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2007/11/24

運転免許更新の実効性~asahi.com:認知症の男性、高速道路を逆走 7人が重軽傷 岡山 - 社会

リンク: asahi.com:認知症の男性、高速道路を逆走 7人が重軽傷 岡山 - 社会.

またも痛ましい事件がおきた。
だいぶ前にもまったく同じ事件が起きていたと思うが結局まったく対策はとられていないのだろう。

システム的に考えればおかしな話である。
ほとんどの人はご存知なように運転免許は更新制度。
しかも周期は短い。
免許更新の実態を思い出してみよう。免許更新に必要な要件とは何か。
1.自分の住所氏名を書けること。申請用紙に書かなければならない。
2. 視力。矯正具をつけてもいいから0.7以上でなければならない。
3.外見上特に問題がないこと。怪我などで身体に異常があり運転に齟齬があると認められる場合は咎めがある場合があるそうだ。あきらかに異常行動があればとめられる可能性がある。
4.講習ビデオや教員の話をじっときいていられること。奇行があれば咎められるだろう。
これが更新の実態である。時間さえたてば更新された免許と冊子を渡され帰宅する。
よほどのことがなければ更新を拒絶されることはないだろう。
だから警察利権とかそんなことをいわれるわけである。

と、調べたら現在認知症判定の検査をおこなうことが今年法案として審議されているそうである。
しかし75歳以上。つまり今回の事件(加害者は74歳)を未然に阻止できないことになる。

認知症というのは病気であるし本人に責任はない。
しかし運転免許は運転の適正をもって交付されるべきものである以上、運転の適正を失った段階で失効するのが本来のあり方になる。
今回のような、相手の運転手にとってはまったく過失がないにもかかわらず重症を受けてしまうような事態は避けなければならないだろう。

それにしても75歳以上で認知症判定というのはあまりに短絡的というか対処療法的というかどうなんだろうか。
むしろもっとグローバルに運転免許更新テストみたいなものを導入すべきではないのか。
内容は運転免許取得のときほど難問を出す必要はないと思う。
たとえば駐停車禁止や追い越し制限、高さ制限、特定の禁止領域など普通に走行していれば頻繁にみかける標識・指示・状況について問題を出す。
これを間違えるようでは資格なしというか危険だろう、というレベルのテストでいい。
これだけでもかなり防げるのではないだろうか。

一方で高齢者教習みたいなものもよいのかもしれない。
田舎では自動車がないときわめて不便である、というか生活に支障をきたす。
だからこそ高齢者になって反応や動作が緩慢になったならば、なったなりの運転の処方というものがある。
本人はなかなか気づきにくいものというのならば免許更新の時間にシニア教習をすべきではないのだろうか。
こういった実態に即した議論なしに認知症対策だけすれば良しのような話だとどうも不安でしかない。

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2007/11/23

NHKの問題点が見え隠れする~ハイビジョン月面画像をネット公開しなかったNHK - ビジネススタイル - nikkei BPnet

リンク: ハイビジョン月面画像をネット公開しなかったNHK - ビジネススタイル - nikkei BPnet

この件には間違いなくNHKエンタープライズの意向が強く入っているのだろう。

NHKはいうまでもなく自分らが直接販売益を得ることはできない。
国民から法律で保護された金銭徴収によって資金を集めて運営して作成したからだ。
つまりNHKは公開によって損害をこうむることはないからである。
損害をうけるとすればこれをDVD化なりして販売するNHKエンタープライズになる。

JAXAはもちろん、NHKが国民からの徴収金によって運営されているにもかかわらず、著作権は自分たちに帰属し、それを売ることで自分たちに利益をもたらそうというのであればば、そもそも徴収金というものの撤廃という論議になりかねないということに気づかないのだろうか。
いま、総務省などを動かしての義務化とか罰則とかそんな議論はまったく門前払いということになる。
NHKエンタープライズは明らかにおかしな会社だ。民間会社である。
NHKはその一企業に、国民からの徴収金をとって作成したコンテンツを横流しして映像の販売をさせている。
もちろんNHKエンタープライズ社の作成物もあるが、それとて徴収金を資金源として作成されたものではないのか。
この点をつきつめていくとNHKの立ち位置の問題点や矛盾が噴出してくる。

