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2012/12/31

今年一年振り返って

私の本ブログでのネタを見ると原子力発電-エネルギー政策関連の話題を多く取り上げていた。
先だっての衆議院選挙の総括で「原子力存続」は重要政策では無いというアンケート調査がよく言われていたのだが、もし殆どの国民の中で風化してしまっているとしたらとても残念に思う。

こういう問題を注視している一人として、映画の「希望の国」を観たのだが観たときは正直に言うと「うーん」という感じだったが、ここのところの安倍総理の発言を聞いているとなんだかとてもリアリティを持ってきてしまう。
映画の中では「福島の原発事故から○○年、とある日本国内で2度目の原発大事故が起こる。原発村に住む人々の人間ドラマ」が描かれている。
このままではまた事故はいつか起きる。そう思えて仕方が無い。

前にも書いたが、原発が安全かどうかなどという論議はもうどうでもいい。
安倍政権下ではどうせ議論されないでいくのだろうから。
耐震性があるかとか津波に強いかとか活断層の下が云々とか、はっきりいってどうでもよい。
どうせ机上の空論での安全性の保証しかできないのだから。

問題は仮に事故が起きた後にどうするのか、だ。
それらが全く論議されていないことに非常に危惧を感じている。
それはすなわち、未だに福島の原発事故の被害者に対して全くといって良いほど解決に至っていないことにも繋がっている。

検察が東電幹部や首相などを提訴検討しているというがこれも茶番だ。
まあ、副社長が有罪になれば良い(?)方だろう。

解決とはなにか。要するに賠償金である。被害者の救済金である。どんな名目で良いから避難を強制された人達の生活の再建をすること、また汚染された地域の原状回復に対する十分な補償である。
言葉での謝罪や責任追及やらははっきりいってどうでもよい。どうせできないんだろうから。
もう2年弱も経った今ではもはや「なんでもいいから、さっさと金を出せ」だろう。

今度事故が起きたらどこからそのお金を捻出するのかをはっきりさせるべきだ。
また事故による電力会社の破綻も次は許されない。
今回の事故で東電は破綻し、税金がつぎ込まれている。
次の事故で電力会社が破綻しないようにするにはどうするのか、それをはっきりさせるべきだ。

しかしきっとその論議はマスコミも含め伏せていくだろう。
「安全」の議論なら最後は適当にごまかせばなんとでもなるからだ。
どこまでいっても、所詮は架空の基準を作るしか無く、それを満たせば良いだけだからだ。
そしてその議論を尽くしたことにすればオッケーだという世論は形成しやすいからだ。
実際、安倍内閣はその認識でいるようだ。

金の議論はそうはいかない。
既に初期の補償や事故処理だけで兆単位の金が必要とわかってしまっている。
長期的な事故処理(廃炉処分)や完全除染を言い出したら数百兆という試算も知られている。
既に東電が経営破綻した事実と、どれだけの税金がつぎこまれているかも明白だ。
次はそれへの対応策を出さねばならない。
その金を民間企業としてどこから捻出するのか。
実際には損保会社やらだろうが、いざ起きたら今度は保険会社が破綻するだろう。
釣り合うだけの保険金を請求したら原発など高くて運営できないだろう。
この論議の道筋にはごまかしが効かない。解決する手段がおそらく無い。
だからこそ、その議論をすべきということを多くの国民に知られてはいけないと考えても不思議では無い。

また、安倍内閣での問題は「国の保証で原発を再開する」と言っていることだ。
原発再開するとしても、最悪でも国が保証するのは大反対だ。
国が保証すると言うことは、また事故が起きたら国が金を出す、つまり税金が投入されるということだ。
それはすなわち、また同じ轍を踏むということだ。

今の技術の原発は事故が起こしたものとは違う、等と言っているがそれこそが大間違いだ。
今の技術であれば福島の事故は防げたのかもしれない。そこは否定しない。
しかし別の要因での事故が起こりうるのである。
それが「ヒトが創りしもの」の限界というものだ。
どんなものでも事故はゼロにはならない。
ゼロに限りなく近づくのが技術の進歩であるが決してゼロにはならない。
それが事故というものだ。

事故が起きないようなあらゆる方策は当然のことだ。
その上で事故が起きたときの方策をきちんと打つことも当然のことなのだ。
またこの後者がなおざりにされたままで原発再開に至るとすればまた同じ過ちを繰り返すことになろう。
間違ってはいけないのはいままでも前者が決してなおざりにされていた訳では無いということだ。
(もし本当になおざりにしていたのなら誰かが牢屋に入らなくてはならない。)
「今思えばなおざりになっていた」だけでその当時で現場では精一杯の対策をしていたと私は思っている。
それでも事故は起きる。
だからこそ今までやっていなかった「事故が起きたときの方策」をやるべきなのだ。

