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2014/01/26

「フォアグラ弁当」発売中止顛末はただの弱いものいじめ

リンク: ファミマ「フォアグラ弁当」発売中止で論議 ホリエモンも参戦、抗議は行き過ぎなのか : J-CASTニュース.

これを是とするのならばフォアグラを扱う業者やレストラン(当然有名有力レストランほど使っているだろう)、国内での発売禁止(輸入禁止)という国へのの働きかけ、等々をやるのが王道である。
一番重要なのはいうまでもなく生産業者や業界への圧力とその飼育方法の是正要求である。

こういった「強いもの」を責めずに、消費の末端とも言えるファミリーマートに対してクレームをつけて発売中止に追い込んだのはただの「弱いものいじめ」であると言わざるを得ない。

当り前だが国内販売禁止とすればこのような弁当の製造もできない。根本的には国に働きかけての禁輸である。
だいたい「フォアグラ添え」であるしコンビニ弁当の値段なんだから僅かな量であろう。
桁違いに量を使う「フォアグラソテー」などを提供する高級レストラン等を攻撃すべきである。
押さえるところが全くのお門違いではないのか。

個人的にはフォアグラは美味しいとも思えないしそんな食文化は元々日本にはないので禁止されてもどうでもいいのだが、このような行動に対しては憤りを禁じ得ない。

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2014/01/25

東京都知事選挙と原発問題と(2)

細川氏の言葉がようやくマスコミにあがってきたがまったくがっかりである。
公開討論からも逃げたりとこれもがっかりである。
マスコミも是が非でも公開討論は設定して実施していただきたいものである。
仮に出てこなければ「敵前逃亡」とすれば良いだけの話で、それを抜きにして討論は実施すべきではないのか。
もちろん事前に予定は全日確認し公開した上で本当に逃げたのかどうかは都民に判断させるのはいうまでもない。
だいたい東京都知事選は東京都内に選挙事務所があって東京都内を巡るだけなのだから東京都内で行う会に出られないというのはおかしな話だ。

論理的にいって東京都知事が国策として口を出して原発ゼロなどは言うことはできない。
では東京都と何ができるのかを具体的に言うべきである。(論点とすべきである)
そういう意味で下のリンクの論はなかなか面白い。

リンク: 高橋洋一の自民党ウォッチ 都知事選で「都が原発買い取り」議論せよ 「脱原発」への現実的な道筋が見えてくる : J-CASTニュース.

要するに東京都が原発を買い取って廃炉にしてしまえということだ。
自分の持ち物ならどうとでもできる。
ただ買取だけではだめで廃炉処理もしないといけないのでもっと価格は上がってしまう面はある。
結構な額なので現実味や買取価格調整は難しいが、一方で東京都ができることとして直接的であり、仕組みとしては現実味があると言える面がある。
もちろん都民の高額負担は避けられないが、だからこそ知事選の争点として意思を問うという考えは間違ってはいないだろう。

「東京都」「買取」というと尖閣諸島の東京都の買取を思い出さないだろうか。
あれは寄付金も募って買取に動いた。
寄付打ち切り(国が動いたのを受けて止めたので少なめにでているだろう)までに5万人以上で総額14億円を超えている。
これだけの人が国境の島の東京都買取に真剣に意思を示したと言える。

同様に都の原発買取の意思表明とともに寄付も募れば、日本国民の原発反対者がどれだけいてどれだけ本気であるかが見えてくるかもしれない。
もちろん都民への全体的な負担も減ることになる。

ついでに看過できない関連記事があったので書いておく
リンク: 「原発に触れないで」放送局が要請 ピーター・バラカン氏の衝撃の生告白がネットで反響 : J-CASTニュース.
自民党は原発問題はやっと沈静化してきたのに都知事選で盛り上がってきているのを快く思っていないようだ。
自民党幹事長はじめ諸議員も稚拙な言い訳で否定をすることが目につく。
もちろん官僚も同じだろう。