私は国営すべきである、という論点に立つ。
民営化すればなんでもよい、という論議は郵便局民営化で間違っているということを認識した人も多いのではないだろうか。
国営で問題があるものを民営化すべきであるのは明らか(JRはその例)ではあるが、民業圧迫とまでいわれた優秀な郵便局を、資金の流れという違った観点から批判し民営化してしまった。
資金の流れを監視することが重要なのにもかかわらず、民営化して覆い隠してしまった。

ではNHKはどうであるか。
このようなNHKの過剰な著作権保護思想がまかり通るのであれば、NHKを国営化すべきである。
国営化した上で、税金を用いて運営し、著作物は国家名義とし、国民のものとする。
もしくはいままでのコンテンツをすべて吐き出した上で(国家管理、パブリックドメイン化)とした上でなら民営化するという方向でもかまわないだろう。
膨大な資産を継承して民営化などというのはまったく筋が通らない。(これを平気でやりかねないので釘を刺しておく)

国営論にはNHK廃止反対論や徴収の義務化に関する意見にはうなづけるものがあるためだ。
・ニュースなどの公共性。天災や重大な事故などに対して国民に広く情報を伝えること。
これはすべての国民に電波を届けるという義務を負い、それに努めてきたということに対する評価でもある。
民営化などしたら必ず地方切捨てが起きる。つまり民営化は論外なのだ。
・国家の広報としての役割。国会中継や政見放送など放送による告知経路を持つことはきわめて重要である。
私は現在のNHKはあまり必要性を感じないが、上記の二点に関してはそのとおりだと考える。
すなわち、民営化したらそもそもNHKというのは存在価値がない。

また、偏向問題や情報操作ともいける報道、意味不明な韓国番組への放映権支払い、オリンピックや日本高校野球など民業の圧迫等についても中途半端に視聴率を稼ごうという弊害であるとしか思えない。
これらは国営であればそもそも必要のないことだしこの件のような著作権への過剰な反応も必要なくなる。
著作権保護に関しては国内では考慮する必要はあまりなく、国外での無断使用に対して神経を尖らせるだけですみ、これはそもそも国家間問題になるので国営のほうが実は話は簡単になるのではないか。

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2007/11/22

やっぱり国内にとどまらない権利侵害~動画投稿サイトの権利侵害、民放連が対応策検討へ

リンク: 動画投稿サイトの権利侵害、民放連が対応策検討へ.

長いが流れてしまいそうなので全文引用しておく

 日本民間放送連盟の広瀬道貞会長は22日の記者会見で、インターネットの動画投稿サイトでテレビ番組の無断使用が増えている問題について「民放としてはっきりした姿勢を打ち出すべきだ」と述べた。特に中国や韓国など海外のサイトで日本の番組が不正使用されている点を問題視しており、早急に対応策を検討する考えだ。

 韓国などの投稿サイトでは、テレビ局の許可無しに番組が掲載される例が増えている。広瀬会長は「(芸能事務所など)権利者が危機感を覚えている。広告市場や(DVD販売事業など)番組の二次利用にも大きな影響がある」と述べ、民放連で来年の重要テーマとして取り上げる考えを示した。

 ユーチューブやニコニコ動画など国内の有力サイトではテレビ局の申し立てで直ちに番組を削除する仕組みができあがりつつある。ただ、海外サイトは権利侵害を訴える窓口も不明な場合が多く、有効な対策を打ち出すのは簡単ではないとの指摘も多い。(20:20)


全くそのとおりである。日本国内ばかり、細かいところや弱小者を叩いていないで、こういうまるごとパクって流しているような中国・韓国のサイトなどをもっと叩くべきである。

海外は難しいということなど言い訳にもならない。
国際問題でもあるのだから外務省など役所を動かしてでも訴えをするべきではないのか。
それらを容認して国内のみに厳しいというのではまったく筋が通らない。

そもそも中国・韓国は反日国家であり(特に中国の場合は共産独裁国家であるから、日本のような自由資本主義国家自体が批判の対象となる)、日本の文化は退廃だのなんだのといって批判しているような国である。
その国で日本の文化の権化ともいえる民放の番組が放映されているのである。
これは本来なら国家レベルとして、著作権問題以前に取り締まらなければならないのではないか。

