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2013/09/28

再稼働の条件は安全性審査だけで良いのか。

リンク: 米国で市民が原発を廃炉に追い込んだ理由 | 産業・業界 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト.

半径30マイル(48キロメートル)圏内の都市の住宅価格を用いて市民グループのメンバーらが計算したところ、住宅価格は4355億ドルにも達することがわかった。この額は米国のプライス・アンダーセン法が規定する原発事故時の賠償上限額である126億ドルと比べた場合、その30倍をはるかに上回るものであることから、万が一、原発が大事故を起こした場合には、住民が多額の財産を失うことを意味していた。

米国では事故の賠償上限額がきちんと決められているようだ。

日本のように原発事故によって会社が破綻し国有化しながら、一方で破綻処理をやっていないという実にいい加減なやり方とは異なる。
そもそも事故の賠償をしたら会社が破綻をする構造なんてとんでもない話ではないのか。
こうやって明確にしている分は米国の方がさすが政治的先進国といえるし、日本が政治二流国である一つの表れと言える。

除染もいい加減だし、除染が完璧に行われてもその土地が元に戻るわけではない。
数年も放置されてしまえば田畑として元に戻るのは最低でも数年かかる。
当然人は減るし商業関係の機能も維持できないところも多かろう。
人間関係も元に戻るとは到底言えないのだ。

そのせいで迷惑を被るのは住民である。
いまだにまともに補償をして貰えない。
住宅や田畑などの査定は事故前の時価が常識だとおもうのだが、事故後の金額でされているとも伝えられる。
にわかには信じがたいくらいとんでもない話なのだが。

安全基準を満たしていればそれで再稼働OKというのは、安全神話のあった以前とまったく発想が同じではないのか。

今回やったことは安全基準のハードルを上げることで、事故の確率を下げ被害拡散の程度を下げる期待を得ただけのことである。
どこまでいってもゼロにならないことに反論する人はこの世にはいないだろう。

だから、事故が起った場合にどうするのか、を用意することを再稼働条件とするのは当然の理屈ではないのか。

このまま仮に同程度の事故が起きれば確実にそこの電気会社が破綻する。
その時はまた国有化でもすれば良いと思っていることになる。
そしてまた除染も国がやることになる。
ここの構造はまったく変えていないのだから同じ顛末になるのは至極当然である。

国も含めてなにかとんでもない勘違いをしているのだろうか。
いや、どうせ分かっていてまたごまかしを続けているのだろう。
頭の良い役人のことだ、上記の記事のような話の展開を想定していてもおかしくはない。
とんでもない話である。

やるべきこととしては、事故が起きた場合の補償規模を提示し、その分の補償金をきちんと積むことを条件の一つとする。

再稼働に向けてはそれで“地元”が納得すればよろしいだろう。
“地元”はまだ無限補償があるような幻想を持ち無関心となってはいまいか。
しかしいまだに難航だらけの福島の現状を見ればそれは大間違いだとはなかなかわからないのだろう。

補償金を積む自体も一定の安全審査がかかる。
全額キャッシュで積めればそれはいいが、普通の考えでは一部は保険、一部は臨時融資の確約(要するに借金のアテ)なども入ってくるだろう。
そのリスクが妥当かどうかで審査の目が入る。

米国ではこの保険金の掛け金を考えてコミにするとコスト的に原子力は割に合わない一因となっていると伝えられる。

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2013/09/27

JR北海道の一連の問題について(3)

一部テレビでも報道されていたことだが

リンク: 赤字拡大する一方のJR北海道 それでも「倒産」しないカラクリ : J-CASTニュース.

1987年の民営化時、北海道、四国、九州の、いわゆる「三島(さんとう)会社」は大幅な赤字が見込まれたことから、政府はこの3社に「経営安定基金」(3社で1兆2700億円)を持たせて、運用益で赤字を埋めさせる仕掛けにしたためだ。実際、JR北海道の13年3月期の決算に計上された「経営安定基金資産」は7327億円で、その運用益は254億円にのぼる。約3.5%という異様な高利回りだ。

独立行政法人の「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」が公表している「助成勘定」(12年4月1日~25年3月31日)によると、JR北海道は同機構に、この経営安定基金の多くを貸し付けている。この公表資料から読み取れる限りでは、残高は12年4月1日時点で2415億円。平均利率は3.73%にのぼる。同機構が民間から借り入ている利率は1.38%~1.5%なので、明らかな特別待遇だ。事実上の国庫負担だとも言える。

なんてことはない。JR北海道には税金が間接的に常に注入されているとのことだ。
つまりは補助金が毎年ついているようなものといえる。

もう大分前になるが殆どの特殊法人が独立行政法人とカンバンをつけかえただけに終わったことがあったが、各種法人の見直しがスルーされたのはこういうのがゾロゾロあったことが理由として言われていたのは思い出す。

この支援機構が取り潰しになればJR北海道が事実上破綻するわけでJR北海道もご多分にもれずと言うことだったようだ。

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2013/09/23

JR北海道の一連の問題について(2)

BSプライムニュースでいくつかの情報が伝えられたので書いておく。
鉄道現場にもいたことのある鉄道コンサルタントの方が出ておられた。

まず本線と副本線に基本的に差をつけることがおかしいとのこと。
区別する自体が安全性に対して持っている観念に疑問を持たざるを得ないとのこと。

次にJR北海道という会社の年齢層のいびつさである。
旧国鉄組といえるような層が50代に多くおり、40代が非常に少ない、それ以下がまあ普通ぐらいな構造になっているとのこと。
北海道という土地柄で私鉄もないし他に転職できるあても少ないだろうから残留希望者も多かっただろう。
そこで新卒をしばらく極端に絞ったことはありえる。それが今の40代なのだろう。
これは報道ステーションでの取材からだが、その現場たたき上げの50代から若い世代への技術継承がうまくいっておらず、また人員削減もあって外注したりとますます保線現場の技術の衰えがあるような話があった。

あとは、今回守られていないと問題視とされている、内規の19mm以内という値についてである。
現場感覚だとこの程度では普通に考えて脱線は起こりえないという感覚だそうだ。
ちなみに線路の幅というのは1067mmある。
今回の検査で拡がりが最大25mmだそうだが、それでも脱線するとは考えられないという感覚だそうである。
さらに12mm拡がれば脱線の危険性が出てくるかも、という言い方をしていた。
つまり37mmにもなればやばいかなぐらいの感覚のようだ。

現場の感覚と規程とのギャップが大きすぎるのは、実は大問題である。
規定が厳しすぎるとそれを守ることに現実味が無くなり、規定破りが日常化してしまうのだ。
ただでさえ慢性的赤字であり、支出切り詰めも常態化しているだろう。
数字が正しく上がってきたとしても、どこかしらの段階で個々の判断で補修を見送ったり行ったりという操作を始めてしまうのだ。

それを社内の体質という表現もするが、修繕の判断・実施までのプロセスがきちんと規定されておらず、現実には個人判断に任されていれば当然そうなる。
つまり直すべきはそこになる。

このへんは国土交通省の査察が入っているのできっと明らかになるだろう。

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JR北海道の一連の問題について

リンク: JR北海道のレール幅異常放置 責任者「理由全く分からぬ」 合理化で疲弊の声も-北海道新聞[道内].

