« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »

2014/11/24

(水素)燃料電池自動車は実用化しても…

燃料電池自動車

「夢の」と言われ続けてようやく実用化に動き出した燃料電池自動車。
燃料電池というと電池というと一般には電気を蓄えるものとされるから、日本語的には誤解を生みやすい。
分類的には発電装置の一種である。
現在自動車に搭載されるものは水素を供給することによって化学的な発電を行い、その電気によってモーターを動かし走行する。
電気自動車の一種である。

マスコミの反応

「静かですねえ」「普通の自動車と変わらず、いやそれ以上の加速感です」
などと評論するマスコミを見るとハッキリ言って呆れてしまう。
頭の悪そうな食レポと同じレベルといったほうが適切か。

電気モーター車なのだから、例えばいわゆるPHV車と同じである。
ハイブリッド=静かという固定観念もおかしな話なのだが、モーター駆動だけで動けば、ガソリンエンジンを動かしているよりは静かなのはごく当り前過ぎる話だ。

加速感もただでさえ日本の殆どの車のエンジン(やギヤ)は低速での加速を重視していないが、モーターを使えば普通に低速でのトルク量は高くなるので低速での加速力は強くなる。
日本初のハイブリッド車であるプリウスの自動車としてのチューニングがおかしかった(というかトヨタ車全体がおかしいという人もいるが)ので、電気自動車の加速感に良い印象を持った人が少ないのかも知れない。
私自身も最初のプリウスに試乗したが、自動車として凄く気持ち悪くて拒絶反応を起こした。
まあトヨタ車全般に言える「アクセルペダルもブレーキペダルもペコペコで怖い」という奴の酷いバージョンである。

それはさておき後述するような問題にはまともに触れないマスコミ(番組)が殆どで残念である。
もう少しは素直に疑問を持って欲しいものである。

水素燃料電池はクリーンか

クリーンエネルギーであり、“走行中の”排気物は水だけという触れ込みである。
水素自動車はもう何十年も前から話だけはあるが、今に至ってもなぜかこの“走行中の”という冠言葉は必ずついて回る。

「じゃあ水素の製造過程になんかあるの?」と疑いを持つのが至極当然である。
水素スタンド建設の話にすぐ持って行きがちだが、ちょっと調べればこっちの方が大問題であり、課題山積であることが見て取れる。

クリーンであるのならば例えばクリーン発電によって作られた電力で水を電気分解し、水素と酸素を生成すればそれはクリーンだ。
しかし、現実にはそんな悠長なことはやっていない。
電気から水素に変換するところでエネルギーロスが発生する。
電気代を考えるととてもじゃないが割に合わないのである。

水素の持つクリーン・エコというイメージからは程遠く、水素も化石燃料から精製して(取って)いるのが現実なのだ。
ぶっちゃけていえば原油からガソリンを精製しているのと大差ない。
水素という奴は石炭や石油からの掘削時にも出るし様々な化学物質を精製する(取り出す)時にも副次的に出るものだという。
今はそれらを捨てているのであるが、それを回収できれば廃棄物の削減(環境汚染の軽減)にもなって一石二鳥ではある。
しかしそれは水素以外のものが混ざっているのが普通だからそれを精製する必要がある。
そこで金がかかる。取れても常温で気体だから圧縮・液化含めて輸送にもさらに金がかかる。
LPGのような高カロリーなものならともかく水素なんて厄介なものを油田から運ぶわけが無い。
実際はわざわざ水素を“作って”いるのが現実には一番安くなってしまうようだ。

それでも“褐炭”と呼ばれるあまり“良く燃えない”石炭から水素を取り出しやすいということがわかっているらしい。
元々燃料としては使いづらい“ゴミ”なので安く仕入れることができる。
原料として安ければ水素も安く作れる。
しかしそれも仮に水素自動車が日本中に広まったとしても賄えるような安定した話なのか、というと疑問が残るような話ではあるようだ。
褐炭の話は少々歯切れは悪かったがあるテレビ番組が取り上げていた話である。

水素スタンドは実現可能なのか

普通のガソリンスタンドを建設するのには一億円、水素スタンドで四、五億円だという。
この設備投資額が現実問題としてあるという。
それでも半額は政府補助とか言う。

それ以前に現在の問題としてガソリンスタンドが次々と廃業して無くなっている問題がある。
その話と合わせて考えると非常に暗くなる。

特に山間部やいわゆる離村などで深刻である。
ガソリンを入れるために片道数十kmとか冗談としてもきつい。
それどころか高速道路のPA/SAでさえも空白の区間が存在することがマスコミで取り上げられている。
一定需要が見込めるはずで値段も高値にしやすいはずなのにである。

問題はいくつの説がある。
ひとつは数千万円というガソリン貯蔵施設のリプレイスがある。
状態の如何に関わらず、一定年数(四〇年だったか)を経過した貯蔵タンクは取り替えるべし、という官公庁のお達しのせいで「そんな金はない。変えろというなら廃業」としたところが少なくない、と数年前のテレビ番組のレポートが語っていた。
逆に言えば“たかが”数千万円のタンク設備でさえこれである。
水素で建設時には半分補助金だったとしても、次のリプレイスを考えるとぞっとする。

エコカーの普及説もある。
燃費向上によって家計は助かるが、ガソリンスタンド経営としては打撃である。
間隔が空いて客が店に来る回数が減っているというのも問題だ。
もはやガソリンでは無く洗車やオイル交換等で儲けを出すしかないという話もある。
それすらも機会が減ってしまっている。

過当な価格競争に辟易としているということもある。
最近はカーナビにも価格が出るようになってシビアである。
ガソリン価格の変動は仕入れ価格連動である。
他店が下げれば自分の所も下げないと客が容易に逃げていく。

こんな現状の中で水素燃料を販売することが可能なのか。
要するに“客単価”の問題でもある。
燃費的に水素にすればガソリンより安い、というのは消費者には良い話だが、ガソリンスタンド経営ではマイナスである。
ガソリンは本来はもっと安いのに税金のせいで倍近くになっている。
道路整備等に使う税金であれば、自動車使用目的の水素にも当然課税すべきである。
この不公正さをどこで釣り合いを取るのか。根本的な見直しが必要だろう。

