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2007/05/30

MYUTA裁判について

ブログやネットニュースでは論議を呼んでいる、いわゆるMYUTAというサービスについての裁判の判決文が公開されたので読んでみた。

要約がニュースで取り上げられていたが、まったくその論理展開が理解できず、記者が端折ったのではないかとおもっていたが、そうではなくそもそも判決文自体が理解に苦しむものであったことが判った。

この判決文を読んでみておかしな点が3点。
これによって判決結果そのものもおかしなことになっていると感じる。
どう読んでも、その論理展開の不自然さから、「原告のいいたい事は認められる部分もあるが、結論としてはこうなのである」、という結論が先にありきの文章の形態にしか見えない。

さて、その3つを指摘していきたいと思う。
1.主体の解釈
2.不特定多数の解釈
3.公衆送信とはなにか

1.主体とは何か。誰が主体なのか
まず、複製行為の主体の捉え方がおかしい。
これは誰であるかが争点としてあげられているので十分注意して述べられているはずである。

主体であるかどうかはその行為の物量ではなくそのものが行ったことが支配的であるかどうかであろう。
本件ではどの楽曲に対して行為を行うか、つまりユーザーが主体であって、それ以降の行為はまさに定型的・機械的な操作であってそこに主体性は存在しない。
さらにいえば単純な複製・変換行為に過ぎないし、技術的難易度は関係しない。
単なる複製であることについては判決文の中で裁判官自らが述べているのである。
それなのにその行為が煩雑で量が多いということだけでそれが支配的であり主体があると考えるのにははなはだ違和感を感じるを禁じえない。
主体性というのはそこに決定する意思が存在するか否かであって、その過程の複雑さの度合いや数、技術的難易度をもって主体性を論ずるのはどう考えてもおかしい。
しかしながらこの判決では、その機材を所有し管理しているものが主体であるという判断をしている。

ユーザーは自分が曲をアップロードすれば、自動に自分の携帯電話でダウンロードできる、という結果となることを知っているのである。それは決められた定型的な作業でありそこには意思の関与は無い。
これではユーザーが主体であるということにならないのが不思議で仕方が無い。

拳銃についてにあてはめてみよう。裁判官の論理で言うと、拳銃の引き金を引いたことは操作の端緒となる関与をしたにとどまるものというものであり、弾が発射されたという結果は拳銃の構造によるものであり、その拳銃をつくり、管理している拳銃メーカーにあるものである。(ここで拳銃はメーカーより借用したものとする)
拳銃の弾の発射によって人が死んだのであるが、それはユーザーには主体はなく、これは拳銃メーカーが作成、管理しているよるものなのでメーカーに主体性があり、メーカーに責任がある。
また、拳銃はユーザーが自分で作成できないほど高度な技術を用いて作られているからである。
なお、ユーザーは拳銃の引き金を引くことによって弾が発射され、それにより人が死ぬということは勿論知っており、なるほど、それによってユーザーに責任があるというといえなくもないが、そのことは主体性に関してはなんら関係ないことである。

とまぁ、こんなおかしな論理展開なのである。
常識的に見て、拳銃を撃った人間に責任は無く、拳銃メーカーにのみ責任が問われるなどと、全くこの法理ならまかり通るのであろうか疑問でしかたない。

2.不特定多数の解釈

インターネット接続環境を有するパソコンと携帯電話(ただし,当面はau WIN端末のみ)を有するユーザが所定の会員登録を済ませれば,誰でも利用することができるものであり,原告がインターネットで会員登録をするユーザを予め選別したり,選択したりすることはない。

ここでも摩訶不思議な論理が展開されている。
つまり客のほうからアプローチし、会員登録した場合には、業者から見ればどうであれ不特定多数であると考えるというのだ。
こんな形態はほとんどの商売、サービス提供において一般的な話ではないだろうか。業者が客を選ぶのはキャッチセールスぐらいのものである。
契約を行うにあたり、それは一対一であるとされるのが基本であるのにも関わらず、ここだけ都合よく不特定多数という論理を持ち出しているのが理解に苦しむ。
それでは仮に会員が一人しかまだいない状態のときでも不特定多数であるというのか。
会員となった客、もしくは非会員の人に対しても区別せずに行うサービスであれば不特定多数に対するサービスといえよう。
しかしながら会員に対して個別に認識をしてサービスを行う形態であるにもかかわらず、不特定多数という表現をするのは全く理解に苦しむ。