色々記事を読んだがこれが一番目にとまった。
結局この言葉が現場の実情を集約しているのだろう。

「なぜ放置されていたのか全く分からない」「まだ現場の聴取ができていない」

 21日夕、JR北海道本社で行われた記者会見。レールを管理する保線部門の責任者、笠島雅之工務部長は繰り返した。

現場はシフトもあろうから本当の現場の事情聴取は難しい。
なにせ仕事現場は線路の上だ。
人員削減で事務所にいる時間がないぐらい動いているのかもしれない。
だから現場の者から事情徴集するのは難しいのだろう。
しかし日頃からトップレベルから現場の状態を把握できていないということが問題なのだろう。
昨今よく言う、ガバナンスが効いていないという状態だ。

下からの報告は「イエスマン」報告ばかりで良いことしか上がってこないで悪い話はどこかで消失する。保線で異常があったというのは悪い情報だ。
それに安心して上もまったく動かない。

保線の問題で言えば、基本的に点検の結果の情報はどう流れていたのだろうか。
社長から「いつの間にか失念した」という言葉が出たが、報告は口頭だけで書面(別にオンライン登録でも良いが)がなかったのかと疑わざるを得ない。

現場と本社のダブルチェックをしているといったり、実は本社ではやっていないといったりしている。
あるところでは検査担当は保線担当に言ったが保線担当は上長に報告しておらず「検査担当が報告したと思っていた」などと述べている。
お互いに責任の押し付け合いにも見えるが、そんなことより日頃から口頭だけでやっているのか、役割が決まっていないのか、という方が私には驚きである。

社内の情報流通はどうなっているのか、どうあるべきなのか。
まずはそこから具体的に明確化していかないと、また同じ事を繰り返すだけではないのか。

石勝線事故を教訓に、JRが昨年11月にまとめた安全基本計画。その冒頭には、安全風土のための七つの文化の一番目として「規律を守ること」が掲げられている。

ここもひっかかった。安全風土のための七つ。
基本計画には多分いくつもあり、さらに安全風土のためで七つも制定したという。
多すぎる。
七つ全部覚えられるのか。いや覚えられる方が凄いと思う。
いかにも事務方が現場を考えずに押しつけたように見える。
七つというのも収まりが良いから格好つけに七つ制定したのでは無いか。
そういう考えが根本からまちがっていることになかなか気がつかない。

しかも規律というが、今回に関する規律とは何があったのか。
規律で検査異常の報告が口頭で良しとされていれば「規律を守って」いてもアウトである。

一方で賞賛されているのが日本のディズニーワールドで徹底されている4つの原則である。
たった4つである。バイトにも徹底されているがそれなら覚えられそうだ。
しかも研修中に常に徹底され、自分の行動とそれを照らし合わせることが繰り返されるようだ。
その上、良いところは4つに優先順位があることである。
現場で背反する状態があった時に、自分がどうすべきか明快だ。

現在の状況で規律の最徹底やさらなる締め付けをやったところで改善がされるとは私には思えない。
情報開示する姿勢がみられない、と書いてあるが開示する情報を集めることができていない、そういう仕組みが無いのが実態に思える。

しかしJR北海道を一方的に責めるのも問題があると言う点も指摘されている。

そもそも発足時から赤字路線だらけの北海道。
そこからなくなった路線もあるし北海道も地域の過疎化・高齢化の例外では無い。
その上で(どうせ国のごり押しで)北海道新幹線という重荷がまたのしかかる予定だ。
新幹線はその到着駅はそこそこ太るがそれ以外の併走する路線が壊滅的になるのはどこも同じだ。
民営化といいながら100%国有民営企業である。
そんな中で現場にだけ合理化を押しつけていないのか。
きちんと人や金を回さずに保身だけしている人はいないのか。
まさか天下りの人間はいないですよね。

ATS破壊のような異常行動を取ったり業務中の覚醒剤使用とかありえない状況が報告されている。
簡単に社員のモラル低下とか言うが、そういう背景には(自己保身の為に)理不尽なまでに叱責したり責任を押しつけたりする人(特に上司)がいたりするものだ。
そういう日常の中でいつの間にか精神が破壊され異常行動に至る。
仕事が多少オーバーワークぐらいではそうそう精神は壊れない。

そもそもJR北海道の民営化ということ自体が押しつけであると言う意見もある。

日本の食料生産地である北海道をどうするのか。
国として放置して衰退の道を取らせて良いのか。
JR北海道だけの問題では無く、国としての北海道への行政の関与のあり方を見直す時期にあるのかもしれない。

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2013/09/21

原発をやめられない本当の理由は何か:10の“疑惑” (2)

前回の続き。

核廃棄物の処分ができない?

中間貯蔵施設すらも皆無で、最終処分地は未だに一つも存在しないどころか予定地すらない。
では廃棄物は実際どうしているかといえば自分の発電所内に置いているのが実態だ。
“トイレのないマンション”等という変な喩えがされるのが一般的だが、これは現実味のない喩えをして混乱させて目を眩ましているのだろう。
正確には“ゴミを出すことのできない家”である。
勝手にゴミを外に持ち出して捨てれば即逮捕である。
ゴミはどうやっても増えていくわけでどこかの部屋に置くしかない。
福島原発でも実はゴミを4号機のなかに保管しているのが報道され驚いた人も多いだろう。
運転しているからこそこのような“保管”や“中間貯蔵”の存在が許されるわけであって原発廃止となれば最終処分地は待ったなしとなろう。
最終処分地は開始から40年50年の年月があっても決まらなかった。
さらにこれだけ“放射能アレルギー”や“国や電力会社への原発政策への不信”が全国に広まった現在では困難どころの話ではない。
そんな事態は政治混乱も招きかねず“今は”避けたいだろう。

核廃棄物なのに資産扱い?

原発廃止の問題はもっと深刻な一面がある。
“核燃料リサイクルの断念”でも起きることなのだが、もちろん原発自体の廃止でも同じことである。
それは核燃料廃棄物を資産計上している、というトンデモない話だ。
理屈としてはリサイクルできるから有価物である、という理屈である。
例えば新聞紙は可燃ゴミとして捨てれば廃棄物だが、古紙回収として出せば有価物である。
さんざん新聞を溜め込んでまとめて売ろうとしていたが、それが突然「これからは新聞をリサイクルしません」となれば莫大なゴミに化ける。
個人なら泣きながらゴミ袋に詰めるだけですむが、企業では有価物は資産としてプラスの存在である。
ゼロになるのならまだしも、廃棄物となればマイナスの存在に一気に反転する。
しかも廃棄方法が未だに決まっておらず廃棄コストがいくらになるかすら分からない。
現在資産計上している額が一社当り数兆円規模という話しも聞くが本当なら一気に債務超過で破綻しかねない。

地方財政の破綻?

これはその地方によるが、うっかりと交付金でハコモノを作ってしまうと悲惨である。
ハコモノは維持費がかかるので交付金打ち切りで一気に破綻である。
そうでなくとも原発に関する収入でなんとかもっている地方が破綻に至るケースもあろう。
これが他のことに比べれば比較的軽い話にすら思えるほど他の話しが深刻だ。
ぶっちゃけ別の形で地方交付金を調整すれば良いし、そもそも原発で地方対策を歪めていた方がおかしい。

米国原発業界の要請?

