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2014/06/29

WiiUでテレビの遅延測定

デジタルテレビになってから映像の“遅延問題”がよく言われるようになっている。
入力した時点から実際に映像がでるまでの時間がかかるために様々な問題が起きる。
例えばカラオケやリアルタイム性の高いゲーム(アクションゲーム)等で問題を起こし、両方の要素がある“太鼓の達人”などでは遅延が致命的だ。
ゲーム機側での時間とプレイヤーとの時間でずれが起きてはまずいのだ。

ある程度は慣れでなんとかなる部分もあるが、イレギュラー性の高い、また画面を見てから判断して動かなければならないゲームではどうしようもない。

しかしこの遅延を測るというのは一般的には難しく、遅延ゼロと言われるPCモニターと比較して、PCを使っての測定もされているが、なかなか敷居が高い。

私自身はあまり最近真剣にゲームをやっていなかったのでどうでもいいと思っていたが、最近マリオカートやファミコンリミックスにハマりだしたところどうもおかしいなと思い始めたので測ってみることにした。

WiiUにはゲームパッドがあり、これに表示される映像はほぼ遅延0だという。
ではこれとテレビの画面を比べれば簡単に測定ができるだろう、というだけのことである。
最近のデジカメやケイタイには動画撮影が可能になっているのでこれを使う。
秒間30フレームしか録画できないので今ひとつなのだが目安には十分なるのでやってみた。
最初は何も考えずにいつもやっている状態で撮影してみた。
動画を撮影した後、どうやって解析するかだが、私の場合ではMicrosoftが提供しているムービーメーカー(Windows8ではWindowsEssentialsという中に入っている)を使っていたのでそれに放り込んでみるとコマ送りで見られるので利用した。

分かりやすい画面を選んでみるとこんな感じだ。
Fred_1
下の画面(WiiUゲームパッド)が見にくい場合には写真をクリックすると拡大する。
WiiUゲームパッドの画面ではオレンジのプレート(加速台)に乗る直前だが、テレビの画面ではまだクルマ一台弱もの先である。
なんとこれほどの差があったのだ。
では時間にするとどれだけの差かとなるが、それはテレビの画面で同じ状態になる時を捉えれば良い。
Fred_2
時間にして0.11秒もの差がある。これは致命的と行っても良い数字だろう。
毎秒60フレームではなんと6フレームにもなる。

これはいわゆるテレビで“高画質モード”にしていると起きがちな現象である。
私の場合は、テレビモードはゲームモードにしていたのだが「QS駆動」を「スキャン」になんの気の迷いか変えていたのが問題だった。

そこで「QS駆動」の設定を「標準」に戻すと下のようになった。
Std_1
Std_2
時間にして0.03秒、60Hzで2フレームとなっている。
このカメラの撮影が30Hzでしか撮れない、つまりカメラの分解能が60Hzで2フレーム毎なのでこれ以下は測定できないわけで、2フレーム以下、という結果になる。
(これ以下を測るにはもっと高速撮影できるカメラが必要だ)

なんてことはない、私のテレビの設定ミスに等しい。
せっかくテレビメーカーがゲームモードを用意していてくれていたのに間違って使っていたといっても過言ではないだろう。

ちなみにAVポジションが「標準」でも「QS駆動が標準」なので同じ結果になると思われるので良い設定と言えるのかもしれない。
QS駆動というのは液晶パネル固有の残像を軽減するための仕組みで、映像の解析をするために遅くなっていると思われる。
最近の液晶パネルは性能が良いので変なことをしなくても残像感は殆ど感じない。
なお、上のスナップショットで残像みたいに映っているところがあるが、本当に液晶の残像なのかは定かではない。
カメラの問題である可能性もありえる。

とはいえ「スキャン」ではこのような写り方はしていない。
「スキャン」とはいわゆる「黒挿入」という奴でバックライトを映像一枚毎にオフする時間をいれて黒画面としているやり方だ。
カメラだって人間の目だって同じ理屈で“残像”が起きるという観点からは、見た目で「スキャン」が残像感が少なくなることはいえるのだろう。

ともあれこのレベルの残像より、遅延の方が大問題なのできちんと元々のままの「ゲームモード」にすれば良いと言うことが分かった。

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2014/06/28

サッカーW杯

2敗1引でリーグ中最下位が決まり、FIFAランクでいえば順当な結果となってしまった。

個人的には負けがどうこうより、3試合とも、また点が全くといって良いほど入らないなあ、というのが感想である。
特に最終戦は、得失点差が問題となるということで「ノーガードの打ち合い」に持ち込むしかない、という方針のはずだった。
しかしたった1点しか取れなかった。(4点取られたことはどうでもいい。)
この点がなによりも残念である。

選手の敗戦の弁もつまらない。「自分のサッカーが」とか「自分の表現が」とかなんなんだ。
「自分の実力はこんなもんじゃない」「明日から本気出す」みたいなニートや“自分探しの旅”とやらに出る若造じゃないんだから何を言っているんだという印象を持ってしまう。

相手がいる試合なんだから、相手は自分の良いところを潰しに、封じにかかるのは至極当然のことだ。
その所作に対抗できずに封鎖されたこと自体が力が無いんだ、と考えるのが妥当である。
農耕民族と狩猟民族の根本的な発想の違いなのか、とすら考えてしまう。

単に「相手が自分以上に強かった」とか「相手に自分達のサッカーをむしろ利用されてしまった」とか試合内容によっては「自分達にほんの少し運が足りなかった」と素直に相手を褒めるぐらいの感覚が少しでも感じられればなあ、とか思ったりする。

自分を研鑽し、土を相手にコツコツやっていれば、自然の猛威はあっても平均的には必ず向上する。そう信じて報われるのが農耕民族である。
しかし動く生き物を狩るために、時には猛獣も相手にするハメになる。
狩猟民族は常に生きている相手を追い詰め殺す。
弱い個体を狙ったり、ラッキーも味方につけて仕留めなければ明日はないのが狩猟民族の常である。

サッカーは狩猟民族的なスポーツだ。
オウンゴールだって追い詰められたあげくに自爆してしまう所作だ。
追い詰めなければ起きない。
キーパーの弾いた球が偶然自分の前に来たら反射的にしかし確実に仕留めなければならない。
その偶然すら自分で作り出していく瞬発性や執拗さも必要だ。

野球は世界一に何度もなっているが、比較的農耕民族的であり、投手のタイミングで試合は進むが、打者はそれを中断できる。
かなりゆっくりと考える余地があるスポーツである。
サッカーは瞬間的・瞬発的な行動が45分間連続して起き続けるスポーツと言える。
本質的に日本人には向かないのかもしれない。
パスをつなぎ、隙を見て攻め込む、なんてすごく悠長な考え方じゃないのだろうか。

別に日本のサッカーを卑下しているわけではない。
Jリーグを発足させ、予選リーグに進出を何回も続けていることだけでも世界で上位であることは確かだ。
すくなくとも200国以上の国々の中で64番以内なのは確実な話なのだ。
しかし決勝リーグに入る、ベスト16以上に行く、となると足りないものが多いのは確かだ。
ましてや決勝進出や優勝などはそれを狙える実力を維持しながら運も味方につけなければできることではない。
狙える列強は何カ国もありながら優勝できるのはたった一つの国なのだから。

果たして今の「自分のサッカー」とやらの閉じこもった発想で果たせることなのか、まだまだ根本的に足りないところがあるのではないか、ということは考えないといけないのではなかろうか。