別の言い方をすれば今は「自動車に保険に入らないで運転している」状態だ。
今時の裁判結果を見れば対人無制限で保険に入るのはある程度常識ともいえる。
保険に入らないでわずかコンマ数秒の不注意で人生を破綻させてはならないのだ。
事故は運転手の注意だけでは防げるものでは無い。
「俺は事故なんか絶対に起こさない」という奴ほど危ない、とはよく言われることだ。

無事故で40年やってきたのならその言い訳もまだ通るかもしれないが、
しかしとうとう重大な事故をやらかした。もはやその言い訳も許されまい。

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2012/12/23

選挙投票率に関連して

今回の選挙に関連した話題で、ラジオ等でいくつか興味深い話を聞いたので書いておく。
とりあえず衆議院選挙は終わったものの、半年後には参議院選挙があるので。

・一回の選挙を棄権すれば360万円の損失

まあ、損失というのは言い過ぎだが、要するに一回の選挙を棄権すれば360万円の使い道を誰かに勝手に使うことを許してしまうと言うことだという。
国家予算というのは年間90兆円。国民一億人で割れば年間90万円。
衆議院選挙は通常は4年ごとだから360万円となる。
国家予算は役人が決めるじゃ無いかというかもしれないが、理論上は国会での決議が必要。
国会議員、ひいては国民が決めていることにはなる。
その国会議員選出を白紙委任するするわけだから、自分の意思が全く反映されず損失という理屈だ。

自分は年間90万を国庫に納めていないからいいじゃないか、と思う人もいるがそれは違う。
この半分は国債、要は借金だ。借金とは未来への先送りだ。
若者こそがここに敏感にならねばならないのに、投票率は若者ほど低いという。

・年寄りほど投票率が高く、若者ほど低い

別にこのこと自体を批判するつもりは毛頭無い。
面白いと思ったのはこういう数字がきちんと出されているということだ。
考えてみれば誰が誰に投票したか、は不明だが、誰が投票して誰が棄権したかは明確に分かる。
どれだけの人が投票したか、は昔からいわれてきたが、これをきちんと年齢別に集計して公表されているというのは私は今回初めて聞いた。
細かい数字は覚えていないが数字できちんと言われていた。
さらにこの数字は国会議員も当然ながら知っているだろうし、様々な行政や立法に反映されるということだ。

つまり年寄りに迎合し、若者に対して厳しい世の中になるのはごく自然のこととなる。
誰だって数の多い意見を聞くし、それが民主主義での普通に最後の決断方法だからだ。

よく自分が誰に入れても体制に影響は無い、という人もいるが、確かに誰が議員になっても同じかもしれないが、こういう数字を元に自分達が不利な結果になるということは頭に入れておいた方が良い。
少なくとも自分達の年齢層の投票率は上げておいた方が良い。
誰にも入れたくは無いというのなら、白紙投票するだけでも良い。
誰が白紙で入れたかは分からないからだ。

・白紙投票は1%程度

私はてっきり白紙投票は投票率から除外されていると思っていたが実はきちんと勘定されているということだ。
つまり白紙投票はそれなりの数字的意味を持つということになる。
その話題の時も「強い意志を持って現在のどこの政党にもNOと言っているに等しい」というようなコメントがあった。
この数字が無視できない数字になればなにかが変わるかもしれない。

・投票率が低いと誰が得をするのか。それは既得権益を持つ人達

今回は自民党・公明党の大勝利となったが、得票数は前回の民主党大勝と変わらなかった。
珍妙な現象と言える。
前回民主党に入れた層が、自民・公明・民主以外のどこかしらに分散し、多くが死票となった結果という現象と言えよう。
公明の創価学会を主とする固定票は言うまでも無く、ひところよりは弱まったと言われながらも自民の固定票の強さを感じる。
例えば投票率が60%だとすれば、30%の固定票があれば選挙には大勝できる。特に小選挙区制では。
つまり国民の1/3の人達の意思だけで国勢が決まってしまう。
いわゆる浮動層が半々に割れるとすれば実際にはもっと低くてもよい。
だからこそ既得権益などない一般の国民がきちんと意思表示をしないと、一部の人達にいいように国家予算を使われてしまう。