3.公衆送信

「公衆」とは,不特定の者又は特定多数の者をいうものであるところ(著作権法2条5項参照),ユーザは,その意味において,本件サーバを設置する原告にとって不特定の者というべきである。

既に不特定というものについて誤った解釈をしているので、それを根拠にした公衆の認定も誤っているのはいうまでもない。

よって,本件サーバからユーザの携帯電話に向けての音源データの3G2ファイルの送信は,公衆たるユーザからの求めに応じ,ユーザによって直接受信されることを目的として自動的に行われるものであり,自動公衆送信(同法2条1項9号の4)ということができる。

既に誤った推論によって公衆というものを考えているので、この文章を単体で見れば整合性が取れてしまっている。
特定の会員と、会員がアップロードしたデータ、ダウンロードできるデータについては厳格な関連付けがなされている、ことは裁判官も認識をしている。それにも関わらず、それでは公衆であると裁判官は考えているのである。

判決文にも詳細な認証方式が述べられているが、インターネットバンキングやトレードでもここまで厳密に個人認証をしているものはないのではないだろうか。
なのに公衆にデータを送信していると断じる感覚にはまったく理解ができない。

例えばインターネットバンキングにおいては個人情報が(確認や変更に際し)ユーザーの要求によって表示されるわけであるが、その仕組みがある自体、公衆送信されているという表現をするのである。
携帯電話でも同様のサービスもあるし、オンラインショッピングでも同様である。
すべてのオンラインサービスにおいて、個人情報などは不特定多数に対して公衆送信されている、という表現が適切であると裁判官は述べているのである。


さて、私はあまりこのサービスの是非について述べる気はない。
しかしながら今回の件で裁判官が、ネット界の一般的見識、それどころか、一般人の常識的な感覚からも乖離した解釈や論理展開をするものなのだ、ということに驚きを感じる。
この解釈において裁判官が正しいのか、私が正しいのかは断じるつもりはない。

すくなくとも私やネット界での常識と、裁判官の解釈とは、理解できないほど乖離しているのだ、このような状態で裁かれる可能性が大いにあるのだ、という認識は持っていなければならない、ということは確かなことなのだろう、と今回感じたわけである。


なお、この判決を下した高部眞規子裁判長は「あの一太郎・アイコン裁判」でジャストシステム敗訴、松下勝訴を下した人である。
このときも私は判決文を読んでその論理展開の理解に非常に苦しんだ。
そしてこれは控訴されて高裁で逆転判決がなされ終結したとのことである。
(つまり判決は間違っていたということに他ならない)

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オープンソース陣営による特許侵害を主張したマイクロソフトの狙いは? - CNET Japan

リンク: オープンソース陣営による特許侵害を主張したマイクロソフトの狙いは? - CNET Japan.

以前やっぱりFUD? でも取り上げたのだが、この記事には全く同意する。
取材先のTorvalds氏などの姿勢にも同意するしかない。
というか、思わず頷いてしまうものばかりなのである。
そして下記の言葉がすべてを言い表していると思う。

「もしわれわれが具体的にどの特許を侵害しているのか、Microsoftが実際に人々に訴えることになったとしたら、われわれは彼らの顔を見て笑い飛ばしつつ、先行技術を示すか、彼らの技術が自明のものであることを指摘するか、また別のやり方で何かすることになるだろう」

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2007/05/28

風評被害?

リンク: 「ペッパーランチ事件」の怖さ - 日経レストラン ONLINE - 編集長の机から.

