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2006/01/29

録再機が微減だそうだ

 JEITA、 2005年は液晶がCRT上回る。12月の電子機器国内出荷
-全体でも4年連続のプラス成長。録再機は微減

まぁ、予想していたことというか。
録再機の売上が早くも失速してしまったようである。
「反動」という”大人の発言”で濁しているが現実はもっと厳しく捉えているのではないか。

以下、(このブログではどれもそうだが)私の断定的口調で書いていきたいと思う。

失速の主原因はデジタル化への対応であろう。
デジタル化の期限が2011年という告知が特になされるようになった。後5年である。
そろそろ”隠して”販売するのもかなり厳しいこと、お役所からの通達もあったようである。
メーカー側もようやくデジタル対応モデルが作れるようになったという現状もあろう。
ちょうどデジタルモデルが各社から出揃ってきたのもようやく去年後半からである。

デジタル化というと高画質など良いことが多いように思うが実態はそうではない。

現実その1:高い。

アナログ放送対応のものがだいぶ値頃感が出てきて手が出るようになってきたと感じてる人も多い。
いわゆる安物でなくても手を出しやすい値段(5万付近)とものもある。
ところがデジタル対応のものは高い。高画質であっても高くては手が出ない。
現実にお店に行ったとする。アナログ対応のものなら安くなっているから買おうかと思う。
ところが「今買ってもアナログ対応は5年しか持ちませんよ」、と店員から告げられる。
自分の無知とやりばのない憤慨と現実にお金がないことから不快な気分で帰り路につく。
そんな感じなのが実情ではないだろうか。

現実その2:コピーワンスの不便さ

このブログでも再三取り上げているコピーワンスの問題がある。
著作権保持者側がどんな理屈をいおうが、一般の人の(視聴者側の)理屈は不便になる、以上の何ものでもない。
現実に、
・ハードディスクに残しながらDVDにコピーができない
・CPRM対応の高いディスクが必要である
・パソコンでキャプチャーなどができない
などの制約がかかっている。
もしかしたらこの制限が緩和されるかもしれない、という動きがある。
しかしながらそれも現実にはむしろ買い控えの情報にしかならない。
現在の機器で対応できるかが明確になっていないからだ。
今、購入して、その後でコピー制限が緩和された機器が出たら馬鹿馬鹿しいのは誰でも思うことである。

放送がデジタルになって便利になるというのは現実には虚構である。

技術的に云々とか著作権問題が片がつけばとか弁護する人たちもいる。
しかし現実、今の状況は違うのである。

著作権の本来の守られるべき形なのだという人もいる。
しかし誰も今よりも不便になることに耐えられる人はいないのである。

本来そこにあるべきデジタルの便利さが、著作権保護のためにほとんど消え、むしろ不便さだけが残ってしまっている、 それが現実なのである。

これらのことに気が付いて購入を見合わせた人が多いのではないかと思われる。
買う側にとっては本来、アナログでもデジタルでも関係ないのである。

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ちなみにデジタル放送化を推進しているのは総務省である。
放送局側は設備の負担増でどちらかというと消極姿勢。
メーカー側は買い替え需要喚起という事で賛成姿勢ではあるが、機器の高コスト化で難色という面もある。 (高ければ利幅が大きいという部分もあるのが)

一方、ここでももう放送という形態が変わってきていることもあるのではと思われる。

一つはグッズやDVDセル販売・レンタル収入を前提とした収益形態
グッズとの連携はすでに子供アニメ・特撮などではおなじみのものだが、この動きは大きく広がっている。
傍系の会社と契約をして収入を得るような形ではなく、はじめから自分らで手がけている動きが多い。
製作:○○委員会という表記があるが、 これもグッズ売り側が第三者的立場ではなくて番組にはじめから参画(出資)しているケースも多いようだ。
ストーリーに口を出さなくても、 その話の流れを知っていればタイムリーにグッズを出すことが可能となり手の込んだ時間のかかる商品の開発も可能となり、 売上の向上を狙えるわけである。
DVDによるコンテンツ売りというのも大きな流れである。全シリーズでなくとも総集編や傑作選のような形態のものも多い。 放送はこれらのための広告という形、主ではなりえなくなってきている部分もでている。