日本のサッカーレベルは確かに上がっている。
だが、ようやく数人が欧州のプレミアムリーグで活躍できるようになった、というだけのことだ。
そのレベルの選手はピッチに立つ半数にも満たない。
それで欧州列強国と対等なわけがない。(勝てるわけがない、とは違う)
だから今回の結果は「ごく普通の妥当な(ある意味つまらない)結末」に過ぎない。
番狂わせや良い意味での間違いが起きてくれることを望んではいたがそれがなかったのが残念だっただけである。

日本のサッカーは「チームサッカー」であり、全員の実力が高くないと成立しない。
そこも問題である。
チーム(ゾーン)で動く、ということは場合によっては突出した個を生かせないことでもある。

もっと上を狙うのならば、そろそろ従来の延長線上ではない、なにかを考えて転換や施策を打っていかないとそろそろ限界ではないのだろうか。
しかしそれは当然リスクも伴う。今度は予選リーグ進出ができない危惧も起きえる。
今のマスコミの反応を見ていると、そのリスクは取りたくはない、と考えても不思議ではないのも事実だ。
なんかそういうところで歪んできているかなあとも思ったりする。

最後に、試合をやるからには優勝するつもりでやるのは当然だし、頑張れと応援するわけで、それを口にしていた選手は当然のことだと思う。
勝ち負けなんか時の運もあるから試合前でも負けたと思った時点で負けである。
むしろ今になってそれをバッシングする人のほうがどうかしていると思う。
何も言わない本田を責める人もいるが、「敗軍の将は兵を語らず」なわけだし、「自分の力を発揮できなかった」云々などとは言いたくは無かったのだと思う。

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2014/06/21

企業減税補填での滑稽な論議

規制改革も残念だったが、さらに的外れなのが企業減税のようだ。

そもそも海外の企業が日本に入ってきてなんのメリットがあるのか、ということがある。
最低限でも税率を下げても海外企業が入ってきて税額としてプラスになるのならば問題ないい訳だが、どうも政府(役所)はそうは考えていないらしい。
「減収になるからその分補填(財源)が必要」とか言い出しているからだ。
単純には3兆円、増える分を差し引きして2兆円台くらいという算段のようで、じゃあその差し引きのお金はどこにいくのだろうか。
普通に考えれば内部留保である。
政府は内部留保するのではなく、投資や社員などに還元するように言っているようだが、言うのでは無く、そういう税体系にしないとダメなのは当り前だ。
いっそ内部留保に対して課税するような仕組みにでもすればいいのに、なぜかその発想すら聞こえてこないのは不思議だ。

減税で海外進出した企業が戻ってくるのではという説もあるが、海外進出は異常だった円高に悲鳴を上げて出て行った分と、海外市場を求めて行った分が多いようだ。
日本の税金が高いから、なんていう企業が多いという統計はどこにもない。

海外の企業が日本に来たがらないのも、別に税金が高いからなんていう調査結果は聞いたことが無い。
よく言われるのは、日本での会社設立におけるお役所的な面倒くささである。
いわゆる縦割行政は言うに及ばずだし、平気で書類を遅延させるので呆れるという話も聞くし、法律ならともかく、訳の分からない(担当の裁量の大きすぎる)省令やら条例やらがぐちゃぐちゃでとても先進国とは思えないという悪口もよくある。
一党独裁の中国の方が、コネさえうまく取り付ければ窓口が少ない分、むしろ楽で良いなんて言う人すらいる。
海外企業誘致を狙うのならばまさにここであり、岩盤規制打破とやらとも合致していることなのであるはずなのに、である。

ここでも世界と比較して、で説明されることが多いが、これもまた都合の良い数字だけが強調されていることが一部識者から指摘されている。
ひとつは米国との比較だ。なぜかドイツと中国が比較に出されるが、米国の方が単純に高い。
それを理由に企業が逃げ出すわけもなく、米国での起業は相変わらず活発である。
それはなぜかと考えるのが重要なのだが、そこは無視するのが役人クオリティである。

ドイツ等欧州各国だが、殆どの場合で企業にも「社会福祉税」がかけられているそうだ。
それを加算すれば当然日本を上回る税額となる。
まあ、日本でも健康保険の企業負担があるのでそれらの算定はどうなっているのかわからないのだが。
ともかくその辺の議論がすっ飛ばされているのが不可解である。

まあ、今回の話はここではなくて、減税措置に対応する増税財源に関しての2つほどネタがある。
よほど困窮しているく(まあ当り前だ)らしいので挙げられてきているのが無茶苦茶だ。

一つは、そもそも今までは利益に対してかけていたのを減らすわけだが、その代わりに外形標準税を引き上げることを検討しているようだ。
外形標準というのは簡単に言えば企業規模に対して課税することである。
元々大企業の多くは帳簿上の操作で利益を抑えて税金を減らしていたわけで、そのソチに対応して調整を変えるだけであり、どっちでも大差なく、あまり反対は起きないだろう。
一方で赤字に苦しんでいる町工場などの企業や起業したばかりで利益がなかなかあがらない企業に直撃(大増税と)する話となる。
これによってぎりぎり黒字から赤字に転落する会社もでる可能性もある。
なかには半ば社会福祉的な意味合いで会社(法人)を立ち上げ、基本はトントンぐらいを狙って経営することをむしろ本旨とする会社もあるだろう。

こんなことをやって日本が活性化されるのか、全く理解できない。

もう一つが寄付時の所得控除の廃止である。
もちろん話の俎上に上がっただけのようだが、こんなものすら議論にあがるわけだからよほど困っていることが見て取れる。
なんせこれを実現したとしても増収額がわずか18億円程度だそうである。
議論している減額に対して0.1%以下であり、誤差の範疇といえる。

しかしこれが世間に与える影響は大きい。
そもそもこれは先進国では当り前にあるが日本にはなぜかなかった、非利益団体等への寄付行為を行った場合に、寄付者の所得税の対象がその分控除されるという措置である。

社会福祉・社会貢献などを目的とした団体は基本的に収入がない。
ボランティア(要は無償奉仕)で行っている人が少なくないし、事務員(顧問弁護士や税理士すら)雇うことが困難だったり、半ば手弁当でやっているところも多いだろう。
財団ということで財産の運用や利息収入などで運営していたところもあるが、金融破綻、デフレや低金利の長期化を受けて苦しい方が普通だろう。
NPOやNGOと呼ばれる団体も同じであろう。

諸外国ももちろんだがこれらの団体の主な収入は寄付によるところは多い。
団体の数自体が少ない理由は日本人の寄付行為への意識が少ないことと、インセンティブがなかったことであるといわれ、ようやく導入されたばかりというレベルだろう。
それを廃止(減額?)しようというのだが呆れるしかない。

それ以前にこれは企業への増減税ではなく、形式的には個人所得への増税である。
議論にあがることすらおかしい。

まあ、額が額だけに正常な判断ならこんなゴミみたいな案が採用されることはあり得ないとは思うが、今の政府や調査会などは常識的な判断を失っているとしか思えないので心配である。

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2014/06/15

規制改革会議…あまりに残念な閣議決定内容

政府HPの規制改革会議 公表資料を読んだがなかなかひどいものだ。
http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/publication/p_index.html
上記の(閣議決定)を読めば良かろう。
ニュースになっているのもこの話のはずだ。

規制改革というより提言や非常に弱いものばかりだ。
マスコミで言われている話だけでは全くない。

語尾で言えば「検討する」ばかりだ。
たまに断言形があっても「○○を得次第」などの前提がついている。
「周知徹底する」「通知する」「明確にする」などのもう既定事実で論議すらなさそうなものだけが「とする」などになっている。