以前、韓国には「存在」しないはずの某日本アニメの曲をネットで歌って「いじめ」をうけたという韓国人の女の子の話題があった。
まぁ、ニコニコ動画の中で批判したのだから批判する奴らに対しては「おまえがいうな」という感じなんだが、まぁ、それはおいといても女の子もネットに流れているのがあまりに日常なんで罪の意識が殆ど無かったのではないかと思う。
もちろん罪の意識が無いこと自体が大問題なわけで、これは当人もさることながら韓国の国家としての問題であるといえる。

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2007/11/17

私的モバイルの現状

モバイルは趣味と会社の実情との関係でやっていたのが現状である。
モバイルはPC等情報機器をもちあるく、どこでも使えるようにするという意味で使っている。

会社の情報統制が厳しくなって自前のPCの持込、ネットへの接続、社内のデータを移すのは原則禁止、ということもある。
それに従い会社側が用意したPCを持ち歩くことになっている。(無論セキュリティもそこにがっちりかけている)
そのPCは十分に軽いものでもないので、さらに自前のPCを持ち歩くような余裕は残っていない。
持ち出しにも申請やらいるのも障壁となっている。

そのため僅かな資料であれば紙に出力して綴じるだけですますことも多くなった。

ケイタイにカメラがついた、というのも大きい。
メモをとるためにも小型PCなどを持ち歩いていたが、既にかかれているものはケイタイのカメラに撮る。
たとえばホワイトボードに書かれたものはそれを写真に収めて必要ならあとで文字を起こせばいい。
出張先の帰りの駅の時刻表も行きがけに撮っておくと便利だったりする。バスの時刻表やタクシーの連絡先も同様である。
また、ちょっとしたメモならザウルスのイメージノート(Windowsでいうペイント)で殴り書きするのも手であったりする。2タッチで描けるので便利。もちろん図もかける。
画面が広く、なおかつタッチパネルのザウルスならではといえる。
ザウルスはなんだかんだで便利だ。
文字入力やテキスト整理もザウルスでやるわけだし、PDFや画像閲覧や修正加工もある程度はできる。
表作成や集計もある程度はできる。
もちろんPHSカードで通信もできるし無線LANカードも使える。
LinuxのコンソールでPerlなどスクリプト処理も勿論可能。
WindowsPCがわざわざ必要な場面が殆ど無い。
別の方面で、移動中の暇つぶしに動画や音楽ならiPodがあるので不要なわけだし。
ゲームもPCなんぞで電池を気にしながらやるよりGBAmicroなりDSLiteでもかばんに放り込んで持っていったほうがはるかに良い。予備バッテリーよりはるかに軽い。

ザウルスで問題なのはハード的な面だろうか。
LXの時もそうだったが生産中止になってしまってだいぶ経っている。
幸い、LXと違い販売ルートがかなり一般的だったので中古市場も維持されているようだ。
しかし薄いC860等の3桁シリーズがいつまで世間にあるかが心配になってくる。
4桁のは厚いデメリットが大きいので私には不適格なのだ。
もうひとつは電池。電池は劣化するのでここが問題。消耗品なので中古市場もあてにならない。
LXは電池が汎用品だったので無問題だったが。。
もちろんモバイル機ということで本体そのものも消耗度もはげしい。

まぁ、そのころにはWindowsMobileもまともになっているだろうからそれに期待しよう。
昨今の6でだいぶ良くなっている様子だから、7か8あたりなら使い物になるのではないかと思う。

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消極的Vistaへの移行

リンク: 山田祥平のRe:config.sys.

いわゆる提灯記事としか思えないこういう記事でもVistaへの移行は消極的だ。
3.1から使ってきたWindowsユーザーの私からみてもVistaへの移行は環境として退化としか思えない。
3.1以降、基本的にOSのバージョンアップは歓迎して受け入れられるものであった。
3.1,95,98,98SE,2000とバージョンアップしたほうが(若干の難があったとしても)メリットがはるかに高かった。
唯一の例外がMEであったが、同時に2000が出たため、そちらを選択すればよいだけの話なので特に問題は無い。
NTについてもこの流れから傍流であったが2000で合流しており、NTの不自由さと98の使い勝手がほどよくあわさってよいOSに仕上がっていると思われる。(内部的にはわからないが)
その流れに疑問符がついたのがXPであった。
XPは会社で毎日使っている。会社のPCはリースであり、とうにリプレイスされたのでXPは仕事に数年は使っていての感想である。
ともかく反応が遅い。マシンスペックは仮にもPentiumの3.2GHzでメモリも1Gbyte、AGPもGeForce、HDDは160Gと今でもそこそこのスペックのはずである。
しかし遅い。あちこちでひっかかるように動きがとろい。もっさりという言い方もあるが全体がとろいというよりなにかやろうとするとひっかかるようになにか開始されるまでが遅いのである。
自宅では2000をPentiumの2.4GHz、メモリ256Mとはるかに劣っているはずなのに、である。