いうまでもないが、未だに事故原因は解明されていないし公式見解も当然出ていない。
「規制委員会の安全基準を満たしていれば再開」といっているがそれで安全を確保できるのかという議論も未熟に過ぎる。
当り前だが規制委員会の安全基準など最低限で技術的側面の一部を規定しているに過ぎない。
それすらも不十分だという声もあるし、私もそう思っている。
もともと安全基準は安全確保をするための技術的最低基準であることが普通だ。
満たしていなければ論外であり動かすなど持ってのほか(商品なら出荷できない)というものにすぎない。
例えば自動車なら車検があるが、その車が実際に安全か否かは関係なく基準を満たしていることを確認できなければ車検合格はもらえず、期限切れのまま動かしたらアウトだ。
しかしそれでも使われれば現実には事故や不具合が発生するのだ。

また、例えば新潟県知事などが言う避難指針や計画や被害公開情報の話がある。
福島でのSPEEDYの反省や今後の指針がちゃんとなされたのか。
少なくともマスコミを通しての表明では皆無ではないのか。
例えば再度被害が拡散した場合の補償体制をどうするのか。
また電力会社を破綻か破綻寸前に追い込むのか。
金がなくて避難民が補償が遅れまくる状態をまた繰り返すつもりなのか。

これらは一部にすぎず福島の事故で得たはずの課題など山積であるはずだ。
それなのにまた「事故は起らない」という前提のまま進んでいる。
このことが問題であると言う自覚が無いのか、目をつぶっているのか、どうでもいいと思っているのか知らないが、再稼働の条件などずっと先にあると言わざるを得ない。

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2014/01/19

東京都知事選挙と原発問題と

細川氏の原発廃止を唱えての争点化は現時点では疑問である。

小泉氏が壇上で「原発廃止は政治家が言って、やるのは官僚や業界」ということは私は無責任だとは思わない。
所詮は政治家はその程度だし、組織的に上司はポリシーだけ言って実行するのはその下の(役職の)人間である。
別に原発が特別な話ではない。
逆にポリシーを決めて言うのは最上位の役職の役割で、国政なら国会議員であり、与党であり、さらにトップの首相であろう。

しかし東京都政となると話は別であり、やるのなら具体的なビジョンの提言は必須であろう。

“原発廃止”を訴えるのならばその政策の筋は2つ考えられる。
「代替えエネルギーの推進」「省エネ(消費電力削減)」ではないだろうか。

前者なら太陽電池発電やコジェネレーション、ガスの直接利用、マイクロ水力等、総合してスマートグリッドタウンの少なくとも実験、推進、投資等々が考えられる。
例えば東京都だけでも一割に持って行ければ大きな模範になるし、二割に持って行ければ代替えと言っても良いレベルであろう。
初期投資がかかる案件が多いからこそ東京都という公が関与することは大きい。
その代わり維持費は少ないのがいわゆる再生可能エネルギー・持続可能エネルギーと言われる類の長所であり、本来的にも公が大きく関与すべき案件である。

後者は照明・空調施設の省エネ化、要するに刷新の振興である。
断熱住宅・ビル・設備の振興も含まれる。
これは単に省エネではなく東京都で強く見られるヒートアイランド現象の軽減にも繋がる。
しかし会社にとっては投資であり家庭にとっては大規模出費である。
普及振興のためにどう手当てしていくか、公共施設であれば都が直接関与していく考えもある。
もちろんこれからオリンピックに向けて建物の建設や立て替えが行われるだろうからそこは相乗効果もある。
なによりも東京都は人口が多い、つまり世帯や企業が多いだけに総量効果が高い。
新しく発展する町もあれば古い町が同居する地域でもある。
いまだに白熱電球を使っているような町工場や古い家屋だってある。
もう何十年も前のエアコンをいまだに使っているところだって珍しくない。
エネルギー的には効率の悪いところはいくらでもあるのだ。
そしてそれを刷新できれば本当はエネルギーコスト、要は毎月の出費を抑えられるのだがまとまった金がないからできないというところだってたくさんあろう。
そこを援助して動かせればかなり変わってくるのではないのか。