いかにも「霞ヶ関文学」らしい言葉が並んでいる。
そうでなかったとしても語尾や言葉遣いから、担当省庁に書かせたのだろうと十分に推測できる。
内閣の方で作ったり、仮に内閣の方で各担当者がいたとしても、こういうものはすり合わせておくのが当然というか自然だからだ。
少なくとも内閣で受け取ってひとつの“会議文書”にするのだから、項目の語感は合わせるものだと思うが、それすらしていない。
していない、できないのは内閣の意向よりも省庁の意思の方が強く、文面ひとつにも口出しをできない(しづらい)のが実態である、という事情が浮かんでくる。
私自身がこういうものを「まとめる」作業を業務でしばらくやったことがあるので情景が浮かんでしまうのだ。

なお霞ヶ関語で「検討する」は「やらない」に等しいことはよく知られている。
この内容は誠に残念だが、検討結果をどう精査するのかを明確するのかをきちんと補足するのであれば実効性のあるものとなるが、多分そんなことはやらないしできないのだろう。

だから腰砕け改革だと揶揄されることになるのだ。
それならまだしも、実は規制強化(業界保護)にもなりかねない巧妙なものすらある。
そのことについてはマスコミで取り上げられないのが残念である。

分かりやすい医療関連で例を挙げてみよう。
まず事項名の「一般用医薬品のインターネット販売」である。
事項名からして話にならない。
医薬品の販売と言えば9割が処方箋医薬品であり、1割が一般用という市場である。
本丸は処方箋医薬品なのに、いきなりそこは外しているわけでお話にならない。
改めて取り上げること自体が「一般薬品しかやらない」という宣言であり、規制強化(業界保護)へのさらなる明確な宣言に他ならない。
さらに言えば「スイッチ直後品目」と「劇薬指定品目」についてはグダグダと意味不明な否定的な見解が並び読む気を失わせる。
「検討に当たってはインターネット販売か対面販売かを問わず」と一見客観的な方向に振ってみえるが、対面販売は基本であり“常識的で必須”という基本姿勢を崩さないという意思表明に見える。
そもそも対面であることが必要かどうか、対面販売がなぜ必要なのか、その要件は何か等々が根本でが検討されるべきだが、そこをすっぱりと抜いているのだ。

加えて「処方箋の電子化」というのも胡散臭い。
この条項は「実現に向けた具体的な工程表を策定する」となっている。
これのどこが「規制改革」なのだろうか。
紙に限定していたのだから電子化することが改革と言うつもりなのだろうか。
それならばそれだけ書いておけば良いはずだ。
こんなものはむしろ業界に勝手に任せておけば良いのであって、いわゆるIDカードを使わせて介入したいという下心が透けて見える。
更に問題があるのは、処方箋薬局がこのような特殊ネットワークに参加することを事実上強制されることになることだろう。
医薬分業という原則があり、進めてきたはずなのにまた結合を強めることになる。
これは処方箋薬のインターネット販売の新規参入への障壁になりかねない。
“処方箋ネット”に参加できるかどうかが事実上の「許認可」になってしまう。
むしろ利権を生みかねない不合理な規制になりえるのだ。
こういう隠れ規制強化・シロアリへの温床化推進もこっそりと忍び込ませているのだから油断もあったもんじゃない。

全体的に項目が多いのだが、どうでもいいことが多くある。
「カルテの電子化」もそうだ。
「カルテに貼付け等することとされている各種文書について、電子媒体での管理のみで良いことを明確化する。」
はぁ?である。こんなこともちゃんとやっていなかったのか、呆れてものも言えない。
まあ、それでもやらないよりはマシだが、230項目とかいうのはこんなもので水増しされているわけだ。
多分現場では「どうでもいいようなものでも挙げてくれ」という指示が各省庁に飛んでいたのであろう。
こういう「明確化する」類のものが結構あってその水増し具合は無視できる量ではない。

これらは全部ひとつのページなのだがこれだけツッコミどころがある。
遠隔医療の推進を進めようというのはこれからの日本の情勢を考えると進めるべきだろう。
市町村の消失問題がいわれているが、消失が進むと言うことは事実上の遠隔地が増えて遠隔医療のニーズがより増えるということである。
これについては検討せよ、というのは「岩盤規制打破」というにはあまりに弱いて僅かだが良い方向ではあるだろう。
この程度のものだらけなのだ。

市場ががっかりしたという反応は至極当然のものだし、実効性や少なくとも市場活性化や成長に繋がるといえるものが見つからない。
規制突破云々以前に何が「規制」なのか、なにをすれば「成長する」のかすらわかっていないのでは、とさえ思ってしまう。

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マリオカート8

世界規模ではわずか4日でミリオン超となったそうで、不振が伝えられるWiiUにとっては朗報ということでしょう。
私も発売日発送で手に入れてそこそこ遊んだのですが、やっとキャラが全部開いているものの、開いていないマシンパーツはまだまだありそうです。

遊んでみて素晴らしいと思えるのはその設定の練り込みの良さでしょう。
リアルがもてはやされる時代を真っ向から否定し、すべてが架空のコースであり、車体始め全て架空でむしろファンシーだったりファニーだったりします。
乗り込むキャラでもパラメーターが変化し、それらはマリオに登場したキャラ達です。

クルマの特性は「キャラ」「車体」「タイヤ」「カイト」によって変化します。
特性は「スピード」「かそく」「おもさ」「まがりやすさ」「すべりにくさ」があります。
おもさはお互いにぶつかったときの挙動に関係します。
重いクルマなら軽いクルマにワザとぶつけて飛ばすことができますし、ぶつけられてもあまり動きません。

各キャラやパーツについては、解析してみると必ずしも全部が異なるパラメータではないようです。
言えば「どっちでもおなじ」というのもあり、好みで決められるものもあります。
同じパーツでもキャラによって色や形が違ってなかなか楽しいものです。
例えば初心者にやさしい(スピード出さずに操作が楽)縛りで遊ぶには「ベビィ○○」「レミー」「Mii」の中で選んで遊べばそういう傾向にできます。

アイテムのバランスも良くできています。
下位に落ちてもアイテム次第で挽回のチャンスはあるし、一位でもまったく安心できるわけではありません。
しかしやはり上位につけていれば有利ではあるし、下位に落ちれば上位に上がることはできるのですがトップ挽回は難しくなります。
アイテムは「ルーレット」方式なのですが、上位ではコイン等の「スカ」アイテムが出る確率が増えますし、下位ほど弾丸やスター等「強力な」アイテムが出やすくなります。

ゲームデザインとしてその辺の塩梅というのは意外と難しいものです。
下位に落ちるほど「ブースト」がかかったり「グリップ」が良くなったりするシステムもありますが、それが必ずしも良いわけではありません。
初心者では下位にいる時と上位にいる時で挙動が変わるので非常に戸惑うものなのです。(私自身すごく苦手です)
挙動の差を減らせば意味は無いし、増やせばその変化についていけなくなります。
アイテムで調整するというのは良いアイデアですが「リアル」を追求すると出しづらいことがジレンマとなります。

マリオカートに話を戻すと、上位でも安心を確保するための方策もマニュアル等に書いてある訳でもなく「応用ワザ」を自分で見つけ出すことになります(今はネットで探してしまう人も多いでしょうが)。

タイムを縮めることと上位に立つことは必ずしも一致しないというのも幅を拡げていることでしょう。
タイムアタックモードがあるなどその趣向を外しているわけではありません。
しかし自転車レースのように後方から追い越さずついて行く方が最後でトップを取るためには有効なこともあります。
先ほど書いたように「強いアイテム」の出現確率の差が順位で起きるからです。
一位にいても後方から強力なアイテムで“フルボッコ”されればひとたまりもありません。
反面で必ずしも強いアイテムがでるとも限らないわけですから後ろから位置を狙えば良いというものでもありません。
位置の不利さもあれば、上位からの攻撃を受ける可能性もあります。
そのジレンマが面白さになっているといえるでしょう。

