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2015/03/27

ファールボール失明訴訟

札幌ドームでのファールボールでケガと失明をしたとしての訴訟である。
私にはクレーマーとしか思えない。
それを支持するとはこの裁判官はよほどの世間知らずとしか思えない。
法的解釈よりも一般通念の方が重要となるような、こういう裁定こそ、一般の感覚を導入するために、裁判員裁判で実施すべきである。

日本では裁判員裁判は私には全く理解できないのだが、刑事事件に対して行われている。
刑事事件は警官や刑事、検事などのプロの物証や書類を検証して判断することを要求される。これは素人には酷な話である。
殺人事件等では素人には直視が困難であろう写真を見ることも強要される。

まあ、それは今回の本論ではないので置いておく。
ライナー飛球が避けられないのなら外野にでも行けば良い。
特にホームランボールは取り合いになるぐらいで、滞空時間もあるからその間に頭を抱えていれば勝手に誰かがとってくれるから安全だ。

ただ、よくわからないのだが内野でも一部には網がある球場はある。
つまり打席と自分の位置の間に網が入るような座席を選んで座れば良い。
ただし普通の心理として、わざわざ網で打者がみづらくなるような座席に座る人は少ないだろう。
この女性は自分の夫と子供二人と来ていたという。
素直で科学的に考えにくい子供は特に嫌うだろう。
しかし視線が通るということはライナーで球が飛んでくる可能性があるのは当然である。

その辺がどうであったのかが語られないのが残念である。
仮に全く網がないのであれば札幌ドーム側の過失はゼロではないとは思う。
ごく一部だけでよいからそういう「逃げ場」くらいは作っておいても良いだろう。
もし網があり、自分でそれを避けたのであればこれはクレームであると私は断ずる。

リンク: 萩生田氏「ファイターズ訴訟は気の毒」FB失明訴訟 - 社会 : 日刊スポーツ.

米国の野球場について「ファウルボールに当たると、その観客がブーイングされて出て行け、と言われる。そのくらい『ボールを見ていろ』という文化が根付いている

まさに正論で、この観点がとても重要だろう。
野球観戦での安全性の確保はその本人が最も払うべきものである。
ファールボールへの対策は、球場設備の安全配慮が足りないのではなくて、観戦する各人が普通に払って観戦していればそれだけで十分である。
球を追う選手一人一人の挙動を注視し、球の行方を常に追うだけであり、それは野球観戦の主旨と同一である。

ほんの少し家族の様子を見るために目を離した、ともされているが、よっぽど野球を知らない素人であると判る。
目を離すのなら捕手のミットに球が入り、投手に球が戻ってからの十数秒(もちろん短いひともいるが)が安全時間である。
事故が起きたタイミングからすれば多分投げた瞬間くらいに目を離したのだろう。
考えうる最悪のタイミングで目を離したことになる。
余程の野球に関しての素人であり、野球に興味がないくらいの感じを受ける。
まあ、だからこんな訴訟を起こしたのだということなのだろう。
野球を少しでも知っていればあまりに恥であり、こんな訴訟は起こせない。



それにしてもこれでは日本は野球後進国であると言われても仕方がない。
WBCで優勝したなんて嘘みたいな後進国ぶりであり、恥であろう。
観客の一人がクレームをつけるのは不可避だ。
しかし裁判でこんな判例が残ることが日本国の文化レベルという意味で大問題であり、とても残念である。

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2015/03/22

米国で苦戦するトヨタのプリウス

リンク: 全文表示 | 米国で苦戦するトヨタのプリウス カリフォルニア州「もうHVはエコカーじゃない」 : J-CASTニュース.

もともと米国ではそんなにHVは売れていない、ということは言われてきた。
燃費が低い程度で特別扱いすべきではないという点もあるし、ガソリンの安い米国では本体価格の高さとガソリン減のメリットが相殺しづらいからだろう。

また欧州はもともとディーゼル好きである。日本ではディーゼル=黒煙もくもくみたいな観念が未だにあるが、欧州ではとっくに解決済みの案件である。当然低燃費である。
日本では自動車の購入層が中高年だからそういう間違った観念で売れず、だからラインナップや研究も遅れ、高くなり、ますます売れないという悪循環になっているのではということはもうだいぶ前から指摘されいる。