そもそも水素スタンドをおけるようなスタンドがどれだけあるのか。
建設・設備費を百%税金で出すとしても受けてくれるか微妙ではないのか。
ここは鶏と卵だが、週に、いや月に一台来るか来ないかだったら維持費で赤字だ。

とりあえずの目標は全国百店だという。その程度の数なら実は簡単な話だ。
百%補助でも百店分の金額なら五百億円程度の計算になる。
なんか衆議院選挙をするらしいが、五,六百億かかるという。
意味不明な選挙なんかやらずにそこに金を突っ込めば即座に解決した話ではある。

未来のクルマというには

未来のクルマと言うにはあまりにも現実的な問題が山積している。
これらは「技術の進歩がコスト問題を解決してくれる」ような性質では無いことが問題なのだ。
どう下がっても「ただのタンク」から「圧縮・冷却」が必要な施設とはどう考えても隔たりがある。

(短期的にみた)原発よりも低コストで安定供給できる太陽光発電システム、ということなら近い未来に技術的に実現しうることは十分想像できるが、どう見ても水素保管施設は液体のガソリンに比較し色々と重い設備であり逆転は不可能な話だ。

水素製造のエコ・クリーンさだけでいえば論理的には解決は簡単だ。
電気を水素に変換する、ということを一種の“蓄電”と捉えれることは可能である。
不安定といわれる自然エネルギーの調整として蓄電が言われるが、いっそ水素生産に使うという発想である。
しかし今でもかなりの電気を「捨てて」いて電気会社等は平気でいる(いられる)現状を見れば、これは理想論であるともいえるが。

ここは現状の電力業界の収益構造の改革が必要な事柄である。
しかしこの業界から受ける大きな票田、個人的利権の巣窟であるここにメスを入れられる政治家・官僚はほとんどいないだろうから話は余計混迷するのだ。

自動車自体の価格は技術の進歩、大量生産で下がってくることは疑いが無い。
少なくとも今の補助金分は早々にコストダウンされるだろう。。
しかし仮に諸経費込みで二百万円といわれても微妙というか購入は無理だ。
どこで燃料を入れれば良いのか、というごく単純な話である。

ハイブリッドやプラグインハイブリッドも各家庭でなんとかなる話だから初期投資の思い切りだけで特に問題ない。
しかし水素自動車はどうしようもない。
せめて“給油所”が自宅(通勤経路)数十km以内にあることがぎりぎり譲れる線だろう。
どこでどうやって転換期を作るのか。それは政治的法的“介入”が必要となる話だ。

考えてみると未来と言うにはドロドロの政治的問題が阻害要因となってしまっているのが現実なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/23

(今だから)Vimが面白い

Linuxでサーバーを運営したりあれこれしていると普通にぶつかるのが「viの壁」だと言われたりする。
他に選択肢がないということもあって仕方なく使うモノだという印象もある。
とりあえずviの基本となる本(オライリーのやつ)は買ったがあまりピンとこないでいた。
まあ最低限覚えて最低限の範囲で使っていたわけだ。

そんな中、下のような題名の本を見かけた。
実践Vim 思考のスピードで編集しよう! アスキー書籍
「思考のスピードで」というのがなんともソソる。
いやはや読んでみると面白い。

よく見てみればvimとは私が昔頭の中で考えていた「究極のエディタ」に一番近いでは無いか。
そんなことにもこの本を見るまで気がつかなかった自分のバカさ加減には呆れる。

それでもその思考パターンを知り、実際に指が覚えるのはなかなか時間がかかる。
とりあえずWindows環境にはgVimをいれて、Linuxの入っているネットブックにもgVimを入れる。
さらにHP200LXを引っ張り出してきてDOS版のvimを入れたりもした。(DOSではプログラムサイズでかなり厳しい。シスマネ上からはmaxdosを仕組まないとダメなぐらいだ)

日本語入力では英語入力とは異なり、なかなか「思考のスピード」とはいかない。
それでも少なくとも英文字が殆どのプログラミング(HTMLやCSSも含む)や.confファイルをいじるには快適に感じるようになってきた。
いや、快適というか快感である。
こんな数文字打つだけでサクッと片付くのかと。
感覚的という美名の元に、どれだけムダにキーを叩かされていたのだろうかと。

まだ頭の中で考えてコマンドを打っているようで手元だけ見ているとおよつかないレベルなのだが、ただ手元だけせわしいのに実際はたいして捗らない普通のエディタとは感覚が違う。
マイクロソフトのオフィススイートを使っている場合、マウスで目を凝らして必至にやっているようでも、実はなかなか作業が捗らない状態から、ダイアログ(プロパティ)から数字でパチッと指定して作業を進めるようになった時の感覚にちょっと似ている。

CUIがGUIになり、マウスがだのWYSIWYGだのタッチだの直感的だのいう割には作業効率が上がったかというと極めて疑問に感じることが多い。
とっつきが早くなり、習熟は早くなったのかも知れないが、その分、浅くなった。
使えば使うほどに味が出る、というところからはかけ離れる一方のことが多い。

それは本質的にそうはならない、ということもあるし、そこまで両面に力を向けられないということもあるのかもしれない。
しかしどちらにしろ今の“進化”方向が本当に望ましいことなのか、今一度考えさせられた一例である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/15

流れ星に願いを

迷信か真実か

論理的には流れ星に願いをしたって、流れ星は願いを叶えてくれるわけが無い。
科学の時代に生きる我々が普通に考えればそれは当り前だ。
しかしその行為が願いが叶うということにはつながる。

私は日頃から古くからの占いや言い伝えなどの類を「迷信」と切り捨てることを否定している。
そこにはなにかしらの「真実」が裏にあると思っている。
「星に願いを」というものも論理的に考えるとなかなか面白い。

たまたま見かけた(コンサルタント業の人の書いたものらしい)ブログでも同様のことが書いてあって「やっぱりそうなんだ」と自分でも改めて納得した次第である。
そのあたりをちょっと書いてみたいと思う。