やればやるほど、上達すればするほど奥深さを感じることになる。
これがゲームの本来の面白さであり、ほとんどのゲームが忘れつつあることです。

極度のリアル志向はさすがに止まったとは思いますが、その先がなかなか出てきません。
私見ではカーレースの「リアル志向」はとっくの昔「バーチャレーシング」「セガラリー」あたりで破綻しています。
GT4やGT5でのもがきは茶番に見えていました。
リアルにすればするほど、それが特にF1や本格的なダートラリーで、クルマの挙動もリアルにすればするほど、一般人が遊べるものから乖離していくのは必然なのです。
特に「セガラリー」のゲームセンターでの興行失敗は象徴的と言えましょう。
プロのドライバーなら完璧にこなせるほどの精度だが、一方で初心者には扱えないのです。
たとえ一般車であってもレースという高速走行となればそうですし、一般車ならやはりつまらないのでラリー仕様で、というのがGTシリーズでした。

「ラッキーパンチがはいれば初心者が上級者(ゲームの所有者)を負かす」しかし「総合すれば上級者がきちんと勝っている」のが初心者にも上級者にも楽しいゲームなのです。
初心者は常に勝つことは望んでおらず、たまに勝てれば十分に楽しいのです。

しかしラッキーだけではなくある程度うまく操作できた、という実感がことも伴う必要があります。
強いアイテムもある程度きちんと狙ったり、自機を操作できないと無用の長物です。
その辺もアイテム毎に必要な“スキル”を設定しています。

マリオカートが一番売れたのはWiiの時のようですが、それは操作が簡単だったからでしょう。
Wiiリモコンの傾きでハンドル(ステアリング)となり、ブレーキ・アクセルが1・2ボタンです。
きちんとそれを踏襲しているわけです。

WiiUの不振はWiiUゲームパッドなどと言うものを操作の基本としていることで、中にはそれによる操作を強要するゲームづくりをしているのがダメな根本だと思っています。
スーパーマリオは売れたそうですが、3Dのスーパーマリオは今ひとつだったようです。
私は両方買いましたが、スーパーマリオは普通にリモコンだけでクリアできましたが、3Dのほうでは途中でゲームパッドでプレイを強要する面があってカチンときてそれ以来やっていません。
3Dだから売れなかったという面もあるのかもしれませんが。
スーパーマリオでは踏み台を出すなどの「お助け」に使えましたが、なくても特に問題ありません。
マリオカートではその辺は問題なく、補助画面の役割に留めており、見なくても問題を感じません。

サードパーティのソフトでも体験版をやってみましたが、ゲームパッドを絡めている操作やゲームプレーの流れが煩雑に感じ、どうにもしっくりきません。
これはピクミン3でもそうなのですが。
でかいテレビ画面に没頭しているのに手元のパッドに目をやると言うことは苦痛ですらあるのです。

Wiiのときもむしろリモコンだけでゲームデザインをすることに戸惑いがあったのか、特にサードパーティ製のものにあまりよくできたゲームが見当たりませんでした。
もっともそういう流れはPS2のあたりからのボタン数に依存したデザイン傾向がどんどん強まっていき、私自身のゲームをする回数がどんどん減っていました。
ゲーム市場が縮小しているといわれたこともリンクしていたと思いますから市場も私と同じ思いだったのではと思っています。
たまにゲームをするたびに取説を見て操作を思い出さないと満足に動かせない、なんてやってられないのです。
それでは初めから紙の取説がなくても遊べる「ソーシャルゲーム」に流れても当然の理ではないのでしょうか。

マリオカートの紙の取説は絵の描かれた紙ペラ一枚です。
こんなのは一瞥すれば終わりで、基本操作はその程度であるべきなのです。
そこからより上手くやりたければそれに応じて電子取説を読めば良いのです。

(コンソール)ゲームの終焉とか、これからはソーシャルだとか、アナリスト達は分かったような口で高説を言っていますが、私は全く同意できません。
任天堂が言うように、きちんとお金をかけて作り込まれたゲームが本当に面白いのは間違いないのです。
しかしコンソールゲームが複雑な操作体系やゲームシステムという泥沼に陥っているのも事実です。
そこをある意味で「逆行」したのがソーシャルゲームに過ぎないのです。
未だに「ファミコンゲーム」が最も面白い、というレトロゲーマーが存在し、その市場がニッチではあるが存在するのも実態です。
なぜレンタル・中古ショップに行けばいまだにファミコンカセットが普通に並んでいます。
WiiでもPS3でもXBoxでもレトロゲームがシミュレーターで販売され、十分成立しています。
単なる懐古趣味だけではないでしょう。

簡単な操作で奥深い面白さであることが重要です。
面白さは奥深いが、浅くてもきちんと楽しめることももっと重要な事です。
いろんな切り口で楽しく、初心者も上級者も並んで楽しく遊べることが重要でしょう。
Wiiが売れたのはそこだったはずです。

そのことをマリオカートのロケットスタートが証明したのではないのでしょうか。

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2014/06/14

サッカーW杯とNHKとカネと

今日の日テレ「ウェークアップぷらす」でサッカーW杯は賞金が高額であり、その原資は放映権料である、と紹介されていた。
米メジャーリーグでも似たような構造ではあり、日本の放映権料も結構あるらしい。
今回のブラジルでは、日本だけで400億円といい、日本の放送局全部で出している総額ということである。

日本では優勝までの64試合を放送するわけだが、そのうち半分の32試合はNHKが放送することになっている。
肝心の日本の試合も、1試合(明日の試合)はNHKで、2試合目はNHK(BS)と民放、3試合目は民放のみとなっている。つまりこれも半分ということになる。
3試合目はリーグ戦の特性上、良くても悪くても「消化試合」になる可能性があるから低めになり得る。

民放といってもスポーツ専門チャンネルもある。
他国同士で“消化試合”になりそうなところとか「日本人には国名もよくわからないし興味も無い試合」とかもあるわけで、日本の試合をきっちり押さえているNHKは半分以上だろう。
常識的に考えて試合数に比例して応分するだろうから、NHKが出した額は200億円以上というのが常識的な計算となろう。

各民放が苦しむ中で、NHKは良いご身分である。
散々民放が様々な番組で盛り上げておいて、肝心の試合はNHKに持っていかれている。

その原資はもちろん強制的にテレビを持つ国民(所帯)から徴集しているお金である。
200億円というのは、契約が2000万件としても一所帯あたりの負担が1000円という決して僅かとは言えない額である。
さてそもそもNHKの受信料は月額いくらでしたでしょうか。

ここまでの巨額を負担させておいて、初戦はNHK総合という公共性の高いはずの枠でサッカーという娯楽を放送するのである。(しかも明日は深夜ではなく日曜10時からである)
このことに問題がないと果たしていえるのだろうか。

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原発関連文書に「検索対策疑惑」持ち上がる

リンク: 原発関連文書に「検索対策疑惑」持ち上がる 「ロ」を「口」、「力」を「カ」に細工したのか : J-CASTニュース.

私自身もこの手の“事務作業”をすることがあるのでコメントしておく。
どこに問題があるのだろうか、ということである。

そもそもWeb(情報)公開をしたくない?