私が自宅のをXPに移行する気にならないのはこのせいである。

それを使っているはずの多くのXPユーザーがVistaを否定している。
これではVistaに移行できるはずも無い。

XPの時、NewExperimenceとか色々いっていたが正直何がそれなのかいまだに理解できない。
ただの煽り広告文句だったのだろうという結論しかない。
アイコンやウィンドウが綺麗になったのなんて何の価値も見出せない。
しかもあちこちにいまだに細かいバグが散見される。(*1)


ところがだいぶ状況は悪くなってきた。
2000に対するサポートが切られ始めたのである。

・WindowsMediaPlayer10
とりあえずWMP9でも用は足りるが、だんだんと難しくなりそうだ。
・Gigabeatなど
WMPに依存して管理を行うプレイヤーにおいてそれが使えない、極めて使い勝手が悪いなどの問題がある。
まあ、iPod依存の私にはどうでもよかったのだが。
・Napster
基本は問題なのだが、プレイヤーに転送するモバイルサービスはWMPに依存しているようで使えない

・auのLISMO
まぁ、auユーザーでもないのでどうでもいいのだが、対応していない。
興味はあるし対応があればau所有も考えていただけに残念だ。
・iTunes
最近対応が切られた。というかインストールできない。
・フレッツIPV6システム
一部の動画コンテンツがIPV6に移行しているそうで、OS側のパッチが配布されている。
OSに入り込むだけに難しいだろうが、一部動画がみれなくなったというのは事実だ。
・Biglobe動画
プレイヤー(おそらくプラグイン形式)がOSおよびブラウザを限定する。
みれない。
ちなみに@nifty,Gyao,ImpressTVなどは2000でもみれる。
・RealMusicPlayer
先日11が発表されたが2000は対応外だそうだ。まぁ、どうでもいいが。

これらはおおむねこの一年以内に状況が変わったものである。
(実際は、例えばBiglobeは前からかもしれないが私が観始めたのが最近なので勘弁)

Vistaのサポートとセットで2000対応が廃止されているのが実態だと思う。
たしかにOSを2つ対応するのが精一杯なのが実情でVistaの対応をせまられれば2000を切るのが自然なのだとは思う。
しかしいまの良い環境を捨ててまで、しかも金をかけてまで移行するメリットを全く感じない。


といっているのはなんなので、とりあえず先月ほどに中古でThinkPadR40を買ってきた。
5万程度なのでまあ寝床マシンには丁度良いという感じであろうか。
寝床マシンはいままでThinkPad600(PentiumPro220MHz)なのでかなり厳しかった。
動画やDVDは見るのはおろか、携帯画面クラスの動画でもコマオチするのでこれは仕方なくという感じだ。
最近は「まずはこれを見て欲しい」という感じでYoutubeの映像資料をポイントされることも多く不自由を感じていたのが実情だったからだ。(TP600はWindows2000で使っていたので安定性には問題は無くWebを見る程度ならOKだった)

これを購入後、上記でみれない動画もR40をテレビに繋いでみているので特に問題も無い。
ちなみにR40はSXGA+と画面が格段に大きくなりこれもメリットが大きい。
まあ重いのは問題だが、最近はいわゆるモバイルもやらなくなっている。
この点については別項で。

続きを読む "消極的Vistaへの移行"

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2007/11/16

MIAU : 公式サイト

リンク: MIAU : 公式サイト.

