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2005/09/30

「のまネコ」問題に関して

http://ecweb1.avexnet.or.jp/sa4web/050930info.htm

Avexからの発表なんだが、まず読むと「なんとなく会社の人が書いたような文章でないよなー」っという感じがする。
企業の出す声明やこういう発表文章というのは締りがあるのだがどうもこれにはない。

まぁ、それはともかくとして結局勘違いして終わりなのかな、という感じですね。
2ちゃんねるの合意というのは当然なくていろんな意見があるわけなんですが、 それなりに2ちゃんねるに漬かっている私の意見としては次のような感じです。

・フラッシュの特典映像はやめなくてもいいんじゃないの?
こういうフラッシュ作品というものを世間様に認知してもらうには面白い機会ではなかったかとは思うわけです。
個人で面白いというだけで金も取らずに、こういうものを作って楽しんで配って誰かを楽しませている、そういう人がいるんだ、 というのは意外と知られていなかったりするわけです。世間というのはいわゆる企業人ばかりなのですね。これが。

・のまネコグッズの展開のやり方について
キャラグッズを売るのもまぁいいんじゃないかなぁ、ぐらいの感覚なんですけどね。
金儲けしてもらっても構わないと思います。
おそらく一番反発感を抱くのは商標登録したということ自体なんだと思います。
そのことがアスキーアート(AA)の制限をするという行為には及べないと思っていたしするつもりもないというのも理解はできます。
商標登録で海賊版に対抗という考え自体が、感覚が違うわけなんですね。
いってしまえば海賊版がよしんばでてもそれはそれとして受け入れなければいけないんです。
海賊版が出るとそこでせっかく自分が築いたキャラやグッズがスポイルされる、売れなくなるという予想をするのが普通だと思います。でも、 そういう考えをもつ自体が違うんです。誰か別の会社が同様のものを出してくる、 そういうことは当然で当たり前であるという感覚を持たないといけないんです。
値段しかり、販売ルートしかり、デザインしかり、そういうもので対抗するべきであって類似商品を類似であるから排除する、つまり独占をする、 それを法律の助けを借りて行うという考えがそもそも間違っているんです。
まっとうな企業人は、排除できるのが当然だと思うのが通常だと思います。
私自身も企業に勤める人間としてはそう思います。
でも、そこが2ちゃんねる文化との大きな相違で埋め様のない溝なんだと思うわけです。
2ちゃんねる住人としての私は、排除は間違っている、という感覚を一方で持ち合わせている訳です。
モナーやその他の類似AAキャラクター達はみんなコピーされ、改版され、またコピーされ、改版され、そして洗練され育ってきたからです。 それが誰のものでもないということなんです。
海賊版というのは、自分達が正当な持ち主であることの主張を持つ観点であるわけです。
そのこと自体が欺瞞である、という感覚を持ちます。
"海賊版"を作っているのもそれはある一つの会社だし、Avexも一つの会社に過ぎないのです。
つまりその意味では平等なんです。派生したものは誰でも平等にそれを使うことができる。それが根本にあるのです。 それを受け入れられないのならそもそも使ってはいけないのです。
ソフトウェアでいえばCopyleftという考え方が類似します。あるソフトが無償で配布されていたりします。 そこからは誰でもプログラムのソースコードを持っていって自由に改変して使っていい。実は売っても構わない。 しかしその改変したものを公開しないといけない。ネット上でソースコードを配布しないといけない。そして新たなソフトが生まれ、 育っていくという考えです。
買う人がいれば売ればいいし、メディア代などの実費をとる等は全く構わない。 ネット上で無償で配布しているのだから当然実費程度しか取れないのが自然になるわけでそこでどの程度"儲ける"かは自然と制限されるわけです。 例えばそのソフトの使い方をサポートをして金儲けしても良い。ソフトを売るのではなくサポートという労力に対して対価を取るのですから。

・まったく別物であり、という言葉
インスパイアされたとか、バックグラウンドとしてとか色々関連をする発言の一方で、 別物であり問題はないと考える自体が筋がとおっていないとしか見られないわけです。
いうなれば「思いつきで弁明している」としかとれない。それが一連の問題の大きな要因であったと思われます。
この文章もそうなのですが、言葉遣いや文脈が企業の出した言葉とは思えないような幼稚さが目に付くわけです。 それでは信用は得られないわけですから。
いつ前言撤回されるかわからない。Avexが管理するならともかくZenとかいう会社をでっちあげてそこに話を転嫁しようとする、 そういう姿勢も反感を買う要因となるわけです。