風評被害というのは違うと思いますけれども。

風評被害(ふうひょうひがい)とは、災害、事故、不適切あるいは虚偽の報道などが生じた際に、生産物やサービスの質の低下を懸念して消費が減退することにより、それらとは関係の無い業者が経済的損害を受けること。 (Wikipediaより)

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2007/05/27

著作権法の非親告罪化(2)

関連する話題についてここのブログに色々書いてあるのでリンク先として貼ってみる。
ここを読んでみてまたいろいろと考えるところがあったので述べてみる。

要するに海賊版の撲滅を言うのならば

訴えてすぐに動くところを作れ

というところに尽きるのではないか。
民が良いのか、官が良いのか、はたまた特殊法人が良いのか(笑)、それは別の議論としておく。
親告・非親告の問題ではない。どうすれば実際問題として海賊版撲滅になるのか、それをまず議論すべきってことなんだろうと思う。もちろん調査会議事録でもそれについてかかれているわけだが。

その上で、法的障害としてどうしても非親告であることがあげられるのであれば、はじめて非親告の是非について問うべきではないのか。

商用品のデッドコピーであること、映画を盗撮したものであること、これに限定して非親告で検挙可能とするのも一案であると私も思う。
デッドコピー商売はそれがなにかしらのコピーであることをほのめかして販売しているのが通常であるし、デッドコピーであれば原本との比較によりその類似性は技術的に証明できる。
著作権侵害という主観の入った非常に曖昧な区切りではなく、客観的に類似性が何十%という数値で表すことも可能である。
いわば盗品販売に近いものがある。

コピー品というものに対して法律的にもう少し整備する、というのも考えの1つではないかと思う。

コピー品といえば、例えば紙幣に対する整備は国家の基盤に関わるだけに厳しくとられている。
コピー機に対しても配慮が要求されているし、コピーをしようとしただけでも罪に問われる。
お遊びではすまない(お遊びといって逃げられられない)ようになっている。

ここ数年レベルでコピーが非常に精巧にできるようになっている。
パソコンや撮影機器の進化、デジタル化(*1)によってその精巧さはあがっている。
例えば映画の盗撮においてもちょっと前まではハンディカムのひどくボケた画像でしか撮れなかったものが、現在ではHDカメラが容易(十数万程度か)で購入できるようになっており、それをDVD画質に変換してDVDにダビングすればかなりきれいな画像で'商品'を作る事ができる。

つまりコピー品と本物の差がどんどん縮まってしまっている、よってコピー品の販売に対する防止策というのは真剣に考える時期になっているのではないかと思う。

これはブランド品のコピー品(模造品)にしても同様のことが言える。
例えば、確かブランド品のコピー品に対する対抗としては商標に関する法律でしか取り締まれなかったのではないか。
本当はもっと根深い問題ではないのか。
いわゆるソフト産業だけではなく、工業製品においてもコピー品というのは根深い問題となっているのである。

著作権侵害、という観点ももちろん議論すべき点であると思うが、単純にコピー品対策、という点でも、知的財産権の保護という点で法整備をすべき時期であると思う。

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(*1)デジタル化によってコピーが困難になった、といわれるが、それは一般的な場面、いわゆるカジュアルコピーに対してであって、なんでもありの世界、アングラ的にはさほど変わったわけでもないと思われる
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続きを読む "著作権法の非親告罪化(2)"

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2007/05/22

著作権法の非親告罪化

また、余計な法律制定を。。。
最近、なんかおかしくないか。法を作る議員達。
たけくまメモやそのほか大量のコメントやトラックバックがあるのでちょっと方向をかえてみる。

問題点は
・そもそも警察や司法が侵害を判断できるのか
ということにつきると思う。
さらに、そもそも、なぜ親告罪、つまり著作権者のみが提訴できるのか、というのは、元を作った著作権者と、それを利用して別の製作物を作った人間の間でしか、侵害であるか否かは根本的にわからないものだからだ、と考える。
つまり関係者のうち、元を作った著作権者のみが提訴しうるという理屈だ。
警察や司法なんぞは所詮は第三者なのであるから。