というわけでとりあえず賛同なのでリンクを貼っておく。

パブコメが無駄だという意見がみられるそうで、この先のリンクにも反論が載っているので私としてもちょっとだけ追記を。

バナーでも貼っているCD輸入権問題においてもパブコメや署名、議員へのメールは非常に効果があった。
結局、法案そのものは通ってしまったが、これは文化庁の「だまし討ち」で
事の重要さに気がついたときはほとんどの手続の過程を通ってしまっていた。
つまりは時、既に遅しだった、というのが実情なのだ。
本来はあってはいけない「時間切れタイムアウトで判決強行」が実情だったのである。(私は採決の特に採決直近の数回の審議委員会を衆議院Webで見ていたからその実情をよく覚えている)
それでも議論の中でパブコメは重要な位置を占めていたのは間違いない。

今思いだしても腹が立つが、それはさておき・・・

今回はまだ入り口の段階からちゃんとみれているし、適時パブコメも募集してくれているようである。

だからどんどん参加しましょう。意識をもって自分の意志を少しでも伝えましょう。

-----

そういえば輸入権問題のパブコメに関することで“面白い”ことがあった。

実は(名前は勿論伏せられていたが)パブコメが公開されたのである。

法案賛成(いわゆる業界側意見)においてはコピペや定型文の嵐で短文も多かった。また、文章として成立していないものもあった。

逆に反対意見(消費者側の意見)には真摯で長文が多く非常に文章としてまともなものが多かったのである。もちろんコピペみたいなものはほとんどなかった。

噂では業界で社員の動員ではないか、ともいわれたが、まぁ、それはおいておく。

重要なのはどれも同じ“1つの意見”としてカウントされたということである。
どんなに素晴らしい論文のような意見も、一行意見も、ひとつなのである。
そして単に数だけで論じる場合ももちろんあるわけである。
つまり、賛成意見○○件、反対意見○○件という数字が一人歩きすることがあるわけ。
もちろん素晴らしい意見を述べることは重要なことであるが、一方で一行意見、賛成反対の意思の表明だけでも決して無駄ではないということである。

そして業界側、利権側ではいわゆる“動員”がおきても不思議ではない。
企業なのだから社員に動員をかけるのは別に違法でも汚いことでもない。
社員はおそらく会社の利益=自分の利益(業績が上がれば給料が上がる)なのだから動員に協力するのは不自然なことでもない。
相手がそういう動きをしているのに、一般人がただ手をこまねいて彼らの言うとおりに従うことを良しとしますか、ということになる。

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別の方向でもうひとつ。

官僚は自分勝手で傲慢だというのはある意味は当たっている。
しかし、彼らは国民からの意見、国民の代表者である国会議員に対しては決して逆らうことはできない、ということが鉄則であることは叩き込まれている。
国民がなにもことをおこさなければ自分勝手に走る。
しかし実際は国民の総意や議員の意向、意見というものを求めているらしい。
自分達の方向性という根本的なところで間違った方向に走ったりする。
しかし方向性という根本的なところは本来国民(や代表たる議員)が与えるもので、それを実行するのが法律の立案であったり、行政であると言える。
役人とは“役”を行う“人”である。
“役者”が基本的には自分でなにかしたりしないで脚本や監督の意向によって演じるのと同じである。
役者自身の味や技術的なところは役者が負うものであるがあくまで基本は役者自身ではない。

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2007/11/11

匿名について

ついでなんで匿名について。

匿名を否定するというのは持って生まれた「格差」を助長することになる、ということを指摘しているのを私は見たことが無いのでここで述べておく。

誰でも知っているはずのことであるが、名前というものには珍しいもの、名前だけでかなりの個人情報の特定ができるもの、が存在する。
全国区で有名となった宮城県知事・東国原氏はその典型例でいまIMEで(ひがしこくばる[変換])で一発変換できなかったほどの希少な苗字である。
しかも宮崎~鹿児島にかけてのみ存在する苗字という事で出身地域もしくは家系のある地域を特定できるという。
一方で鈴木・佐藤・田中・山田といった苗字は日本で多い苗字との事はよく知られている。
ひところいわれた「山田太郎」というのは今では珍しい部類になっており、水島氏の有名作品「ドカベン」に残すぐらいになったが、この作品が生まれた頃では最も多い組合せの姓名とされたためにつけられたらしい。

