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2005/06/18

本質を見ない横暴さ

kitanoのアレ  政府がインターネット有害情報規制に着手

なんかこの経緯を見ているとなんか規定のレールがあったようにもみえますね。。

さて、まず最初に。
ネットが媒介となっておきるという問題ではなく、爆発物を作ろうとするひとや、(集団)自殺をしようとしているひとが、 発生してしまうという、そのこと自体が根本的な問題ではないのか。
その原因・責任の一旦がある政治家がこんなことを言う自体が既にとち狂っているのです。
別の言い方をすれば問題のすり替えを彼らはしているわけです。
また別の言い方をすれば世の中を改善しようといいつつ対症療法でごまかそうとしているのです。
普通の人は集団自殺を呼びかけられて呼応しますか?しないでしょう?
ネットなんて原因やましてやすべてではない。きっかけに過ぎないのです。

「インターネットから情報を得ていた」らしい、が「情報を得ていた」になり、「規制すべきだ」、 という論調の流れにもっとも危惧を抱きます。
これはつまり、予見や予測、予想から物事を判断し、本論を捻じ曲げ、きわめて重大な行動を軽率に為すというきわめて危険な行為です。
現在、審議中である人権擁護法案の危険性(人権保護云々以前に資格無き一部の人間の判断により、司法を飛び越えた捜査権を付与している点) と、どうしてもダブって見えます。

念のため繰り返しますが、有害情報規制そのものや人権擁護そのものについての是非についてここでは述べるつもりはありません。
それ以前の問題として方法論が極めて問題を持っているということです。
正しく論議を積み重ねておらず緊急なことでもないのに、ことさら無理に急ごうとしています。

このような場合、一見正当な言葉やことがらを隠れ蓑にして「なにかよからぬことをしでかしていようとしている」と考えるのが通常です。

まぁ、普通に考えると言論統制ですね。
ともかくもフィルターを導入したい、というのが本音でしょう。普通に考えれば抵抗があります。
いちど、なにか理由をつけて導入してしまえば思うままです。
そのNGワードの登録はまず間違いなく任意に(秘密裏に)行われるでしょう。
本来は公開公明正大にすべき法案審議や委員会も彼らはできるだけこっそりとやろうとする体質なのですから。

実際にネット発信の行動が政治などに影響を及ぼし始めています。
集団自殺を例にあげていますが、それと極めて類似するのは(政治的)集会なわけです。
ネットは所詮「ネタ」なのですが、ちょっとした噂でも情報が入ると行動できるものです。

例えば彼らがこっそりとやりたいが公開でやらないと道理がとおらない集会や審議会も、ネットによって大きく広まり、 いわゆる反対派にもきちんと伝わってしまい彼らにとっては不利になることも多々あったようです。 本来はオープンで公正にやるのが建前なのですが、賛成派(味方の団体)にはちゃんとメールで通知し集合を呼びかけることで“賛成派多数” としたがっていたようなのですね。
ですからネットの情報を統制し芽を摘むことは実に重要なことになるのです。
現在、 審議されているかなり恣意的に適用できる人権擁護法案とのコンボでかなり横暴なことが合法的にできるようになります

さて、爆発物の作成そのものについてですが、私が学生の頃を思い出すと、高校生であれば、化学にやたら強い奴がいまして、 そいつは爆弾ぐらいなら普通に作れるわけです。
適当な(驚かしたり数人を怪我させる程度の)爆発力であればソラで作れるらしいです。 土木工事での爆破の破壊力ともなればそれなりに難しいそうですが。
実際に必要な材料ぐらいはもっていましたしね。普通に化学実験のためですが。
いわゆる大学レベルのことを自分で趣味でやっていたわけでとりたてて非難する事柄でもありません。 彼はいまでは立派に化学分野で先端の仕事をしていますし、 高校時代にあれこれ自由に遊べたのが今の礎になっているという話をしたこともあります。
まあ、 私もそいつとつるんでいたぐらいですから図書館あたりにでもいってちょっと調べて思い出して頭捻れば今でもその程度ならできるんじゃないですかね。 そこそこの専門書は見たいところなのでネットより大学あたりの図書館でみてくるのが妥当なところだと思うのですが。 ネットって意外と専門的なところは薄いんですよね(コンピューターサイエンス除く)。

ネットで調べた云々ならそういうレベルかと思ったのですが、 考えてみればそれ以前ににいちいち化学合成しなくても爆竹や花火などをばらして再構成すれば簡単な爆弾なんて作れるわけですからなんてことはないです。 そこそこ器用で科学のわかる人ならなんでもないでしょう。
あ、そういうことをいうのも有害情報ですかね(笑