願いとは標語

会社や役所など含めて、なにか行動規範やら目標を定めた際にそれを「標語」化することは多くある。
短歌や川柳俳句の類が好きな日本人気質というのもあるかも知れない。

短い言葉でその思いを言葉として発する。
その言葉を紡ぎ出す時にはエッセンスを極限までに濃縮する作業をする。
不要な言葉はもちろん排除し、本質を見極め、ひとつ言葉に複数の意味を「かけ」たりもする。

語感を大事にするし、難しい言葉より平易な言葉が良い。
それを考える作業において「本当にしたいことは何か」を何度も何度も反芻をする。

「標語を作れ」という指示が出たりするが、良い標語が出るかどうかよりも、皆が標語を作るために様々な事を考えると言うことが実は重要なのだろう。
だから「自分にはそういう才能ないし」とか言わずに、うなりながら考えることが重要だ。
それに偶然ひらめいた言葉が実はドンピシャになることもあるからハナから否定してはいけない。

その中でも良くできた標語を選出し、その言葉を部屋に貼ったり、ことある毎に念仏のように口に出して繰り返すことでその思いを思い出したり改めて噛みしめたりする。

流れ星の流れる間というのはとても短い。しかも三回も言えという。
その間に言える言葉というのは十分に吟味して予め用意しておくぐらいは必要だろう。
標語のように自分の部屋に貼っておくのも良いだろう。
今思いついたことでは無くて、ずっと温めつづけているぐらいでないとダメだ、ということだ。

そして練習も必要だ。ことある毎に何度も練習する。
いつでもとっさに口から立て板に水のごとく出るようにしておくことが必要だろう。

自ずと叶う

ここまで言えば分かるだろう。
「流れ星に願いを込めて言う」ことの前準備が、願いを叶えるための重要なステップになっているのだ。
ここまで思いを込めて常に意識していれば、日頃の言動や行動がその思いを反映したものになっていくのは至極当然の理である。

願いというのは大概は自分だけで叶うものではなくて、他の人の協力・繋がりによって実現することが多いだろう。大きい願いほどそうだ。
何気ない行動や言動でその流れが変わることはよくあることだろう。
言葉にださずとも行動に出たり、直接親しい人に漏らしたことが間接的に伝わったり、直接に言うことになるかも知れない。

大成を成したひとの言葉を聞くと、共通することだ。
「偶然の出会い」と表現する事も多いが、実際は偶然(ラッキー)をモノにした、というだけのことである。
そういう偶然はいつでもどこにでも実は落ちているものであって、それに気づいて拾うかだけの差なんだ、という人もいる。

重要なのは前準備

星に願いを言うこと自体が重要なのでは無い。
その瞬間に至る前準備をいかにしていたか、その方が重要である。

「流れ星に願うような大きな願いはありますか」
「その願いを(言えるような短い)言葉に纏めていますか」
「いつでも言えるように準備していますか(日頃から唱えていますか)」

流れ星に出会った時に言えなかったということは、未だその願いが本当に欲しい願いにはなっていないということなのだろう。
その自戒を込めてまたあらたに思いを馳せる。

「言えた」という時にはその願いが“自分のモノになっている”ということだ。
その信念の強さを新たに噛みしめて進んでいけば良い。

この“迷信”を言い出したり広めたりしていた人はここまで書いたことをくどくど言わないで「流れ星に願いを言うと叶う」というロマンチックな言葉で表現したのだろう。
素晴らしいことである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/08

サラリーマン「ストレスチェック」義務化は効果があるのか

リンク: サラリーマン「ストレスチェック」義務化 「会社」が知らなければ意味がない (1/3) - ITmedia ニュース.

ストレスチェックの義務化が行われるという。
会社による社員の健康管理としてストレスを観点にいれるという考え方は良いのだが、方法論に大きな問題がある。
科学的にも論理的にもまた実体験に照らしても疑問が多すぎるのだ。
そもそもこれで一体何をしたいのかが全く伝わってこない。

「カネのムダ」
「天下り先の創設か」
「解雇理由の基準を増やすための方策では」
「お上認定の社員の“選別”だな」
「会社の免罪符づくりに荷担」
などとさんざんないわれようなのも当然だと思う。

私自身もストレスでおかしくなったことは何度もあるし、周囲にもそういう状況を見てきているので、そういう経験を含めて考えてみたいと思う。

観点が小さすぎる

厚生労働省の「労働安全衛生法」の範疇でやっているからダメである。
今起こっている問題を解決しよう、という観点が支配しているのでその根本的な問題を解決するまでの発想力も権限もないし、それ故に上位の法律を変えることもできない。
対処療法的な観点が支配しているのでどんどん話が複雑化して問題が噴出する。

「過剰な負担があった場合、会社は労働時間短縮などの措置を取らなくてはならない」

一見まともそうな意見だが根本的に問題をはき違えている。
そもそも過剰な労働時間は負担とか関係なく悪であり、是正が必要だ。
後述するが、グローバルスタンダードで言っても“残業時間ゼロ”が基本軸である。
今の日本にとってはそこがまず目標とすべきところである。

また現実にこの手の問題の「是正措置」がまともに行われたことは無い。
無視ならともかく、行われたとして酷い例はいくらでもある。

例えばAさんがこれに適用されたとしよう。
Aさんのいる部署は新規事業をしているので仕事は多いもののやりがいはある部署だ。
しかし業務量は多く開拓なので人もそれほどいないので残業も非常に多くなる。
日頃の疲れやプライベートのこともありストレスチェックに引っ掛かってしまった。
是正と言うことで業務量を減らすために工夫した結果、“前線”からは外れて庶務的や他の人の事務的なサポートに回ることとなった。
上司や課員も変わらないからその負担はないなどのとても良く考えてくれたのは分かるし残業は激減したが、毎日の定型的な事務作業ばかりで仕事の達成感は無い。
他の人が様々な新しいことをやっているのをみていると羨ましくて仕方が無い。
肉体的・精神的には助かるが、早く帰るのが申し訳ないし悲しい気持ちも否定できない。
そういう日々が続くうちにストレスは却って溜まり、無気力にもなってしまった。

これは作り話だが、こういう作り話が容易に浮かぶほどに似たような事例はいくつも見ている。
良い会社で措置を受けなくても自主的にきちんとフォローしてくれているのが分かる。
しかしそれで問題が解決したわけでは無く、緩やかに悪化してしまうことも多いのだ。

