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2009/04/30

教育問題についての番組の件

昨晩、関口宏氏司会の教育についてとりあげていた番組をなんとなくみていた。
いろいろ思うところはあったのだがちょっとだけ。

・数字で判断してよいのかという論点
偏差値やテストの点数など数字で判断してよいものだろうか、という議論もよくされている。
この番組でも話題としてでていたが、私は数字で判断すべきだと思う。
学業の結果は数字として出てくる。
それはそれで受け止めるべきだし、良い数字を出せば褒めるべきことだ。
そしてそれはある範囲においてはわりと正しく判定しているのだ。
いわゆる落第点であればそこまでの学科の習得・理解に不足があると認めるべきであり、再試験などを行って一定レベルにまで引き上げておく必要がある。
そうしないとその後の学業に支障をきたす可能性が高い。
落第点でなくとも満点でもなければ間違った点は不足しているところと受け止めて再度理解に努める。
それが本来のテストの意味であると私は信じているのだがそういう認識の人が意外と少ない。
どうしてそう間違ったか、また、答えが書けなかったのかを認識しそこを勉強しなおす。
その周辺を含めて補強しておく。
満点を取れていれば十分であると解釈してほぼ間違いないだろう。

そうすればわずか一点の差で喜んだり悲しんだりするのではなくもっと大局的に捉えられる筈だ。

そこで問題なのはその数字だけで全てが判断できると考えては駄目だ、ということではないのか。
テストなどはある断面の検査結果に過ぎない。
その限界をちゃんと捉えないといけない。なにをテストしているのかもちゃんと判断しないと駄目。
きわめて単純な例で言えば、算数のテストの結果が悪かったからといって人間性まで否定するようなのは明らかな間違いだろう。
人間性で言えばテストして数値化できるものはごく限られている。
数値化が割りと簡単なものだけを選んで数値になっているだけでテストはその一部、成績表というのはそれが掲載されているだけと捉えなければならない。
なのに、数字はやめて「がんばりましょう」とか数字を言葉に置換えしても意味がないのではないだろうか。
なお、よくいわれることだが「がんばっている」のに「なにをがんばったらよいかわからない」のに「がんばりましょう」といわれるのが人間、一番つらいのである。
励ましているつもりでこういう言葉を選んだのかもしれないが実に無神経に感じるのは私だけだろうか。

ついでに絶対評価と相対評価について
相対評価はクラス内の順位付けということできわめて狭い範囲での順位付けになるので間違っていると思う。
やるならせめて校内での順位付けにすべきだ。
絶対評価というのはやり方しだいだと思うが、先に言ったように理解度に応じてつければよいのではと思う。
単純にテストの点でかまわないが、テストの難易度もしくはテストの設問の出来というものも点数を左右する。
点に応じた評価を教師として自己基準を設定し数値評価すれば良いだけだと思う。

実際にある教師はそういうやり方でやっていたと教えてくれたことがある。
ついでにいえば授業中に板書で答えを書かせるさせるやつとか、口頭で答えるやつとか、小テストとかそういうのも加点対象にしていたという。(難易度が高いと加点が高い)
それらの総合点にボーダーを決めて評価。
だから普段の授業で積極的に回答していれば期末テストなどでなんらかのハプニングでひどい点をとってもそうは評価が落ちないという。
また画一的に点では決めず、計算で出た評価に違和感があれば心証でひきあげたりもしていたという。
要はテストというのはひとつの手段であり結果であって、教えている内容を理解しているかしていないかどうかを把握して評価するのが目的なのだから、という主旨だったと思う。

つまり数字云々ではなくどう評価するか、であり、数値化の考え方、テクニックだと思う。
どうもコメンテーターや脚本を書く人は文系の人が多いのかこういうテクニックやらに疎い人が多いようでこういう論議になりにくいのが残念だ。

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