こういったあたりまで踏み込んでの“原発ゼロ”論争であり、都知事選挙の焦点化であれば異論は無いが、単なるイデオロギーとしての原発ゼロならば私はさっさとやめて欲しいとさえ思う。

言い換えれば“原発ゼロ”はマスコミ受けのするカンバンで、実態は“省エネ・スマートシティ東京”を目指すのだ、とするならば非常に良いことだと思うのである。

果たしてそういうまっとうな議論にまで話がいくのかいかないのか。
その点では興味のある選挙であると言える。

それにしてもマスコミや政治周辺の論調にも変なものは多い。
元首相だったかの「脱原発ならオリンピック返上」論は全く意味が分からない。
マスコミもその部分だけで真意を伝えないので知るよしもない。

「東京が脱原発なら発電所地元は黙っていない」という論もあるが、東京電力の原発所在地は福島と新潟である。
福島第一の再開はない。既に全て廃炉を決めている、
しかも稼働可能な設備の廃炉を決めた時も「当り前だろ」の空気しかなかったのではないか。
新潟県も県知事の日頃の発言はどうみても相当の慎重派であり、東電に強い不信を持っている。
地元柏崎市長ですら微妙な発言であり、それが地元感情を表現しているということだろう。
発電所近辺は再開希望であり、遠ければリスクの比率が高くなっていくので反対感情が高まるのは至極当然である。
今回の事故で変わったのは隣市にすら重大な被害が及ぶのが現実であるのを感じたことだろう。
新潟県も神戸よりも最近に大地震を経験し、当然ながら柏崎発電所にも緊張は走った。
ほぼなにもなかったのは幸運だったと思っている人だって少なくなかろう。
そして被害者が現実に新潟県にも多数避難して生活しているというのもリアルに感じる要因の1つであろう。それが自分だったかもしれないのだ。
そしてなにしろ福島県と新潟県は隣県同士なのだ。
「黙っていない」ような言い方はどうみても疑問である。

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2014/01/18

家電・薄型テレビ市場の2014年

リンク: 家電・薄型テレビ市場の2014年を占う(2) ソチ冬季五輪やサッカーW杯ブラジル大会で、薄型テレビは売れるのか? GfKジャパン・山形雄策さんに聞く (2/2) : J-CASTニュース.

この話の前半の「冬季五輪やサッカーより消費税の方が影響がある」というのは全く同感である。
しかしながら後半の話はちょっと違う。

習慣というのは消費者ではなくメーカーや放送側の話では?

山形 たとえば、現在はテレビでインターネットの動画を見るということが多くの人にとって習慣になっていな いのではないでしょうか。地上波やBS、CSとチャンネルこそ違いますが、テレビは放送されている番組(コンテンツ)を見るモノとして定着していて、他の コンテンツを見るという発想そのものがありません。

問題なのはむしろテレビを作っているメーカーであり、それを縛っている放送業界(代表団体)ではなかろうか。
パナソニックのスマートテレビ騒動で露見したが、「電源を入れたらテレビ放送画面がでなくてはいけない」「テレビ画面を全画面で出さなければならない」という訳の分からない縛りがある。
メーカーがもっと自由に作りたいと思ってもこういうクダラナイ縛りをかけて発想を阻害しているのだ。
中国や米国ではもちろんこんなことはなく、中国ではAndroidテレビが当り前になりそうだ。
米国ではもともと電波放送業界の力が弱く、相対的にケーブルテレビやインターネットテレビの力が強いので、むしろネット放送を簡単に見られるプラグインをいれてもらうほうが得策と考えている。(正確に言えば強いのは「コンテンツホルダー」で「配信業者」ではないということだ)
リモコンにそのサービスのワンタッチボタンをメーカーにつけてもらう(当然インセンティブを払っているからメーカーもやるのだろう)ぐらいの気の入れ方である。

YouTubeもテレビメーカーの責任は大きいのでは?