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2012/12/15

ネットと選挙運動

リンク: Business Media 誠:どうなるネット選挙!? 津田大介が聞く:ネットでできる選挙の話、ネットでできない選挙活動 (3/3).
今ひとつ理解できないのだが、ブログやTwitterの“情報”が文書図画になるのは理解できるのだが、文書図画頒布になるというのが理解できない。

禁止すべきは一方的に送りつけてくる行為であって、例えばメールでの宣伝行為などは問題だろうし、ネット上で広告を打つ行為などは規制の対象となろう。
むしろ電話での選挙活動が問題ないとされているのに、メールは不可で、その割に郵便での挨拶状などは不可というのはそのポリシーがよく分からない。

ホームページやブログなどは「(選挙)事務所で書類や日記の類を自由に閲覧できるようにしている」状態ではないのだろうか。
公報書類の作成そのものに制約を設けているのでは無くて、その頒布に関して制限をつけ、方法やその書類(図面)に制約をつけているわけだ。
では、その規定外の書類自体を作るのは頒布しない限りは問題ないはずだ。
候補者に興味を持った各人が事務所に行って見るのは問題なかろう。
ではそこにコピー機を置いて欲しい人はそこに行って自由にコピーを取っていって良い、とした場合にはそれは頒布になるのだろうか。
さらに一歩進んでコピーではなくて、その図画の作成したデータをパソコン上でプリントアウトしたのはどうなのだろうか。
それが頒布では無いのなら、ネットでみて自宅でプリントアウトするのととこが違うのだろうか。
そうなると境界線を引くのが分からなくなるのでインターネット禁止というのならそれはとんだ思考停止というか怠慢にも程がある。

公職選挙法を眺めていると、おおまかなポリシーは“否が応でも目に入る”“見ることを拒否しづらい”ものは禁止というように見える。ネットで言う“プッシュコンテンツ”は原則禁止で特定条件のみ許可となっている。
Twitterでも掲示板でも、いわゆるスパム書き込みのようなものは禁止すべきだろう。
しかし立候補者が主体であるスレッドなら許可すべきでは無いのか。
ただし選挙期間中はそこへの誘導行為はは禁止するべきかもしれない。

いずれにせよ、立候補者本人によるブログやホームページの更新はポリシーに反ししているようには全く思えない。
興味を持ってそこに見に行かない限り、更新しているかどうかすら分からないのだから。
そういうものを「頒布」とみなして禁止するというのは法律の濫用に当たるのでは無かろうか。

公職選挙法違反かどうかは選挙管理委員の裁量にかかるところが多いらしい。
はっきり違反と分かる行為でも「お目こぼし」された例は実際にみかける。
マスコミが映像付きで報道した中で明らかな違反行為だったにもかかわらずその議員は当選し指導すらされたという報道も無い。
つまり「睨まれたくないから管理委員に従う」という図式が実際には起こっているのでは無かろうか。
そうだとしたら、なんとも不健全な話である。

なによりも困るのは今回の様な混乱選挙の時である。
今回は全国的に立候補者が非常に増えた。
新人もいれば復活を狙う人もいる。
そして準備期間が非常に短い。
街頭演説もこの冬空の下で聞くのは非常に大変だし、機会も非常に少ない。

「この人、一体だれ?」という人が選挙ポスターで並んでいる。
ネット時代なら検索してその人のブログなりを見ればそのひとなりがある程度分かる。
ホームページを作って主義主張やら政策やらきちんと整理してくれれば非常に参考になる。
ホームページに掲示板を作って、有権者からのQに対してきちんとAを返せるかどうか、そういうのがあればとても参考になる。
炎上がどうのこうのを言う人もいるが、そういうトラブルに対処できる能力というのも代議士として重要では無いのか。
もちろん本人になくても周囲のブレーンなり秘書がきちんと対処できればそれも本人の能力である。それが代議士なり国会議員という仕事である。
政界の若返り云々も言われるが、実年齢で切る“定年制”はナンセンスである。それよりこういう新しい社会構造に対応できるか、対応していこうする気概があるかどうかが重要なのでは無かろうか。
対応できない、しようとしない議員が選挙で落される、というのが健全な姿では無いのだろうか。

そういうのがなければどうやって判断すれば良いというのだろうか?