シェールガス革命もあり、また自然エネルギー開発が進んでいる(例えば風力では世界No2の発電量だそうだ)こともあって「原発は割に合わない」という発言が原発会社トップやら主要人物からも出ているのが米国である。
米国はがさつな印象があるが実は自然エネルギー開発も日本よりもずっと進んでいる。
(政治構造やらのせいなのか、自然エネルギー開発にあれこれ言い訳をつけてきちんと進められていないのが日本の遅れているところである)
一方で米国内でも原子力で飯を食っている人達はいるので日本も原子力産業をやめられるとかなり痛いのは至極当然のことである。
「これからは原発は割に合わない」とトップはいうが今なくなれば経営的に厳しくなるし切り離しても受け入れ先の企業は困る。
米国政府も言うだけはタダなので裏側でクギを刺していても不思議ではない。

隠れ核保有を続けるべき?

先のイプシロンロケットの開発成功に絡めても大陸間弾道弾の話が出るくらいである。
同じ核エネルギーを扱うものとして核爆弾との関連を示唆するのも当然だろう。
しかし現代においては核爆弾と戦争はもはや結びつけがたい。
仮に戦時下に落ちて要請に応じて緊急に核爆弾を作ったとしても、そもそも実験無しで投下することは無理難題だ。
そもそも投下なんかすればもはや国際社会に戻れない。
自国でエネルギーもなく資源もなく食料もない日本の破滅を意味する。
あまりに絵空事だ。
これも他の項目を隠すための方便にされているようにしか見えない。

絶望的なまでの現状

以上、考えていくと絶望的なまでの複雑さと困難が内在している。
私のような素人が表面的なところをさらうだけでこれだけ酷いのだ。
本当に掘り下げたときの酷さは想像を絶するのだろう。
そして実情を本当に知る人ほど、手をつけたくないのだろう。

だからこそごまかしながらも少しずつ紐解いていかないといけないのだろう。
今、現実的にやめるといえないのは電力会社の破綻から連鎖的に国家破綻を起こしかねない事態にあるからなのだろうと考えられる。

廃炉引当金“ごまかし”の話も、暴かれたと言うより、本来すべきことが行われていないことを直視して少しでも現実的な妥協点へ舵を取ったということなのだろう。

総理が要請した福島5,6号機の廃炉も“廃炉の予行練習”ではと捉える向きもある。
地元感情からして再稼働は100%不可能であり、日本国内で最も廃炉するに妥当なのがこの2機なのは明白である。

結局、原発は電力会社を破綻させかねない爆弾をいくつも抱えさせてしまった。
ごまかしにごまかしを重ねて社会を破綻しかねないところまで歪みが進行してしまった。
「行くも地獄、戻るも地獄」という状況に陥っているということがわかる。
原発をやめることで今まで溜めに溜めたツケで沖縄を除く全電力会社が破綻、そして国家規模経済すら大混乱して破綻しかねない。
そしてその額も兆円単位で国すらも簡単に処理できないところまでというのだから真の地獄である。

原子力発電自体に罪は無いが再開には反対する

勘違いしていけないのはこれらの“爆弾”を作り出したのは“原子力発電という方式の本質的な問題ではない”ということである。
原子力発電という方式を私は完全に否定はしていない。
おそらく放射能の危険性については平均的な人よりは楽観的だ。

どんな発電方式でも長所と短所がある。
原子力発電という方式の長所だけを必要以上に誇張し、短所をきちんと直視してフォローしてこなかった企業的、社会的、国家(役所)的な戦略が間違っていたのだろう。
そして今も正しく方向を修正しようという姿勢が見えてこない。
まだ懲りずにごまかしの連続である。
だからこそ私は原子力発電の再稼働に反対なのである。

「安全性が確認された」なんて再開して良い根拠の一つでしか無い。
規制庁もそのことは言っているのだが、なぜかそこからの議論をしていない。
これは政府の「安全性が確認されたところから再稼働していく」という見解がまず一歩目の間違いと考えている。

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原発をやめられない本当の理由は何か:10の“疑惑” (1)

原発はやはり辞められないという理由に「エネルギーの安定供給」「廃炉をするにしろ原発産業は維持する必要がある」などがいわれるがこれは美辞麗句に過ぎないのではないか。
事故が起きてから原発に関わる様々なことが取り上げられてきた。
当事者達ははっきりとは言わないが、その中に原発を辞められない深刻な理由が見え隠れしている。
それらを直視しないで原発再開に向かおうとしているのが本当の問題では無いのか。
列記していきたいと思う。

今回の話しはあまりに気が重く長くなるので2つに分けて掲載したいと思う。

原発は税金まみれ?

原発開始からはや40年以上。
未だに新規技術開発をはるかに上回る税金がつぎ込まれている。
電力料金から別枠で徴収されほぼ原発に投入されている隠れ税金もある。
新規開発すべき他の発電方式よりも何倍も多額なのは明らかに不整合である。
今はもっと“夢の”発電方式に税金をつぎ込むべきである。
逆に言えば原発はいつまでも国が様々な金を肩代わりして貰っているわけで電力会社からみておいしい。
役所もそれだけ利権があるのでおいしいので辞めたくはない。
原発開発そのものは難しくなったが今は「安全確保」という名目で一層の税金を使える。
原子力は巨大装置産業だからこそ一局集中型で利権構造を作りやすい。
一方で太陽光や風力、小型水力、バイオマスなどは小規模で各企業が個別活発に動きやすい。協会でも作って集金をしないと美味しくないものである。
役人は実に狡猾なのである。

原発は国依存だから楽?

今回の事故の顛末で分かるように、最後は国が乗り出す羽目になった。
さんざんツケに回した生活のあげく、周囲からの非難もあって最後は親が見かねて金を出して収拾をしているようにしか見えない。
「放射能漏れ」は国家の大事であるからきちんと国が制御すべきと言う大義名分の元に国税が投入される。
たかが一つの発電地域に(壁と汚染除去システムで)一千億になろうかとする血税が投入されるという自体がおかしくはないのか。
どんな理由をつけようとも一社で制御しきれない方式で発電することがそもそも許されるものなか。
国策だからやってよいのか。
それなら国の責任は無いのか。誰も裁かれないのか。
福島原発の事故が収束し総括するまで原発再稼働は許したくないという意見の根本はここにあろう。
しかし国も会社もうやむやにして原発再開して終わらせたい。その方が楽だ。
「安全性を確保すれば良い」「世界一の基準だ」と言って押し切ればその方が楽だ。
安全性装置の確保なんて金だけかければいいし税金や電気料金に転嫁すれば良いだけ。
原発をやめるとすればそれは大変な道のりとなる。
金銭面は無論、責任問題等の様々な歪みや負い切れないコスト(先送りしていたツケ)が露見する。
それだけは避けたいのだろう。

蛇足をつければ世界有数の地震大国、津波大国の日本でそれらへの対策が世界一なのはむしろ当然であり、それでも足りないくらいではないか、というのが私の感覚だ。
安全対策が十分なのは当然で、その上で事故を起こした時の体制や補償金積み立てなどの制度が必須ではないのか。
未だに「原発は安全である」というのを前提としている。
「人間の考えることなんて限界がある」というのを大前提に考えていないのが問題だ。
その時はまた「想定外」とかいって逃げるつもりなのか。
仮に巨大隕石が原子力発電所を直撃したって、日本では二度と事故を起こしてはならない、という緊張感がないのだろうか。

原発そのものは実は簡単で楽?