   実際に、そうやって長年テレビを見てきたのですから、仕方がないことではありますが、たとえば、これまでYouTubeの動画をパソコンで見 ていた人が、最近はスマートフォンで見ているように、なぜ大画面テレビでYouTubeの動画を見ないのでしょう。それはおそらく、単純に習慣がないから です。

私はこれにも異論を感じざるを得ない。
うちのテレビでは買った当時はYouTubeを見られる機能があったのだが、今はもう見られない。
どうやらYouTubeXLというサービスがあってYouTube側がそのサービスをやめたことが要因のようである。
テレビ自体はまだ買って2年程度しか経っていないはずなのだがこの体たらくである。
「要は金の問題」という側面もあろうしメーカー(業界団体)側もそのサービスを維持しようと思わなかったのだろうか。
当り前だが、例えば5年前に買ったスマートフォンやタブレット、もちろんパソコンでもYouTubeが見られなくなると言うことは無い。
習慣がないというのはあるのかもしれないが、せっかくそういう習慣が芽生えた(のかもしれない)ところで自ら冷や水をぶっかけたのである。
「ああ、テレビなんかこんなものか」と思われても仕方が無い。
そしてそのテレビは決して安物ではなく、(ネット機能があるのは)むしろ高級モデルである。
もちろんサービス利用が少ないという判断もあったのではと思われるが、一部高級機種しか搭載しておらず、しかもたった数年でやめるというのには疑問を感じざるを得ない。

テレビという機器離れが進む

最近、ドラマやマンガ、ドキュメント番組ですらよくみるのが、動画画面がテレビではなく、パソコンやタブレット等になっていることである。
DVDの再生(鑑賞)はテレビ+DVD(BD)ではなく、ノートパソコンなのである。
大画面でも、その画面はテレビではなくパソコンモニターで、再生しているのはDVD(BD)プレイヤーではなくデスクトップパソコンなのである。
これはテレビ離れ、正確に言うところの放送コンテンツ離れではなく、機器としてのテレビの相対的機能の低下であり、深刻な事態ではないのだろうか。

その中で手探りでおっかなびっくり手探りをしてはうまくいかないと混迷をしている日本のテレビメーカー。
せっかく思い切って踏み込んだパナソニックを叩く放送業界と冷めた目で見ているとしか思えない各社。
一方であっさりと立場を変えようとしている米国や中国。
技術力云々以前にこのあたりで勝敗が決まってしまっているように思えてしまうのが残念だ。

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2014/01/13

4kテレビに対する私の見解(1)

リンク: 家電・薄型テレビ市場の2014年を占う(1) 期待の「4Kテレビ」平均単価を押し上げに寄与、課題はコンテンツ GfKジャパン・山形雄策さんに聞く : J-CASTニュース.

4kテレビについては色々言われているが、興味深いのは「4kテレビは立体感を感じる」という意見がちらほら見られることである。 4kテレビ“否定派”の中には「これ以上高解像度になって意味があるの?」というものがあるのだが、その意味というのを立体感という観点で考えてみたいと思う。

メガネ方式3Dはやはりダメだった

メガネ式3Dは案の定冷めた。
メガネ自体が問題では無いとは思う。
メガネをかける自体が嫌いな人もいるだろうが、多くの人は一日中メガネをかけて生活をしているのが現実である。
ファッションのために伊達メガネをかけている人さえいる。
しかし液晶シャッター方式のメガネは重く、ダサく、顔に合わないメガネが受け入れられないのは当然だ。
偏光式だって大差ない。
それに画面も暗くなるし色々と不快だ。

メガネ不要のものも出たが選定にあげられないほど値差が大きくバリエーションが無い。

私は「カキワリ感」と呼んでいるのだが本当の意味で立体的にする目的の一つである臨場感がなく、書き割りで作った平面の絵が何枚かあってそれらの前後関係がある、という認識が強いのである。