海賊版やらを取り締まるのならやるべきところはこんなおかしな法律の制定ではない。

やるべきことその1
親告により提訴を受けたら迅速かつ危急に動き、相手の確保をできる体制を作ることだ。
海賊版の販売は、まさにヒットアンドアウェイといっていいくらい、突然現れ売り切って逃げる。それは分単位の話である。その迅速さが果たしてすべての警察にあるのか。
さらにいえば警察がくればくもの子を散らすように逃げることも多々あるようだ。(実際に私も秋葉原でみかけたことがある)
それに対応できる真剣さが彼らにはあるのか。
法律を弄くる以前に、そのような意識改革がまずやるべきことではないのか。
あくまで主役は著作権者であり、警察は影の役である。それもわすれてはいけない。

やるべきことその2
著作権侵害や海賊版の販売は国内にとどまるものではない。むしろ海外での状況のほうがはるかに深刻であるのではないか。
いわずもがな、ひどいのは隣国である韓国と中国である。
反日国家を標榜していながら、国の中には文化として日本の著作物の海賊版が相当数出回っているといわれる。
反日政策だから国家もその存在を認めようとはしない。つまりまともに取り組もうとしない。

海外における海賊版の深刻さはCDの輸入差し止め法案の1つの理由にも上げられたほどである。
例えば中国に日本の音楽のCDを輸出した場合、相手との不公平な為替レートもさることながら、現地に蔓延っている海賊版に対抗するために値段をかなり安く設定して売らないと駄目だ。しかし安く設定して売ると中国から逆輸入されて国内で安く売るものが出てしまう。これでは日本での販売価格との格差が出るので、海外からの輸入を禁止するようにしてくれ。というのが音楽業界からの言い分であった。

つまり音楽業界も禁輸という自由貿易を否定するようなタブーであってもそれを要請するほど、海外での海賊版のひどさに関しては困っているのだ。

しかし音楽業界の論はおかしな話で、根本でやるべきことは海外(特に酷い中韓)の海賊版の撲滅である。
これは国内にとどまらざるを得ない警察と司法をどうこうしてなんとかなる問題ではない。

現代の著作権保護とは、まさに外交問題なのである。
国家の利益を守るべき国会議員のやるべきことはここにあるのではないか。
本当に著作権者を守り、海賊版を撲滅するのであれば、まず国家規模で相手の国と犯罪者の摘発、処罰、補償などに関する問題解決をはかるように制度や相手国警察司法との連携などの仕組みの制定を進めるべきであろう。
非親告化などというのは問題を矮小化し、本来の論点から目をそむけてごまかそうとしている法律制定であるとしか思えない。

議論の1つであるネットでの著作権侵害物の流通問題も同じである。
いうまでもなく国家間の連携なくしてはネット上での著作権保護はまったくナンセンスなものでしかない。

あまりにも考えが浅いとしかいいようがない。
警察や司法の権益のみをひろげようと考えている、と揶揄されても仕方ないだろう。
メリットに対してデメリット(危険性)があまりにも大きいと考えざるをえないからだ。

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2007/05/17

Re:著作権保護期間延長への反対意見が多く挙がる、文化審議会小委

リンク: 著作権保護期間延長への反対意見が多く挙がる、文化審議会小委.

今回はあえて本質(?)は外して、やや斜めからの観点。

延長を訴えているサイドの主張は概ね、途中で論理が跳躍している。
なんでそういう論理展開になるんだよ、とか、なんでそういう事例がその主張の根拠になるんだよ、とかそんな感じである。
もし真面目にこういう主張をしているのなら単なる感情論であり、論議にはなっていない。
まぁ、この辺は次回以降に行われるようなので議論に期待したいと思う。
いまのところ主張の内容を無視しても、論理的な展開や整合性は反対派のほうにあるとしか思えない。

もう一点。このくだりが非常に気になった

日本オーケストラ連盟の岡山尚幹氏は、オーケストラにとっては保護期間の延長問題よりも、著作権使用料の額が切実な問題になっていると説明。オーケスト ラの運営者はJASRACの定めた著作権使用料を規定通りに支払っているが、使用料は2012年までに段階的に値上げされることが決まっており、これが運営に大きな影響を及ぼすことを恐れていると主張した。
JASRACはオーケストラをも潰そうとしているのか。
草の根音楽家や末端で音楽を広める役を担ってきた場所をを次々と潰していることは有名であるが。。。
まったくあきれるとしか言い様が無い。

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やっぱりFUD?