原発というのは要するに水を加熱して蒸気でタービンを回して発電をする。
その点では火力発電と酷似している。
しかも一端稼働すると止められないから逆に言えば止めることがなくて楽である。
火力発電は日ごとに稼働・停止を変える、しかも需要予測が必要(日々の気温にすら左右される)から運転上は面倒である。
日常が簡単なら何次下請けでもいいから下に回してよくなり楽だ。
点検なんかいくらでも手抜きができる。
そういう構造の片鱗が見えたのが汚染水漏れでの発見遅れではないのか。

燃料調達もほとんど心配が無い。
しかも放射性物質だから国と密接な管理下にある。
事故がなく安全性を考えなくてよければこんなに楽なものはないだろう。
逆に自然エネルギー、再生可能エネルギーは複雑である。
スマートなんとかとか面倒だ。ちまちまとした発電のとりまとめとか民間発電の買い取りとか面倒だ。
遠くでも構わないからどかんと発電してどかんと送った方が楽である。

一方で安全確保が非常に大変でコストもかかるがそこは「コストバランス」とごまかせば良い。
そして最後の切り札が「想定外」である。
想定なんかいくらでも下げられるのだから「想定外」なんて言い訳はダメなは明確なのに結局それで逃げてきている。
それが今の福島原発の顛末である。

廃炉の方法がわからない?

少なくとも日本国内で廃炉は誰もやったことがない。
老朽化なのかは不明だが不具合があって動かなくなっても止めて放置である。
メルトダウンしたとみられる炉の廃炉は難しく大金と膨大な時間がかかる、という論に隠れているが、通常の廃炉すらきちんとできるのかすら疑わざるを得ない。
経験のある国外の技術導入となろうが最初にやるところは大変だろう。
もちろんコストの問題もある。一番怖いのは実際にやってみて想定額より高額になってしまうことだろう。
役人が絡んでいれば、今までの公共事業(道路事業やダムなど)で行われた試算の“実績”からみて現在の試算が大甘で実際は何倍かかかっても「やっぱり」という感想しか生まれない。

廃炉にかける金がない?

ライフサイクルコストという考え方がある。
エアコンや冷蔵庫、テレビなどで廃棄料金を前払いした覚えはないだろうか。
発電所なら開発設計から発電中の燃料費の総額見込み、そして寿命が来て解体廃棄をして元の更地に戻すまでのコストを総括して、その間の発電量で割り込んで発電コストを算出するのが本来であろう。
従来発電方式では解体コストは通常の建築物と大差ないのでほぼ無視できるとされていたと思うが、原発では解体したガレキの処理すら困難でコストがかかるという特性がある。
通常に最期を迎えた炉でも放射性物質で“汚れて”いるから処理に莫大な金がかかるのは本来なら見えている。
しかしどうもそこを見込んでいないような発言が見え隠れしている。

それでも当然ながら積み立ては行われており“廃炉引当金”と呼ばれている。
単純に言えば40年稼働見込みとすれば30年稼働していれば廃炉費用の3/4は積み立てていないとおかしい。
しかしそれすらどうも不足しているというとんでもない話が報道された。
電力5社で合わせて1000億円もの莫大な金額の不足があるという。
国家予算クラスの莫大な額だ。
しかもその目標額すら実際の廃炉を考えると不足があり見込みが甘いという指摘もあるのだ。
電力会社自体も国もそのことはうっすらとは分かっていながらごまかしてきたのではないだろうか。
さらに廃炉すべき時期から積み立てを続ける年数に10年猶予を与えるような話にもなっているようだ。ここでも無茶苦茶が行われている。

次の記事に続く

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ブルーライト自体はどれだけ問題なのだろうか

そもそも“ブルーライト”という言葉も奇妙に感じるのだが日本語で言えば青光、青成分の光というところだろうか。

個人差はもちろんあろうが、どうにも胡散臭いようにしか思えない。
商法としては非常に良いところをついているとは思うのだが。

しかしそう思わせるような背景があったのだろう。
その辺をちょっと考察してみる。

なぜ青だけ叩かれるのか

そもそもこのことに不思議に思わないだろうか。
色とは何か。
光の波長の長さ(周波数でも良いが)を示すものである。
人間が見える光の波長の中で長いのは赤で、さらに長くなると赤外線と言って見えなくなる。
物理学的に光と電波は同じものとされており、さらに長くなると電波と呼ばれる領域になる。
青というのは短い領域であってさらに短くなると紫外線と言って見えなくなる。
このあたりは赤からも連続的な変化であって取り立てて青だけ目に悪い(疲れる)という理屈には首をかしげざるを得ない。
比較的悪い程度なら分からないでもないが殆どカットしないとみたいな言い方はどう考えても可笑しい。

青色LEDでの印象なのか

青色LEDが登場してしばらくたち、ある程度価格がこなれた辺りで電源LEDやらで青色LEDが流行りだした。
私には理解できないのだが、高級感があるとかでともあれ従来の緑から青が増えていった。
私もそうだがこの青色LEDの光が目に眩しい(痛い)という人は少なくないようだ。
なぜ眩しいかと言えば同じ明るさに見えるように輝度を上げているからなのだろう。
なぜ輝度を上げているかと言えば、青は人間の目には感度が低くて緑や赤のLEDと同じ輝度だと暗く見えてしまうからであろう。
ちなみに青に対する感度は緑の1/6、赤の1/3程度であるとされている。
さらに悪いのは明るいから必ずしも高いわけではないし、むしろちょうど良い明るさを選ぶ方が高くつくのでむしろ明るめのLEDがよかろうということで使用されているという状況にあり、普通の家庭で見ると目に痛いものが横行してしまっていることなのではないか。
その印象が「青は目に悪い」というような説を信じさせてしまっているのではないだろうか。

そもそもPCモニタ等の画面が明るすぎないか

安物に多いが、液晶モニタでは画面を一定以下に暗くできないものが結構ある。
画面を暗くすると色むらや画面内の明るさムラが目立つからだろう。
酷いものはノイズが見えたりフリッカを起こしたりするものなのだ。
陰極管方式もLED方式も同じである。
両者に共通するのは電圧を下げることで明るさを落とせないという特性に起因する。
そこで高速でON/OFFを繰り返すことで明るさを調整するわけで、それがノイズやフリッカの要因となり、ある程度の明るさ以下にはできない(消えっぱなしになってしまう)。
様々な工夫で解消はできるのだが当然コスト高になる。

携帯電話も殆ど同じ話で、さらに悪いことに炎天下でも見えるように明るく最大輝度が設定されていれば当然目が痛くなるほど明るくなってしまう。
一方で夜中等で照明を落してから使うような状況で十分明るさが落されているのか。
そうは思えない。LEDバックライトであることは同じだからだ。
ブルーライトカット以前の問題と思われるのはこの点である。

実は私の使っているモニタ(UXGA)は割の初期のもので選択肢がなかったので十分に確認を取らずにネットで買ってしまって大失敗だったのだが、輝度を最も落してもまだ明るい。
買い換えた時に明るすぎることに閉口した。

仕方が無いのでモニタの方は最大限に落した上で、パソコンのグラフィックプロパティで映像出力の調整ができるのでそこで明るさを落した。
(映像の出力で落すと色解像度が下がるので望ましくはない)

なお「いや、本当にブルーがいかんのだ」と信じる向きでも、こういうグラフィックのプロパティで青色だけ調整(減光)することも可能である。
わざわざグラスをかける必要も無い。