日本ではなぜプリウスが売れるのか。HVが価格高に見合わないほど売れるのか。
それは購入することを検討すれば判る。
購入するときに払うお金が重要なわけだが、見積もりをとった時に意外なほど安い。
正確に言えば日本で自動車を購入する際の税金諸経費がアホみたいに高いのだが、HV車などの「エコカー」はほぼ減免されるのだ。
HV車以外も検討して見積書を比較すればグレードの高いHV車の方が安いこともありえる。
その上、今後のガソリン代も安くなると思えばHV車になびくのも無理からぬことである。

購入時だけではない。日本で自動車の税金関連のコストはアホみたいに高い。
車検が高いともよく言うが、明細を見れば車検自体は大したことはなく、バカ高いのはその時に同時に払う税金なのである。
自動車会社の社長さんか会長さんが言っていたが、日本で普通の乗用車を買って、10年10万km乗ったとしたら、その税金額は車体価格を超えるそうである。(ガソリンへの税も含むらしい)

税金関係なのでもうひとつ言おう。
それは軽自動車との税金のバランスである。ご存知のように軽自動車の税金はやたら安いので不公平である、という論議も沸き起こる。
正確には一般自動車が高すぎるのである。
ともあれ、相対的には安いので、軽自動車が売れる。
結果として日本の総販売数の4割が軽自動車という話もある。

これが事業として非常に不健全である、という話がある。
「軽自動車」などという規格は日本独自のものである。
つまり「日本の自動車産業のガラパゴス化」になってしまう懸念が言われている。
日本の道は狭いので軽自動車という存在を否定するものではないが、是正されたとするが現在の税制でも不公平感はまだまだある。
「重量税」なら車重に応じて決めればよい。
「排気量」という枠は前世代的発想なのでいまは「排ガス量」に応じて決めるべきだろう。
「軽自動車」という枠で保護税制があるのはおかしな話しである。

話は簡単だ。先進国に倣ったグローバルスタンダードにすれば良いだけだ。
安倍総理や最近の自民党はこれが好きらしいのでぜひ研究して“普通に”やって欲しかったのだが、結果は軽自動車の額を上げただけという、これまた所詮は自分たちに都合が良いだけの「似非グローバルスタンダード」であることを露呈しただけである。

当然、それができない理由はあって、これらで徴収される9兆円にも上るという。
現在50兆もない税収の中では国家財政の柱レベルである。
逆に言えば一つの業界に頼った、非常に危うい財源が重要な位置を占めているといえる。
国民全体や運送業界への負担(これも国民負担に直結しやすい)による税金がこういう形で吸い上げられている、ということである。
これを見ると、多少国民負担が増えても円安にして自動車業界だけを救うぐらいが必要な政策であった、というのはひとつ理解が可能となる理由である。

まあ、それはともかく、今の日本の自動車販売はHV系と軽自動車に極端なほどに偏っている、といわれている。
これが歪んだ税制による「ガラパゴス化誘導」の結果である。
当然各社の戦略もそこに引っ張られるのが当然であり、ラインナップに反映される。

なるほど、若い人たちが自動車離れを起こすはずである。
自動車離れを嘆くいい年したおっさんたちも、自分たちが若い頃、燃費がいいだけのずんぐりむっくりのカローラみたいのしかなかったら、果たして食指が伸びただろうか。
目的は女性の気を引くためのツールとしてである。
燃費の悪さなんて、それを嘆きながらむしろ自慢していたのではないのか。

記事の話に戻そう。
カリフォルニア州は環境問題について「先進的な」州である。
この州だけの独自の厳しい環境規制も多いのでこれもその一例だけのことだろう。
もはや彼らにとっては「低排出」では評価できず、最終的には「ゼロ排出」を目指すべきだ、と進化しただけのことなのだろう。
「低排出」を突き詰めてもゼロにはならない。それは論理的に正しい。
ゼロ排出の自動車を実際に行動を走らせ、増やしていくことが必要ということだろう。

シェールオイルは採掘しているが、逆にガソリンが有限であることを熟知している。
日本では「再生可能エネルギー」という呼称で誤った認識をしがちだが、本来は「持続可能エネルギー」のほうが正しい訳語である。
これから数百年、数千年単位で持続(継続)して得られるエネルギーで動く自動車にしていこう、という理念でもあろう。
それに比較して日本は大丈夫なのだろうか。