そもそも人間は何で立体感を感じるのか。

ひとつは先に述べたメガネ方式でやっている「視差」と呼ばれる仕組みである。
人間は二つの眼を持っており、その二つの“映像”に差がある。
その差から立体感、遠近感を脳内で作り出し感じるのである。

当然要素はこれだけではない。
ひとつは単純に大きさの大小で遠近感を感じる。
ある物体が大きさ自体が変わるわけがないと認識すれば、それが小さくなっていくと遠くに動いていると感じる。
逆に距離感を失わせれば大小関係を錯覚する。“トリックアート”の常套手段の一つである。
距離感は例えば普通なら生じる影を感じる部分もあるので非日常な照明を当てて狂わすのである。

ひとつは“フォーカス(焦点)”“ぼけ具合”の違いである。
人間の眼はカメラでいう自動フォーカスシステムを持っていて、近くと認識しているものにフォーカスを合わせれば遠くのものはボケて見える。
ボケている遠くのものを見ようとすればそこに焦点が合って近くのものがボケる、というのを人間は期待するのだが、テレビ画面ではそれはできないのそもそもテレビ画面で立体映像を見ると疲れる、という議論にもなる。

それはさておき近くのものと遠くのものでボケ具合が異なることで立体感を得るのだ。
例えば片目を塞いでも完全には立体感覚、遠近感を失うわけではない。
ちょっと慣れれば普通に机の上の箸も取れるし食事もできる。

写真で立体感(臨場感)があるのは、近く(対象物)と遠くのもの(背景)とでボケ具合の違いを絶妙に出せるということも要素のひとつであろう。
ケイタイのカメラや入門クラスのコンパクトに物足りなさを感じて一眼とかに手を出す理由の一つがこの手法を使えるからと考えられる。
用語的には被写体深度というのだが単純にレンズ性能の話になるので“本格的なカメラ”が要求されるのだ。

テレビというか映像の話になるが、フォーカス感を出すというのは実は難しい。
そこまで要求すれば、たかが200万画素のフルHDでももの足りないというのが現実だ。
普通の写真で200万画素と言ったらどの程度かは想像すれば分かることである。

本来のハイビジョンはどうだったのか

ハイビジョンの黎明期(1990年代前半)には“ベースバンドハイビジョン再生機”というのが存在し○○ショーとか展示会とかにはお目見えしていた。
ベースバンドというのは圧縮をせずにハイビジョンそのものである。
写真で言えばRAWであり音声で言えば非圧縮WAVとかに相当する。
その代償としてレーザーディスク一枚に数十分とかしか記録できなかったようだ。

その映像を見た人は“ハイビジョンって凄い”と誰もが思ったはずだ。
実に美しく精彩で、立体的(リアリティ)すら感じる場面もあった。
これが映像の未来なのかと感動すら覚えたのである。
(ちなみに当時はアナログ放送であり記録もぼけぼけのビデオテープである。VHSかβかなどと言っていた時代で今なら見るに堪えない3倍モードすら普通に使われていたのである)

しかしながらどう見ても一般民生品にするのは不可能である。
ベースバンドはいくら特注品同様とはいえ、なにせ再生だけで一台数千万もする機械だ。
放送するにも圧縮は必須で、MUSE方式という圧縮方式で放送やらプレイヤーがでてからは皆が落胆した。(とは言っても当時の技術で言えば最高峰であり精一杯ではあった)
静止画はともかく動画になるとガタンと解像度が落ちる。
激しい動画ではない。ゆっくりとパンニングしただけである。
かくしてこのハイビジョンは現在では“アナログハイビジョン”と括られているが、BS衛星による試験放送のみで一旦はお蔵入りしたのである。

そしてデジタルハイビジョン時代

時代は移り技術面でデジタル時代になってからは様々な技術革新があって価格面や画質面でもなんとか目処が立ち今に至る。
もっとも様々な妥協があった。一つは地デジで14Mbps程度という低いビットレートである。
BSでも17bps程度であり、配布メディアのBDでも50Mbps程度である。
ハイビジョンを圧縮するにはどう見ても足りない。
しかもMPEG2という今から見れば旧方式であり、どう考えてもブロックノイズが起きるし動画ボケも起きる。
液晶で動画ボケ云々を言う人も多かったが、ブラウン管のアナログ放送と比べれば液晶自体のもあるが圧縮による動画ボケも存在していたことは否めない。
そうなるともはやフォーカス感を再現する云々以前の問題である。