PCモニタの画面フリッカはないか

私はわりとフリッカに敏感なのか、店頭で見るとなんとなく違和感を感じるものがある。
気がつかなくても蓄積して疲労に至る可能性は十分にある。
フリッカは前の項で述べたように高速でONOFFしているから起きるので、明るさ最大で使えば大概フリッカはなくなるのだが、それでは明るすぎるのが困ったものなのだ。
まあ、安物は買わないことぐらいしか対策する手は無いのだが。
しかし会社で支給されるものとかセットで買うと安物がついてきたりするとどうしようもない。
当然会社の担当はそんなところに気を遣わないのでどうしようもない。

ではサングラスは効果はあるのか

結論から言えば効果はあるだろう。
青色がどうこうではなく、グラスで減光すれば上記の問題が軽減されることは十分考えられるからだ。
今までPCの画面に向かう時にグラスをかけるという習慣は無いし、変に思われても不思議ではない。
そこで青色を言い訳にして減光グラスをかけるような習慣を作ることで目の負担を軽減させることができた、ということはあると思われる。

文字が小さすぎるのではないか

昔のPCモニタの大きさはそんなに変わらず普及価格帯は15型~17型であった。
しかしそのころはVGA(640x480)から始まり、XGA(1024x768)が一般的でそれ以上だと画面サイズがでかくなった。
ブラウン管自体の解像度は低いし液晶も解像度が低かったのだ。
ある時点から液晶の技術革新がひとつあがったのか、20型程度でフルHDが出だして、現在ではむしろフルHDが一番安いモニタですらあるのが実態だ。
今では携帯電話でもフルHDは珍しくない。

結果として少なくとも1ドットの大きさは小さくなっている。
つまり同じデザインなら文字が細かくなっている。
結果として細かい文字を読むことを強要されるのだから目が疲れるのは当然である。

もちろん文字を読む時は拡大するとかにして対策は打てるのだが、そんなことは普通しないで頑張って目を凝らして読んでいる人がむしろ普通ではなかろうか。

酷いGUIとマウス操作(特にMSOffice系)が目を疲れさせる

私自身も仕事で一時期、目が疲れてどうしようもない時期があったのだが、その時の仕事がMSOfficeを使って図面や表を使った資料を作る仕事の時だった。
線一つ合わせる、箱の大きさを揃えるのでもマウスの微妙な動きを要求される。
行ったり来たりになって思い通りにならないと、どうしても手に力が入り目を凝らしてしまう。
それが続けばドライアイなどもあって目が非常に疲れてしまう。
肩も凝って目にもくるのも当然だ。

いわゆるテクノストレスと言われた時代もあったが、こういう作業が通常業務となっている人に多いようだ。

ちなみにその半年後にはプログラムを実際に作る仕事になって、その時も同様に一日中ずっと同じPCの前にいるのだが目は疲れは皆無になった。
殆どキーボードで作業操作ができるので、画面を注視しなくなり、マウスを使う方がむしろたまにである。
プログラミング作業は殆どがアルファベット入力であり、ミスタイプは開発環境がフォローしてくれるし、私の場合は画面を見る必要すらほとんど無いからだ。
さらに削除やカーソル移動やら専用キーを使う必要が無く、キーボードへの視線移動すらないのでさらに目への負担が減る。

GUIでもキーボードのショートカットやカーソルによる操作や数値入力、CTRL等キーを押しながらマウス操作などで自動的に合わせたりと目を凝らす必要をなくするとかなり軽減される。
要はなるべくマウス操作の回数を減らすことが目の負担を減らす。

スマートフォンも目を疲れさせる

携帯電話の世界でもスマートフォンになって事態は悪化してはないだろうか。
いわゆるガラケーの時はボタン操作主体なのでほとんど画面を見ないでも操作や文字入力すらできたのにそれができなくなった。
歩きながらケイタイするな、と最近になって厳しく言われるようになったのものこのせいだろう。
昔は前を見て歩きながらでもメールの文章は打てるから一端止まって内容を確認したらメール送信すれば良いぐらいであった。
今はフリック入力でも画面を見ないで打てる人はいないだろう。
スマートフォンはずっと画面を見ることを強要する携帯機器なのだ。

スマートフォンやタブレットのタップ操作も目を凝らさせる。
そもそもスマートフォンの文字は小さいし細かい。
それを読み取ろうと目が頑張ってしまうので疲れても当然である。

IT機器との付き合い方を再考しよう

「ネット依存症」とか「ケイタイ依存症」とか言われることもあるが「緊張中毒」という側面もあるのではないだろうか。
緊張をしていると脳に麻薬物質が出ていることは知られているが、それは快楽という側面がある。
まさに中毒症状である。だから眠れない。
眠ろうとしてリラックスしようとする、その事が物足りなさを感じてさせてしまう。
灯りをつけるのは面倒だし眠るのをやめたように思えるからついそのままで携帯電話を手に取ってしまう。
その電話画面の光が最大に絞っても眩しいほど強いので目からの強い刺激で脳がまた強く動いてしまう。

いわゆるIT機器が人間の行動に与える影響は大きい。
しかしその機器が人間の健康に与える影響を考えて作られていることは少ない。
特にグローバルに世界中で揉まれてコスト最優先で作られている機器では最低の優先順位になっている、つまりはないがしろになっている。
そこまで気持ちが回らないし、仮に回るひとが作り込んだことがあっても(世間でも社内でも)評価されないから次からはされなくなる。
殆どの人がIT機器はよくわからないという気持ちでいるのもあるだろう。
IT機器の世界は特殊だという感覚もどこかにある。
評価するマスコミ等の評論家も意外と人材が少ないし殆どつっこまない。
そんな世間の感覚もあってか、技術が進歩しているように見えても、実はこういうところがどんどん後退しているようにしか思えない。
ブルーライトグッズはそういう間隙をついての商品なのかもしれない。

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2013/09/16

スマートテレビ化・パナソニックCM拒否事件

ちょっと前だがスマートテレビのCM拒否問題で物議を醸したが、いまいちピントがずれているように思えるので私の見解を書いてみる。

リンク: 次世代のテレビ事業を探る・第3回 - 「スマートテレビ」の理想と現実 (3) スマートテレビ化をめぐるメーカーと放送局の溝 | マイナビニュース.

(前略)番組と直接関係しない情報を同時に提示する受信機では、番組と無関係であることが明確にわかるような提示または実装をする必要がある」としているが、スマートVIERAは、このガイドラインには合致していないと判断されたわけだ。

そしてこんなガイドラインをやってる放送業界がおかしい云々という展開が多い。
引用している記事もそうだ。

ガイドラインと製品を照らし合わせてみる。

パナソニックが大きく反発しているのは業界ではなくて、このガイドラインに沿っているのにDpaに合致していないと判断されたことにあるのだと思う。

殆どのニュース記事の画面は(まあ仕方ないが)ハメコミ合成であるためか正確な現物の画面を表示していない。この記事でもぼかしをしている上の方のテレビ画面の、放送画面らしく下のところをよく見るとHDMI1と書いてある。
これは入力表示のHDMI1ということだろう。
パナソニックのサイトに行ってスマートビエラのページをよく見ると映像の表示画面の下に「地デジ031」や番組タイトルが表示される、としているイメージ画面がある。
この画面(領域)は地デジの031で○○という番組ですよ、と表示しているのだ。