一つはネットでのコンテンツの切り売りの形態。
Gyaoが取り沙汰されるがホルダー自身の東映も積極的でネット配信を行っている。
フレッツonディズニーも有名だしネット業者と組んで配信する形態は今後も増えるであろう。
無料である程度の客を集めてプレミアムなどの形で有料コンテンツを売る。
数話だけ無料とか、ともかく無料で体験させておき、このレベルなんですがどうでしょうか?と切り崩しにかかっている。
とかくネットだと画質や安定度等に不安を抱くものだがこれをまず払拭させるのがねらいだろう。
ネット配信は個人差(家庭差?)が大きいためにクレーム回避のためにも有効な手段である。
現実にうちの回線・PCだと3Mbpsコンテンツでも不安がなくこれならコンテンツ次第では購入しても良いのではと思い始めている。
過去のコンテンツの切り売りだけではなく、現在進行中のテレビ番組そのものの配信すらはじめている。
私自身、地方局の番組でテレビではみられないものでもネット配信を楽しませてもらっているものがある。

ちなみに実はいつのまにやら日本は世界有数のブロードバンド国家になっている。
いや、世界一という捉え方もされている。
米国は国土が広いために実はさほど高速回線が引ききれていない。 電話が市内定額のために電話回線経由で満足している人が多く要求度が低かったせいもある。
日本では(賛否両論あるものの)Yahoo!BBの効果でADSLに関して世界的にも安く提供し普及率を一気に引き上げている。 これに対して各社も対抗、客争いの大激戦となった。
そして次のステージである光もNTT自身も含め、これも激戦の中で安くなり光の普及率が非常に高い。
パソコンとのセットやアンケートに答えるとキャッシュバックなど、 高額になる工事費が現実に無料になるなどの攻勢も光でもあたりまえになっている。
ちなみに現在のコンテンツは良くて3Mbps、HD画質相当で6Mbpsぐらいが一般的である。
再生の障害は回線よりもサーバー側の問題のほうが多いようである。

こうなるとテレビ放送に固執する必要はなくなる。好きな時間にネットで調べてネットで観る。
どの道、ネットは必要なのだよな、となっていると、 あえてHDDレコーダーなどを買って予約なんかして面倒な操作をして再生してなんて面倒になってくる。
ネットならふんぞり返ってクリックしていればコンテンツが観れるのだから。
どうせ録画もできないしDVDに移せないのである。それは一緒。
友達にも観て欲しいのならそのURLをメールすれば終わりである。
制約のある中で高いDVDメディアにコピーして大事に扱ってねなんて釘をさして貸すなんて面倒でやってられなくなる。

なお、現在デジタルチューナーを搭載したHDDレコーダーを使っているが、 デジタル放送がきてもアナログが停まるまではアナログで録りつづけるつもりである(笑)
・・・もっとも未だデジタルがいつくるのか、正式に決まっていないようなんだけどね。隣の市の一部まではきているらしいんだが(笑)

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2006/01/15

テレビCMの限界・・いや、テレビがやばくないか。

民放の根幹を揺るがす、 ある“深刻な”事態(1)〜テレビCMの限界が見え始めた

面白そうなネタを取り上げている。
どんな展開になるのかこれから楽しみにしたいと思う。

「CMのCM」などという訳の判らないCMが流される昨今、TV業界もCMについて考え直さないといけないんじゃないの?と思うのだが。

放送のネットとの融合とかデジタル家電、HDDレコーダーによってCMをスキップされ見なくなったとか、 他人のせいにする発言を民放のお偉方がしているようでは民放の存在自体が危ういのではと思ってしまう。

まずそもそもTV離れが進んでいる、といわれて久しいがさらに加速しているのでは、ということ。
いまさらだがケイタイ、ゲーム機、パソコンと向き合っている時間が増えればTVから離れる。
TVだけではなくケイタイやパソコンを通じたネット情報の充実により情報を得る比重がどんどん増えていることは否定しようのない事実であろう。
放送業界は視聴率というのを非常に気にしているが、そもそも視聴している率がどれだけいるのか。
CMスキップがなくともTVでCMに入ればケイタイやパソコンに気をとられてTVはついていても見ていないというケースなどいくらでもあるのではないか。
その辺を直視しないで大丈夫なのか。

TV受像機自体にも変化が生まれている。最近のデジタルTV、液晶やプラズマTVでは殆どの機種でパソコン入力が可能となっている。 つまりパソコンを見ているときにはTVがみられていないこともありえる。