リンク: 「Linuxが特許侵害というMicrosoftの主張はFUD,根拠のない脅し」とオープンソース陣営:ITpro.

やっぱりというか、FUDという声明を出している。

FUDといえば著作権侵害をふりかざしてSCOがLinux陣営を訴えていたわけだが、あれは結局妄言ということで裁判官からは呆れられている様子だ。ちなみにこの訴訟に対して“相手をした”のはIBM。
訴訟して裁判になった以上は原告が被告に対してその起訴した根拠となる事実関係を提示しなければならないのは当然のことで、それがないと審理や裁判をはじめることすらできない。
それがでてこないままに今日に至っていることになるわけで、まさしくお話にならない。

著作権というのは非常に難しい微妙なもので、それがあの一件では色々と盛り上がった原因ではある。

しかし今回のは特許。これは実に明快な話なのである。
特許というのは、特許庁に届け出ている案件でないと成立しない。(米国の場合は先発明制度という非常におかしな制度が残存しているために話は多少やっかいではあるが、この件では無関係に等しいだろう)
公的文書であるため、そして特許には管理上、番号が付けられている。
いわゆるパテントナンバー、特許許諾番号などともいわれる。
つまり今回の件で言えばマイクロソフト側は特段な資料や書類を提示する必要はなんらなく、単純に特許を侵害していると主張する特許番号を列記するだけでよいのだ。
例えば200を超える全部の番号じゃなくても、かいつまんでもっとも確実に侵害してそうな番号を例示すればよい。
実に簡単なことなのである。

ちなみにその番号を提示すると回避されてしまうではないか、ということはない。
特許による損害の補償は過去に遡及することができる。
いや、特許の本来の主旨から言えばどんどん提示して必要であれば相手に回避行動をさせるべきである。
そうやって相手会社の製品から特長的機能を奪ったり技術的疲労をさせるのも特許の機能の1つである。
ちなみに簡単に回避されるような特許はたいした価値のある特許ではない。

また、別の観点で言えば特許の権利を伏せておいて、さんざん相手が稼いだところで特許を指し示して金をふんだくろうというのは実は汚いビジネスである。(実際は行われているが)
本来の主旨は独自技術の独占的使用権なのである。なにか特徴的な独自技術を開発し、それを独占できる。
独占権は具体的には、他社が技術をパクって類似品を作っても差し止めや相応の使用料金を取ることができる。
自分で独自技術を開発し、製品に応用し、製品を売ることで回収する。それを保障する制度なのだから。

もしLinuxがマイクロソフトの特許を侵害しているのなら、侵害しているなどとマスコミで主張する前にさっさと協議・調停・提訴すべきである。それが極普通の企業としての行動である。
仮に侵害していてもお目こぼしをするつもりなら(協議や提訴する金銭的メリットがなければ看過することも珍しくは無い)、最初から侵害している、などという主張をする事自体が会社の感覚としておかしい。

どちらにしてもこのような主張はこの会社の特許に関する感覚がおかしいということを示しているのではないか。

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2007/05/16

Full HDの時代がきつつある?

リンク: 本田雅一のAV Trends.

このリンクには4kの話が載っているわけだが。。
記事のはなしは至極もっともだと思う。
画素数で表現しているとわかりやすい。
現在のいわゆるFullHDは200万画素。4kは800万画素。ちなみに普通のSD放送は30万画素程度だろうか。
これはデジタルカメラで考えるとなじみが深いので判りやすいのではないだろうか。
30万画素は「写ればいい」っていうレベル。ケイタイでいえばサブカメラの画素数で写っている人が誰だかわかるレベルである。
200万画素といえば現在はケイタイでもやや少なめだが一定の画質はあるので、旅行などのスナップ、例えば「写るんです」を使う感覚であれば十分という感じだろうか。サービスサイズのプリントには十分といえる。
800万画素ともなればセミプロ~プロも使うレベルで十分なレンズやシステムを組み合わせれば表現豊かな、作品ともいえる写真を撮る事にも堪えられるし、大判プリントにも十分だろう。