ブロックノイズというのは簡単に言えば局所的に画素が大きくなって解像度が落ちることである。
もう少し厳密に言えば例えば2×2の4画素の部分のどこもが同じものを表示してしまう。
その現象は空間周波数の高いところ、映像の平面的な変化点であり、要するに物体の縁(輪郭部分)に起きてしまうのである。
フォーカス感はまさにその物体の縁(輪郭)がはっきりしているかぼやっとしているかで認識するのだから肝心カナメのところが破綻していることになる。

もう一つは動いているものもブロックノイズが発生しやすくなる。
見る人は正にそこに注目しており、大概は近いものであり、カメラ的にもフォーカスが合っているはずであり、はっきり見えることを期待している。
しかしながら動くことでブロックノイズが発生してしまうことで少なくともはっきりとは見えなくなってしまう。
これも動きボケというものの一因であり、立体感以前の問題になってしまっている。

つまりはハイビジョンの解像度すら保てていないのが現実なのだ。

実は4kが本来のハイビジョン画質

では4kではどうなるのか。

仮に同様にブロックノイズが発生して2x2の4画素で同じものを表示したとしてもハイビジョン画質程度を維持できるということになる理屈である。
つまりは4k放送(コンテンツ)で最悪でもハイビジョン画質を保てれば結果として立体感を感じられることになるのだ。
最初に言ったように本来のハイビジョン画質があれば立体感を感じる場面がでてくる。
4kを見て立体感を感じた、という人がいるという状況と、本来のハイビジョン(ベースバンド)を見た当時の状況が重なるのも道理である。

さらに良いこととしてはビットレートそのものが上がる。
当面は地デジではなくCS放送のみになるのもそのせいである。
情報量は多くなるだから解像度が上がるのは当然の理である。
さらに圧縮方式もMPEG4をベースとしたものになり、従来のMPEG2方式と比較して感覚的・実質的に2倍以上はビットレートが上がったように感じられるであろう。

皮肉ではあるが、4k時代になってやっと本当のハイビジョン画質を一般に体験できるようになった、ということであるというのが私の捉え方である。

4kと非メガネ(視差)方式3Dの両立

ここまでの話とちょっと路線がずれるが、興味深い話も出てきている。
非メガネ式では左右用の映像のために横か縦に2倍の解像度の映像が必要となる。
それ故に高額であったしバリエーションも少なかった。
2倍の解像度が必要というのはまさに4kの話ではないか。
基本的には4kテレビであるが、FHDの立体モードにもなるパネルを作ればいいじゃないか、という発想である。
実は東芝が出したのは2倍ではなく視野角を取るためにもっと何倍もの解像度があったのだが、原理的、簡易的には2倍でも構わないという考え方もできる。
3D/2Dを切り替える技術というのは例えば任天堂3DS等で実用化はされている。(これは2Dの時に解像度を二倍にしているわけではないが)
視野角を制御するのは例えば携帯電話ののぞき見防止機能として電気的に切り替えられるということで実用化されている。
もっと単純に考えて、視野角で問題があれば偏光メガネ方式にするという考えもある。
偏光メガネはパネルの方を二倍解像度にするので生産面からくるコスト的に厳しかったのだがそもそも解像度が二倍なのだからコストアップは少なくなる。

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2014/01/12

原発「世界最高水準の安全性」とは一体どこにあるのか

最近政府が原発再稼働をにおわせる発言が多い。
それはともかく気になるのは「世界最高水準の安全性」という妄言を言っている政治家が多く、まあ勉強不足の末端の政治家ならともかく、経産大臣や総理すら言っていることが信じられない。
安全基準とやらを精査すればいくらでも出てきそう雰囲気であるが、よく聞くのが次の三つである。