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2015/03/21

「イスラム国」とISIL(ISIS)と

初めて聞いた時から違和感を感じた「イスラム国」という言葉。
今も何かしっくりとこない。

ネット上での議論をざっくり見てみると賛否様々な意見があるようで良いことである。
ただその意見を見てもどうにもしっくりとこなかったのである。

例えば「State=国」だからイスラム国で良いという論調である。
(イスラミックがイスラムなのは別に問題ないとは思う)
確かに英和辞典を読めばそう書いてあるのだが、それは学校英語レベルなら仕方ないが、呼称を考えるレベルでは短絡的にすぎる。

特にアメリカではStateといえば州の意味もある。アイダホ州とかテキサス州とかである。
これらの集まったもの、それがアメリカ合衆国、である。
アメリカ人は自国のことをあまりアメリカとは言わないようにも思う。
U.S.Aとも書くが、U.S.だけ、つまりUnited Statesと呼ぶことが多い気がする。(ここでStatesと複数形であることにも気を配るべきである。日本人は鈍感なことが多いが英語にとって単数と複数では意味すら変わることは多いぐらいだ)

この訳が正しいかどうかは逆引きをしてみると見えてくることがある。
日本人が「国」と聞いた時にどう感じるか、翻訳をするのならそこまで考えるのが基本である。
今度は和英時点で「国」を引いてみれば良い。
Stateもだが、Nation、Country、Provience、広い意味でLandやHomeも該当する。
もっといえば辞書によってもどこまで該当するかは変わる。
日本人のいう「おらが国」は阿波の国とかになるがこれはProvienceらしい。
「おらが国」の時代はお殿様がトップだったが、「国」としては時の幕府が担っていた形式をとっており合衆国に近いがもちろん完全に一致はしていない。

これは今件に限らず、日本語と英語を翻訳する時の難しさである。
例えば日本では「牛」に対して「雄牛」「雌牛」「仔牛」程度がせいぜいだが、米国では牛を指す単語が実に多い。
逆に日本では「出世魚」といって同種の魚に対して大きさや年齢によって呼び方を変えている。
つまり英単語と日本語単語は必ずしも一対一で対応するものではない、という、本来当たり前に考えなくてはいけないことがここで大きな問題として露見しているのだ。
日本の英語教育の問題の本質はここにもあるのだが、それは置いておく。

これは私の感覚なのだが、Stateというと(米国で言う)州なのだ。
私が英語といえば米国(例えば米国映画=ハリウッド映画やら)に染まりすぎ、のせいかもしれない。
そういった事情もあるのだが、単純に『「State」だから「国」で良いのだ』などと無説明でいわれると反感をもってしまう訳だ。

ISILやISISというのは自称している言葉の英訳らしい。(原語はアラビア語なので私には全く判断できないが)
それでも国連や主に米国がISILやISISを呼称に使うのは略語で呼ぶことである程度「State」の否定、つまり元の意味を消そうという感覚もあるように思う。
略語というのは便利(?)なもので心の中で「Islamic not State」と思っても構わない。

しかし日本語で「国」と言ってしまうとどうにも逃げられない。
その辺にどうにも違和感を感じてしまうのかもしれない。

ISILというのは米国だけだから云々というが、ではそれ以外の原語を使う各国の「国」に相当する言葉が本当に日本語の「国」単純に訳して良いものか、そこも判断できない。
単にISILの「State」の単純訳なのかもしれない。

日本でも英単語の省略文字で特定団体を呼称することは珍しくもない。
「ユネスコ」や「ユニセフ」も略語だし、「ILO」「NATO」「EU」なども略語である。
逆に本当の意味での国家だと失礼に当たると考えるのか英語の略語で称することは少ないように思う。
歴史のある国ほど昔からの呼称があるのでそれが引き継がれていることもあるし、漢字が割り当てられているものも多い。

私としてはISILとすれば良いと思っている。
英語による呼称の略記だと日本人的には何かの団体(集団)の呼称なのかと感じるのでは、という感覚だ。
これはISILを「国」ではなく単なる過激派集団としたいという考えに合致している。
「あいえすあいえる」は長いではないかというのはいくらなんでもひどい論だ。
カタカナ読みでも「アイシル」と読むのが一般的だ。「いすらむこく」よりも短い。
英語的に読めば「アィスィル」だろうか。最後の「ル」も「ウ」になる前に止めて良い。
もう少し流して言えば「アィスィゥ」ぐらいの感覚でも良かろう。