・わた氏のサイトからフラッシュ映像が削除されてしまったことについて
わた氏の作品であり、Avexに売ったのだから削除されるのは当たり前である、というのは正論なのかもしれません。 でもそれも反感を生んだのではないかなぁ、と思います。
実は私はその点が一番ひっかかっていたわけなんですね。
ある意味、わた氏の作品も2ちゃんねる文化の中の一つの派生であるに過ぎない、 それを独占するという行為自体に違和感を感じられるわけなんですね。
そこを押さえられてしまうことが、いずれ自分も押さえられてしまうのではないか、という感覚を感じてしまったのではないかと思います。
フラッシュがCDにつくようになっても依然としてフラッシュは公開されている、その状態に違和感をもつのか別に問題ないと思うのか、 そこが大きな違いなんだろうと思います。
ここで前例として電車男という作品があります。書籍化されるにあたって一番論議を生んだのは 「ネットで只でみれるものを本にして商売になるのか」ということだったそうです。
ところが結果はご存知のとおり大ベストセラーとなったわけです。無論ネットでみれなくなったわけではありません。

みんなが育てたものを売る自体は問題は特にはない、おこぼれを与るぐらいの気持ちであれば。
しかし、あたかも自分が作ったかのような傲慢な態度、そしてそれを独占しようという態度、それが根本的な問題だったのではないかと。

そんなところです。わざわざ考え方というタイトルをつけたぐらいであるし、彼らも2ちゃんねらーとの温度差を感じているのかなぁ、 という感じも受けます。
どっちが正しいとかそういうのではないのかもねぇ、2つの違った文化のぶつかり合いみたいなもんだったのかね、 という印象を受けたこの一連の話だったわけです。

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2005/09/24

栃木・馬頭の備中沢の環境問題

http://www005.upp.so-net.ne.jp/kankyomk/batoukouryu.html
栃木・馬頭の備中沢の環境問題

まさかすぐ近所(というものの数十kmは優に離れているが)でこんなことが起きているとは思わなかった。
馬頭の町は何度も通ったことはあるが残念ながら備中沢は知らず行ったことがない。
電車から縁遠く、自動車で無いといけない。自動車であればどこかに行く時の通過ポイントとはなる、そんな印象を私は馬頭には感じている。
馬頭は馬で有名で馬刺しなどが名物である。道の駅で購入した地元の日本酒もおいしかった。

それはさておき・・・・・
相変わらずの建設推進側の虚言・言い分である。ここの問題に限らず定型的ともいえる嘘の言い訳や騙しにはうんざりする。
この手のサイトや新聞雑誌記事、テレビ番組を日頃興味深く見ていると典型的なパターンがみえてくる。

明確な3点だけ指摘しておく。

1つ目。
処分場はゴムシートを敷いて埋め立てる「管理型」と呼ばれるものであるという。
どこが管理なのか全く不明なのだがゴムシートなどまったくの気休めにしかなっていない。
記事中でも指摘されている件に加えて、発熱問題もある。
例えば建築廃棄物のみをいれるといいながら、それが事実であれば起こりえない発熱による発煙がみられる例がいくつもある。
散々追求していくと最後の言い訳で「どうしても除去できない付着物が・・」という言い逃れをする始末である例もあった。
化学反応というものは予期できないもので、廃棄物というのはおよそ管理し得ない様々な物が混在している (だから埋め立てという大雑把な方法で処理しようとするのだ)。
その様々な物質がお互いに反応しあって様々な物質が生成される。それがとんでもない有害物質である可能性だってある。
そのうち、塩化ビニルを低温で燃焼させるという割と容易に生成されるのがダイオキシンであるだけなのだ。
いわゆる有機化合物には人体の影響についてまだ判らない物が多く、非常に微量で悪影響を起こすことは知られている。 それらを俗に環境ホルモンという。
ホルモンは元々人体内で生成され非常に微小であるが重要な情報伝達物質であるとされる。 環境ホルモンによりそれらが阻害されたり入れ替わって誤った情報となるために体のあちこちに変調を引き起こすとも云われている。 いまだに真の原因が不明なアトピー性皮膚炎などはその一例ともされる。