コアキャッチャー

“コア”というのは炉心のことのようだ。
要するに“メルトダウン”したドロドロの炉心、つまり放射性物質燃料を受け止める仕組みのことである。
これがあれば安心ではもちろんないが、メルトダウンしても放射能(放射性物質)の拡散や事故後の後始末の負担を少しでも軽減するものであり、世界的水準ではあるべきものとされているようだ。
いうまでもないが、日本ではこれを装備しているところはどこもない。
建設時つまり放射性物質燃料使用前ならともかく、稼働後にこれを設置しようとしたら莫大な金がかかるのはいうまでもない。

実際に福島第一では汚染水の拡散が止まらず、事故処理に膨大な時間とお金がかかっているが、これが装備されていれば少しは軽減されたと考えられるものである。
またメルトダウンした後に地下水に接すれば大量の水蒸気(さらに高温なら水素)が発生してそれが爆発の誘因になるわけだが、その回避できる可能性が高まる。
回避ができなかったとしても時間を稼ぐことができてそれまでに電源システム回復(冷却装置復帰)が間に合うという可能性が高まる。
福島事故はこういうストーリーも考えられるのだが、未だに事故の原因が明確になっていないまま放置されており、実際の所は分からない。

二重建築構造

例えばスリーマイルやフランスの原発の写真を見たことはないだろうか。
口が広めのコップを逆さにしたような外見になっているのだが、写真がよくでてくるのがこれである。
比較して日本の原発は建物の上に半球が乗っかっているようなものが多い。
あの“コップ”は実はその中に原発の建物があり、それをすっぽり覆っているのだ。
これが二重構造という意味である。

内部の建物が爆発を起こして天井が吹っ飛んだとしても、外部の建物で遮られて放射性物質の拡散を留めることができる。
外部も吹っ飛んだとしてもかなり勢いを緩和することができる。
これも世界的には常識的なところらしいが、もちろん日本にはどこもない。

ベント配管問題

ベント装置は義務づけられたようだ。
ベントできていれば爆発は回避できた、ということが世間にも大きく拡がってしまったので導入は絶対条件と流石に考えたのだろう。
しかしこれにも落とし穴がある。

ベントというのは炉の中の放射性物質を高濃度に含んだ空気を“ガス抜き”するものである。
もちろん排気するにはフィルターを通して放射性物質を取り除いてからになるわけだ。
建屋内で取り除いてから外に出せばいいのだが、実際には配管で外に出して建屋外のフィルターで除去してからになる。
つまり、なんらかの原因で配管から漏れがおきたら放射能漏れでアウトである。

地震であちこちの水道管やらガス管やら下水管やらおよそ“パイプ”というのは断裂がおきて大変なことが起きるものだというのは誰でも知っていることである。
地震での“普通の”地割れやそこまでいかなくても危ないというのに、最低限として「活断層をまたぐような配管をするな」ぐらいのことは当然あると思うのが常識的な思いであろう。
しかし現実にはそれすら見当たらないそうである。
諸外国では建屋との同一基礎内に設置すべきと言うのが常識的な線のようだ。
なのでこれも建ててからでは遅い話ではある。

そもそも事故原因が明確で無い

事故の反省を持ってそれを繰り返さないように安全対策を打つのが当然で最低限のことだ。
しかし実は事故の真因はまだはっきりしていない。
それなのになぜ安全対策を作成して、それで良しとして再開できるのかが全く理解できない。
世界最高水準等と言いながら世界最高水準とはどういうものか、世界ではどんな対策が取られているのかが全く説明が無い。
これらのように簡単に反論されるような材料があるのでは信頼されるわけがない。

ただ念仏のように言っているのでは安全神話をまた繰り返しているのも同然である。
社会としてのチェック機構であるべきのマスコミもそうであるし、規制庁や最高水準と言う政治家(おそらくそれを吹き込んでいる官僚)も説明してしかるべきである。

