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2005/02/04

「不要な人間」の重要さ

http://premium.nikkeibp.co.jp/bits/bits_column/column_d40_01.shtml

この記事で結構面白いことに言及していると感じたので、先を進めて私が勤務先で感じたことを書きたいと思う。
私のところではいわゆるレイオフは行われていない(通常書くところのリストラ)。
しかし会社全体としては近年人事異動・配置転換が激しく行われ、当部としては人員削減を余儀なくされた。上層部としては「使える人間」 をなるべく手元に残し、「使える人間」をその変動人員に当てるのは当然ではある。その結果、いわゆる「働かない人」 が多く他の部署に移っていった。部門という範囲で見ればレイオフと同じ状況だった。

その結果、今、部は疲弊を感じ始めている。ギスギスしだしているを感じる。それは上の記事でもかかれているかのようだ。

「うっかりはちべえ」の存在というような感情的意味ではなく、もっと直接的な業務で感じる変化や障害が生じているので、 不満を吐き出す意味も兼ねつつ、それらを書いてみたいと思う。

・宴会部長的存在
彼らは季節などの節々で行われる宴会ごとや行事を取り仕切ることは多い。 いなくても形式的には行われるし誰かしらができることだが熱心さが違うし、その結果、盛り上がり方が大きく異なる。 実際に幹事としての心配りのレベルが異なる。結果として参加人数や満足度が大きく変わってくるのだ。それを実感している。
業務の協力とそういう場での親睦という観念は私は分離して考える方なのだがそれでもなにか違ってしまっているのを感じる。 宴会で仲良くなっておくと業務でも話を通しやすくなるものだ。

・いわゆる汚れ役・庶務役の引き受け
典型的なのは庶務さえ他の部署と人が兼任となって事務手続きなどのサポートがなくなった。
いわゆる電算化によって事務手続きはかなり個人のPCから行うようになっているにせよ、まだまだ紙などでのやりとりは多い。 ちょっとイレギュラー・想定外なことがあるとそうなる。 むしろ想定外事項として処理せざるを得ない事項が電算化による定型化によって増えてさえいる。
それらを担当者が本来の業務に時間を割けるように代替して効率よくやってくれていたのが庶務担当の人の存在であった。(総務との掛け橋・ 総務に対しての部門代表の役割もあった)
ところがそれがいなくなった結果、事務手続きが増え直接総務とのやりとりも増えた。結果、本来業務時間の減少を招いている。 そのつけは残業時間の増大につながる。残業時間の圧迫もされているため、業務の精度の低下につながる。
これら以外にもいわゆる汚れ役がある。他部門との交渉や物品・機材などの整理・整備や購入、顔が広いことが多く、 いざというときにいろいろとものをかき集めることができる。つまらない単純作業もある。
これらは結果として業績としてはなかなかカウントできないためこういうことばかりをやっている人というのは「仕事のできないやつ」 として考えられてしまう。しかし実際には必要な作業なのだ。
これらは存外、手間が多くかかり疲れるものである。
会社の仕事というのは「かっこいい仕事」ばかりではない。こうした脇役やエキストラのような仕事というのがあるのだ。 これらの仕事を結局誰かがやらなくてはいけない。「働かない人をやめさせても、また2割が働かなくなる」、 というのは実はこのことではないのか、と考える。
そして本来そういうのに向いていない人に、このような仕事役が回ることでその人には確実に疲弊感がたまる。

・「できるひと」の特質と均一化
できるひと、というのはおしなべてプライドが高い。プライドが高いからこそ自分を高め、 できるひとになろうと努力するという側面があるためそれ自体は悪いことではない。
「うっかりはちべえ」が必要だということに近いが、似たような人間ばかり集まってしまうとその環境は人間関係がギスギスしだすものだ。 多様な考えの人間、というか、固い人間もいればやわらかい人間もいることで職場環境というのは安定するのではないかと思う。 刺激というか頭がいろんな発想が固くなってくる。
よく会社組織の人間とばかりつきあっていると世間と乖離してくる、といわれるが、お互いに均質化しあうことでバランスがとれなくなってくる。 一度間違った方向に動き出すと、とめられなくなったりもする。
悪例をだせば三菱自動車のリコール隠蔽だが、あれも世間が見えなくなっておかしくなった例だろう。


私自身、いま職場の中で「できない人間」へとなり始めている。彼らがいなくなった隙間を感じ、 そこを埋めようと考えたりするとどんどんそこへの落ち込んでいくのを感じる。
そこでやる作業というのは「なにをやったのか」と思い出してもいわゆる尺度の成果では測れなくて主張もできない、 技術的には些細なことなのだ。しかしやらなければいけない。
そしていわれるのは「そんな誰でもできることをなんでやってるんだ?」。作業としては誰でもできるんだが、誰もやろうとしない。つまり成果・ 業績評価という尺度を意識すると実は誰もできない仕事だったりする。

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