無害なものだけを投棄したとしても、それらが反応しあって有害になる可能性は十分にあるのだ。
こんなことは化学を少しでも理解しているものなら当然知っていることだ。
最も卑近な例を挙げよう。
塩。どこの家庭にもある塩である。人間にとって摂取が必要なほどのものである。しかしこれを分解するとナトリウムと塩素になる。 塩素はご存知のとおり強烈な刺激臭を持ち殺菌作用も持つが皮膚を侵したり吸引すると大変危険な物質である。

雨水によって溶かされたり生成された新たな化合物がゴムを腐食して目に見えない穴をあけたり、大気中に揮発して分散したり、 風によって運ばれたりする可能性もあります。
例え一見ゴムシートに異常がないように見えても拡散する恐れはいくらでもあるのです。
ゴムシートなんて拡散ルートのひとつをかろうじて抑えているだけで他にも抜け道はいくらでもあるのですよ。
それ以前に記事中にあるように穴があいていてもこれは穴ではないと言い張るようなずさんな管理をしているわけですからもう呆れるしかないのですが。

2つ目。
貴重な動植物は他所へ移せばよい、という大嘘。
生物学を少しでも齧り、もしくは自然にいる生き物を飼ったり育てたりした経験のある人なら絶対そんな意見には賛同できないだろう。
(ここでいう生き物とは犬猫のような家畜類、人間に改良され強化された植物は除く)
植物で云えば温度・湿度という要素が非常に微妙に絡んでいる。
高原植物で顕著に表れるが、標高によって生息してる植物のテリトリーのようなものがある。
日照時間や水雨量も大きな要素だ。土の質も様々だ。これらはほんの代表的な要素の例にしか過ぎない。
例えばその植物の上にある木々が別の種類に変わっただけでもその植物が枯れてしまうことさえありえる。 仮に移して根付いたとしても次の世代が生まれないことだって珍しくはない。
移せばうまくいくなどという意見は全くありえない。
代替地があるかどうかなどというそんな単純な話ではありえない。

特に希少動物と呼ばれる種類はなぜゆえに希少動物なのか。
その生活・繁殖条件が非常に限定されるがゆえに希少であるということなのである。 つまり移してまた繁殖しうる可能性が非常に低いと考えるのが自然である。(うまくいえけばそれは偶然)
仮に移すとしたらどんな莫大な金がかかるのか。おそらく山ごと移すぐらいは最低必要だと思われる。それでも私は不満だが。
しかし、おそらく行政は非常に安易に考えているに違いない。
虫や鳥達を捕まえてどこかに移送して離せばいい、その程度ではないのだろうか。

3つ目。
安全は県が「何か被害を被ることがあれば100%保証する」という点。
ここの過去の事例。例えば水俣病。栃木なら割と近くの足尾銅山。
これらを思い出したらよい。惨状が起きてから原因追求、責任の実証、相手に認めさせるまでの膨大な時間と費用と労力。 そして補償されるまでどれだけかかったのか。
それまでどれだけの被害が拡散していったか。
仮になんかしらの病状が発症したとする。しかし、それをすぐさま県側が投棄処理場の建設に伴って起きたものであると認定するとは限らない、 という点を考えておかねばならない。
なんかしらの被害を被ってもその因果関係を実証しなければならない、それは決して容易なことではないと考えるべきである。
そもそも行政側が調査してくれるのか、まともな調査になるのか、おそらく簡単に認めるわけはないだろう。
このような杜撰な推進をしているのだから、同レベルで被害調査をしてもらったとして満足行くとは到底思えない。 普通に考えて行政有利である調査結果をだしてくるに決まっている。
一つ目で述べたように一体どんな有害物質が飛散するか未知数なのだ。つまりどんな異常が起きるのか予想できないのだ。 それを処分場と結びつけることはただでさえ難しいのだ。