「ISILでは彼らの存在を薄める」ので「イスラム国」で良いという理屈も意味がわからない。
彼らを「国」と持ち上げるのではなく「ISIL」呼称は「アイシル」などと貶めるべきである。
変な悪影響を見ればむしろ薄めるべきではないのか。

この件は外国の言葉を日本語に持ってくるときの難しさというのを改めて感じた事柄である。
また「国」とは何か、「国」やそれに類する言葉やそれらの境界線とは何か、それに対する日本語の表現と英語の表現の違いの対応の違い、様々な事柄に思いを巡らせないと、少なくともダメだろうということを改めて感じたのである。
ここまで書いたのだが、今でもまだしっくりとこない。

やっぱり「イスラム国」であるべきだ、という論でも構わないとは思う。
ただ、他にも変な理屈でISIL否定しているのも目につくのが残念だ。

安倍総理がやっぱり米国寄り政治とか、米国の犬とか、それら憎しで彼らの使う「ISIL」否定をするのはどうかと思う。(そもそも自民党が米国の犬なのは今始まった話でない)
それでは坊主憎けりゃ袈裟までであり、非論理的である。
私の他の記事では安倍総理や政治における非論理性について叩いているが、この件については自民党や安倍総理の姿勢は「当たり前」ぐらいに捉えている。

「イスラム国」はやめてくれという外国はトルコ位だから、というのも変な理屈だ。
「イスラム国」の是非について判断するためには、この話が日本語で伝わって判断する人が日本語を知っていなければ無理な話しである。
しかしこれがその国の言葉に翻訳されて伝わった時点で「何が問題なのか」すらわからなくなるのはごく当然ではないのか。
それでも判断を求めるのならば、その語感などの背景含め事細かい解説をつけていなければ無理な話しである。

別の観点では「イスラム国」と「カッコ付き表記だから良いだろう」というがこれには首を傾げざるを得ない。
「いわゆるイスラム国」「カッコ付きでイスラム国」とでもいえばまだしも、発音するときには「カッコ」は発音しないのだからNGである。
文字媒体である新聞雑誌限定ならともかく、テレビやラジオではダメだろう。

マスコミでも一部の(自立心の高い)キャスターや解説員、ゲスト出演された「知識人」の中でも「アイシル」などで呼ぶようなことを散見するようになってきた。
ニュースなどのコンテンツでの原稿は「イスラム国」で統一とはなっているのだろうが、個々の発言までは「統制」や「指導」はされていないように見える。

まあ、別段「イスラム国」はダメだなんていう声高に言うようなレベルの話ではないのだろうな、というのが私の着地点である。

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2015/03/19

キーボードのチャタリング防止(2)

前回の同名の記事の時、Windowsではどうにもならなかったチャタリングしまくりキーボードであるが、Linux(Ubuntu)を入れたPCで使えることがわかった。

通常設定では入力が暴れてどうしようもないのは同じだが、解決できる設定があった。
[ユニバーサルアクセス]-[タイピング]-[バウンスキー]という設定があり、これをonにすれば良い感じである。
連続の間隔が標準だと、本当に連打の時に対してちょっと長いかんじ(ここは個人差が大きいと思うが)なので、短くすれば良い感じになる。
キーリピートも普通に動作するし、この文章を打っているが特に問題はない。

この例もそうだが、昨今Linuxの完成度が非常に高くなっているように思う。
ちょっと前にはLinuxで認識すらしてくれなかったマルチメモリカードリーダーが最近つないでみたらあっさり認識してドライブ自動的に開いたこともあった。(結構古い奴なので本腰をいれて認識のさせ方を探ってみようと思ったところだったのに、ありがたいことだが肩透かしを食らってしまった)
今回の案件もそういった使い勝手の良さの一端を感じる。

XP期限切れに伴って“使えなくなった”NetBookにUbuntu Linuxを入れて使っているが、大概はこれだけで済んでしまう。
Webだけで済む用事も多いし、Linuxサーバーのリモートメンテナンスはもちろん問題ない。