TVCMがどうのこうのいう以前にTV放送自体が深刻な事態にはなっていないだろうか。

間が悪いことに(と、あえて言う)放送のデジタル化が現在、起きている。
TVが壊れる壊れないを問わずに2011年には今のテレビがつかえなくなる。このことを一般の人はどう思うのか。
デジタル化をすると録画の自由度が非常に落ちる。コピーワンスという制約からだ。
せっかくHDDにいれて便利に見れると思っていたのに、DVDにバックアップをしようと思っても移動しかできない。 HDDが壊れたら終わりである。DVDがいつ消えるか不安でも複製はできない。
学校の友達に今度の新ドラマが面白いからみようよ、第一話貸してあげるから、といってもHDDから移さないとそれができない。 その友達がディスクを不慮で壊してしまうかもしれない、と思うと躊躇する。(せっかく只で口コミ宣伝してもらえるのに・・・)
現状ではあるがCPRM対応のメディアしか使えなくてそれは倍近く値段が高い。
SDカードに移してケイタイやPSPで見れるといってもそれも移動になるから、やってしまうとTVで見れない。

このようにデジタル化に伴う制約は実生活であきらかに浮き彫りにされてくる。
デジタル化で豊かになるってどこが?である。一度嫌になると坊主にくけりゃ袈裟まで、である。
もう面倒だから録画はいいや、って感じにもなりかねない。(実際私自身なりつつある)
次の段階はTV放送なんていいや、っていうことになる。
JEIDAが機器が売れないからコピワンを見直そう、と提言したようだが、 放送業界も自分達の首を結果的に締めることになることを真摯に捉えないとやばいのではないか。
放送業界は、元々視聴者にはそんな権利はない、制限があるほうが本来だ、などというような発言しているがそんなのことは関係ない。 既にある今の生活から不便になれば、それはただ不便になったとしか感じない。それが人間というものだ。

(特に民放の)TVというのは既に娯楽の王様ではなくて、既にたくさんの中のひとつに過ぎないのに。

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著作権法・・・保護50年/70年の長さを考える

著作権法第57条、 「著作者の死後五十年又は著作物の公表後五十年若しくは創作後
五十年の期間の終期を計算するときは、著作者が死亡した日又は著作物が公表され若しくは
創作された日のそれぞれ属する年の翌年から起算する」

WikiPeidaより引用。

この50年の見直し論議がおきている。さらに70年に延長せよと。まず、なぜ50年なのか、 という疑問があるのだが。。

そもそも著作権は本来は著作者の権利として存在しその創意工夫発想に対して敬意を払い、正しい報酬を得られるようにすること。
そのために無断に使ってただ乗り儲けをする輩を排除するのが目的なのであろう。

要は著作者の保護であってその著作者が死んでしまえば本来はそれが失効するのが本来の筋であろうか。

ただし著作物は金を生むもの。 その権利金が収入として一家を支えているケースもあろう。
権利者たる親が不慮に死亡したから権利を剥奪し一家の収入が途切れるというのも酷な話だ。
一方で権利は資産でもあるからそれは遺産という形で遺産相続の資格を持つ者に受け継がれるという理屈もありえる。 そのために著作者の死後も継続されるという規定にしているのだろうか。

子供が育ち、自立するのは世間一般ではいわゆる大学卒業後で22歳程度である。 下種な言い方だが子作り直後に死んでしまっても、その子が自立するまでは23年しか必要がない。
50年となるとその子がまた子を産んで自立する年齢までも十分可能な年数であろう。

著作者から見れば孫が成人するまで十分な可能な年数となっているのである。

今度は70年となると曾孫までか(笑)。
既に権利は直系の一部の子孫のみに受け継がれる状況になるのではないだろうか。それが果たして正当な姿なのか。

70年といえば孫でもそうだが既に顔を見るよしもない、写真、いや遺影さえも怪しい人に養われるような状況といえる。
さて70年前に存命していた自分の先祖の名前をすべて記憶している人が、どれくらいいるのだろうか。私には無理だ。
およそ人間にとってそれくらい70年というのははるか前のことなのである。

無論、 著作者の家庭であればその人のおかげで収入を得ているのだからそこは毎日か毎月かは弔っているのだとは思うが。
(ちなみに実家では、私が生まれる前に死去していた祖父、 子供のころ死去した祖母の遺影さえもすでに祀っていない)
死後50年というとすでに普通は家族、家庭の中で`風化'している存在である。せいぜいがお盆にのみ思い出す存在ではないか。
その収入、遺産を当てに生きているのは下手すれば屑といわれかねない(無論、親の遺産をもとに資産運用して生きているのは別問題である)。