おそらく行政側もそこまで読んだ上で「100%保証」などという言葉を出しているのではないかと推察する。 どうせ簡単には立証できやしないと。よしんば立証できたらば保証はするけど、というレベルで。
仮に保証といってもその原資は税金なんだよね。役人どもの自分の懐が痛むわけでもないし、 おそらく立証される頃は担当が変わっているだろうね。だからいくらでも無責任にいえる。誰がババを引くか、そんなレベルだろう。
ババを引いた時の担当責任者は「その時の状況については既に担当者が違っており資料についても調査してみないと(以下略)」 って感じで自分には責任がない、そんなこと俺に追及されてもしらんがな、ってな感じだろう。
この手の追求番組を見ているともうパターン化しているといってもおかしくない見飽きた風景になるだろう。

簡単につっこみをいれてもこれだけアラが出る。
でもそれを追求してもなににもならないんだよね。それはわかってる。所詮は只の評論家。

おそらく馬頭の町はこれで決定的に過疎化は進むだろうね。
廃棄物処理場の町として生き残っていく。でもそれだけのことかもしれない。
どうせ過疎化で沈没寸前の町。
なんかあったら人間は逃げ出せばいい。動植物とは違って人間なんてどこでも住めるから。
自然も別にここだけでもない。
他にもいくらでも蛍の飛ぶような自然はあるからね。温泉地だっていくらでもある。
希少動物だってなくなってもどうってことない。所詮は生物学者の自己満足だよね。

写真や記事をみると素晴らしい自然があり観光地になりえると思うんだけどね。
もったいないよね。
まあ、それで金はなかなか取れないから廃棄物処理場のほうがいいのかもね。
そこまでいえば部外者の言うことではないよね。

埋め立て式の山間廃棄物処理場なんてそのうち一杯になって、受け入れられなくなっておしまい。 夢の島みたいな宅地造成を兼ねた埋立地じゃないんだよね。そこに気が付いていないのかな。まさかね。
一杯になったらどうするんだろうね。簡単には土に戻らない危険な廃棄物という爆弾を抱えてただずっと暮らすだけだよ。
その頃には自分は生きていないからいいのかね。
一杯になったら土地ごと放棄して逃げるのかね。。。。。。

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2005/09/19

JASRACからの久しぶりのネタ投下

http://www.jasrac.or.jp/shiteki-rokuon/05/09_2.html
まぁ、突っ込み満載で突っ込む気力も起きないので(やりだしたら全編赤ペン入れになりそうw)、権利者の元締めって・・・ ということで落胆しつつスルーしておきましょうか。
読んでいると彼らって「俺達は悪者でいい。音楽家達のために頑張って金を集めているんだ、良いことをしているんだ」 というようなナルシストなのかもしれない(笑)とさえ感じますわ。

http://www.miccos.com/cgi-bin/diary/diary.cgi?mode=view&YMD=20050812&w=5
その辺のブログをみていてうろうろしていたら著作者の人からの意見もあり。

自分の例でいえばMIDIで耳コピーが華やかりし頃、それを聴く事で色々な音楽・曲を知り、本物が欲しくなり、 まさにノンジャンルという感じでCDを貪るように買っては聴いていたなぁ、という行動をしていたのを思い出した。 今はすっかり低調になってますねぇ。ジャンルもごく限られてしまっている。

新しい音楽との出会い、の機会が激減しているのではないのかな。
MIDIはその一例に過ぎないけど。
ラジオだと「あれ?今のなんだったんだ?」で終わったりするんですよね。調べようがない (そこで苦労してラジオ局に問い合わせるほどの執着心はない)。

ついでにMIDIの耳コピー曲を擁護しておくと、原曲よりいい感じの曲もあったりする。
MIDI楽器の限界もあって原曲の雰囲気を再現するためにそれなりのオリジナリティを発揮する必要があるわけです。音から作ったり、 敢えてオリジナルのメロディーラインやコードを追加したり色々やっている思い入れが感じられたりします。
コピー機によるコピーというより写本に近いですね。曲を取り込んでWAVなりMP3/AACにするのとは訳が違う。
中には"インスパイアされて曲を作った"レベル、もしくはオリジナルリミックスではというものもありました。
そういう文化を否定しているわけですからね。いや、そんなのは文化とはいえない、ただの盗人だという断罪なのでしょうが。

誰だって最初は模写、模倣なんですよ。どんな作家さんだって芸術家だってそう。
お役人さんにはわからないのでしょうがね。およそ著作者なんてみんなそうですよ。

あまりに自分の権利を振りかざす人間は、実は著作者、つまり自分で物を作った経験がない人でなのでしょう。 ただ仕事の枠組みの中で著作者ぶっているだけの人、もしくは自分の昔を忘れてしまったただの守銭奴なのでしょうかね。