つまりガイドラインに実に忠実にしっかりと表示を行っているわけである。

電源オン時に全画面は必須ではない

もうひとつは電源オン時に最初に全画面で放送画面を出さないといけない、という点が強調されているが、それもおかしな話しだ。
電源オン時に云々もどれがどれだかわからないとまずいことが起きるので操作が必要、という文脈であって、きちんと分かれば問題は無いという主旨で書いてある。
(電源オン時に全画面の方がいいよ、とは書かれているがそれを誇大に解釈するのはおかしい)

パナソニックがテレビであると主張したから駄目だという説も書いてあるが、そうだとすればDpaの判断とガイドライン記述に整合性がない。
パソコンテレビと称すれば問題ないのに、スマートテレビは問題である、ということだからだ。
ガイドラインでは「不特定多数に(要するに無知な人達)誤認されないため」という目的が掲げられているのにもかかわらず、このような(技術的にも境目が)曖昧な両者を区別するというのは論理的整合性に欠ける。

そもそもガイドラインという通常は「そうすることが望ましい」というものに拠って、CM放映を拒否するという実力行使に出たことがまず問題である。

ガイドラインだからと言って恣意的な判断をしてはならず、きちんとその文章に則って判断すべきであり、それがきちんと行われなかったということも問題である。

ガイドラインの趣旨は理解できる

私の感覚では、Dpaの作ったガイドラインの言っていることは分かるし、放送局としては自分が発したわけでもない内容に関してグダグダ言われるのは困るのも理解できる。
いわゆるナンセンスクレームというやつだ。
スマートテレビの足を引っ張るようなことをする放送業界はおかしいような趣旨にはちょっと首をひねらざるを得ない。

ガイドラインに沿っているのになぜ否定されるのか

いわゆるマルチ画面で表示する場合にはこれはなに、といちいち表示することは重要な事だと思う。
表示しないでごちゃまぜ表示するようなテレビは控えて貰いたいという感覚もわかる。

ユーザーからしてみても、これは4chで○○という番組、これはHDMI1入力というように表示されている方が便利であろう。
普通に全画面で見るようなテレビでもチャンネル番号と番組名を常時表示するモードはあるわけで事実使っている人がいるということでもある。

これらの表示を消せるモードもつけておけばいいわけで「ユーザー操作によれば」表示をしなくても良いと言うこともガイドラインにきちんと書いてあるのだ。

今回のパナソニックのテレビはきちんと表示をしているし、これはブックマークでとかうざいほど書いている。これでなんの問題があるのか全く理解できない。

Dpa(放送業界)が横暴というか判断をした担当者がガイドラインをきちんと理解していない、もしくは見識がおかしいとしか思えないわけである。

ガイドラインなど単なる見せかけで、スマートテレビはなにがなんでも否定という姿勢である、とすればテレビ業界に対して大ブーイングものではある。

きちんとDpaには説明をしてパナとは質疑応答して顛末を公表して貰いたいところだがそういう話しは聞かない。
そういう体質が問題なんだろうな、ということは言えるのだろう。

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2013/09/14

mediawikiのバイナリアップグレードで設定がトンだのでメモ

バイナリによるアップグレードをやったところ、LocalSettings.phpがないということで色々見てみると確かにファイルがなくなっている。
おいおい。

しかたないのでとりあえずMysqlの該当データベースのバックアップを取る。
mysqldump -u root -p  dbname >db_backup みたいな感じだ。
このコマンドを打ち込むと無いと怒られた。
そういえばサーバー引っ越ししてからこのコマンドを使っていなくて、入れていなかったのでmysql-clientパッケージを導入。

ダメ元でWeb画面からの再インストール(設定)を進めることにする。
mw-configがForbittenだと怒られるがそりゃそうだ。
mw-configフォルダは消さないで不可視にしているだけなので見えるようにする。
無事セットアップ画面が出るので前と同じように設定をしていく。
データベース名なども同じに入れると「前のファイルがあるみたいだけど?」と言われるのでそれを使うということで進む。
パスワードなども同じ設定でどんどん進むとLocalSetting.phpができた。
それを指定フォルダに放り込めば無事復活。よかった。
ただロゴもなぜか消えているので前のを探して放り込む。
リロードすれば無事復活で現状復旧。

忘れずmw-configをまた不可視にして作業終了。

ちなみにmediawikiはうちのサーバーではローカルからしか見れない設定にしているので探さないように。

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2013/09/11

自動車に関する税を全部見直すべき

リンク: 軽自動車「増税」に走り出した やがて普通車にも波及か? : J-CASTニュース

そもそも自動車にかかる税金とは

. 自動車税や軽自動車税、そして自動車取得税はいずれも地方税で総務省が所管。普通車や軽自動車の取得時に地方自治体に納める取得税は、以前から消費税と の「二重課税」批判があり、消費税増税論議の中で、消費税が10%に上がる2015年秋に廃止されることが決まっている。取得税の税収は年1900億円 (2013年度見通し)のため、この穴埋めとして総務省が軽自動車税に目を付けた。

自動車にかかる税金について確認しておこう。

購入時にかかるのは自動車取得税。
消費税とともに“贅沢品にかかる”物品税は廃止されたのに、同じ性格を持つ自動車取得税はなぜか廃止されなかったのである。二重課税批判なのは当然である。
宝石以上に贅沢品とされているのかと思うと感覚を疑う。
取得金額に応じてかかるので消費税と構造も同じで、さらに今では一般目的税になっているのでまさに二重取りである。

所持しているだけで毎年かかるのが自動車税。
排気量が高いと負担が高くなるが、商用車(バンやトラック)は大幅軽減されている。

車検等の時にかかるのが自動車重量税。
日本の車検は高いとよく言われるが高額なのはむしろこの税金。
ガソリンスタンドの車検は税別表示が多いので見たことがあると思うが、この税金がなけらば(部品交換等がなければ)たかだか2万程度である。
なぜ重量に応じて金額が変わるのかと言えば、重量に応じて道路への負担の度合いが違うからという理屈があった。
しかし自動車税とこれも一般目的税に化けているのでもはや理屈がおかしくなっている。

そして走れば走るほどかかるのがガソリンにかかる税金。
世界的にみてもとんでもない大重税であり、リッター当たり48.6円(国)+5.2円(地方)で合計53.8円もの高額であり、仮にリッター100円程度なら税率100%以上にも相当し、さらにそれに(税金分を含めて)消費税がかけられている。
税金に税金をかけているという世界的に見てありえない体系(国家犯罪行為ともいわれる)を持ってトンデモ税金なのだ。
税額もバカにできず、本年度予算額で2兆5千億にも上る。

まさに取れる場面でことごとく徴収されているのが自動車所有者が負担している税金である。
それでも当初は道路建設・補修工事等の原資として設立された。
「自動車ばかり優先される道路」「税金を自動車のためにだけ使うな」などと批判を飛ばす人もいるが、自動車所有者は相応の大重税を担っていたのである。

ところがある時点から一般目的税に変えられたのだ。
本来なら全部いちから見直すべきのが自動車関連の税金なのである。

二酸化炭素が環境負担であるという考え方への対応

  TPPの問題はさておいても、単純な税収確保論議で済む話ではない。そもそも、自動車税が排気量に応じて税率を決めていることには、環境面で不十分と の指摘がある。ドイツなど欧州では二酸化炭素(CO2)排出量に応じて税率が決まる制度が導入されており、総務相も環境に与える影響の大きい車ほど税率が 高める検討をしている。ハイブリッド車のようにCO2排出量が少ない車を優遇するという考え方だ。