「是正措置をすること」で解決するような簡単な問題では決して無いのだ。
そして本質的に人ひとりの人生が直にかかっている問題でもある。

ペーパーテストでストレスチェック

ペーパー問答によるストレスチェックを受けた経験のある人は多いと思う。
似たような質問が前後に出てきたり(しかも微妙に表現を変えている)、回答者の“偽装”を防ぐための工夫は色々されているようだ。

ストレスを溜めて精神的におかしくなっている時は二重人格的になり自己防衛機能が働いているものだと思う。
単純には「おかしくなっている自分」と「それを客観的に眺めている自分」である。
この段階はまだ「大丈夫」な部類だとは思うが後者が消えかかっている時はもう取り返しがつかなくなっているのだと思う。
それでも衝動的行動が持ち上がってくるのを抑えるのは後者ではある。

様々な行動(反応的に求められること)は前者が支配的なので、実際には様々な行動を観察する方が重要であり、例えばメールでの応対であるとか、自分のペースで行動するような場合には後者を支配的にして行動することがまだできている。

つまりペーパーテストに答える時にはまだ多分に“大丈夫な”方が回答することができてしまうのだ。
これは結局“誤診断”である。
二重人格というと誤解されるが、「本音と建て前」と言った方が良いかもしれない。
会社人なんて「建て前」で応対するのに慣れているから、ペーパーテストにも「建て前」で回答するなんて朝飯前である。

まだ偽装しようという気があるうちはマシで、悪化すると「どうでもいいや」という気持ちが強くなって、例えば単純に「1」だけに○をつけて終わらすという行動にも出る。
これは「自分は全く問題ないから適当に書いて出す」という行動と見分けがつかない。

会社に見られるかも知れない“書類”に「私は何もする気が起きない」などと、例え事実であっても書けるのだろうか。常識で考えれば分かるだろう。
そういう判断はまだできるレベルでも、もはやかなり酷い状態になっている。

長時間労働とストレス

ストレスは健康被害や精神障害へは直結はしない。
長時間労働も本質的にはストレスとは直結しない。
長時間労働になる生活下では、睡眠時間が極端に削られたり、不規則な食事や適度な休息が入らなくなるからおかしくなるのだ。
そしてそれが月・年単位で続けばおかしくならないほうがおかしい。

日本の会社の傾向のようだが、昼休みはしっかりと一時間は取っているが、定時以降と残業時間の間の休みは比較にならないほど少ない。15分とか長くて30分である。
つまりほとんどまともに食事せずにその後4時間なりの長時間労働をすることを強要される。
海外でも“エグゼクティブ”は深夜まで働くが、夕食は家族で取るなど含めてしっかり取る傾向があるようだ。
その違いは大きいのでは無いか。指導や法制化するなら改善点はこんなところにもある。

私の実体験一つ例として出そう。
半月ほど出張してその先である部品を完成させるという仕事があった。
より効率よい作業を遂行するため、設備的な問題と相手先でテクニカルな補助を受けやすくするために出張となったのだ。
突貫業務であり、他の業務もあるので一日でも早く上げて戻るようにとの指示であったから、毎日夜中の12時頃までの仕事となった。

しかし食事はきっちりと時間を決めて取り、きっちりと息をつくようにした。
幸い出先には同ビル内に良い食堂がありしっかりとした食事を取れた。
(この時、既に海外の夕食は家族でとるのくだりを知っていたこともある)

社員的には自分一人であるからこそ、自律的にできた。
夜も12時には切ってその後は一切仕事はせずに睡眠確保のためきっちりと時間を取った。(いわゆる持ち帰りの類は一切やらなかった)
さすがに連日出張先で12時迄やっていればもっとやれと上司も怒るほど鬼では無い。

仕事の内容自体は(技術的に)楽しいものではあったが、実際きつい仕事だった。
難易度も高く、うまく進まないこともあり、ストレスという意味ではかなり溜まっていたはずだ。
この出張の間の作業によるストレスはほぼかからず、部分ではあるが大きな山を越えたという達成感や開放感で、出張先から帰る時にはむしろ気は晴れていたほうが大きく勝っていたと思う。

ストレスは悪なのか

例えば野球選手はバッターボックスに立つ時には最も緊張する。
場面にもよるが、基本的に自分の給与が決まる重要な“仕事”であり、もっともストレスがかかるところである。
しかしそのストレスが集中力を生み、より良い結果を導き出す。

ストレスが問題なのは、そのストレスが長時間・長期間かけ続けられることではなかろうか。
バッターボックスの例で言えば、そもそも試合自体が一日に2,3時間程度であり、一人あたりのバッターボックスにいる合計時間は10分にも満たないだろう。
そのストレスで「おかしくなる」なんてことはあり得ない。
(むしろそのストレス(緊張)を感じなくなったから引退する、という人もいるようだ)

ストレスの性質にもよる。
その人にとって望むものであれば、むしろ快楽である。
多くのスポーツはストレスがかかるにも関わらず、それを求めていく。
多くの(コンピュータも含む)ゲームもそうである。ストレスと解放が本質という人もいる。

逆につまらなく、くだらなく、単純なものであれば、それは単なる苦痛でしかない。
仕事で言えばその人がその仕事に興味を持ち、楽しさを感じるかどうかである。
全く同じ仕事であっても人によっては楽しいと思えるし、逆に苦痛と感じる人がいてもおかしくはない。

ストレスは何で測るのか

どんなものであっても、その測定方法を誤っては正しく把握することはできない。
科学においては測定は基本中の基本であり、正しく測るにはどうしたら良いかと言うことについて常に腐心している。
測定器をただ繋げば測れると思うのは素人にも程がある浅はかさである。
ましてやストレスという人間の心理状態を測定する方法は、ただでさえ研究が浅く、確立されていないし難しいとされている。

さらにいえばこの一連の話の中で、ストレスと躁鬱状態とが混同されているのではないのか、という疑念を持ち得ない。
ガイドラインとかで作ろうとしているストレステストなるペーパーテストもそのあたりがきちんと科学的な検証の元に作られているのかが極めて怪しい。
基本からして例えば躁鬱状態と躁鬱病は区別されるべきものであるし、ストレスを含めて因果関係はあるが混同してしまうのは論外である。