もうひとつ。公平配分、公平負担というのは一見正しいことに見えるけど実はそうでもないということも指摘しておく。
薄く広く負担を求めるというのは必ずしも合理的ではないというのも理屈。
JASRACは補償金の返上をもって自身の論を正当化しているけど、その返上が合理的ではないという点である。 そのことは補償金の合理性も疑問視させることになる。
例えばMD機器で400円だそうだが、400円返上するのにいくらかかるのでしょうか。 振込み代やその事務手続き費用は誰が負担するのでしょうか?
返上することもある、という時点でそもそも徴収することに合理性を欠いていると考えるべきでしょう。

iPodが売れたのは色々な要因があるが、その自由さにあるという点も指摘しておく。
本来は対抗馬となりうる大手家電メーカーのSONY、東芝の惨状はなんであるか。
保護機構の鬱陶しさにあるというのも一因だと考える。
保護機構が簡単さや明確さを損なわなければ構わないが、致命的に損なっている。

締め付ければ金を払うという考えをしているのだろうが、多くの名も無きユーザー達は、そこから逃げるだけである。 JASRACの思考においてそこの認識のなさが致命的に間違っている。
例えば見世物小屋で「只見はお断りだ、金を払えさっさと」とかいったとする。確かにそれは正論だろう。 でもそこでどんどん客になりそうだった人たちは帰ってしまうだけなのだ。
そこで「御代は見てのお帰りだよ、面白くなかったら払わなくてもいいよ」といえばお客が入ってお金を払ってくれたかもしれないのにね。
そんなことをしておいて「最近うちの見世物小屋を見てくれる人が少なくなった」「そうだ近所のあの小屋が悪いんだ」「そうだ、 この道をとおったら金をとるようにしよう」
そんな発想にだぶってしか見えないですよ。

彼らの発言などを見ている時の違和感は何かといえば「およそ客商売の発想ではない」ということに尽きるのかもしれない。

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2005/09/17

Windows Vistaと昔話

http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/0916/ubiq125.htm

Widows3.1、いや、DOS/Vの頃からAT互換機を使って変遷を見てきた者から言う。
ちっと違うのではないかな。

Office95というより私はExcel95に大きく心を惹かれた。それ以前のExcelはかなりUIも貧弱、 というより機能的に遥かに低かった。ExcelというよりMultiplanではないか、という感じ。
Wordは劣悪だしOutlookがどうしようもないというのは予想がついていた(Exchangeも素人以下のできであったし)
Excelへの憧れのようなものはMacへの憧れと紙一重であったとも思う。

3.1から 95への移行はUIというよりもNetwork対応であり、640kbyteの制約からの決別である、と思う。 いまどきの人たちには理解できないと思うので詳細を話してみる。

640kbyteの制約というのは、たとえメモリを何十Mbyte積んでいようと、 アプリケーションが全部で640kbyte(実際には300k-400k、よくて500k)しか同時に起動できないということである。
時計やら通信やらネットワークやら対応するドライバーをいれたりアクセサリをいれてしまうとあっという間に本来動かしたいはずの(わりと大きな)アプリが起動できなくなってしまう。
当時で、というか私でも32Mbyteのメモリを積んでいたが、関係なく制約にひっかかる。
データ領域はこの制約は受けないのでメモリが無駄になるわけではないのだが、プログラムの同時起動に制約が来るわけだ。 せっかくのマルチタスクとはいうものの実質的に非常に窮屈であるといわざるを得ない。

95にすればこれが打破されるわけで、メモリが足りなければ増設しろ、で済む話なのである。
やっとこの呪縛から解き放たれるのだ、という安堵感しかなかった。

この制限はもやは時代遅れ以前の話だった。MacやX68000、無論Workstationなどではとっくに無縁な話で、 数十Mのメモリを積めるようになった時代までこんな8ビット時代の枷を背負っている自体がおかしいのであった。
しかしIntelCPUのあまりの強力さにその枷を背負ってでも使うしかなかったのだ。やっと追いてくれた、という思いがあった。