それ以外に誰が金が欲しがっているのかというと、 その著作物を利用し収入を得ている会社企業であるとみえてくる。
著作者が死亡して即座に権利が消失してしまえば、それまでの投資すら回収できない例もでてこよう。
その保護も当然考慮すべきなのであろう。
それでも50年は長すぎるのではないか。例えば新入社員(22歳)が入って定年(60歳)を迎える年数は、38年である。
つまり会社が一世代以上代替わりして十分おつりがくる。それだけの年数を、 既に死亡した著作者が生んだ権利を行使して収入を得ているのは長すぎるのではなかろうか。

新たな著作物を生む、 儲けを探すという気力をむしろ剥奪する環境を作りだしかねないのではないか。
人間というのは元来、怠け者である。何もしないで金が入ってくればなにもしない。
逆に金がなければ頭を絞って汗水流して働く。そこから創造が生まれてくるケースもある。

ゼロにしろとはいえないが、 既に過剰な保護をさらに過剰にしてどうするのだろうか。

延長の論議では海外の例を出しているが、米国はすでに捻じ曲がっている。
「ミッキーマウス保護法」最近では「チャップリン保護法」なるいわれ方もしている。著作権の延長を、 著作権が切れそうになると延長を繰り返している、といわれている。こんなのを参考・お手本にしてはいけない。
むしろ日本が論理性を持って是正するべきではないか。
年数の妥当性、メリット・デメリットを正しく検討し、論議し考えるべきであろう。
ベルヌ条約、という言葉がでてくるが、相互にというのなら、日本が米国に倣うべきというのなら、米国も日本に倣うべきである。
米国がやっているから日本もやらねばならない、という論理なら従属国の発想でしかない。
条約に準じてというのは実は自分らに都合よく引用しているだけのことなのではないか。

これらの問題は社会の活力に関しての問題とつながってくる。
素晴らしい作品を生み出した人間に敬意を表し老後も含めて十分な生活をしてもらうのにまったく反対する余地もない。
しかし既にその人が歴史上の人物になっているのにその遺産を、納得のいかない法律の保護のもとに、 ただ管財し生活している人がいると思うとどこか納得がいかない。
50年とか70年というのはその不満感をさらに増すだけのものに過ぎないのではなかろうか。

法律はそもそも社会の保持、公正公平のために存在する側面も持つ。
法律そのもののの根幹から捻じ曲げるような法律にしてはいけない。

もう一点。根本精神から違うが、割と類似しているものに特許権がある。
技術分野において優れた創作物(新規性・先進性がある)と認められるもので登録制度によっている。
性格上単純な比較はできないが、創作して(正確には出願・登録してから) 20年しか権利を独占できない。
20年というと仮に40歳で創作・登録したとしても定年(60歳)まで持たないのである。
例えば特許で一定の収入を保とうと思えば、普通は常に発明をしつづけないといけない。
それは孫どころか子供にすら無関係なほどに短い。(無論、大もうけをして資産を築くことは可能あろうが)
社会的影響や根本が違うのだから同じ年数にしろとは思わない。
しかしながら実生活において、あまりに不公平感がでてしまうのはいかがなものか、と思う。

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2006/01/07

「Windows 95の夢はもう帰らない」から思うこと

元麻布春男の週刊PCホットライン  Windows 95の夢はもう帰らない

今日はこの記事を受けて。

まずはWindows95の革新といえた事項を今一度振り返ってみたいと思う。


・640kbyteの呪縛(制約)からの開放

DOSの呪縛からの開放なのだが。
DOSを拡張してまずこの呪縛から開放させるという手順もあったはずだがそれはMicrosoftはやらなかった。
EMSなどの手法を使ってデータ領域をバンク切り替えのような手法を用いて拡張するだけにとどまった。
既にWindows3.1の時点でこの制約から事実上動作アプリケーションの限界が決まってしまっていた。
DOSレベルでドライバをいれないと動作しないアプリケーションがあるなど同時に動作させるアプリケーションの制限がでてしまっていた。
うまく伝えられないが要するにユーザーはいらいらしていたのだ。
この制約からネットへの接続も面倒だった。いや、使い物にならないといっても過言ではなかったかもしれない。
ネット関連のプログラムは膨大なメモリを消費するのである。 (ここでのネットはインターネットやLANを指す)