もちろん研究によりストレスがかかっているかどうかを科学的に測ることができるとされる指標はある。
ストレスによって人間は生理的にも様々な防衛反応を示す。
脳からはその時の状態に応じて様々ホルモンが分泌されており、血中からそれらのなかの特定物質の量を測り、その変化によってストレス具合を知ることができる。
重要なのはその量では無く、その量の変化である、ということである。
量自体は個人差が大きいのでその人個人の変化量で知るしか無いのだ。
初めて測って「あなたの○○の量は○なのでストレスがかなりかかっています」なんてことは言えないものなのである。

そもそもストレスというのはある人にとっての外的要因である。
外部からかかっている物量を、それをかけられている人の状態で測ろう、というのが論理的に無理がある。
外からかかる重量(負荷)を、それによってかけられているものの歪みや破壊状態で測ろう、というような話だ。
お題目が「ストレスチェック」というのならば、やっていることが無茶苦茶であることが分かると思う。

ストレスチェックは本質からのごまかし

安倍政権全体で感じるのは「論旨のすり替え」「お題目と実態の乖離」である。
まあ政治なんてそんなもんであるとはいえるが、目に余るほどにひどい。

ストレスからの解放に最も効果的なのは、労働時間短縮である。
一日8時間労働であり、土日祝日が休みであればストレスや過労で問題が起きる、なんてことは殆ど起こりえない。
会社ですごく酷い上司がいて、業務も年中暇無しで、仕事もつまらなくて、でも定時に帰れて土日が休みならいくらでも気分転換ができる。
まずはそこを確実に実施すれば良いだけのことである。
その上で有給休暇等の完全消化が行われれば更に良い。

そこから目を背けて「ストレスチェックの義務化」などというごまかしをしているのが安倍政権である、と言えるのでは無いか。
そこにあるのは会社経営陣の集まりである某団体との癒着構造である、としか言いようが無い。
ホワイトカラー・エグゼンプションなる悪法(言っておくが別にそのコンセプト自体は構わないのだが日本版の実施内容が酷い)もそれへの迎合策であろう。

労働時間の規制やらは会社の自主性などもあり難しい、監督も難しい等というが、実は至極簡単である。
超過勤務分の割増しを現行の4割から5割に法律で義務化すれば良いだけだ。

この数字を“ちょっと”変えるだけで、会社の経営・経理上、新規に雇った方が安上がりになる。
雇用も増えるし、一人あたりの超過時間も当然減少する。
これは複数の会社経営者自身がこの手の議論でたびたび言っていることでもあり、ここが“分水嶺”であるようだ。

超過勤務の常態化が現在の日本の様々な問題の要因になっている。
一部後述するが、過労死問題、会社員の自殺問題、雇用率問題、少子化問題(社会福祉の財政問題でもある)、女性活躍問題(夫の家事育児参加も含む)、ブラック企業問題、国内購買力の低下問題、等々の諸問題の大きな要因となっているのだ。、
そうでなくても日本の労働条件はILOから諸外国に比べて酷いから改善しろと散々言われているのである。

しかしそれは当然会社の大幅負担増になるので経営者に迎合する安倍政権ではやろうとしない。
グローバル的にはこの程度の割増しは当然であり、日本の方が遅れている。
これも都合の良いところだけグローバルをうたう安倍首相らしいといえる。

それどころか「ホワイトカラー・エグゼンプション」という考えを悪用して本来は超過勤務分となるところをゼロにしようという施策をとっているのだから、方向としては逆行であり呆れる以外ない。

そもそも目指すべきは“残業ゼロ”

「職場での女性活用」なるものを本気で訴えるのなら、まずは“残業ゼロ”の完全実施社会を目指すべきである。
逆に言えばこの実現無しに「職場での女性活用」はあり得ない。
超過勤務が常態化している職場で、女性の「活用」を望むことは不可能だ。
手のかかる歳頃の子供がいればむしろ時短勤務を望みたいぐらいだろうし、実際にそうしている人が職場にもいる。

仕事と比較すれば家庭を大事にしたいという傾向が比較的女性の方が強いわけで、残業により家庭(子供)が犠牲になるのでは本末転倒と考える。
家庭が犠牲にならない範囲なら、精一杯仕事で能力を発揮したいと考えるのも当然である。
単なる重視する点が異なるだけである。
(最近は男性も同じように考える傾向があり、良い意味でグローバルスタンダード化していると言える。)
そこを見越せないようでは「女性活用」なんて日本ローカルな発想の男による自己満足的な押しつけである。

「家事」という現実がある以上はぎりぎりでバランスをとるか、どちらかが諦めるかしかない。
それではダメだ。
どこまでいっても「出産」は女性がする以外の選択肢は無い。
「育児」も男性はそれまでの教育的スキルを含めて難しいのが現実だ(もちろんやることには私は大いに賛成だ)
一方で現状を嘆きながらも「バランスを取る」という選択肢が日本でのDINKSという結果となり少子化につながっている。

他にも「介護」の問題がある。老人はもちろん病人の場合もある。
それを“プロ”に任せるのでは無く、病院等から追い出して家庭(個人)負担の方向に持って行っているのが昨今の行政である。
その負担をかぶるべきは女性が当然であると言う社会風潮がある。

通常でも子供がちょっと病気すれば病院の付き添いや看病が必要だ。
男親が「子供が風邪を引いたので休む」と言ったら「奥さんも風邪で倒れているの?}とか「奥さんとうまくいっていないんじゃないか」とか「なんで奥さんにさせないの」とか散々言われるのがオチである。

「女性を活用」するというなら前提の一つとして“残業ゼロ”社会を目指すべきである。
残業が常態化するような業務負担を解消するためにワークシェアすべきである。
普通に有給休暇を適時取れるようにすべきである。

この点でも政策の整合性がとれていない。

実効性のある政策を

重ねて言うが、至極簡単でグローバルスタンダードな政策は「残業代(超過勤務時間への給与)の割増し率の増加」である。
難しいシステム設計等は不要で4割から5割にするだけの数字の変更だけだ。
税金や人員等おカネも一切かからないしフォローも必要ない。
それだけで状況はかなり動く。