さて、もうひとつ、Network対応が何よりも大きかった。Windows3.1ではDOSでネットワークのドライバーを組み込み、 それをWindowsが利用するという形式。上記の様に限られた貴重なメモリ空間を(確か)数百kbyteも消費していたと思う。 これでは事実上使い物にならない。
Windows自体がNetworkの機能を持つように、 米国本土ではWindows3.11forWorkgroupというバージョンが発売されていた。 しかし日本語版の発売(当時は英語版ができてから日本語版など対応するという手順だった)と95発売までのタイムラグ(要はW3.11のライフタイム)を考えるとどうみても割に合わないということになり、 日本語版は見送られることとなってしまった。
そのために有志 (後にC.F.コンピューティング)によってWin/Vという英語版Windows日本語化キットみたいなものが売り出された。
これを購入し、センスのないWindows3.1日本語版を捨て、英語版を購入し、これで日本語化するなどをした人も多かった (私もその一人)。当時はまだまだWindowsの開発者も少なく、英語圏の人が書いた、 英語版Windowsでしかうまく動かない魅力的なアプリやゲームも多かったため英語版Windowsも必要だった、ということもある。

また、これと同時にネットワークカードやHubが劇的に入手しやすくなった。
当時はHubで5万とかネットワークカードで数万もざらであった。私が95がでて程なく買ったころだったと思うが、ネットワークカード4枚、 ケーブル、8ポートHub、対応ゲームで2万というのがまさに破格というレベルだったのだ。
売れれば安くなる、安くなれば売れる、の良スパイラルになり、Netscapeがブラウザを配布し、プロバイダがどんどん増え、安くなり、 サイトも増えていき、、で、今に至るわけだ。

ここで注意しないといけないのは主役はMicrosoftではなく、とりまく環境、ユーザーたちであったということだ。 ユーザーというのは積極的ユーザー、パワーユーザーという人たちである。
だからこそOSの発売日に並んだりお祭り騒ぎにしたりするわけだ。

一般ユーザーにはそんな熱意はない。パソコンが中心ではない。
本来、他になにかがあって、パソコンはその傍らにある。
その人たちを惹きつけるのは並大抵の話ではない。

近年はデジタル家電や携帯電話の普及・高機能化によってパソコンなんて要らない、というユーザーも多い。
彼らは既に会社で使っていたり、昔使っていて押入れにいれてしまった、という人たちなのだ。既にパソコンに幻想は持っていない。
彼らをもう一度パソコンに惹きつけるのは非常に困難な話である。
全く知らない人をひきつけるより難しい。

Vistaをこれをやらねばならない宿命を背負っているはずだ。

しかし、その魅力を全く感じない。それどころか、いくつかの記事を見ても、正直、何を言っているのか、 何を目指しているのか全く伝わってこない。
未定義の、意味のわからないカタカナ語が雑じっている。なぜか。

カンファレンスを聞いてきた人もわけがわからないからだと私は考える。理解できていないと(自分の中で消化できていないと) 記事は見てきたそのままを書く以外にない。
エッセイのような自分の意見や考え、思いをどんどん吐き出してもかまわないはずの記事でも、大差がない。 どの名だたる記事も似たようなものだからかなりひどかったに違いない。

どんどん日程が差し迫り、出さざるを得ないのであろうが、Vistaの背負うものは実はとてつもなくでかい。 世間に受け入れられなかったら本当に冷め切ってしまってPCの業界自体を再起不能に陥らせてしまいかねない。

もっとも、いいかげん、日本の家電系パソコンメーカーもWindowsの新機能とかに頼るのではなく、ちゃんとユーザーの目線にたって、 独自性をもってパソコンを出して欲しいと思っている。
ユーザー目線で、というのは家電業界での鉄則であり、日頃から何度もいわれ、訓練されており、得意であるはずだ。 それがおよそできているのは殆どSonyだけ、というのも情けない話だ。
Sonyは会社の持つブランド力や外形デザインがよくいわれるが、それだけではなく商品のコンセプトも常に明確に持って進んできている。 だからこそ受け入れられているということを再認識すべきなのだろう。