それは最低限の話であって、地震大国日本では殆ど地震のおきないフランスやアメリカすらよりもはるかに地震に気を遣って何が起きるか想像力を駆使して安全性を保つための配慮をしなくてはならない。

経産大臣高が「一日に何十億だから垂れ流している」云々とか言っていたが、事故の原因究明を未だに完遂していない責任、安全性が確保できているという説明をきちんとするという責任を果たしていないからではないのか。
垂れ流しているのは誰からぬ政治家自身に問題や責任があり、反対している多くの国民・世論の問題では無い。

ちょっと俯瞰してみると、議論のやり方がまるで「秘密保護法案」の顛末と同じである。 第三者機関の設置など法案設置時点から組み込んでいくのが世界水準で見ても当然なのに、それもなく後付けのゴタゴタの中で口約束だけで組み込む事になった。 「世界的にみても秘密保護法案はある」というのなら世界水準で他国のものを研究していればあんなゴタゴタはなかっただろう。 「秘密保護法案」自体に反対している人は少ないが、初期の法案が杜撰すぎて審議過程も杜撰で決議もむちゃくちゃなのが問題であるというのが大方の見方であろう。 原発再稼働も似たような構造だからこそ、信用されず国民の理解が得られないのではないだろうか。

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2014/01/11

LED電球のコスト

リンク: 白熱電球まだまだ「健在」! 震災時の節電意識、もう薄れた? : J-CASTニュース.

節電意識というのはざっくり二つの側面がある。

一つ目は「環境への配慮」という奴だ。
もう一つは「電気代節約(出費を減らす)」ということである。
後者に絞って考えたとしても、LED電球は確かに短期的には高いが、実際にはどうなのかは計算してみれば分かることだ。

寿命を40000時間のLED電球に合わせて40000時間使った時の両者のコストを計算してみよう。
もちろん個体差があるので一例として考えていただければ良いと思う。
・LED電球(60Wクラス)
7W×40000h(時間)÷1000×22円/kWh = 6,160円
電球の値段が2000円として8,160円となる。

・白熱電球(60W)
60W×40000h(時間)÷1000×22円/kWh = 52,800円
これに白熱電球代が加算される。

白熱電球をタダで手に入れたとしてもその差は歴然である。

もっともこの4万時間というのは少々眉唾に考える必要はある。
一日10時間365日使ったとしても11年弱という長さであるからだ。
常備灯ならともかくなかなか“使い切れるもの”ではない。
またトイレの電球などは一日一時間にも満たないだろうから計算上は100年持つような話になってしまうが、もちろんそんなことはありえないことだ。
本来の寿命よりも回路や素材の寿命として10年程度あたりから怪しくなってくるとは考えられる。
トイレの電球を白熱灯のまま、というのはあながち間違ってもいないだろう。

一方で常備灯や風呂(特に長風呂をする人)の場合は元を取るのは速くなるだろう。
作業場や個別照明などで白熱電球を使っているようなところも効果が高いことになる。

60Wで計算したが100W電球なら10万円近い話になる。
逆に20W電球なら17,600円なので差が縮まるがそれでもメリットは十分にある。

他にもLEDならではメリットはある。

ひとつは発熱。白熱電球が触れないほど発熱するのはいうまでもない。
場所によっては夏場に空調に影響を与えるほどであろう。

もうひとつは虫である。
これも夏場だが、白熱電球は赤外線も紫外線も結構出すので虫を集めてしまう。
LED電球は原理的に殆ど可視光線しか発光していないので集まりにくい。

さらに使っているところによるが、交換期間が長くなるので交換が難しいところであればメリットが出るのは言うまでも無い。
誰かに金を払って交換してもらっているようなら金銭的にメリットが出てくるわけだ。

記事では「節電意識」とか感情的な話をしているが、実はLED電球は自分だけに関係する電気代という物差しで考えてもしっかりとメリットがあること(電気代というのは存外高いもの)ということは認識すべきだろう。

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