社員は(同じ労働時間に対して)増収になるか、(既に残業ゼロの人は)変わらないかだけだ。
法人税を下げてまで参入を期待している外資系企業は何ら文句は言わない。
世界では常識レベルだからだ。

苦しむ(“損”をする)のは「日本ローカル(非グローバルな)」な思想で「社員の残業頼みで維持している」旧式の会社だけである。
はなから残業など皆無である会社は何も変わらない。

実効性のないお役所の“通達”やら“指導”なんかより覿面に効果がある。
カネが絡むのだからトップから「残業なんか認めん、さっさと帰れ」となって当然である。

もちろん残業というのは突発的事項への対応もありゼロは困難かもしれない。
しかし超過勤務をゼロにすることは可能である。
月給制度の会社なら月間労働時間に対しての超過勤務時間に対して支払っている。
他の日で超過分の勤務時間を減らせば良いだけのことだ。

経営者が「残業代割増しを増やすことは負担増であり反対」と言うことは、超過勤務を前提として経営をしているということを自白しているようなものであり、それ自体が社会悪であると我々は受けとめるべきである。
超過勤務自体は多少は発生するが本来はゼロが望ましい、という観点に立てば、最低でも「いたしかたない」と考えなければおかしい。

月間80時間や120時間もの超過による問題もあるが、それも解消するだろう。
なお解消しないのならばさらなる引き上げなり、異常超過に対してはさらに“累進”設計をすれば良いだけのことだ。

不払いが増える懸念の声もなぜか出るが、言うまでも無く“不払い”は完全な違法行為だからガンガン摘発すればよい。
不払い問題は労務問題に留まらず、不正会計や脱税の疑いにも拡がり、大問題なのである。
(いうまでもないが脱税は国家に対する反逆行為であり、重罪であるというのが法的観念である。この点も日本は比較的甘い)
つまり厚生労働省管轄の問題にはとどまらず、国税庁や経産省の管轄問題でもある。

労働の「自由度」をというのなら

ホワイトカラー・エグゼンプションも含め、もっと自由度のある労働体系とかいって超過勤務への手当を否定する考えもおかしい。
仕事は年間を通して変動があるから、というのならば、例えば年間での総労働時間への超過勤務に対して調整すれば良いだけだ。
年間を通して変動が大きく、増員はデメリットの方が大きすぎるという声もあるようだ。

それなら忙しい月は超過もやむなしだが、暇な月は標準よりも少ない総労働時間でも良しとすればよいだけだ。
年間で締めて、それへの超過勤務に対して支払うようにすれば良い。
形式的には年に一、二度のボーナス(一時金)の制度でやっていることだ。
マイナスにすると面倒だからその辺は現場での調整にすれば良いだろう。

超過分を纏めて有給休暇とする、としても良いだろう。
ただしそれが取れなかった場合は超過分として精算すべきなのは当然だ。
きちんと取れるようにマネージメントするのもマネージャーの仕事である。

もし年間を通して大きく超過するのなら増員すべきである、という観点だ。
ここでも4割増しでは増員とはならないので5割増しにすべきとなる。

仕事で多少ストレスがあっても、きつい月があっても、年間を通して比較的ゆるい時もあればストレスの蓄積は避けられ、精神的・肉体的な負担は格段に減る。
例えば「春先はきついけど夏になれば仕事が少なくなるから頑張れるよね」という感じだ。
休みが増えて旅行にでもいければ全く気持ちが違うかも知れない。

そういうのが自由度であり、時短にもなり、ストレス軽減にもなるだろう。

増員はストレス軽減になるという観点

ストレス過剰・過重労働による肉体的・精神的で疲労にダウンする、という事例で、よくみられる傾向は、特定の重い仕事がただ一人に押しつけられているということがある。

どんなに厳しい仕事であっても、複数人(チーム)で取り組んでいる場合には傾向は少ない。
チームであっても崩れていくのは、実態として仕事が誰か一人に偏り、その人が倒れ、その仕事が誰かに…と連鎖的に倒れて崩壊する、という形になる。
その場合は一見チームで動いているように見えるが実質的に特定の人が“孤立”してしまっているのである。

一つの仕事を複数の人間で共同で解決しているとなかなかストレスになりにくいものだ。
お互いに助けて相談しあってやっているような形が一番“気が楽”なのである。
あるとすれば「私だけ仕事が遅くて申し訳ない」と一人気に悩むぐらい真面目な場合ぐらいでは無かろうか(たいがい他の人は気にしていないのだが)
きちんと増員してそういう状況を増やしてあげることが普通に思う以上にストレス軽減になるのではと思う。

単なる労働時間自体が減るという効果だけではない、ということである。
もちろん一般に言う「ワークシェアリング」でもある。
これも口先だけでいくら言ってもダメで、会社側が増員のほうが“得(マシ)である状況”に追い込むように割増しを変えるべきであるという結論になる。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014/11/02

ロボット掃除機購入調査への使用者からの雑感

リンク: ロボット掃除機、3人に1人以上が「購入したい」 - マイナビニュース調査 | マイナビニュース.

ロボット掃除機への関心調査の記事。
実際に買って使っている者としては、まあそんなところだろうという結果だ。
私はといえば、もはやロボット掃除機があるのが前提の生活だと思う。
電気炊飯器、洗濯機、エアコン、冷蔵庫、男性ならシェーバー。
どれも不要で代替えがあると言えばそうだが、これらに“頼っている”ことを否定しきれる人がどれだけいるのだろうか。
生活の中の“電化”への流れの必定だと思う。

価格が高い

いわゆる“良い掃除機”と比較してそんなに高いとは思えないのだが、掃除機なんてどれも同じと考える人にとっては高いことは否定しない。
加えて言えば充電池を使用するのでそれの消耗、つまりランニングコストがかかる。

ロボット掃除機があることで従来型の掃除機が不要となるわけでは無い。
いわゆる“床”以外の所でロボット掃除機が行けないところは手動でやるか掃除機をかけるかしかない。
階段の踊り場程度ならそこに移動させてやらせられるが、各段は掃除できない。
棚の上や中などはホコリやゴミを書き出して床に落してやれば良いとも言えるが、それならばちりとりで受けてゴミを捨てるだろう。