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2005/06/17

書く技術、についてちょっと考えてみる。

ブログに問われる書く技術、話す技術 http://www.itmedia.co.jp/anchordesk/articles/0506/13/news012.html

小寺氏の論はいつも面白い、というか共感できる話が多いのだなあ。
以前もniftyserveで自分の文章力が鍛えられたという話が載っていたが全くの同感であった。
私もだいぶniftyの会議室で文章力が上げることができたと思う。

その頃、オフラインミーティング(といって最近の人には理解されるのだろうか) で何度か聞かれたことであるのだが、「なんであれだけの文章がかけるのですか」という話になったことがある。
私は長文の傾向がありやや恐縮しているのだが、これは自分の文章力や表現能力のなさでもある。あまり誉められた傾向ではないのだが。。

私と同じぐらい書いている人と自分で考えてみると、いくつかの要因があるように思う。

ひとつは文章をたくさん読んでいる傾向がある。 いわゆる読書家とか論文を日頃たくさん読んでいる人とかそういった類。ともかくも文章を読んでいるのが普通であるという感覚を持っている。
それは知識欲が旺盛だったり、ともかく小説が大好きだったり、まぁ、なんでもいい。ともかく文字に接している時間が長い。
文章を書くには良い文章をたくさん読んで覚えておくことだ、と言った論評家がいたと思う。
誰しも最初は物真似である。赤ちゃんが最初に発する言葉は彼に話し掛けていた人の言葉のオウム返しである。時には人の表現を真似し、引用し、 そして自分の言葉を見つけていく。

もうひとつは自分の考えをなにかしら持っている人である。
何か物事があったとき、例えばニュースでもそれに対して何かしらの分析や解釈をしようとすることをごく普通にやっている。 ある程度訓練というか習慣付けというかそういう要素が強い。
その根幹になにかしら思想というか宗教的なものというかそういうものを持っている。
特定の誰かのものではなくて自分で作り上げたなにかがある。

あとは当然といえば当然なのだが、日頃からたくさん文章を書いている人である。 プロのスポーツ選手は毎日トレーニングを欠かさない。文字で書かなくても頭で文章を浮かべてみる。日記を必ず書く。 日記といっても淡々とその日にあったこと、行動記録のようなものを書くだけでもだいぶ違う。 下手でもいいからともかくもたくさん文章を書いてみる。昔はちらしの裏に書いては捨てる、というスタイルだったが、 今はワープロなりエディタで書いて保存しなければそのまま消える。保存して後日読み直してみるのも一興。
実際、私自身、nifty時代は実際にアップロードするつもりで書いた文章でかなりの数を捨てている。ある程度の緊張を持って、 ともかくも書いてみることが重要。

最後にやや即物的な話になるが、たくさん文章をかくには、 キーボードをちゃんと打てるようにならないといけない。思考を妨げないようにキーボードをたたけないと文章を紡げない。
何か文字を頭に浮かべたら既に指が勝手にそのキーを叩いているぐらい反射的にできるように訓練をしておく必要はある。まあ、 訓練せずともどんどん文章を入力しようとしているうちに打てるようになっているかもしれない。
それはスポーツでまずウェイトトレーニングをして筋肉を作ってからスポーツをするか、スポーツを通じて必要となる筋肉を作っていくか、 程度の差だと思う。前者のほうが効率が高いが、後者のほうが面白い。まぁ、その辺は好き好きでいいと思うが。

日本の教育では「作文」を書く訓練はするのだが「論文」を書く訓練は殆ど無い。
作文よりもむしろ感想文で情緒的な表現が誉められる。

実際に社会に出てから必要だったり、ビジネスで金を稼いだり、 Webやブログで必要になるのは論文を書く技術である。(ポエムで稼げるような芸術のある方の話は別である)
よって訓練されていないままでいたり、そのまま社会に出てギャップに苦しむのは珍しいことでもない。
実は論文を書く技術、つまりテクニックというものは存在する。
米国では大学の教養課程で必須授業の項目らしい。 日本でも書籍でいくつも出ているので自分にあったものを探して勉強してみるのも文章を書けるようになる近道である。

