創造性と汎庸性
中東では「コーランを読めば悪者になるという趣旨か。イスラムへの攻撃だ」などの書き込みが300以上のサイトに広がっており、私にはこのほうが空恐ろしい。 私はこの作品を見た(結構前だよね)がそんな趣旨など微塵も感じなかった。 読んでいたのはコーランであろうということは容易に想像がつく。 では「彼」がコーランを片手にという表現がなぜ必要かといえば
・イスラム圏であるという雰囲気を出すこと
・彼が割合に高い社会的位置にあるということ
を示すことだったのではないか。 (少なくとも私の感覚では)宗教に関する本を常に片手に携えているのは高貴であり社会的地位が高い人である。 私たちが中東の方々の感覚を理解せずにこのような作品を輩出するということが問題であるという一方で、中東の方々も日本人の感覚を理解せずに批判するのはどうかと思うのだが。
ちなみに「ディオ」というのはこの作品のシリーズを通しての「絶対悪人」であり、悪魔と同系列に絶対改心しない悪人である。(漫画では改心する悪人も多いためにあえてこう書く)
コーラン云々で悪者になるという自体がナンセンス。
この作品を知らずに批判しているとしか思えないわけである。
むしろディオがコーランを読むという設定が「悪人ディオがコーランを好むという設定がコーランに対する侮辱だ」というのであればそれはそれで納得するが。
そしてもうひとつ問題といえるのは
2007年3月ごろから、アラビア語の字幕を付けた海賊版がネット上で流通。視聴者の1人が、サイトに問題の場面の静止画を投稿したことから批判が広かった。
ということである。
海賊版。つまりは著作権保有者が管理できないところでの拡散である。
記事には「作り手の配慮」を指摘しているが、管理外の範囲でのものである。
「頒布権」の考えにたつと、批判者がやっていること自体が自身の「犯罪の告白」に他ならない。
お詫びする以前にこのことを(権利を持つ)集英社の方々は批判すべきではないのだろうか。
万引きしておいて「このお菓子、腐っていたぞ」と店に文句をつけにいくようなものである。
店としては賞味期限を過ぎていたから店の脇によけていたのに、それを勝手に盗んでいきながら文句をいっているのに等しいからである。
こういうのを「盗人猛々しい」というのだろうか。
「いや、私は見ていないよ」というのであれば「あんたはみもしないのに人づての話で批判をするのか」という返しになるわけである。蛇足だが。
もちろん作り手の配慮というのはそれなりに必要なことだとは考える。
原作時点で日本人さえも眉をひそめるようなのは考えたほうが良い。
著作権者が海外に輸出するときには現地での作品と同様に配慮するのは当然のことだ。
商品のローカライズというのはそういうもんだ。
その地で商売しようというのならそれに対応しないほうがおかしい。
しかしこういう点を考えすぎると何も出来なくなるというのも事実だろう。
世界には150を超える国家がある。つまり150を超える異なった習慣・世界観・宗教観などをもちあわせて生活している人たちがいるということに他ならない。
これらにすべて問題ないようなものを作るということが果たして可能なのか、というと私には不可能だと思う。
グローバルデザインという考えもあって初めから考慮して作品を作るという考えもあるが、工業製品であってもグローバルデザインというのは「つまらない」。
ましてやとんがった異世界(場合によっては異常な世界)を楽しむ漫画・アニメなどの創造性の高い作品においてそんなことを考慮し始めた時点で面白さがスポイルされるのは容易に想像がつく。
私にはむしろこのことのほうが非常に懸念することなのである。
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タイトルの「汎庸性」は汎用+凡庸です。
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