意外と“使えない”ので高いと考えるのも不思議では無い

必要性を感じないから

専業主婦もしくはパートタイム程度の主婦であって(婦が夫でも同じ)家で過ごす時間が多い人にとっては「必要性を感じない」と考えても何ら不思議では無い。
人間が丁寧にやる掃除ほどは、ロボット掃除機はやってはくれない。
このレベルでは掃除する時間の中で掃除機で行うこと自体が少ない。

また掃除をすること自体が気分転換になるとか、掃除というのは床だけでは無く目につくところは毎日全てきちんと拭かないとダメだろう、という向きには全く合わない。

しかし、仕事場からの帰宅時間がいわゆる夕食時をとうに過ぎ、食事も外食となり、疲れて帰ってくるようなことがたびたびあるような人には、そこから掃除をするというのは精神的にきつい。
床というのはなにも散らかしていないようでもホコリや髪の毛、細かい紙くずなどで結構汚れるものである。
できれば毎日床掃除だけでもしたいものだ。

毎日の床掃除はロボット掃除機に任せて、それ以外は週に一度やる程度でも十分だから、という考え方もできる。
そういう考えができれば、毎日ほっといても床だけでも掃除してくれるメリットは多大だ。

ローエンド機種では手動で充電ケーブルをつなぐ、なんてものもあるが私には意味不明である。
毎日定時に勝手に動き始め、終わったら充電台に帰る。
そういう機能が必須であると私は思う。
それが億劫で無いのならば、はなから掃除機で掃除した方が良いと思う。

私は土日は幸い休みなのでそこには動作時間を設定していない。
自分の都合で出かける時に手動で動かすことにしている。
スケジュール機能があって曜日毎に設定できることは必須だと思う。

間取りや家具の配置が適していないから

日本の伝統的家屋の特長として、段差があるのが当然のようなことは多い。
ルンバだと段差から落ちないようにはなっているのだが、部屋から廊下への微妙な高さの段差では“落ちて”しまう。
そして廊下からは高さがあって戻ってこれない、というようなことは起きえる。
うちの実家はそんな感じである。
これを間取りというのならその通りだと思う。
ルンバなら15mm程度なら乗り越えてあがれるのだが、これは掃除機によるだろう。

家具の配置も、数cmの隙間という部分は掃除できないのでそういうところにゴミが溜まりやすいとどうしようもない。
その代わり家具の下に潜るということはできるので、ベッドの下であるとかは普通の掃除機よりもきちんとゴミを集めてくれる。
また部屋の隅や縁はしつこいぐらいやってくれるのでへばりついた汚れでもなければ取ってくれる。

絨毯も問題の一つとなるだろう。
毛深いものが好きな人には適さない。
毛をどんどん“刈り取って”しまうからだ。
また“ラグ”を使っていたこともあるが、そこを縫っていた糸を巻き取ってしまい1シーズンでボロボロになってしまった。
薄いラグなので縁で巻上げてしまったり、角を巻き込んで停止してしまうこともあり困ったものだ。

根本的に問題となると思うのが、床の面積がほとんど無いような家庭である。
これは生活習慣なのでそれを変えないとどうしようもない。
床に平気で色々ものを置く、例えば、本やヒモ、袋、電気コードなどがある場合には適さない。

私自身も使い始めてからは電気コードなどはきちんと固定したり、本は本棚にきちんと戻したりマガジンラックを買って入れるようにしたりと、片付けるようになった。
またリモコン等の小物は専用の“ごみ箱”を買ってそこに放り込むようにした。

基本は“床に直にものを置かない”“棚に片付ける”“足りないなら棚を増やす”もしくは“棚の不要なものは捨てる”ということに行き着く。
むしろそういうずぼらなところが矯正されたという感覚がある。
これを「厭だ」と感じるか「良い機会だから直そう」と思うかは個人の自由ではある。

家具にガンガンぶつかるからという話も聞くし、メーカーのホームページにも書いてある。
例えば子供がおもちゃをぶつけたり動かした椅子がぶつかっても気になるような高級家具をお使いの方は確かに向かないと思う。
私は基本の“バンパー”ではあまりに薄くてなんの効果があるのかわからず、そのうち剥がれたので100円で「ドアのクッションテープ」を買ってきて貼ったところ大分具合が良くなった。

ある程度使用者にDIY的な素養が無いと色々と問題があるのかもしれないのは確かだろうか。

吸引力など掃除機としての性能が不安だから

もちろん機種やメーカーによる話だから一概には言えないだろう。
私のはルンバだが、吸引力自体には確かに信頼まではいかない。
吸引力で吸うのは小さいホコリなどで、大きめのゴミや毛などは回転ブラシで拾い集める。

そもそもロボット掃除機は吸引力は弱い。
小さい電池で一時間近くも動くのだから、数百ワットも食うような普通の掃除機と比較して非力なのは当然と言えば当然なのだ。

吸引力は低いが問題は無い。それは「何度も同じ所を掃除する」からである。
一発で確実にゴミを吸い込む、ことを狙ってはいない。
なんどもしつこく、角度を変えては何度もその場所を通過することによってゴミを回収できれば良い、という考え方である。
なにかの実験で一回動作させると終了とするまで、5回以上は同じ所を通るそうで、たいがいはそれで吸い込めるという考え方のようだ。

実際に使うと拾えるような大きなゴミは苦手で捕れていなかったりするが、そういうのは人間が拾ってごみ箱に入れろ、といえばその通りではある。
その代わり拾いにくいような大きさなら問題ないといえる。

疲れた体で、嫌々で軽くしかも丸く掃除機をかける程度で済ますのなら、多分ルンバの方がきちんと掃除できていると思う。
実際にルンバを買ってしばらくは毎日かなりのゴミが集まっており、ほぼ毎日ダストボックスを掃除しないとという感じだった。
毎日動かしていると一日あたりのゴミの量が減っていき、数週間経つと週1でゴミを捨てればよい感じとなった。

私は結構床に寝転んだりするのは好きなので床掃除はそれなりにやっていたつもりなのだが、現実に全然足りなかったということであろうか。
これは掃除機の性能ではなくて使う方が全然足りていないと言うことである。