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2005/06/12

「音楽携帯」の一例

以前に音楽シーンに携帯はでてこないという論を書いたが、最近出た端末でその意をさらに強めてしまったので書いておく。

W31Sである。 なんの因果かまたSONYである。ここをみてもらうとわかるとおり、 音楽に使えるストレージ領域はわずかに128M。105kbpsで我慢したとしてもわずか30曲である。 いまどきのどんなプレイヤーでもこんなに容量が少ないものは探すほうが難しいであろう。

これが音楽携帯であるという。

理由はわかっている。著作権保護である。保護機能(MG)つきのメモリースティックDUOでないといけない。 そしてそれがこのサイズしかないということだろう。

ハードを見ればよい物であるしリモコンがマイクになって音楽を聴いているシーンから電話通話への切り替えが実にスマートに行えるという感覚は素晴らしい。 自分の好きなイヤフォンやヘッドフォンも使えるし、音質も良好であるという。

でもたった30曲か。

また音楽を聴いていると電池が持つのが6時間半というスペック。 MDLPが数日オーダーで使えたり携帯プレイヤーでも丸一日を越えるものがあるというのになんとも少なすぎる。
これではまるで日常の音楽シーンに入り込めないではないか。
携帯電話はいまでもなく電話である以上、電池を使いきるまで使って充電できるシーンを待つというわけにはいかないわけで、 実際は3時間も聞いていると段々と不安になってくるだろう。
これでは使うとしても外部充電装置が必須であるな。
その意味では30曲というのは妥当なのかもしれない。およそ3時間だから(笑)

このレベルでも音楽を前面に出しているという不思議。いや、そうせざるを得ないのだろうか。冷静にみてしまえば、 これではまるでおまけ機能といわざるを得ないのに。
なにか哀れさえ感じてしまうのは気のせいか。

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2005/06/10

PS3がわからない。。

インターネット上のサイトでクタラキ氏へのインタビューやカンファレンスなどでの発言が見られるようになった。
いまだに良くわからない。何をやりたいのかが。

技術的にはとても面白いと思うし、コンピューターサイエンス的にも、 なによりもこれに携わった技術者たちがとても楽しかったのだと思う。

しかし、世間というものは「なにかをするもの」の明確な意味・意思がないと受け入れてくれるものではない。 これは歴史が証明してしまっている。
良いものが、技術的に優れたものが売れるのではない。

コンピューティングというものはごく限られた人間のやることにすぎない。
ほとんどの人はWebをみて、メールをして、ワープロを使ってエクセルを使うのがせいぜい。
あとは年賀状ソフトとか携帯電話ソフトとか。写真ぐらいは扱うかもしれない。
テキストエディタさえ知らない人が殆どなのだ。
殆どがメーカーの提示したことをやっているだけに過ぎない。このような人が金銭的に市場を支えているのが実情なのだ。

PS2が初期にうまく軌道に乗ったのは廉価版DVDプレイヤーであったということが無視できない事実としてある。 DVD市場自体の広がりとうまく相乗効果としてまわった。
ゲームユーザー以外も取り込んだのだった。

PS3がうまく軌道に乗るのには何が必要なのだろうか。
既にゲーム市場自体の縮小がいわれている。大方の人々はもうゲームには飽きた。 旧来からのゲーマーはハリウッド化したゲームに辟易としている(私はこの部類)。
パソコン市場自体も打ち止めになってきている。パソコンは勝手になにかをしてくれるわけではない。 ウィルスとかフリーズとかアップデートとかなんか面倒な割にたいしたことができない。
携帯電話も熟成時期に入っている。もう当たり前のようにみんな持ってるし機能が増えすぎてわけがわからなくなっている。

注目株であった筈のDVD・HDDレコーダー市場も既に荒れており、次世代も暗礁に乗り上げている。 特に日本ではデジタル自体に突入することで本来は新規需要の創出の良いチャンスであるはずなのに、 コンテンツプロテクションのきつさからむしろしらけムードが漂っている。
映像コンテンツ自体からの消費者の離反が始まり市場の縮小もいわれている。

今伸びている、伸びようとしている芽がある市場が見当たらない。
つまり、なにかにのっかる、という形式はない。

だからこそ、その指揮官はきわめて抽象的な表現に終始せざるをえないのかもしれない。

それが何か、ということは、今、きわめて普通の人々は何を求めているのか、何を欲しがっているのか、何をしたいのか、 そのことを考えなくてはならないのかもしれない。
SONYは箱だけを用意し、誰かにその答えを任せるようにも思える。
SONY自体も何かその答えを出してくるのかもしれない。

技術的に優れていることは関係ない。問題は買う人の心を何でつかむかだ。

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