カードリーダーが使えるのでSDカード経由でPomeraと文章を行ったり来たりできる。

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2015/03/15

国連防災会議に際して産経新聞記事(原発災害)について

原発再稼働前のめりに私には見える産経新聞だが、(原子力取材班)名で同意と思える記述もあったのでそれを引用しつつ現在の状況を整理してみたい。

事故当時は、原発の知識に乏しい政治家の判断で、恣意的な避難指示が繰り返され、避難住民は混乱を極めた。

民主党政権揶揄に一見見えてしまうが、本質は事故時までの自民党への批判に他ならない。
事故当時は何も決まっていなかった。
だからこそ民主党政権では政治家の判断でやるしかなかったのである。
「原発知識に乏しい」とあるが、それでは「原発知識に豊かな」政治家なんて民主どうこうではなく自民にすらいない訳で不可能である。
一方で判断するのは政治家しかできない。
もちろん原子力安全委員会メンバーも召喚されていたが「役立たず」だったことは当時の様子に対する取材で見えている。
東電とも当然コンタクトを取っていたが本社の判断・行動も全く信用できなかった。
「吉田所長の独断(本社からの指示命令違反)」が「英雄視」されたことがその証左の一つでもある。
「今すぐ避難指示を出さなければならない」状況下に置かれた中でその指示が“恣意的”になるのは不可避で当然の理である。(合議を取っていたら間に合わない)
批判すべきは原発を稼働してから事故までになんらシステマティックな枠組みやマニュアル等が全くというほど論議されず、定められていなかったということである。
それは安全神話の基に原発政策を主導してきた自民党政権の責任は極めて重い。

事故後、国際標準より厳しい原子力災害対策指針を定め、放射線量により機械的に避難を実施するよう政策を転換した・

安倍首相がなぜか繰り返す「原発の安全基準が国際標準より厳しい」論には首を傾げるのだが、“避難”基準についての値が国際標準より厳しいのは事実だろう。
なぜかといえば日本では安全神話があり、過剰なほどの低い値でも“異常”とすることを是としてきたからである。
今までのその一般認識との整合性を取る(妥協を取る)ためにそうなったに過ぎない。

転換したというが、当然ながら事故後時間が経過し、ある程度安定してからの話である。
ある程度避難がなされ、ようやく策定された素案時点ですら、様々な批判が噴出していたわけであり、今のような状態になってある程度の合意が出てくるまで数年はかかっているわけで、決して手放しで褒めるようなものでもない。
むしろ至極当然の帰結で当たり前と言える。今でも恣意的で曖昧な基準を持っているならばそれはただの「バカ」で「論外」ですらある。

ただ日本にも課題がある。避難計画の作成は地方自治体任せで、その計画が本当に機能するかをチェックする体制がない。米国であれば、原子力規制委員会が計画を審査し、再稼働の条件にしている。

この部分には正に同意する。
なぜ地方自治体任せで良くないのかといえば、放射性物質の拡散は市町村の境は当然ながら県境をも軽く超えるからである。
福島事故では長野県、東京都、千葉県にすら影響が観測されている。
福井県原発の再稼働に対して滋賀県が異議を唱えていることは有名なことだろう。
福島事故規模であれば滋賀県、まさに関西の水瓶である琵琶湖にまで汚染が及ぶことは理論的に十分ありえることだからだ。

今の安倍政権で問題なのは施設の安全基準を満たしていれば原発再稼働という意向を示していることである。
「科学的な」などという誤った見識を持っているようだが、施設の安全基準すら科学的見地に完全に則っているかというと極めて疑問である。
「科学的」というのはたくさんの事象や経験、実験を通して得られる見地を基に作られていくものである。
原発自体が半世紀も経っていないような歴史の浅いものであり、過酷事故といえるのは全世界でも福島で3つ目である。
「原子力工学」だけで原発の安全を語れるような安易なものではないのは当然だ。
こういう安易に「科学的」という言葉を使うことに私は大いに反感を持つ。

せめて米国同様に再稼働条件に避難計画のスキームづくりと、それに則した地方自治体の避難計画策定、およびそれの審査を再稼働条件にすべきであろう。

福島事故規模がまた起こりえるもの、という大前提に立脚して、その失敗を教訓に、避難計画スキームを“科学的”に組み立て、各自治体で最低限満たすことを要求し、ローカル適合させて具体的計画を策定させ、それを検証することが、せめて今できることである。
事故が起こってしまった以上、それを教訓にして少しはマシな状況にするのが、せめてもの事故に対する反省の姿勢である。