つまりはこれと同じことが映像(動画)でいえるというだけのことである。
FullHDになってようやく「普通」に見るにたえる絵が出るようになった。
例えば絵画や芸術作品となると、かなり細部までみえるようになったとはいえ、まだ鑑賞にはたえられない。
これは2kの時代になってようやく得られるのではないだろうか。
まだまだ進化はとまらない。


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と、言いたいところだが、テレビや放送の場合はそうは簡単な話ではない。

FullHDの液晶とプラズマが出始めたが、まずはそれらの印象を述べてみたいと思う。
ひとことでいえば、むしろ汚い。

なぜか。デジタル放送は、当初からビットレートが低く、ノイズがひどいことになることは予想されていた。
具体的な数値をあげると、地上波では17Mbps、デジタルBSで24Mbpsと画素数に比較するとかなり低い。
SD画素(720x480)のDVDで高画質となるとピークで15Mbps等がいわれるのと比較すれば、これらのビットレートが低いのは自明のことであろう。
ビットレートが低ければノイズが出る。いわゆるブロックノイズ等の不自然なところが頻出する。
動きのあるところでボケがでる。
どうもFullHD以前の1280x720レベルでは圧縮された過程でこれらのノイズが失われていただけのようなのだ。
これはプラズマではもっと顕著で横が1024であるのも珍しくは無いから完全に消えるだろう。
ボケの違いも顕著にみえる。

これが実にはっきりくっきり見えてしまうのだ。

放送局側での改良もある。ライブでの高画質圧縮技術や録画ものならマルチパス最適化による高品位圧縮。
ビットレートは変えようが無いからこのような圧縮画像そのものの質をあげることに注力するということ。
受信機側では、このノイズ取りが次の画質の差別化領域になるのだろうと思う。
ボケささずに、ノイズだけを除去する。単純な話ではないだけに各社の地道な改善で差が出てくるだろう。
各社の努力に期待したい。

ところでFullHDのプラズマもじっくり見てきた・・といいたいところだが、じっくりと見るレベルではなかった。
まず遠目で既になにか違和感があった。なにか不自然にぎらついているような印象なのである。
近づいてみてみるとどうも画素ごとの発光量か、画素の大きさなのか、色の純度の均一さがないのか、なにかムラが感じられるのである。光量と画素の大きさかは非常に判別がつきにくいのであるが。
みていてつかれるというかかなり厳しいことは感じられる。(というか、見ていた時点でちょっと疲れていてなにかまぶしい感じで早々に切り上げた感覚である)
製造プロセスの安定度の問題もあろうからこれは時期がたてば解決していく問題だとは思う。
それでもやはりプラズマで42Vというのはかなり厳しい条件なのだな、ということが感じられた。
もちろん50Vを超える従来からでているものでは問題はないのはいうまでもない。

松下等では動画解像度900本以上とうたっているが、例えば1024パネルではそもそも静止画でも解像度500本程度になってしまうのだからそういう言い方をするのならばFullHDでなければプラズマの意義が無いのではないか、という逆説的な言い方もできるわけで、FullHDで先鞭をつけている松下やパイオニアにはもっと頑張って欲しいものである。

あとおまけで液晶の120Hz駆動のモデルについて。
これはかなり効果ありといえる。液晶の欠点がまたひとつ軽減されたな、という感じであろうか。
場面によってはまだ尾を引くような感じはあるが、かなり限定された条件で、こういう画面はわかりやすいだろうなあ、とか予測してよーく見ていると、ああ、確かにまだ出ているわ、っていうレベルである。
これから180Hz駆動も視野にはいっているそうで、そこまでいけばもう判らないのではないだろうか、と予想される。(普通に人には既にわからないかもしれない)