この記事によれば「東電」が画像ファイルで資料を配付したという。
私にはこの点が気になった。

後々、Webに載せるのが前提であれば、この行為自体が作為不作為はともかくとして「検索文字改竄の誘発」である。
東電の言い訳を先回りして予想するのであれば、「ハンコを押して認証した資料を配付する以上、画像(ハンコを押された文書面)としてスキャンし配布するしかない」というあたりであろう。

このような対策としては、1ページ目(表示含む)にしかハンコが押されないということを鑑みて、1ページ目のみをスキャンし、2ページ目からは書いたテキスト文書をPDF変換した書類とを合成することである。
またテキスト文章をあとから「流し込む」ことも可能である。
PCリテラシーの低い人だと、Wordなりで作った文書を全文印字して、上長に回覧を行い、それの全文書をスキャンしてマスコミ配布に回す、というのが精一杯なのだろう。
もちろん東電はなるべく公開されたくないし、ツールでのやや面倒な操作も必要になるわけで、手間も当然かかるからやらないのだろう。
アップする方も渡された書類をそのままアップするのが一番手間がかからない。

できるはずの技術的に可能な対策

しかしここで「一手間」かければ対策はできる。

一番良いのは情報提出側でテキストデータを含めて(PDF変換したデータ)提供することである。
そのテキストデータを流し込めば最低限のことにはなる。
しかし「黒塗りしたい」ぐらいの気持ちだろう提出側がそうしてくれるとは到底思えない。
そもそもそこの姿勢が問題なのだが。

それができないのならAcrobatにはOCR機能があり、テキスト埋め込みが可能なので、それでテキスト変換をして確認、修正をすることも技術的には可能である。
しかしロと口はともかくとして、力とカの区別を目で見てできるかといえば、それを強く意識していればともかくとして、私も自信がない。
最低限もう一度全文を見直す時間は必要だからとんでもない作業になる。

そこまでしなくても、最低でもそのページの「キーワード」(技術的にはMetaタグのKeyword)にキーワードとして頻出単語を含めることは可能であろう。
これは「ホームページにヒット数向上!」の類のテクニックとしては初歩の初歩として紹介されていることであり、本文にその単語がないのになぜか検索で引っ掛かる、というのはこれのおかげでもある。

検索エンジンでのOCRについて

画像ファイルをそのままアップロードされると、加えて検索エンジン側でOCRされた結果としてご認識されるという問題も指摘されているようだ、
この対策としては検索エンジン側での「辞書登録」という手法があるはずだ。
「原子力」という単語を辞書登録することによって「原子」のあとに続く言葉が「カ(カタカナのか)」ではなくて「力(ちから)」である確率が高いと判断させるのだ。
これは「ストロンチウム」のような言葉ではより適切に働く。
「スト」+「口(漢字の口」+「ンチウム」と判断するかどうかだが、「スト」の部分だけでは難しいが、「ンチウム」という単語は(当然辞書には)ないので辞書にある「ストロンチウム」にマッチングする方が適切であると言う判断だ。(辞書との最大一致、という昔からよく知られている考えだ)

もっとも例えば米国生まれのgoogleにそこまでのインテリジェンスがあるのかは不明だが、OCRの世界では辞書マッチングによる識別精度の向上は当然レベルである。
英語でも単語の辞書での判断は当然の様にやっているはずだ。
英文字は記号や大文字小文字を誤認識する確率は日本語よりも面倒で、その回避は辞書にあるかどうか、接頭語や接尾語なども含めて判断するのは当然だ。
OCRに限らない話で、いわゆる「スペルコレクト」であり、読み取れなかった脱字の可能性含めて修正されることすらある。

google日本語変換などで日本語辞書も溜め込んでいるはずのgoogleにおいてできないことではない。
検索結果で「もしかして」が出るのは辞書との照合である。

システム的な話をここまで並べたが、別に彼らを擁護しているつもりはない。

原子力ムラ自体がそもそも“遅れている”

原子力ムラ関連に多いというのは、それだけ原子力ムラ関連が「ひどく遅れている」ということの証左の一つであろう。
ハンコ主義、現物書類主義、ITリテラシーの遅れ(不足)、情報公開意識の低さ、これらが世間一般の常識からからどんどん離されていっているのである。
(もっとも原子力ムラだけではない。おそらく多くの日本企業、日本の行政機関、特殊法人、マスコミなどは大差ないのかもしれない)

例えば、一般人にとっては、公開されたある書類(文章)がどれだけ確からしいか、は、もはやその文章に責任者や担当のハンコが押されているかどうかなんかどうでもいいレベルまで落ちている。
そのURLがどこのものか、のほうがよっぽど重要なことである。
HTMLで直接打ち込まれている数字や文字であっても、その数値や文章へ責任はそれを作成した会社や団体、役所などにある。
その認証はどこにあるのか、といえば、公開するという操作をした人が認証したということになる筈である。
著作権も生じている一方で、文責も当然生じているのである。

法的にどうであるか、はまた別の問題ではある。
しかし法的問題と一般人の意識のかい離もまた、時代が変わると起きるのは当然のことでもある。

情報公開とはなんだろうか

一般サービスでは「アップロード=公開」という仕組みではあるが、別に担当がアップロードした時点ではまだ公開とはならず、上長の認証手続きで公開とするこ仕組みを作ることは容易である。

ブログなどでも「下書き」はアップロードはするが非公開であり、「公開する」で初めて公開状態になるのも似たようなものである。

そういう意識が拡がっている一方で、ハンコを押された文書を限定的(マスコミ等)に紙ベースで配布し(情報公開も紙だけ)、それを各記者が原稿に転記して一般国民に公開をする。
それを当然と思っているのでは、ということが問題の本質だと思う。

原発が始まった40年前ならそういう時代だったかもしれないが、今は違う。

生の情報(資料)を広く一般に広め、広く国民に了解して貰い、ものごとを進めることが必要なのだ。
現実として昔は無理だったが、今はそれができる環境がどんどん一般化していっている。
どんなにカネがなくても(新聞はとらず、テレビがなくても)、スマホは買っている(ネット環境は持っている)人が増えているのが現実なのだから。

Webでの情報公開はそもそも難しいのも事実

文書というのは検索エンジンで探すものでは無くて、玄関(トップページ)から入って見ていくべきである、という意識を持つサイトの管理者も少なくないだろう。
検索エンジンでかからないからといって問題視するのも私には100%は肯定できない。

少し前だが、“直リン”でURL(URI)が拡がったある文書が、サイトのアドレス(フォルダ)の移動によって見れなくなった=隠しではないか、という騒動があった。
拡がったから動かしてしまえ、だったのか、本当にたまたまサイトの改造を行っていたのかは分からない。
“直リン”は示すべきではないというのはインターネットでのある程度のマナーである、ということも言われている(いた?)のも事実である。

データをデータベースで持っておき、番号などのタグによってプログラムでページを生成して表示させているタイプのサイトも少なくない。
というかむしろホームページに力を入れている、ショッピング系などではむしろ普通である。
そういうところではプログラムのちょっとした変更で“直リン”が無効化するのは不思議なことでも何でも無い。
故意に変えようとは別にしないだろうが、もともとそのタグに意味づけは浅いので担当も気づかないで変えてしまっていることもあろう。

検索エンジンにあるが、サイトがない、という問題もこれが関係していることもある。

アクセシビリティ

話を進めればアクセシビリティの問題でもある。
Wikipediaの言葉では「高齢者・障害者を含む誰もが、さまざまな製品や建物やサービスなどを支障なく利用できるかどうか、あるいはその度合いをいう。」
ここの話では、そういうWebサイトなどのモノを作るべき、という考え方である。