せっかく作ったそのスキームを誰が管理していくのか、検証するのかといえば、原子力規制委員会が適当という結論にしかならないわけで米国はそうしただけのことだろう。
まあ、政府がやるのならそれも良いだろう。地方自治と口を聞きやすい総務省がやってもよいかもしれない。
問題なのは政府とその長が何もする気配がないことである。

4年経っても福島原発の状態はなんら好転していない。
なんら報道されないが、それは良くなったからではなくて、なんら変わっていないから新しい話題=ニュースがないだけの話である。
(良くなったのは報道機関に見せるための「表面」だけではなかろうか)
それどころか経年変化によって悪化している面も多々出ている。
例えば汚染水を貯めているタンクも寿命5年とされる。
つまり来年にはもう期限切れのタンクが出てくる、つまり水漏れを始めるのは必然である。

屋根の汚染水流出問題も、原子力規制委員会の委員長が「雨による排水流出は制御できない」などと国会で語ったという。とんでもない話だ。
この件は東電の情報隠蔽を叩く話ではとどまらない。
東電から規制委員会にはとっくに報告が行っていたという。
無論、東電が公開しても良かったが、規制委員会も隠していたのだ。

原発施設だけが問題ではない。
各地にある汚染土や瓦礫をいれた「フレコンパック」と呼ばれる袋も寿命5年程度とされており、破れ始めるのは必然である。

原発をとりまく今の状況はそんな「逼迫した状況のもと」であるはずなのに、「原発再稼働」なんて言い出すのはどうかしているとしか私には思えない。

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2015/03/14

安倍首相のおかしな“反論”;賃金上昇=景気回復とは限らないのに

リンク: 安倍首相に「言論の自由」あるか 「TV報道を批判」めぐり論戦 : J-CASTニュース.

番組では、アベノミクスで景気回復の実感を得ているかについて「街の声」を集めたVTRを放送。5人中4人が「僕は全然恩恵受けていない」などど否定的なコメントをした。これに対して、安倍首相は

    「事実6割の企業が賃上げしている。全然声が反映されてませんが、おかしいじゃないですか」
    「これ、問題だ」

などと不満をもらした。

論理的におかしいのは安倍首相の方である。
そもそも「景気回復の実感を得ているか」と「企業の賃上げ」は直結しない。
短絡的に賃上げ=景気回復と考える人もいるようだがごく簡単な話だ。

それを賃上げだけだして「おかしい」とか「問題だ」などというほうが自分が浅はかだと言っているに過ぎない。
反論として全く十分ではなく、時の権力者が根拠不十分の理由を持って「問題だ」などということが問題なのだ。
言うのであればせいぜい「おかしいじゃないですか」でとどめておくべきである。
それなら稚拙な言論だった、で収まる。
安倍首相も国会で見ていても割と“瞬間湯沸かし器”であるから若干の暴走はしかたなかろう。
しかし、国会に戻っても「言論の自由」とか持ちだしているのは稚拙というか恥の上塗りとしか言いようがない。

アベノミクスの政策には「インフレ政策」があり、「物価上昇」が必然として起きるわけであり、事実起きているのはいうまでもない。

賃上げ額>物価上昇、であれば「景気回復の実感あり」となる。
賃上げ額≦物価上昇、であれば「景気回復の実感なし」となる。
これは賃上げなし=賃上げ額が0、ということも含む。

賃上げしている企業が6割ある、ということは統計で発表されており、安倍首相の発言が間違っているとも、この統計が事実と齟齬があるとは私は思わない。
(もっとも「予定」も「上げている」回答に入っているという話もあるからここも時差がある)
しかしその額の平均などの統計は見当たらない。ここが“ミソ”なのだろう。
簡単に言えば仮に「月額100円上乗せ」でも「上げた」統計に入るわけだ。

もう少し具体的に言えば物価上昇率が年2%とすれば、手取りベースで2%以上あがらなければマイナスですらある。
この部分はアベノミクスの成果としてもマイナスの人も少なくなかろう。
大手だってベアで2%上がるようなところはごくわずかだろう。