排気量応分という考え方は当初は有害物質の排出ということで社会的負担を大雑把に傾斜配分した結果であると考えられる。
しかし有害物質の排出は昨今では殆ど皆無に近い状況である。
(善し悪しの論議は別にしても)“二酸化炭素税”という珍妙な考え方が世界的に横行しだし金銭取引が行われているのは現実である。
両者もこれらの税制が作られた時にはなかった考え方である。
今は厳密に二酸化炭素排出量を厳密に算出できるし、実際にエコカー減税等で税金負担を実質に変えている。
そろそろ減免措置という考えではなくて、税金の制度の中に組み入れるべきであろう。
少ない車を優遇するのではなく、とりわけ多い車の負担を増やすという考えにして欲しい。

そういえば電気自動車に対する負担はどうするのか、というやっかいな問題もあろう。

そもそも自動車に関する税金はなんのために取るのか

自動車固有にかかる税金はなんのためなのか。
これだけ状況が変わっているとまさに「現状に追いついていない制度」に他ならない。

税金を取るなと言う話ではない。
環境負荷だからなのか、道路整備であるのか、贅沢品だからなのか、一般目的税で本当に良いのか、要はなんで税金を取るのかに踏み込んできちんと議論をして欲しいものである。
別に贅沢品だからという論議を私は否定しない。贅沢な車は当然あるし、嗜好品的な車種もある。
それなら例えば取得額から控除額100万円としてそれに掛けるなどの配慮をすれば良い。
その辺をきちんと詰めないと電気自動車に対する課税もおかしな話になる。
くれぐれも「税額収入の同額確保」などというふざけた論理で決めないで欲しいものだ。

軽自動車への増税は地方への負担押しつけ

地方では公共事業の財政見直しもあって公共交通機関であるバスや電車の廃止がとまらない。
民間バスや私鉄も補助は削られ利用者は減り、不採算が進む一方。
ひところよりはましではあるが過疎化は止まらない以上は事業の悪化が改善するわけもなく、廃止は止まるわけがない。
過疎化はさほどない地方でも“駅前の商店街”は壊滅同然で郊外の大型店が距離を持って点在する一方である。
そもそも農家であれば田畑を巡るために車が無しではつとまるものでは無い。
会社勤めでも通勤を公共交通機関でできるのは恵まれたごく一部である。
贅沢という話ではなくて一人一台の自動車がないと身動きが取れないのである。
毎年の自動車税や車検時の重量税は家計に響く。
だから税負担を少しでも減らす為に軽自動車に逃げてきた。
その逃げ道をなくすことになる。

一方で都市部ではそもそも軽自動車は少ない。
バカ高い駐車代を考えれば軽を購入するのは馬鹿馬鹿しいだろう。(軽でも普通でも駐車代は一緒だ)
どうせなら家族で長距離出に使えるものや、もしくは嗜好傾向が強くなる。

もはや税制をガラポンで見直すべき

軽自動車と普通とでの格差が大きすぎるという不満もある。
今回のTPPの意見もその格差が問題視されている。
それならば普通を軽並に下げるべき、という論議もある。
環境とか言うが高額な電気自動車やエコカーは贅沢品ではないのかという考えもある。
前述したように税制設置時の根拠もなにかも崩れているのである。
そもそも目的税から外す時点で見直し議論すべきことなのである。

TPPがきっかけならTPP各国の(自動車先進国の欧州も参考に)関連の各種税制をおおかた調べてそれにすりあわせていくという考え方も当然起きるべきではないのか。
TPPの基本ポリシーから言っても参加を決め、指摘を受けたのなら当然やるべきである。
だからこんな論議の展開になることが私には不可解で仕方が無い。

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2013/09/08

「科学系の部活がない中学校が70%を超える」という

リンク: 機構報 第979号:「平成24年度中学校理科教育実態調査集計結果(速報)」の発表について.

どちらかというと中学よりより専門的になる高校のほうが気になるのだがそれは置いて

学校に科学部を設置する場合に障害となる事項として、最も高かった項目が「顧問となる教員の不足」(69%)でした。

教員側の人材不足で科学部自体が設置されていないというのは非常に残念だ。
要するに文科省の怠慢であるということであろう。
だが、そもそも科学部、というか科学系の部活で、科学系に詳しい顧問が必要なのだろうか、という疑問が生じる。
まあ化学系で危険度のある薬品を扱うのならば別だが、それ以外では部活の顧問としての一般スキルがあれば、あとはどうでも良くは無いのだろうか。

そもそも学校における部活顧問というのは学校という組織に属する“事務員”であり、学校としての管理や統率、団体行動の教育・指導、生徒らの安全保護などを目的としているといえまいか。いや、そうすべきではないのか。

専門的なところはコーチや運動部なら監督などが担うのが本来である。
(その辺の曖昧さが教師による体罰にも繋がっているわけだが)

科学部を始めとする文化部などに置いてもコーチ(講師)を招聘できたほうが良いし、今の体制でできないのならそれをやりやすいようにすべきではないでしょうか。

理科に対する価値・重要度についての質問項目で、「理科を勉強すれば私の好きな仕事に役立つ」に対して「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と肯定的に回答した割合は28%で、平成15年度実施の調査 の34%と比較して低くなっています。

この結果は大変残念に思う。
理科を勉強することにより、論理的思考能力や数値を読む力やものごと観察する能力を鍛えることは全ての分野において重要な事の筈である。
仕事もそうだし、日常生活においても、である。

科学とは真逆に思える芸術的な分野でも科学的な考え方は役立つ。
生まれつきの天才的な感覚があればともかく、そんなに才能はないけどデザインとかやりたければ科学的なやり方でこなしているひとは結構みられる。

テレビで紹介されていたが、くまモンを手がけた方はある意味凄い。
目と鼻と口とほっぺの赤丸の位置をそれこそ1ドット単位ですこしづつずらしてプリントアウトし、それこそ四方の壁一面に貼り付けて見比べながら消去法で選んでいったそうである。
天才的にちょいちょいと書いて作ったのではなく、理詰めで作り出したともいえる。

問題はそれを教えられていない教育や環境に問題があるわけだろう。
私は科学こそ「考えずに感じろ」だと思う。
文字で覚えずにイメージで捉えるものだと思う。
その一方で文字化して論理でいじくってそれがまた現実に起こりえるという楽しさ。
それが論理を構築する(知る)楽しさである。

論理を構築して普通の感覚ではありえない予言をして、それが現実だったという典型例がアインシュタインの業績である。
例えば相対性理論であり、「重力で光が曲がる」「光速を超えることはできない」「光速に近い速度で動くと時が遅くなる」等の常識では測れない現象を理論的に予言した。
もちろんこれらは今では観測などを含めて実証されている事柄である。
他にも例えば「質量とエネルギーは等価である」つまり「質量自体がエネルギーに変化しうる、それは莫大なものになる」となり、これが原子力エネルギーに行き着く。
例えば「光は粒子である」これが原子への光子の衝突で電子が移動しうる、つまり光を直接電気エネルギーに変換できるとなり、これが太陽電池の基本的な原理である。
現在対極にあるように言われる原子力発電も太陽電池発電も元はアインシュタインの業績から派生しているというのはなかなか皮肉なものだ、とも言える。

“未来を予測(予知)する”という殆どの人間が欲しいと思う能力の一端は、科学を知るほどに得ることができる。

それの典型的なことが“天気予報”であり“地震予知”である。
これらは様々な科学分野の粋である。
気象学自体、様々な物理現象が複雑に組み合わさったものであるし、一方で過去の天気のデータの収集や分析は情報科学であり統計学である。
この両方が組み合わさって明日の天気が導き出される。

現代社会になるほど、特に日本のように高度な工業製品が大量にあったり、農業にしても高度化しているほどに“科学”というのは重要な役割を占めているはずである。
それらをなんとなく享受してせずに、いかに科学の要素が支えているかをもっと具体的に分解して教えられることが重要な事ではないのか。

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2013/09/05

東スポ「隠し子」報道もおかしいが

リンク: 東スポ「隠し子」報道は「闇の陰謀」? 山本太郎議員と支持者たちの驚くべき理屈 : J-CASTニュース.