つまり本名を名乗ることを義務付けられた仮定します。
本名を書いたとたんに確実に個人特定がされる人と、一方でほとんど匿名と変わらないくらい(日本中で数えると数千人~数万人規模でいるような)の人も存在するわけです。(ちなみにどうやらこのような統計は取られていないようです。が、昔、市内の電話帳でながめたときでさえ一ページ以上に渡り同じ姓名がならんでいたことがありましたから。確か田中一郎などがそれにあたっていたと思います)
いうまでもなく姓名は本人の意思で決定したものではなく、しかもどうすることもできません。
(よほどの事由が無い限り本人申請により名は変えられませんし、姓は養子縁組で親が変わるとか、婚姻ぐらいしかありません。)
つまりその匿名性の観点からすると一般人にとっての姓名の表記というのは非常に「不公平なもの」で「生まれながらに格差を持っている」のです。

しかもそもそも世の中で必ずしも実名ですべて行われているわけではありません。
芸能人の芸名、書籍や劇などの作家の作家名、作詞・作曲・歌手も芸名を使っていることが通常です。
これらはむしろ特異な名前を表記することによって印象付けたりするのが目的であるわけですが。
雑誌や新聞等の記事においても取材者の名前や記述をした人の名前が必ずしも載っているわけではありません。

匿名の論議には色々な観点がありますが、このような基本的なことも考慮して欲しいものです。

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まぁよくあるネットへの中傷~インターネットに関するネガティブな意見が増えてきた - 『ビジネス2.0』の視点 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]

リンク: インターネットに関するネガティブな意見が増えてきた - 『ビジネス2.0』の視点 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]

いわゆるインターネットに対する中傷とも言える典型例がここに現れているのでコメントしてみる。
中傷というのが云いすぎであればミスリードを狙っている論点であるという指摘にとどめておいてもいい。

インターネットは子どもにとって有益と考える親が減少している
減少しているのは至極当然であろう。インターネットに対して漠然としたものしかなかった親の層が自分で肌身で感じてみて、必ずしも有益でもないという結論に達しただけなのだと思う。
そもそもインターネットは有益なものばかりではない。
世の中に有益、特に子供にとって有益で無害なものばかりな訳も無く、むしろその逆であることは大人であれば誰しもわかっていることである。
インターネットは世の中の写し鏡であるから当然ながらインターネットも世の中と同じである。
ただそれだけのこと。

インターネットは格差社会をつくる

インターネットは新しいインフラであるという意識ではどうなのだろうか。
水道・ガス・電話というものがつい最近までのインフラと言えると思うが、例えばつい100年前はどうであろうか。水道は井戸、ガスは薪、電話などはなく手紙。これらのインフラはなく、またなくてもそういうものだという世間の常識。そういう時代もあったわけだ。
ところが現在この3つの基本料金を払っていない家庭というのはかなり珍しい部類ではないのだろうか。
蛇口をひねれば水がでてくる、ただ廻せば暖房や給湯ができる、いくつかボタンを押せば遠く離れた人間と即座に会話ができる。過渡期にはかならずこの便利さを享受できないという「格差」が生じていた。
インターネットも同様ではないのだろうか。
ここには行政の意識の問題がある。格差という根底には生活保護や年金の問題、つまり最低限の生活とはなにかという基準問題が生じる。政府がインターネット社会の実現、生活に必要なものであるという推進をするのならば、当然ながら水道・ガス・電気代の出費と同列にインターネットへの接続費用も同列に論じるべきだろう。
様々な広報・告知をインターネットでしかやらないような行政を行うのであれば必須である。
インターネットへの有害情報の意識

この質問は実は非常に不適切で誘導的である。
あるひとに「有害な情報は規制すべきか」と聞けば賛意を示すのは至極当然だからだ。
具体的な例を挙げずに有害、といえばそのひとは自分にとっての有害情報の具体例を思い浮かべる。
有害なのだから不要である、みたくもない、抹消すべきだ、と考えて当然で、それも甘受してあってもいいではないか、という寛容な心をもつひとは極めてすくなくて当然である。
問題なのは有害情報の定義であって、例えば宗教や政治、思想、ものごとへの賛否の意思など人によっては極めて有益でそのひとそのものでさえあるが、あるひとにとっては有害と断罪するような内容はいくらでもある。
有害情報の規制強化をセよ、というのは言葉では極めてまっとうな理論に聴こえるが、その有害情報の定義すらあいまいなまま論議されるのが日本での政治(立法)的傾向なので極めて慎重に考えていく必要がある。
例えば中国にとっては資本主義圏の文化や思想は有害であるとしているし、韓国においては日本の文化は退廃的で危険なものである(つまり有害である)と断罪している。(事実上双方とも瓦解しているが、政治的基本立場はこのようなものなのである)。中東問題も政治理念や軋轢が問題でありこれも有害の定義の難しさをあらわしているといえる。
「学校裏サイト」の悪いところ