もっといえばここ数年でも税金公的保険料等が細かく上がっている。
要するに同じ生活をして一ヶ月経って手元に残るお金が増えなければ「実感」があるわけがない。
民主党時代の「ひどい」から「まだだいぶひどい」になった程度なのかもしれない。
それを「良くなった」といって欲しいというのはちょっと無理な話である。

もちろんこの上に消費税上昇も含まれてくる。
しかしそれを抜いても無理なのだからどうしようもない。

ここでも安倍政権の悪い一面が端的に出ている。
断片的には嘘を言ってはいないのだが、論理的不整合があり、結論として嘘になっている。
例えば数字のトリックや見方をいじることでごまかそうしていると見えてしまう。
これは安倍氏一人の問題ではなくて、周りのブレーン、役人など含めての問題でもあろう。
もっともそれらを集めているのは彼自身なのだから彼の問題とも言えるかもしれない。

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2015/03/07

大塚家具“お家騒動”

創業者が「娘に社長を継がせたのが間違い」と語っているようだが、まさしくその通りだと思う。
もっと問題なのは自分が会長に居座ってなおも経営に口出しをしようとしたことだろう。

社長が一線を退いて会長になったり、相談役になったり、その他様々な役職を創設して会社への影響力を残そうとする人が実に多い。
見苦しい事この上ない。いわゆる「摂政政治」「傀儡政治」という奴だ。

会長というのは大規模な会社でグループ企業がたくさんあるような会社が、それらを束ねる存在としてあるものではないのか。
大塚家具のような小さい会社の会長とはおかしな話である。

問題としては「船頭多くして船山に登る」になりがちなことである。
役員が「社長派」「会長派」に別れてもめるのが目に見える。
会長は元社長なのだから社内に大きな影響力を持ち目をかけていたものが上役にいるのは当然の理である。だから「会長派」は自然と多くなる。
社長が会社の長であるはずなのに、それに上から物を言う人がいては社長の威厳もなくなるし、責任は社長にあるのに会長は無責任に口を出すというとんでもないことになってしまう。
あまりにも会長の意見が通りなおかつそれが失策ばかりだと社長が壊れてしまう。
これはすなわち指揮系統の崩壊である。

ジャパネットたかたの創業者社長が社長引退を公言した。
一族経営で息子に後を継がせたのは同様だが、彼の場合、すべてをきっぱりと退くことにしたことを公言していることで、これはすごいことだと思う。
そして彼は「あたりまえじゃないですか」と実にサバサバしている。
ある番組で語ったところによれば、今はまだ「引き継ぎ」中だが、直に完全に手を引くという。持っている様々なノウハウをすべて教えきりたいということのようだ。
その後はジャパネットたかたには一切籍をおかず退社し、数人くらいでまた会社を立ち上げてなにやらやるつもりということらしい。(内容はまだ秘密という)
「買い物をする」と言っていたのでどこかの事業か会社を買うのかもしれない。
そうなれば「ジャパネットたかた」がどうなろうが、どういう会社になろうが、あとは息子に任せるという。

それと比較すれば大塚家具の創業者であり現会長の振る舞いは実に見苦しい。
娘である現社長を解任して、一族の中で“会長派”の長男に継がせる(社長にする)という話もあるようだが、どちらにしろどうせ会長に居座るつもりではないか。
それではまた程度の差こそあれ、また何らかの理由でもめるのは当然の理である。

経営姿勢の違いは所詮は選択肢のどちらを取るか、だけの話である。
どちらが良いか、どちらが今後生き残りに有効で利益が上がるか、なんて誰もわからない。
ひとつ確実なのは、社内のトップでもめて現場が右往左往することで、損失が出てしまうということである。
現実に「東京一等地に空の店舗」が生じているわけだ。これは氷山の一角だろう。
どちらが悪いという話ではない。両者がもめているのが悪いのだ。
なにより、そういった混乱で社員のやる気が喪失するというのが大変な問題である。
ある社員が言った「どちらがいいかは好みの問題」というのが正にそのとおりだろう。
そして赤字を引き起こし、社員に負担がかかればもはや洒落にはならない。

別に大塚家具はひどい例だけであって、似たような会社は特に日本には多いように思う。
つまり自分の会社の状況も決してひとごととは思えない。
だからこれだけマスコミやら一般の関心を呼ぶのだろう。

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