元々の話で言えば「原子力やストロンチウムに関する情報」を欲した時に、そこに辿り着けるかということである。
基本的にはトップページからの深さや見やすさ、分類の妥当さ等も考慮されるのは当然であり、検索エンジンも含めた対応も求められる。
例えば結果として誤った検索キーワードになっていてそれが意図していないとしたらそれは論外である。
最近は「不作為」も問題になるが、それに類する問題であるとも言える。

一般にはそもそもPDFでWeb公開するという時点でレベルが低いと見なされる。
画像はさらにレベルが低くなる。
なぜかといえば障碍者には弱視や視力のない方も含まれ、対応としてブラウザ等による“読み上げ”がなされるからである。

もちろん多くの人にとっては画像の方が“一目で分かる”という利点もある。
読み上げのためには画像は単なる補助的な意味合いにして本文で説明しているとか、それをHTMLタグに埋め込んでいれば良いとされている。
画像タグには、その説明のための属性が用意されている。

PDFではそれが画像であっても、対応するテキストを埋め込む機能がある。
そもそもPDFはテキスト(docでもxlsでも普通に変換すれば、そのテキスト自体も含まれている。

編集不可にしているから、ということも記事では言及されていたが、それも変な話である。
改竄防止は別の話だし、そもそもPDFにもアクセシビリティという考えが存在する。
この顛末で問題となった「紙の書面を単にスキャンして掲載した」という一連の“作業”は、これらの配慮からは程遠いものである、ということである。

これらはなかなか評価されないし、評価が難しいこともある。
「どこまでやってもキリが無い」のも事実だし、これで遅れれば遅れたで文句を言われる。
しかしこれらは「(いわゆる)社会的弱者への配慮」であり、そういう人達を日頃からどこまで意識しているのか、という問題でもある。

これらは多かれ少なかれ、普通の企業・会社でもあることだし、一概に原発ムラだからとか隠蔽体質とかそういう言葉だけで括ってはいけないという面もある。
だからこそ「単なるミス」とかで括って欲しくはないのだ。

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2014/06/09

「成果で評価される働き方」「目標達成度に応じた報酬」とはなにか

リンク: 「残業代ゼロ」案、安倍首相が押し切る 「岩盤規制」に風穴、厚労省も「ゼロ回答」はできなかった : J-CASTニュース.

またも浮上させて今度は強引に押し切ろうという成果報酬制度のごり押し。

もともとが別に政府が決めなくても企業がきちんとやればできている給与体系なのに、それを政府がごり押ししようとしている構図にしか見えない。

そもそも先進諸国でも「成果の評価」については非常に難しい問題をはらんでいる。
だからこそ「ホワイトカラー・エグゼンプション」といって、社内でも力のある社員に向けて実施されているもののはずだ。

「成果で評価される」というと一見平等でかつ本来正しいやり方のように見えるが、とんでもない。
そもそも一般社員の通常の業務で「成果」自体が極めて曖昧である。
なぜなら業務自体の難易度やかかる時間、スキルなどを測ることが困難だからだ。

この点で言えばホワイトカラーよりもブルーカラーの方が「成果評価制度」に適している。
例えばAという機種を一時間で何台組み立てられるか、という指標で給与を決めればそれは公平だからだ。
同じモノをAさんの方がたくさん組み立てられればAさんが優秀なのは自明だからだ。
もちろんたまたまAさんの得意な工程が多いとしたらば、機種を増やして平均化すれば良いだけのことだ。
そしてたくさん組み立てられるAさんが給料が高くても誰も文句は言うまい。

同様に営業職でどれだけ売上をあげられるか、でも同じところはあるだろう。
しかし営業職で言えば、「よく売れる地域」と「そうでもない地域」での不公平が生じる可能性もある。
そうするとローテーションという考えが出てくるが、「つきあい」が重要な営業職でローテーションをすると会社全体としてはマイナスになってしまうのは明白だ。

殆どの企業の収入減は、「お客さん」だからお客さんに近い業種ほど「成果」は分かりやすいが、間接部門になればなるほど業務に対する「成果」の評価は難しくなる。
同じ仕事であり、前任者と後任者で比較できるとしたらそれは可能だろう。
しかしそんなことは滅多にあることではない。

クリエイティブな仕事であり、新規開拓的な仕事ほど「成果」はあげにくくなるのは当然である。
リスクがあればあるほどに、リターンがあればともかく、(自分・自部門にとっては)無い場合にはそれに注力することはしなくなる。
景気が悪くなればどんなにがんばっても成果は上がらない。
為替レートの影響も昨今はどの業種も強く受ける。そういうものに振り回されてしまっては社員としてはやってられない。

そもそも「悪い時もさほど報酬を下げない」というのは「良い時もさほど報酬を上げない」ということとセットである。
良い時にあげなかったくせに悪くなったら下げるというのでは話が合わないのである。

目標達成度という観点で言えば、そもそも「目標」設定が公平かどうかが問題となる。
目標が適切かどうかなんて誰が判断するのだろうか。
専門性の高い仕事ほど、その目標が適切かどうかなんて他の人が判断できない。
それをできるひとが上司になっているなんて思っているのだろうか。

成果評価制度なんかもう何十年も前からどの企業もやっている。
しかしそれに失敗して過度の成果評価は断念したり、大幅修正をしている企業が実に多いことは知られている。
なのにその失敗したやり方を持ち出して、報酬(給与)を変えようなどと言うのは全く理解ができない。

シビアで社員が(つまり子供の頃から社会人として)よく教育されている米国ですら(特に製造業では)反省しているのである。

むしろ日本の「家族経営」や「終身雇用」の良いところを吸収して過度な評価重視主義を見直している会社が成功しているのである。
リーマンショックの根本的要因は「自分(達)さえ業績が上がれば良い」という、必然的に最終的には破綻する融資制度を“開発”したことである。

つまりはこんなことは「新しいこと」ではなくて日本でもとっくの昔から失敗続きとなっていて出口が見つからず、ずっともがき続けてきたことなのである。
それをもって「岩盤規制」と表現して「打破」とは全く理解に苦しむ。

どうしてもというのなら、国会議員や内閣の仕事を「成果で評価される働き方」や「目標達成度に応じた報酬」にしてみれば良い。
正に「先ず隗より始めよ」である。少なくとも想像してみれば良い。
当然だが「目標」は年度初めに立ててロードマップを雇い主である国民に示すことは最低限の事である。
言葉では良い響きだが、それがどんなに難しいことかが分かるだろう。

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2014/06/08

「明雄さん」ご冥福をお祈りいたします

84年の人生を全うした「明雄さん」 DASH村を支えたのはその開拓者魂だった! : J-CASTニュース.