インターネットが裏社会を作り出している、と述べているが、これも間違いとしか云い様が無い。
元々、裏社会があってそれがインターネットに投影されているだけの話である。
よく匿名が一緒に語られるがこれも従来からある話である。
従来からある匿名の発言とは「噂」「陰口」っていうやつである。
「ある人から聞いたんだけど○○ちゃんて××らしいよ。」ってやつである。
人を傷つける「悪口・中傷・根拠の無い噂」というものはたいがいこういう形をとっている。
ネット否定者はよく「書き込みには責任をもて」とはよくいわれるが、では発言にはもっと責任を持たなければいけないのではないのかと私などは思う。
なお、このような発言はネットでは「こぴぺ」とよばれるものにあたり、無秩序といわれるネット掲示板においても(公序良俗違反の書き込みを除いて)最低のものといわれ、軽蔑される。
真偽のほどを自分で確かめもせずにそのまま広めようとする点で全く同じである。

また、「バカ・死ね」という繰り返し発言もよくあげられるがこれだって現実世界でもいじめの現場ではよく言われる言葉である。まぁ、冷静に捉えることができれば、罵倒の言葉も尽きてしまうとこのような単純な言葉で罵倒するしかなくなっているだけで「こいつらとうとう尽きたんだ」って思えるわけだがなかなかそこまでの心境にはいかないケースも多いだろう。。
これも単純に現実社会の写しがインターネットに現れているだけに過ぎない。

いじめの典型例としては集団対個人であることがほとんどである。インターネットはよく匿名性がいわれるが、いじめられる当人にとっては集団からいじめをうけるということは匿名の多数にいじめられているのも同然なのである。
かならず首謀者がいるわけだが彼は絶対的に強者なのではむかうことはできない。
彼に歯向かっても殆どの場合は無意味であるし、実は最初のとっかかりでしかない。
問題なのはその取り巻きでその首謀者に隠れて「匿名」で汚い言葉や罵りを吐いているのも同然なのである。
また言葉は吐かずにただ周囲を取り囲んでいる連中も同様である。
当人にとっては誰がののしった言葉を言っているのか実は全く意識できないのである。
現実問題として、いじめという極限状態に置かれているとき、そこに誰がいたかなんて覚えているわけが無いのであり、いじめている連中の殆どはそのことを無意識にでも知っているのである。
集団の中に隠れている、というやつである。

すこし話が逸れたが、裏サイトを封じてもまた別の裏サイトが立ち上がるだけである。
そもそも学校という現実の場を改善しなければなんの意味も無い。

インターネットの未来が明るいのかどうかなどということは、この現実社会が明るいかどうかによって決まる。
ただそれだけのことでしかないのだと私は思っています。
現実社会が明るくなれば、かならずインターネットの未来も明るくなります。
現実社会が暗かったり、表面は良くても悪いところ・臭いものにふたをするような社会になればそのはけ口として必ずインターネットの形を借りて噴出します。インターネットはそのはけ口としてもっとも有効で簡易であるだけのことなのです。それを仮に塞いだとしてももっと別の形で(例えば従来どおり犯罪という形で)噴出するだけに過ぎません。つまりなんの解決にもならないのです。

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2007/11/06

次世代DVDに思う

リンク: 消費者は関心を持っているか?--次世代DVD戦争の行く末:スペシャルレポート - CNET Japan.

要するに次世代DVDなんぞ見向きもされていない、というのが結論である。
確かにそのとおりだと思う。
いつだったか、片方にDVD、片方に次世代DVD。テレビはまったく同じもの。もちろんHDTVで46インチぐらいだったと思う。
これを並べて映像を流していた。
映像ソースはDVDで記録したものと次世代DVDで記録したもので、女性モデルがグラビア撮影をしている映像であった。
正直言って差はごくわずかである。比べてみれば確かに髪の毛の細やかさ(DVDでは一本一本は“潰れてしまって”みえないが次世代ではみえる。)ぐらいしかわからない。
まぁ、普通の人で映像の評価の仕方の判らない人にはどこが違うのか表現やそもそも差がわからなくても不思議ではない。
これで少なくとも千円とか違ったら別にいらないし、DVDプレイヤーを買う気にもならない。
映画を見るとそれなりに違いはもうちょっとわかるのだが、これは作品のもよるといういいかたになってしまうかと思う。