 (追記)
OS やOfficeの好調というが、これは世間に受け入れられているというより、企業でのライセンスプログラムの厳しさやOEMビジネス (ハードを捨てると同時にOfficeも捨てねばならない)の成功によるのではと私は感じる。
企業というか経理としてはOEM版としてハードのリースを組み合わせると予算がほぼ一定額になるため実質楽であるという背景もある。 減るほうが本来は良いのだが、一度減らすと、購入年度に再度増やすのが大変であるために定額のほうが楽ということになる。 その辺に気づいて切り替えているのだけではないか。役所の道路工事ではないが、企業も似たようなところはあるのだ。

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2005/09/12

情報の授業って大変ですね。。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301d/990301k.htm

文部科学省の高等学校学習指導要領「情報」

初見で感じたことは「文章がまとまっていないな~」ってことでしょうかね。
情報A,情報B,情報Cと分かれているのですがそれらの差が非常にわかりにくい。
というか、なぜ分ける必要があるのさえも判らない。

この要領で扱おうとしているらしき、情報教育をもし切り分けるとすれば
・情報数理を中心とした数学的、理工学的アプローチ
・コンピューターが社会に与える影響を考察する、社会学的アプローチ
・コンピューターによって起こっている諸問題に関する解決を考察する法学的アプローチ
こんなところだと思います。
文部科学省の案はこれらを適当な配分でブレンドしてA,B,Cを作ったに過ぎない、としか見えないのですが。いや、 否定的な意味の適当ですが。

例えばデジタルならではの著作権問題なら三つ目ですし、プログラミングやパソコンの仕組みを知るなら一つ目に入ります。 二つ目でいえばネットが政治に与える状況や、ショッピングがネットに移行しつつあるのはどうなんだろうか、 というのを考えるとかそんなところでしょう。

それにしても実習、実習と具体的な数値まで挙げて拘るのは良くわかりませんね。プログラミングならば実習主体でしょうが、 プレゼン実習とかって何をするんでしょうかね。
高校生程度だとまだディベート能力も、技術文章記述能力もほぼないといっていいと思いますので、 基礎たるそこからまずちゃんと教育しないと話が始まらないわけで。。
野球で言えばまだバットの振り方もまだわからない子供に、 セーフティバントや流し打ち技法を教えるようなもので下手すると百害あって一利なしです。

それならば実習より、討論を主とするべし、とすべきでしょう。
あちこちに「・・を理解/考えさせる」とあるのですし。
まだ正解のない議題を多く扱うようになるでしょうし(というかそうでないとおかしい)、主体的な力をつける、というお題目もあるのですから。
それにしても現場の先生は大変でしょう。これだけの内容を教えるなんて相当難しいですよ。
おざなりにソフトの使い方を教えて終わりになりかねませんかね。でもそれじゃあいけないと要領にもかいてありますけど。。

この程度の内容であれば実習はLinux+OpenOffceでも十分ですので安上がりにすみそうですね。 まさかMicrosoftの馬鹿高いソフトなんて使いませんよね。税金の無駄遣いですから。
特定のソフトに固執すると思考の停止を招きますので、頭のやわらかい学生たちには、 進んで世間とはちょっと違ったものを使わせてあげて欲しいものです。

コンピューターは企業だけによって発展し、作られてきたのではない、ということを教えないということはありえないと思います。
その際にLinuxが目の前にあり、使っていると全く説得力が違います。
FreeBSDでもいいですけれどもね。
別の観点で言えば、なるべく企業色を払拭するべきでしょう。公立学校なんですから。

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衆議院選終わりましたね。

自民党圧勝ということでこれからどうなることやら。

一番の懸念は公明いれて2/3を超えたこと。これは参議院の事実上の形骸化を指します。
参議院で否決されても2/3以上の賛成多数で可決できるわけですので。
特に今回は党議拘束を遵守するという方々のみが自民党議員として成立したわけで、 これはつまり幹部執行部がこうするといえば逆らうことはまかりならないわけです。
まあ、何でもありの状況になったわけですね。

これからどれだけ危険な法律が仕込まれていくのか。
表向きは「いや、これはこういう運用で行きますので問題ありませんよ」というものには十分注意しましょう。 (現状の郵政民営化法案もこういう詭弁が何度かあったのでうさんくさいとみているのですが)
そうなのか、ならいいか、と考えがちですがそれが罠です。

あまりひどいこと方向にならないようにと祈っておりますが。。
議員さん任せが本当は一番楽なのですよ。それが危ういのではねぇ。。

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