元々「鉄腕DASH」は好きな番組だったが欠かさずぐらいの気持ちで見るようになったのはもう10年以上も前に始まった「DASH村」企画だったろう。
この企画がないと「つまんない」と思うことすらあった。
「買う」のがいまや田舎でも普通の感覚に反して、なんでも「作る」のがDASH村の流儀だった。
真の農村の姿に比べれば「甘ちゃん」だし「いいとこ取り」の番組であると分かっていても、村を開拓していく姿を見るのはとても心地よく、楽しかった。
その中で、農業指導者という立場であり、「いいお爺ちゃん」だった明雄さんの存在はとても大きかった。
自分に欠けているモノを埋めてくれているようなそんな気持ちだったのかもしれない。

DASH村が企画が今ないのは福島原発の事故の結果である。
いくつかの放送の中や気候から福島か岩手あたりだろうというのは薄々気がついていたが、まさか本当に福島で、しかも海からかなり離れているはず(これも放送では分かっていた)の村に影響があるとは思ってはいなかった。
その後、原発からかなり離れているはずの浪江という地域にまで強い汚染が拡がっていると報道された。
しばらくしてDASH村が浪江にあり、強い汚染に見舞われたと番組で公表された時の驚きと落胆は大きかった。

明雄さん自身も単に近くの農村の人だから当然ながら避難対象者となってしまった。
そのことがとても悲しかった。
上記のリンク先の下の方に本の紹介があるが、私もそれを買って読んでいた。(ちなみに2004年刊。もう10年も経っているのか)
記事にもあるが、明雄さんのご両親が浪江に入って開拓民として土地を切り開いた。
明雄さん自身もそれを手伝い、その時の経験がDASH村の開拓に繋がっているという。
その土地を離れなければならなくなったことになり、その無念さを考えるとやるせない。
それでもと思っていたが、結局、浪江に戻れないまま亡くなられてしまった。

当り前だが、明雄さんだけではない。こういう方々は決して少なくないはずだ。
むしろ何千人、何万人という人がおそらくは似たような境遇なのだと思う。
中には絶望してしまわれ自殺されてしまった方もおられるのだろう。
御高齢の自殺者が多いということには心が締め付けられる思いがする。
明雄さんは番組の中で避難自体もそうだが「農作業ができなくなったのがつらい」ということもこぼしており、番組でもそれを拾って放送していたと思う。
それでもその後、小さいながら畑で色々作っていた姿をみては少し安堵したりした。
出張DASH村として各地の農家を回った時にはしゃいでいた姿を見ては、まだまだお元気でなにより、というのは不遜だろうか、なんというかほっとした感じすら抱いていた。

(なんかこみあげてきてうまく言葉が出てこないので半端ですがとめておきます。。。)

本当に残念で悲しいです。
心よりお悔やみ申し上げます。

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児童ポルノ禁止法改正可決に際して

法文自体の問題について

リンク: 児童ポルノ禁止法改正案 法案要綱(全文)|弁護士ドットコムトピックス.
いわゆる「非実在青少年」は除外された。
ただしこれもネットでも指摘されていた恣意的な判断になる条文は残ったようだ。

第三 いわゆる三号ポルノの定義の明確化

  いわゆる三号ポルノの定義を「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって、殊更に児童の性的な部位(性器等若しくはその周辺部、臀(でん)部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり、かつ、性欲を興奮させ又は刺激するもの」に改めること。(第二条第三項第三号関係)

「かつ」という縛りがかかっているのでかなり限定的にはなっている。
ただし「かつ」の前の文もかなり範囲は広い。
「衣服の全部または一部を着けない」という表現は制限とならないのは誰でも理解できるだろう。
例えばコートを脱いだだけで「一部を着けていない」に相当する。
(これはもちろん「常識的な判断」の話をしているのではなく、あくまで表現で規定される話をしているのでその点は勘違いしないように)
手袋もそうだし、肌着というのならば靴下を脱いだりマフラーを外しただけでもこれに相当しえる。
ただし「殊更に」という表現があるのでさらに限定条件は続いている。
それに続く「露出され又は強調されている」はOR条件である。
露出されていなくとも胸部が“強調されていれ”ば該当となる。
つまりコートを脱いで胸部が強調されるようなスーツの類ですら露出していなくとも該当となるわけだ。

そして最後が「性欲を興奮させ又は刺激するもの」という極めて曖昧かつ個人的で恣意的な表現になってしまっている。

この法律の良い悪いではなくて、法文として問題があるのではというのはこういうところにある。

法案賛成の人はこの種の指摘をすると「法案自体の意義や有意性」について語り出すから話がかみ合わなくなる。
これはある意味テクニカルな問題である。

この件に限らずこの手の本案の弁明に関して国会議員ですら「そういう意図ではないから」という弁明をするヒトがいて驚く。
秘密保護法案の時もそうであった。
隙の無い、つまり誰が見ても(解釈しても)同じで恣意の入りにくい法案にすることは非常に重要なのである。
せっかくよかれと考えて作った法律が意図しないところで“悪用”されてはダメだし残念ではないのか。
そういう認識が不足しているのは立法府の一員たる国会議員の資質として極めて問題視せざるを得ない。

マンガ・アニメはさすがに除外された

「漫画・アニメ除外は世論の勝利」 児童ポルノ禁止法改正案について山田議員に聞く|弁護士ドットコムトピックス
ただでさえこのような“不安定”な法案である。
これにマンガ・アニメのような定義しにくい表現のあり、なおかつ理解の浅いであろう作品に対して適用しようとしたから無茶苦茶な法案になってしまったのだろう。
そのことについては理解はできる。
そして無茶苦茶であることをさすがにそれを認めてくれたのだろう。
国会議員諸氏もそこまでバカではなかったということに若干の安堵をした。
おそらく多大な貢献をしただろうみんなの党の山田太郎議員や協力をされた方々には賛辞を示したい。

マンガアニメは適用で小説は除外も妙な話

マンガアニメは適用で小説は除外だというのもおかしいという話になったのだろう。
与党副総裁である麻生氏でさえも「マンガアニメは子供が見るが小説は子供は見ない」という認識を持っているという。

私個人的な経験でも「それはないだろう」と思う。
実は私はマンガやアニメは子供時代はさほど見ていなかったのだ。
子供時代は文字の書いてある本が大好きで図書室・図書館の本を読み尽くす勢いで読んでいた。(貧乏だったので書籍自体を殆ど買えなかったのだ)
当然マンガなど置いていなかったし今はともかく昔のマンガは“浅い”ものが多かったので子供心でも「クダラナイ」と思っていたのだ。(まあ一種の中二病も入っていたかもしれない)
むしろ社会人となりお金はあるが日常的・社会的に疲れたり細かい文字を見るのが嫌になった大人になってからのほうがマンガやアニメを見る比重が強くなったと思える。
そもそもマンガ雑誌や単行本などは子供のこづかいでそうそう買えるものでは無いのだ。
ましてやアニメDVD(BD)は価格として子供の買えるものですら無い。
マンガ喫茶などに入り浸るのも少年ではなくむしろ青年である。

あるとすれば親の世代がマンガ世代で持っているとかである。
当然ながら親が“子供の教育に良くない”マンガを目につくようなところに放置するわけもなく、それなりに“むしろ読ませたい”マンガを置くのは当然である。

今で言えばむしろ「ライトノベル」などが盛んだし、さらにややこしい。
小説のマンガ化、アニメ化は珍しいことでは無い。
マンガ・アニメはダメなのに原作で同じコトを表現をしている小説はOK(しかも表現は小説の方がドギツイ)だとしたら全く整合性がとれないことになる。(そして小説の方がドギツイのは珍しいことでもない)

どちらにしろ文字か絵かの表現の違いで(更にいえば声だけの表現もある)有罪無罪が別れるというのはおかしな話である。

そもそもポルノと呼称して論議する違和感

山田太郎氏も言っているように、「ポルノ」という呼称、ましてや法案名で論議すること自体への違和感が私にもある。
ポルノグラフィ - Wikipediaにあるようにいわゆるポルノ、ポルノグラフィは単に映像等の「作品」の一ジャンルを示している。
そもそも「性的興奮を引き起こすモノ」自体に違法性があるわけではない。
問題なのはそれが「虐待」等を引き起こすことである、ということであり、それは法案の中にすらうたっていることである。
この法案で論議しているのは性的虐待を招く写真、また性的虐待の結果としてのもの等を示しているわけで、およそ「作品」とはいえない単に「わいせつ」なものである。