実はこの話はゲームにもつながっている。
次世代ゲーム機はもはやWiiがPS3に比較すると圧勝という状態になっている。
過去の歴代のゲーム機と比較するとWiiはコンシューマーゲーム史上もっとも台数の伸びがよいそうである。
方やPS3はDC(DreamCast)やGC(GameCube)といった「市場争奪戦に失敗した負け組みゲーム機」の台数より普及台数が少ないそうである。(もちろん発売からの同じだけ経過した時点での台数比較)
さらにいうとPS3はPS2より売れていないという事態がずっと続いているようである。
通常なら代替わりということでPS2はほとんど販売台数がなくなりPS3を購入する、というのが期待される流れなのだと思う。(SONY~SCEもそう考えていたはずである)
一言で言えばPS3のウリは高解像度である。しかしその価値が認められていない。

要するには高解像度である、などというのは実はほんの僅かな利点であって当たり前だがもっと広い視点で普通の消費者というのは製品を見ている、といえるのだと思う。

ただ、いつかは高解像度であることは普通になってくるのだとは思っている。
今は単にそれがコストに見合わないだけのことである。
僅かな価値向上なのだから僅かな価格の差しか認めることはできないだけのことであろう。

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2007/11/05

mario galaxy

出すたびミリオンセラーとなるマリオシリーズ。
今回は舞台が宇宙だ。というところでしょうか。

これで10本目のWiiソフト購入となりました。
定価5800円、実売で4980円でした。
実際に遊んでみるとやはり王者の貫禄というか非の打ち所のない素晴らしいできであると言わざるを得ません。

私はいわゆる3D酔いをしやすい体質になってしまったため、このソフトについてはすごく心配していました。
エレビッツは見事に酔ってしまい(目の奥が痛くなり、頭痛や吐き気がする)、一面すら満足に遊べませんでした。

しかしこの作品ではどうやら大丈夫のようです。
製作段階からこの点においてはかなり気をつけていたそうです。
酔いはいわゆるカメラ視点の問題だといわれ、プレイヤーの意識と異なった場所を表示していると酔いやすいといわれています。

また、もう一点私が思うのには一点を集中して見すぎるとおきるのではないか、と思っています。
これはマリオをやっていて思ったのですが、宝石をポインターで指して集める、という操作を頻繁に行います。
またこのために全体を広く見る意識を持つようになります。その場所にいかなくても(いけない場所であっても)画面内であれば集めることが可能だからです。
このことにより酔いを軽減しているのではないか、と思われます。

まぁいずれにせよ数時間程度連続して遊んでもさほど酔いの感覚はありません。
(厳密に言えば目の疲労度はほかのゲームに比べれば若干おおきいと思います)

なんにせよ、このゲームは楽しい。
動きの自由度や操作感覚の楽しさ。
いろんなアクションの複合や効果的な(自分の得意な)操作パターンをみつけていくこと。
やはりこれがマリオシリーズ一連のゲームデザインの素晴らしさなのでしょうか。

そしてグラフィックの素晴らしさ。
ほかのハードはHDに移っていますが、まだSDでも十分ではないのか、と感じさせる表現力を持っています。
グラフィックの綺麗さというのはHDかSDかなどというのは本質ではなくてまずは動きの豊かさとこまやかな描写であるということを改めて認識させられます。
無機質な点光源に金属的描写、ではなくて、いかに有機質で暖かい光源で暖かい動物のような表現を行えているのか、というところではないのでしょうか。
人間を描写しているはずの格闘ゲームでも昨今のキャラクターは人間というよりもどこかサイボーグじみた表現になってしまっています。

さて、詳しくは別の機会で書きますが、カプコンの宝島Zも面白いです。
リモコンを使ってアクションを交えながら謎解き(パズルを解いていく)ゲームです。
ややガキ向けっぽいキャラクターや話の展開ですが、パズルの難易度的にも大人でも十分楽しめるレベルです。
リモコンをどう操作するかも謎解きの一要素になっていてなかなか斬新です。
アクション的要素も適度に混じっております。
これも買って損はない良作であると思います。

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