけである。

そもそも学校でなんのためにそういう作文なり論文を書くのだろうか。
目的を考えれば、コピペ作文やコピペ論文の作成などはやるだけ時間の無駄だ。
目的を考えずにいるから「学校がつまらない」「勉強がつまらない」「何のために勉強するの」とかいう疑問が生まれてしまうのだろうか。

学校の意味、勉強の意味は多様なのだが、その一例を言えば、社会に出てから恥をかかないため、効率よく稼ぐための“練習”である。

スポーツで何のために練習するのかといえば、試合で少なくとも恥をかかない、少しでも勝っていきたい、最終的には優勝したい、そういう事では無いのだろうか。
練習だから色々試せるし、基礎を押さえることで試合での応用が利くようになる。
色々な場面を想定しての練習を予め行うことでとっさに反応できるようにする。
そういう練習がカギとなって試合に勝つかもしれない。

作文や論文は文章をものを書くための練習である。
ものを書くというのは文字を連ねるという事以上に、考えることの練習である。

なんでも最初は丸ごと見たまま真似る。
赤ん坊から幼稚園児あたりまではこういう傾向が強いし、それで十分である。
そこから段々と自分を作っていく。
単純な真似では無くてアレンジしたり組み合わせたりする。
どうしたらいいか、考え、それが個性・独自性へと繋がっていくわけである。

試合、つまり社会では誰かが書いたこと、つまりやったことをなぞることなんて価値が無い。
コピペしかできない人間は所詮ろくな仕事が得られず、結果として稼げない。
肉体的精神的につらいだけでたいして稼げないのはつらいだろう。
それよりも自分の考え・発想を出して、より多く稼げる方が楽しい、つまり楽だ。
誰だって楽してより多く稼げるのが一番ではないのだろうか。

今の世の中、価値を生む(稼げる)のは既にあるものを再構成する、発想を変える、新しいものを産み出す事である。
少なくともその格差は大きくなっていく一方である。

学校などでは練習といっても漠然とやるのはむしろ難しいので、あえてごく限定された条件を出して練習するのである。
個別基礎練習みたいなものだ。
そしてそれを評価してくれるわけである。

せっかくの機会なのに誰かのコピペで終わらせたら、何の意味も無い。
実に勿体ないでは無いか。

コピペ作文・論文をやって損をしているのは、それをやっている当人だけである。
学校に限定して言えば、私は悪いことだとは思わない。
コピペだった場合、学校としては教育的立場から指導するだけの話であって、別段何も損はしていない。(まあ、うっかりいい作文と判断して対外的に発表した後バレたら恥だが)

実際、コピペでやっている人を見ても別にいさめるつもりなど毛頭無い。
何か口出ししても私は損しかないからだ。

どうもやってる人達はコピペしてうまくやりぬけた、何か得をした、苦労しないですんだ、みたいな感覚をしている様子だが、そのツケは必ず後で本人が払うことになる。
長い目で見れば必ず損である。
(まあ、いつの時代も皆、歳を取ってからやっと理解できる。人類というスパンで見れば進歩がないものだ)

学校や塾で無理に勉強ばかりしているからなのか、勉強を「やらされてる」感になっているからなのだろうか。
私は塾なぞいける家庭的金銭余裕もなかった(家庭教師なぞ論外)ので勉強への飢餓感があるからなのかもしれない。

大袈裟にいえば「若い時の苦労は買ってでもしろ」って奴である。
練習の時にうまいことサボったってそんなものは必ず試合で露呈する。
練習を惜しまなかった成功者が言うところの「練習はウソをつかない」なのである。

しかし社会(会社)になれば話は違う。
STAP細胞論文のような件は「悪」であり「犯罪」である。
新規性があり、発明・発見であると偽って論文をでっち上げた。
発見を見て追試をした人達に“無駄足”つまり時間的・金銭的損害を与えているし、それを雇っている研究所にも損害を与えている。
研究所にとって論文は重要な“成果物”のひとつであるから、真実を偽った文章を作成したことが犯罪行為に等しい。

コピペした事自体は直接的には悪ではない。
論文というのは「今までの現状」の説明のためにコピペをすることもあろう。
その場合は「この部分はコピペ」と明示することが重要である。(一般にはこれを“引用”と称する)
その上に立って「従来はこうでしたが私の新発見はこれです」という論を展開する。
その新発見と称するものが既存の写真やデータを都合の良いように加工して偽証したことが悪であり、問題なのである。
悪の本質はコピペでは無く、科学論文において再現できない“ウソ”を書いたというだけの話なのである。
その結果を得るための最短手段がコピペを含む偽造行為だっただけのことである。

彼女に問題があるとすれば、そういう行為ができる自体が“科学者として論外”な人間であるという評価になろうか。
彼女が何らかの形で追い込まれてやってしまった、としても、どんなに譲っても科学者として、そこだけは曲げるべきでは無かった、という思いがある。

再現できないことは“未だ科学”ではない、と私は思っている。
それはただの“オカルト”現象である。
オカルトはオカルトで面白いので別に私は否定するものでは無いのだが、科学現象とはきちんと分別しないといけない。

最後にあの問題についてもう少し私の論を書いておく。

彼女は論文に書かれたその実験を「再現性が高い」と断言した。
しかし再現実験で十分な期間(回数)が与えられた(報道により私はそう捉えた。時間的にも少ないとも思えなかった)にも関わらず再現ができなかった。
細かい言い訳はあるのだろうが、そのこと自体が問題なのである。

STAP現象の存在の真偽は分からないが、少なくともその現象を起こすための「なんらかのカギ」を掴みきっていなかった、そのことは確かだろう。
体調などの不調で再現ができなかったとしたらば、そういう要因のブレで再現できなかったとしたらば、再現条件の抽出が足りなかったということであり、それが問題なのである。
そして、その未熟な段階で発表となってしまった、ということが問題なのである。

だから今回の問題は決して彼女だけの問題では無い。
私は今日でもSTAP現象を100%疑うことができない。
対外発表の前に(恥をかく前に)内部で第三者(直接関わっていなかった研究者)に再現実験をさせるべきだったのである。
「レシピ」があるといったが、本人にすら分からない(自覚していない)絶妙な、巧妙なコツがあったのかもしれない。私はそのことを否定する気にはなれない。
つまりレシピ化できていない何かがあったのかもしれない。

疑えない、というのは私にも似たような経験があるからだ。
ある不具合現象の再現なのだが、色々試して要因を掴み、ほぼ100%できるようになり、ほっとして昼食になったのだが、午後に再現手順レポートを書こうとしたら殆ど再現できなくなってしまっていたのである。
幸い、諦めて気分転換(別の事務仕事)をしてからやったらまだ再現できるようになったのだ。
あまりに不思議で原因が分からないから自分のビデオを撮ってみたら(つまり客観視したら)そこで初めてその再現の“コツ”(再現条件)を知ったということがある。
うっかり条件が足りない“誤った再現レポート”を書いてしまうところだったのだ。

きちんとした“レシピ”の構築。
まずは当人以外による再現確認、次いで社内で非メンバー(実験室も変える)による再現確認。
その上での対外発表が必要では無かったのか。
これをさせなかったのは上司の責任であり、複数の部署を管轄する立場の人間の責任でもある。

私の事例なら解析グループで「再現しないぞ」と怒られるだけで済むレベルだが、対外的発表であり、著名雑誌に掲載し、社会的反響も大きいトレンドな話題だけに慎重である必要があろう。

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