・PnPの導入

色々と問題のあった(今もあるか)Plug and Playであるが、この導入自体は楽になるための先鞭である。
ハードを差し込むだけであとはソフトが自動判定して設定・ソフト導入をしてくれる。
それまではユーザーがハードウェア資源、 つまり導入しようとするハードウェアの仕様条件を把握して既にあるハードウェアと衝突しないように把握し必要ならば変更をしてやる必要があった。
そもそもこれは面倒だし、素人には難しすぎる。

・ネットワークへの対応

PnP的な対応を含めてネットワークへの対応は非常に充実し、簡単になった。隔世の感がある。
LANを組んでネットワークドライブをお互いに共有するぐらいは非常に楽にできるようになった。
無論、セキュリティに難はあるが、まずは何よりもつながらなくては話にならない。
このOSの登場と同時にネットワーク関連のハードウェアも劇的に下落した。もう何分の1になったとかそういうレベルである。 売れれば安くなる、安くなれば売れるのスパイラルで凄まじかった。
わたしもその流れで初めて買った部類である。
このころに同時にネットワークゲームの面白さというものを知ったのである。


以上の三項目が大きい。

スタートメニューが初めてお目見えとかエキスプローラという概念とかGUIがどうのとかそんなのはどうでもよかった。
特にネットワーク対応は大きかった。DOS/Windows3.1で相当な努力をしないと実現が困難だった対応以上のことが簡単にできる。 これならば誰にでも薦められると喜んだものだ。
いうまでもなくネットワークへの対応は生活を一転させるほどの魅力を持つ。
当時はインフラもさほどなかったが、夢は既に見えていた。
今となっては(携帯電話でのそれを含め)ネットワークがない生活に戻れない人が殆どではないだろうか。

これ以降のWindowsがあまり盛り上がらないのも、いかにVistaが革新的とか宣伝してみても、 所詮は既存の技術のちょっとした改良に過ぎないのが見えてしまうのからである。
それゆえにむしろなんで既存のOSにアプリケーションとして出してくれないの? とかそれはアプリケーションの役割であってOSがやるべきこと、統合する意味がないのでは?とか批判されるようになってしまうことになる。

必要なのは生活を変えてくれる、なにか、である。

もうすこし下がれば作業スタイルを開放、確信してくれるなにか、である。

革新に欠けていることを示している例としては、記事で例にあげられている3Dタスク切り替えが好例である。
3Dメニューの類はいまさら目新しいものでもない。ゲームではよくある手段である。何をいまさらである。
何よりもタスク切り替えという概念をそのままに3D表示化しただけというのが可笑しいというか微笑ましい。
そこには何のメリットも便利さの向上もない。
仮にこの手法を特許申請してみれば、これは単なる組み合わせ技術であり新規性がないので特許として認められず、申請を却下する、 といったレベルの内容であるのだろう。
組み合わせて1+1=2以上の何かを生み出さなければ新規性があるとは言わない。
3D表示にしたという意味が見えてこないのだ。(むしろマシンによっては表示が重いとかデメリットばかりがあげつらわれかねない)

もっとも、ビルゲイツも、PCというカテゴリーには飽きているのだろうと思う。
相次ぐセキュリティ問題でもうやめたいとさえ思っているのかもしれない。
メインストリームとしては残して置かねばならないがそこにはもうさしたる発展がないと考えているのではないだろうか。
Vistaは遅れに遅れているし、さしたる凄さもない。別にそれでもかまわないのであろう。

まぁ、なんにせよ、今はネットワークをどう使っていくか、それにつきるのだろうな。
そこでいかに金儲けが出来るのか、なにが面白いのか。
Windowsがそれの一部として役割を担っていくが、それだけでもない。
そんな感じなのだろうかな。

ユーザーもPCに飽きている。PCは面倒でもう使いたくないと一度使ってみてやめていった人も頻出して久しい。
会社では使わざるを得ないが家ではいらないという人も多い。もはやPC=先進で踊る人はいない。
やっとPCの存在意義、意味、なにをするのか、なにができるのか。それが問われているのだろう。
PCが若かったころは過ぎ、いま、その曲がり角にきているのかもしれない。

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