山本氏の話でこういうのが出てきたのは選挙違反疑惑もあってのことだろう。
いわゆる報道へのタレコミをしても、なぜ選挙管理委員会に通報しないのだろう、不思議には思わないだろうか。
夜中にビラを配っていたいのは何日か続いていたそうだが、それならきちんと初日に通報していれば一発検挙である。

なお、初めてのネット選挙のこともあって、今回は選挙違反はなかったという声明が選管からでていることがわざわざ報道された。
つまり山本氏の周りの話は全部シロだったということであり、タレコミに乗っかった報道側はむしろ名誉毀損でさえある。

そして「隠し子」報道。同じくJ-CASTから引用すると

   山本氏は12年5月に一般女性と結婚したが、同年8月24日に離婚。その後、脱原発運動を通じて知り合った「稲森いずみ似のスレンダー美女」の39歳の一般女性と交際を始め、12年11月に妊娠が発覚。12月の衆院選前には妊娠を伝えられていたという。

   13年7月21日に無事、元気な男の子が誕生が、「バツイチ同士ですし、結婚という制度に疑問を持っていて、形にこだわりたくなかった」との理由で再婚はせず。女性と子供は西日本に住んでいて、同棲もしていないそうだ。

要するに、山本氏は(少なくとも事実関係上は)不倫すら行っておらず、離婚後に付き合ってできた女性との子供が生まれたというだけの話。
女性側もいわゆるシングルマザーでも構わないという感じなのだろう。
つまり一般社会的にも批判されるようなことは全くない。

「隠していた」という批判もおかしな話。
別にマスコミに家族紹介する義務もないわけで(別に必死に隠していたわけでもなく)なんでこんなにネガティブな言い方で報道をされるのかが疑問でしかない。

「闇の陰謀」はともかく、恣意的におかしな(ネガティブな)報道行為が起きている、というのは言えるだろう。

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2013/09/04

原発汚染水漏洩問題対策-茂木経産大臣

BSプライムニュースに茂木経産大臣が出て色々言っていたが、結局は「できることはできるだけやるけど完璧は無理だよ」ということのようだ。

あちこち論理のすり替えやら自己弁論やらして見苦しいところが多々あったのだが、本人はうまく切り抜けたつもりなのだろう。

司会や評論家の言葉の端を掴んで関係ない話にも飛び火させてずらしていった。

例えば「東電を破綻処理した上でやるべき、オペレーション(電力供給)は継続される」と言ったのに対して「評論家はそうはいえるけど実際はそうはいかない」と言って色々と理屈を並べ立てたあげくはぐらかした。
破綻処理というのは、要は現場と関係ないところのクビをすっ飛ばしまくるだけの話で、それは普通に大きな会社で従業員をやったことがあれば普通に「お偉いさんなんかかんけーねぇだろ」と思うところである。
それを「できない」と断じるのはいかにも政治家、利権役人の言い方だなあとしか思えない。
数万人規模の会社ならいわゆる「役員以上」が全部すげ変わったところで現場はなんにも変わらないもんだよなあというのは誰もが思うところだろう。
もちろんじわじわとは変わってくるものなのだが。

その中で余計なことを言ったのが再生可能エネルギーの話で大臣が勝手に話し始めた。

再生可能エネルギーを否定したい一心なのだろう。
今度は新しい手を繰り出してきたようでそれは安定化のための充電池が必要という論理である。
再生可能エネルギーの代表格である風力や太陽電池発電が安くなって目処が立ってきてしまっているのでなんとかシステムコストをあげて否定しようという算段なのだろう。
安定化供給のために蓄電池が必要というトンデモ論理を持ち出してきている。
原発信者がいうのならともかく、経産大臣がこういうことを言い出すとは、呆れてものが言えない。
まあこれも経産省の利権役人の入れ知恵なのだろうがそれを真に受けるとは間が抜けているにもほどがある。
ついでに蓄電池はこれからの産業分野で期待が持てる、日本の希望だとまで言い出して、ここまでくると役人のスピーカーにしか見えなくて滑稽ですらある。(汚染水処理という深刻な話題の論議の中で嬉々として話し始めたので余計に滑稽である)

再生可能エネルギーでいえば各国ともどんどん国費を突っ込んでやっているのだ。
アメリカでも風力は盛んだし太陽電池は日本が国際競争力で脱落したのをみるように欧州などで盛んだ。
シェールガス革命も1970年には無理だといわれながら正に革命を起こし、原子力はもはや不要の空気である。
地熱なんかは安定発電の極致で一度作ればタダ、技術・資金援助で作るというスタイルにあうのでアフリカで盛んである。
茂木大臣は地熱は話の流れで分が悪いと見たのか一言も言わなかった。
今は数%だからそれがすぐに20%とかになるものじゃあない、といっていたが、そんな感覚でお金をいつまでも投入しなければできるものもできやしない。

さて、汚染水処理問題に話を戻す。
これで大丈夫というところには今回の出した計画でも不足なようで、十分な効果があるという曖昧な表現をしていた。
かかる時間はとりあえず今回の計画は最大で5年というところらしい。

凍土壁には当然ながら冷やし続けることが必要でそれには電気が必要なのだが、その電気量については残念ながら触れてくれなかった。

おかしなのは国が介入するのはこの漏洩が大問題になったからではない、と言い出したことである。
春辺りから予算を組んで云々とか言い出したが、それはおかしい。
国が介入することを総理が宣言したのはついこないだのことである。
正確には介入する準備はしていたが様子を見ていたところこれだけの内外の大批判を受けたので動き出した、としか見えない。
それが「予備費」という枠からの拠出ではないのか。

発送電分離への道のりについても触れていたが、最大で7年かかるそうだ。
決して長くはなくて、色々インフラ作りが必要でと色々列記していたがそれを足し算すると6年か誤差で7年にもなりそうな感じだ。
じゃあ、いまからもう着手してるんですね、と嫌みを言いたくもなってしまう。
どうせやってないんだろうけど。

本気でやるのならすぐにでも発電会社の新規参入規制の大幅緩和を行うべきである。
どうせ環境アセスメントとかいってガチガチに縛る気が見え見えである。

主題の汚染水漏洩対策に関する話は結局たいしたことは聞けなかったのだが、相変わらずなんにも変わりそうにないということはわかった。
それでも数百億規模の税金が投入されるのでそれなりにマシに見えるようにはなりそうだ。

こうやって国費投入やら電気代値上げやらで国民を締め上げつつ原発関連には金を流し続け、原発再開に賛成の雰囲気をゆっくりと作っていこうという方針のようだ。
原発ムラの人達も今は急いで反発を食らうより、うまくゆっくり首を絞める方向で動いているようだ、ということなのだろう。

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