掃除機が巻上げるホコリなどが気になるかもしれない。
最近の良い掃除機は排気に気を遣っている。
ロボット掃除機自体は排気に配慮はほぼされていないが、人がいない昼間に掃除をさせておけばいくらまきあげても数時間もあれば床に落ちきる。
性能として配慮されていなくてもなんら問題は無い。

また人によっては気にしているらしい動作音などどうでも良い。
先に書いたように家人が全て不在の時に勝手に動いてくれれば良いので関係ない。
うるさいと言っても隣近所に迷惑をかけるような轟音では全くない。
「静かなこと」を売りにしている機種もあるが私にはメリットは無い。

購入について

結婚祝いや敬老の日、ということで贈るのは適当では無い、というか条件付となると私は思う。
もちろん敬老の日で実家がバリヤフリー化されていてロボット掃除機を使っても問題ないくらい両親が片付けをきちんとやるひとならなんら問題は無い。

結婚祝いと言うより新築祝いの方が良いかもしれない。(結婚でも新居からなら同じだが)
まだ部屋にものがあまりない時から使うとロボット掃除機に「教育」されることになるからだ。

それでも電池交換やメンテナンスコストなど一定のコストを強いることになることは考えた方が良いだろう。

単に価格の問題で買わないというのは勿体ないと思う。
掃除(単純な床掃除)にかける時間を他のことに使えることは大きなメリットだ。
家電の大きな意味は,家事の時間を削減することであり、その有効な手段の一つであることは間違いない。
今日はこのブログを書いている間にルンバが掃除をしてくれた。

ただしやはりまだ万人に使えるほどはこなれていないというのも事実だと思う。
まだ“アーリーアダプター”が飛びつく段階からちょっと進んだ程度と感じる。

それでもこれから進化を続けることは間違いないし、注目のジャンルである。
カメラで物体認識をして障害物対応をする機種もあるし、搭載マイコンの処理能力もどんどんあがっていくだろう。
既に通信機能を持っているものもあるし、クラウド処理もするようになるかも知れない。
カメラでの個体認識+クラウド接続からの繋がりで防犯機能への発展も言われており“家庭内ロボット”としては最も近い存在かもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/01

BSフジプライムニュース「固定価格買取制度」の話題

週末にまとめて見ることになったので数日も前のものだが、BSフジプライムニュースでの話。
固定価格買い取り制度について、当時制定に関して深く関わった民主党の福山政調会長、そして自民党の現・山際経済産業副大臣が出演されていた。
その中で私が気になったいくつか話題をピックアップしておく。

私がどこかで認識がずれて違っていたなあと思うところもあった。

固定価格買取制度は三党合意

民主党役員が、自民党で現・経済産業副大臣を隣にして発言したので間違いないことだろう。
民主党菅政権下で勝手に決めたことでは無く、自民公明の修正を含めて決議したことであるとのこと。
「固定買取制度は民主党政権の負の遺産」みたいなことをネットだけならまだしも新聞すら書いていることがあるのでわざわざテレビで言ったのかもしれない。
三党合意というと民主政権末期の野田政権下で解散との道連れの中で決議された消費税がよく取り沙汰されるが、菅政権下であっても三党合意による決議が行われたというのは少々驚きではある。

なぜ太陽光を高額設定したのか

ともかくも早く「持続可能エネルギー」を増やしたかったから、とのこと。
制定当時は、(従来型)水力以外で「再生可能エネルギー」は0.1%以下であった、という背景があり、ともかく数字上増やそうという話があった。
太陽光発電は最もリードタイム、つまり建設・発電までの期間が短いという特徴がある。
環境アセスメントに最も時間を食うわけだが、それがもっとも簡易であるからだ。
いくら高くしても数字にすぐに表れないものより、すぐに表れる太陽光に高値をつけて増やしてしまおうということだったという。
そういう意味では目的は見事に達成されたと言えるだろう。

また容易な方法で「地域にお金を落したい」という感覚もあったという。
震災による地方の疲弊、東北だけでは無く日本全体の活力が落込んでしまったこともあったという。
いわゆる家庭用ではない、ある程度の規模の太陽光発電設備は地方の空き地に作られる可能性が高い。
これを積極的に推進することで即効でお金を落すことができるという狙いもあったという。
実際には都市部の資本によるメガソーラー事業会社が“上前をはねる”ような状態になっているという指摘もあるが、それでも中規模の事業者も少なくはないだろうし理屈ではある。

180日ルール

太陽光発電の“権利”だけ取ってそれを転売するような動きが見られる。
事業計画書だけで認可を出し、高い固定買い取り価格を得ることができるという制度の欠陥が突かれている形だ。
さすがにそれには気がついており、「180日ルール」を設定しようとしているそうだ。
180日とは要するに半年であるが、申請からそこまで「ペーパー事業」なら認可剥奪ということらしい。

固定価格買取制度は脱原発とは(あまり)関係ない

そもそもこの制度が検討され法律として決議までいったのはまさに震災直前の時であったという。
その後に実際の細かい制度設計がされたが、それは震災後、原発事故後となる。
鳩山政権・菅政権の中で、非常識とまでいわれた高いCO2削減目標が掲げられ、その時は原発の強化と再生可能エネルギーでCO2の削減、という目論見の中で作られた制度である、ということである。

前提自体が「脱原発」のコスト感覚では無く、いわゆる二酸化炭素税なども見え隠れする中、つまり「脱火力発電」の中での話であった、ということになる。
そうすると想定される“負担コスト”や諸条件の感覚が全く違ってくることになる。
その端境の中で色々な事が決まったのでチグハグ感がでているのかもしれない。

融通の利かない原発と季節昼夜で大きく変動する太陽光・風力を中心とした再生エネルギー開発ですすめようというのは、技術・科学的に考えてかなり疑問なのであまり現実感が無く、脱原発の軸(つまり再エネを火力で調整)と考えた方がよっぽどマシである。
だから私も何か勘違いしていたといえる。

原発中心で考えるのならば、脱原発なら最も強く進めるべき地熱発電に全く配慮が無いのは頷ける。
地熱は原発と同様に“ベースロード電源”にしか使えない方式であり、地熱を進めることは原発否定になってしまうからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »