リンク: インターネットに関するネガティブな意見が増えてきた - 『ビジネス2.0』の視点 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]
いわゆるインターネットに対する中傷とも言える典型例がここに現れているのでコメントしてみる。
中傷というのが云いすぎであればミスリードを狙っている論点であるという指摘にとどめておいてもいい。
インターネットは子どもにとって有益と考える親が減少している
減少しているのは至極当然であろう。インターネットに対して漠然としたものしかなかった親の層が自分で肌身で感じてみて、必ずしも有益でもないという結論に達しただけなのだと思う。
そもそもインターネットは有益なものばかりではない。
世の中に有益、特に子供にとって有益で無害なものばかりな訳も無く、むしろその逆であることは大人であれば誰しもわかっていることである。
インターネットは世の中の写し鏡であるから当然ながらインターネットも世の中と同じである。
ただそれだけのこと。
インターネットは格差社会をつくる
インターネットは新しいインフラであるという意識ではどうなのだろうか。
水道・ガス・電話というものがつい最近までのインフラと言えると思うが、例えばつい100年前はどうであろうか。水道は井戸、ガスは薪、電話などはなく手紙。これらのインフラはなく、またなくてもそういうものだという世間の常識。そういう時代もあったわけだ。
ところが現在この3つの基本料金を払っていない家庭というのはかなり珍しい部類ではないのだろうか。
蛇口をひねれば水がでてくる、ただ廻せば暖房や給湯ができる、いくつかボタンを押せば遠く離れた人間と即座に会話ができる。過渡期にはかならずこの便利さを享受できないという「格差」が生じていた。
インターネットも同様ではないのだろうか。
ここには行政の意識の問題がある。格差という根底には生活保護や年金の問題、つまり最低限の生活とはなにかという基準問題が生じる。政府がインターネット社会の実現、生活に必要なものであるという推進をするのならば、当然ながら水道・ガス・電気代の出費と同列にインターネットへの接続費用も同列に論じるべきだろう。
様々な広報・告知をインターネットでしかやらないような行政を行うのであれば必須である。
インターネットへの有害情報の意識
この質問は実は非常に不適切で誘導的である。
あるひとに「有害な情報は規制すべきか」と聞けば賛意を示すのは至極当然だからだ。
具体的な例を挙げずに有害、といえばそのひとは自分にとっての有害情報の具体例を思い浮かべる。
有害なのだから不要である、みたくもない、抹消すべきだ、と考えて当然で、それも甘受してあってもいいではないか、という寛容な心をもつひとは極めてすくなくて当然である。
問題なのは有害情報の定義であって、例えば宗教や政治、思想、ものごとへの賛否の意思など人によっては極めて有益でそのひとそのものでさえあるが、あるひとにとっては有害と断罪するような内容はいくらでもある。
有害情報の規制強化をセよ、というのは言葉では極めてまっとうな理論に聴こえるが、その有害情報の定義すらあいまいなまま論議されるのが日本での政治(立法)的傾向なので極めて慎重に考えていく必要がある。
例えば中国にとっては資本主義圏の文化や思想は有害であるとしているし、韓国においては日本の文化は退廃的で危険なものである(つまり有害である)と断罪している。(事実上双方とも瓦解しているが、政治的基本立場はこのようなものなのである)。中東問題も政治理念や軋轢が問題でありこれも有害の定義の難しさをあらわしているといえる。
「学校裏サイト」の悪いところ
インターネットが裏社会を作り出している、と述べているが、これも間違いとしか云い様が無い。
元々、裏社会があってそれがインターネットに投影されているだけの話である。
よく匿名が一緒に語られるがこれも従来からある話である。
従来からある匿名の発言とは「噂」「陰口」っていうやつである。
「ある人から聞いたんだけど○○ちゃんて××らしいよ。」ってやつである。
人を傷つける「悪口・中傷・根拠の無い噂」というものはたいがいこういう形をとっている。
ネット否定者はよく「書き込みには責任をもて」とはよくいわれるが、では発言にはもっと責任を持たなければいけないのではないのかと私などは思う。
なお、このような発言はネットでは「こぴぺ」とよばれるものにあたり、無秩序といわれるネット掲示板においても(公序良俗違反の書き込みを除いて)最低のものといわれ、軽蔑される。
真偽のほどを自分で確かめもせずにそのまま広めようとする点で全く同じである。
また、「バカ・死ね」という繰り返し発言もよくあげられるがこれだって現実世界でもいじめの現場ではよく言われる言葉である。まぁ、冷静に捉えることができれば、罵倒の言葉も尽きてしまうとこのような単純な言葉で罵倒するしかなくなっているだけで「こいつらとうとう尽きたんだ」って思えるわけだがなかなかそこまでの心境にはいかないケースも多いだろう。。
これも単純に現実社会の写しがインターネットに現れているだけに過ぎない。
いじめの典型例としては集団対個人であることがほとんどである。インターネットはよく匿名性がいわれるが、いじめられる当人にとっては集団からいじめをうけるということは匿名の多数にいじめられているのも同然なのである。
かならず首謀者がいるわけだが彼は絶対的に強者なのではむかうことはできない。
彼に歯向かっても殆どの場合は無意味であるし、実は最初のとっかかりでしかない。
問題なのはその取り巻きでその首謀者に隠れて「匿名」で汚い言葉や罵りを吐いているのも同然なのである。
また言葉は吐かずにただ周囲を取り囲んでいる連中も同様である。
当人にとっては誰がののしった言葉を言っているのか実は全く意識できないのである。
現実問題として、いじめという極限状態に置かれているとき、そこに誰がいたかなんて覚えているわけが無いのであり、いじめている連中の殆どはそのことを無意識にでも知っているのである。
集団の中に隠れている、というやつである。
すこし話が逸れたが、裏サイトを封じてもまた別の裏サイトが立ち上がるだけである。
そもそも学校という現実の場を改善しなければなんの意味も無い。
インターネットの未来が明るいのかどうかなどということは、この現実社会が明るいかどうかによって決まる。
ただそれだけのことでしかないのだと私は思っています。
現実社会が明るくなれば、かならずインターネットの未来も明るくなります。
現実社会が暗かったり、表面は良くても悪いところ・臭いものにふたをするような社会になればそのはけ口として必ずインターネットの形を借りて噴出します。インターネットはそのはけ口としてもっとも有効で簡易であるだけのことなのです。それを仮に塞いだとしてももっと別の形で(例えば従来どおり犯罪という形で)噴出するだけに過ぎません。つまりなんの解決にもならないのです。
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