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2007/05/09

高野連・特待制度禁止問題

物議を醸している高野連の「特待生」問題。

週刊新潮や週間文春でも数ページに渡って取り上げられている。

なぜいま、という理由が理解できなかったのだが、こういう主旨らしい。
・プロ野球の裏金問題が発覚した
・高校野球に「金まみれ」の悪い印象がついてしまう
・調べてみると特待制度があり、これも金まみれ問題に繋がりかねない
・特待制度に対して指導することで高校野球のクリーンなイメージを高めよう。
ということらしい。
ちょっと裏読みすれば
・裏金問題が長く続くと印象が悪くなる
・特待制度を全国規模調査すれば当然報道されることになる。
・マスコミや一般の目もそっちに向く
・制裁をすることで金まみれのイメージを一新できる

ではなぜ印象が悪くなると困るのか。
それは甲子園・夏の高校野球が既に巨大市場になっているからに他ならないだろう。
ここ数年プロ野球の視聴率がひどくおち込んでいるのは有名な話であるし、高校野球も類似しているのではないか。
ひとことでいえば「野球離れ」である。

私がこの報道を聞いたときにまず不審に思ったのは
・夏の高校野球になんら影響が出ない制裁措置がなされた
ことである。
本気で制裁するのであれば「夏の高校野球出場停止」が当然であろう。
しかし実情として強豪校ほど特待制度が整備されているのが常識である。
実際にもし夏大会出場停止が実施されたら非常に「面白い」大会になったことは想像に難くない。
ひねた私などは面白いと思うが、おそらく強豪チーム同士の高いレベルの試合を見たいと思っている人たちにとっては面白くない。
つまり興行としては大失敗となるのである。
結局は自らの保身のために自分達の痛くない制裁措置を行ったに過ぎないわけである。

さて2つほどこれに関連して興味を引く話が2点ほどあった。
ひとつは甲子園とは別の大会の開催である。
今回制裁を加えられた学校もしくは生徒で高野連と関係ない団体下において大会を行うというものである。
私もだが誰でも考えつくことではある。
実際にも今回の措置に怒り心頭の学校も多いようで、甲子園関連の朝日、毎日に対しておもしろくない読売を後ろ盾にして、という動きがあるらしい。
私は非常に面白いと思うので是非実現して欲しい。
一部の権利者による理屈なき横暴に屈するのは教育的によろしくない。
ひとが「ぐれる」「おもしろくない」「理由なき反抗行動にでる」のはおおむねこのような横暴の下に置かれたときである。
必要あらば自ら立ち上げ行動する。そのくらいの行動を高校生にみせてあげることは教育的にも良いことである。

もうひとつは学校が本当に特待制度を廃止したとき、生徒および保護者は訴えを起こせる、という観点である。
生徒および保護者は、学校に入学するにあたり特待制度を前提として入学したわけである。
入学という行為ではあるが、これは契約の一種であると考えられる。
契約が締結されたときに提示された条件は法的に保護されるものである。
それを生徒側にはなんら落ち度がないのにも関わらず一方的に特待制度の破棄(具体的には授業料免除等である)という契約条項の一方的な改変が行われるわけであり、結果として契約違反になりかねない。
特に金銭的問題であり、また生徒側も学生生活の維持が不可能になるという重大事項であり、特待制度があるからこそ入学したという重要な関連付けが存在する以上、軽微な条項であるとは到底認められない。
一方で「特待生の禁止」は法律で決められているものではなく、いろんな見方があるが、高校と高野連の紳士協定みたいなものである。
守らないから法的に野球を行うことが禁止されるものでもなく、野球部の存続を禁止できるものでもない。
そんなものをふりかざすことで、結果的に特待制度廃止という重大な契約違反につながっているわけで、高校を訴えるとともに高野連も連帯責任者として訴えることも可能ではないだろうか、という論点である。
これもぜひとも頑張って欲しいと思う。
ひとりではなくても同じ境遇の生徒が何人もいる学校もおおかろうし集団訴訟という形も可能かと思う。
全国的に高野連を訴えるという形も可能ではないかと思う。
実害を被っているわけなので十分に裁判沙汰になることである。私立であれば数百万にのぼる額になるようであるから決して小額ではない。
教育的にも、前者は学校が生徒の規範となるということであったが、これは保護者が子供に対して横暴な権力には毅然として立ち向かうという姿勢をみせる良い機会である。
裁判は金銭沙汰でないととりあえげてくれないのでまさに良い教材といえる。

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