法案の呼称自体が「ポルノ」と「わいせつ物」を混同しているといえるし、「作品」を真摯に作っている方々への冒涜とすらいえるのではないか。
そもそも「ポルノグラフィ」はきちんと作品として認められるものであり、適法であるものだ。
国会議員であり、小説家としても有名な石原慎太郎氏の著作にも「ポルノグラフィ」作品はあることは有名な話である。
違法なものは「わいせつ」と言われている。
この線引きはWikipedaiにも書いてあるように法廷で争われるような昔からの微妙な問題である。

この法案は「ポルノ」という言葉を違法として誤用・誤解させようとしているのではないか、という疑念すら感じてしまう。
法文の中でも「児童ポルノ」という単語を連呼している。
日本語は正しく使わなければならないのに、こんな根本的なところから間違っているのが問題では無いのか。

混同して論議することへの危惧

「性的搾取又は性的虐待」ましてや「児童に対する」を強化するのは当然のことであり、世界的・先進諸国の中では法体系のレベルが遅れているのは事実だ。
きちんと犯罪に対する抑制を強化し、防止するのは当然のことであり全く異論は無い。

しかしそれを「ポルノグラフィ」と混同させたり、ましては先進諸国でも例のない「非実在青年(児童や未成年)」までも曖昧・混同させたまま法律にしようというのはどう考えても間違っている。
そのことが本旨をぼやけさせたり、冤罪や余罪への適用、社会(芸術や創作活動等)の萎縮を招くような副作用があっては法律として問題である。

法律の附則にあるようにまだ改正の余地があるとしている法律である。
まだまだ予断を許さない状況ではある。

もしアニメやコミック、小説等の作品が目に余る状態であり、制限をかけようと考える(ポルノかわいせつとみなされる作品か)を定義し論議するのなら別の法律ですべきコトであろう。
この点も山田太郎議員が言う通りだと思う。

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2014/06/07

大飯原発裁判関連:BS朝日「激論クロスファイア」

大飯原発裁判を受けての題目でBS朝日「激論クロスファイア」が放送された。
その中でいくつかの話題をピックアップしておく。

政府総理からして勘違い(意図的かもしれないが)している規制委員会が許可すれば、つまり「技術的な問題」だけ解決すれば原発再稼働等という論理は全く許されないということを改めて感じた。

原子力規制委員会の人事交代

自民党副幹事長である河野太郎氏が発言したことである。
この人事はだれが変えるといったのか、だれが決めていったのか、出所が分からないそうである。
幹事長の石破氏も分からない。総務会やらもだれも知らない。
政府の誰かかもしれないがそれもわからない。

問題なのは誰が決まったかよりも、そういうところが不透明なまま「なんとなく」文書として流れて結果として国会にかけられたということである。
もちろん幹事長室に確認は来たようであるが、その時に「この時期(再稼働を急ぎたい空気があるところ)に、しかもこの人選(原子力ムラの重鎮を起用)は、いかがなものか」という意見が複数の副幹事長(これは河野太郎氏自身も含むのだろう)からわきおこったそうである。
「いかがなものか」は石破氏の言葉かもしれない。
しかし否定的な意見にも関わらず、無視された形なので元々あまり意味の無い確認なのだろう。

こういう空気で無責任に決まるのが「原子力規制委員会の人事」である。
信用・信頼されるわけがない。
もちろんそうなってしまうのが問題である、というのも河野太郎氏も問題視している。
さらにそういうのがおおかたにおいて問題視されないのが問題であり、原発の安全性に関する問題の一つである。

国会原子力委員会

これは河野太郎氏の“ぼやき”だが国会の原子力委員会から河野太郎氏が外されているという。
自民党、いや国会議員の中でもエネルギー問題、原子力問題には非常に詳しいことは知られており、私も良識を持っていると思っている彼が選ばれていないというのは驚きですらある。

当人も「てっきり選ばれるものだと思っていた」と語り、憤懣やるせない様子だ。
問題なのは自分が入っていないことを知った時点で「だれが決めたのか」あちこちに聞いて回ったところ、あちこちをたらい回しにされて結局分からずじまいだったそうである。
ここで問題なのは「誰が選定したか」については不明確・不透明な状態でこういう委員会の人選が決まるということである。
“たらい回し”にあい、おそらく“一周”したのだろう。
ここにも問題があり、つまりは「誰かがウソをついた」ということである。

これは原子力ムラの問題と言うよりは自民党・政府の問題なのだろう。
しかしながらまたこういう不透明な体制の中で稼働再開が進められると言うことは当然不安が生じても当然であろう。

彼は「原発再稼働の前提として賠償体制はしっかり作るべきだ」等の正論が多く、しかしそれをやると(もちろんそれは原発が本来負うべきコストなのだが)発電コストが跳ね上がる提言が多く、また副幹事長故に無視できないことから外したのだろうというのは当然思いつく推測である。

リスクゼロはあり得ない

「どんなものでもリスクゼロはあり得ない。」
最近原発推進論者はこういって再稼働しないのは理性的でない、合理的でないという。
この番組で出ていた学者さんもそう語っていた。

私もそう思う。

だからこそ今の状況で再稼働してはいけないのだ。
どんな事故でも起こしたら回復しなくてはいけない。
事故対応の基本は原状回復だ。
起こした事故を回復するのは当然なのに三年以上もまだ十万人単位で原状回復できていない。
土地ももちろん莫大な面積が原状回復できていない。
風評被害の意味で言えば福島県全土であり、周辺県もであり、日本単位ですら被害を受けた。
それは事故自体の問題では無く単純に「カネ」がないことである。
この事故で東電は破綻して税金注入が行われている。
補償も税金が投入されている(あとで東電から償還させるそうだが)

当然だが、こういうことが次に同程度の事故が起きた場合に、また同じ事を繰り返すのが問題なのだ。
体制を作らないのままなら、東電は論外だし、少なくとも東電より財政規模の小さい電力会社がもつわけがない。

ここで「事故が起きないようにするから」云々にすり替えようとする人がいるがその議論は意味が無い。
確率がゼロでないのなら、起きたと想定した場合にどうなるのか、どう対応できるのかを議論することが必要であり、それを否定するのならばそれは正に「安全神話」を繰り返すことに他ならない。

もちろん確率が低ければ低いほど、対応の具体的手法が変わってくる。
ヒトモノカネをどうするのかをきちんと論議せずに再稼働はあり得ないだろう。

原発が他の事故と大きく違うのはその原状回復コストが莫大であることである。
仮に同規模の火力発電所が同規模の爆発を起こしたとしても原発事故に比べればはるかにコストは低い。
直接なにかモノが直撃するような距離はごく限られるし仮に燃料タンクなどが大炎上しても延焼したとしてもどんなに酷く見積もっても鎮火までに一ヶ月には及ばないだろう。
どう考えても数兆円いくとは思えない。だから議論をする必要性は低い。

しかし原発は事故時のコストが会社が破綻するほどのインパクトがあるからこそ、論議をする必要があるのだ。

いわゆる「吉田調書」隠匿問題

この番組でも少しだけだが取り上げられ、意外とマスコミで騒がれない重要文書の問題である。

いうまでもない福島原発の所長である吉田所長が存命中に書いた「事故調書」である。
マスコミにすっぱ抜かれるまで存在すら隠し、現在も政府が隠し続けているもの(もっと柔らかく言えば非公開文書)である。
噂では“犯人捜し”が行われているそうである。ひどいものだ。
吉田氏は当事者どころか現場のトップであり、彼の人となりが知られるに従って信用に足りる人であると言われることは多いだろう。
事故後何ヶ月も経ってから調査されたものよりも、現場で事故前からずっといる人の目から見えたものははるかに重要な意味があるのはいうまでもない。
そういうものを隠し続けて一方で信用を得ようという方がどうかしている。

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