若者の投票率が悪いというのはよく言われるが、当然では無かろうか。
こういうナンセンスな解釈をされるような公職選挙法も問題だし、違法と解釈をしている選挙委員会も多いに問題であり、投票率を下げる悪因となっているのでは無かろうか。

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2012/12/11

敦賀原発:日本原電、経営危機の恐れ・・からみえる原子力ムラの構造の一端

リンク: 敦賀原発:日本原電、経営危機の恐れ- 毎日jp(毎日新聞).
活断層騒ぎでクローズアップされるべきが、この日本原電=日本原子力発電の構造・実態ではなかろうか。
正に原子力ムラの歪みというものがここにも現れているといえまいか。

そもそもこの日本原電。
Wikipediaによれば日本の原子力開発を担う会社として発足したらしいが、現実にはこの会社は今回の騒ぎの敦賀原発2基と東海村の発電所1基しか所有していない。
別の言い方をすればこの敦賀と東海村の発電所で電気を売ったあがりで飯を食っている会社と言える。
原発はほとんどが電力会社自身が所有しているわけで(考えてみれば当たり前の話だ)、日本中で50基を超える原発のうちの3基だけを持っている会社である。
不思議なのは(沖縄を除く)電力会社各社の出資による会社なのに、関連する電力会社は東京電力と関西電力だけなのである。なんとも奇異である。

将来展望としては第3,第4の敦賀での新規発電所の造成を考えていたとのことで、福島事故が無ければそれで食いつなぐつもりだったのだろう。
しかし米国ですら原発事業は将来が無いと言われ新規建設は世界中で自粛の流れとなっている。
新興国でも原発はリスクが高いためあまり人気が無いようだ(中国はむしろ奇異な存在といえる)。
言ってしまえば原発への懐疑が起きた時点で終了するような脆弱な存在と言える。
仮に事故がなくても1号機は40年を超えており(大阪万博の年の建設)稼働していたのも不思議なレベルである。

さらに東海村も再開せずに潰して欲しいと村長からいわれている、つまり地元の理解を得られない状況だそうだ。
放射能漏れといえば東海村のような過去に何度かトラブルを起こしているのも信用されない理由では無かろうか。

そして今回の敦賀の2号機の活断層騒ぎである。
所有している原発全てに“いちゃもん”がついてしまったわけだ。

それらはともかくとして、会社が破綻して後処理(廃炉処理)ができないというのは会社としてどうなのか。
きちんと収入から内部留保を行い、万一の事故対策や廃炉に備えるのが当然では無いのか。
要するに原子力発電は発電コストが安い、というインチキがここにもあるわけだ。

この会社も仮に事故が起こったら会社破綻で終了。
破綻処理は国が受け継いで血税でやるというふざけた状況が繰り返されるわけである。
原発は発電コストが安いというインチキを血税で補うという構造である。
そして破綻のツケは株主たる電力会社各社にもいく。
それがまた電力会社各社の経営悪化に繋がり電力料金値上げへと連動していく。

こうしてみると原子力発電というのは単に“次世代にツケを回す”とんでもない発電方式としか思えなくなってくる。
核廃棄物の問題だけでは無く、構造的にどんでもない仕組みをこっそりと仕掛けられてきたのではなかろうか。

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2012/12/02

高すぎる各社電気料金値上げ幅

原発停止という理由で各社の値上げ申請が相次いでいる。
これに対して「おかしい」という批判がでないのはなぜであろうか。

原発停止が理由ならばその値上げ幅は原子力発電の無い沖縄電力並みでないとおかしい。
ちなみに電力単価は本土が概ね22円kw/hに対して沖縄電力は24円kw/h程度なので上げ幅は1割弱程度となるのが妥当な線である。
どこもそれを遙かに上回る上げ幅であり、到底納得できるラインでは無いだろう。
(東京電力は事故処理や廃炉処理に多額の費用がいるから、と理由はついている)

もし燃料費高騰を含むのであればその分は「燃料費調整額」をあげれば良い。
ベースラインであり、容易には変更できない(ましてや下げることはまずない)電気料金の単価をそこに含ませるのは妥当では無い。

なぜそうではないかといえば電力会社が隠しているなにかがあるのだろう。
そこをきちんと明確化するのがマスコミであり、申請を受けた経産省の仕事であろう。

ひとつは原子力は停止していてもコストがかかるというからくりを隠していることがあろう。
原子力発電所というのは実は停止していてもコストがかかる。
もっといえば本来発電する施設が逆に電気を消費するだけの施設になるのである。
その電気は他の施設で発電した電気を使うことになる。
原子力発電という根本的な欠点のひとつなのだが意外と知られていない。
まあ、これだけで値上げする理由にはなるとも思えないのでもっと他の理由があるのだろう。

ここをごまかしたまま経産省は認可するのだろうか。

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