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2005/02/16

東芝 RD-H1 をよいしょしてみる。

http://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20050216/toshiba1.htm

これは面白いと思う。リンクの下にClipOnがあるように、現在に再び現れたClipOnといえよう。
残さない女性向けなどといっているが、別に性別限らず結局は残さない人も多いと思う。
私もそうだ。
いまでこそDVDレコーダーも持っているが、その昔はClipOnだけでも特に問題はなく、 ごくまれに残したいときはそれをパソコンでキャプチャーしたりビデオ端子(S端子だが)でVTRにダビングしたりしていた。
別に今でも殆どDVDに落とすということはないわけで、買うのがDVDレコーダーしか選択肢がないだけなのだ。
ちなみに現在はClipOn(120G変更済)とRD-X3とRDR-HX70(すご録)の三台体制であるがそれぞれに長所がありClipOnもまだまだ使いやすさからすると手放せない。

ネットワークとADAMSの複合EPGでの番組表閲覧や予約、ネット経由でのPCでの視聴、 明記していないがもちろんPC経由のiEPG予約も可能であろう。最近になってできたフォルダ機能はうらやましい。
PCからの操作は便利である。私がRDX3を持っているのはこれゆえといっても過言ではなく録画一覧や予約一覧確認、 番組予約はiEPGで好きなTV番組サイトで検索をかけるなどして予約ができる。

そう考えると、DVDがついていない以外は高級機種並みの充実ぶりといえるのではないか。出力もちゃんとD2端子までついている。 (光は意味がいまいちわからないがw)
それでいて250GHDDで三万円前半とはたいしたものといえる。
将来的にデジタルでDVDに落としたい人も中古あたりで値落ちした対応ハードを買うという手も残されている。よくできた展開だと思う。 もちろん主は現行ユーザーでHDD+チューナーの買い足しということなのだろうが。

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2005/02/04

「不要な人間」の重要さ

http://premium.nikkeibp.co.jp/bits/bits_column/column_d40_01.shtml

この記事で結構面白いことに言及していると感じたので、先を進めて私が勤務先で感じたことを書きたいと思う。
私のところではいわゆるレイオフは行われていない(通常書くところのリストラ)。
しかし会社全体としては近年人事異動・配置転換が激しく行われ、当部としては人員削減を余儀なくされた。上層部としては「使える人間」 をなるべく手元に残し、「使える人間」をその変動人員に当てるのは当然ではある。その結果、いわゆる「働かない人」 が多く他の部署に移っていった。部門という範囲で見ればレイオフと同じ状況だった。

その結果、今、部は疲弊を感じ始めている。ギスギスしだしているを感じる。それは上の記事でもかかれているかのようだ。

「うっかりはちべえ」の存在というような感情的意味ではなく、もっと直接的な業務で感じる変化や障害が生じているので、 不満を吐き出す意味も兼ねつつ、それらを書いてみたいと思う。

・宴会部長的存在
彼らは季節などの節々で行われる宴会ごとや行事を取り仕切ることは多い。 いなくても形式的には行われるし誰かしらができることだが熱心さが違うし、その結果、盛り上がり方が大きく異なる。 実際に幹事としての心配りのレベルが異なる。結果として参加人数や満足度が大きく変わってくるのだ。それを実感している。
業務の協力とそういう場での親睦という観念は私は分離して考える方なのだがそれでもなにか違ってしまっているのを感じる。 宴会で仲良くなっておくと業務でも話を通しやすくなるものだ。

・いわゆる汚れ役・庶務役の引き受け
典型的なのは庶務さえ他の部署と人が兼任となって事務手続きなどのサポートがなくなった。
いわゆる電算化によって事務手続きはかなり個人のPCから行うようになっているにせよ、まだまだ紙などでのやりとりは多い。 ちょっとイレギュラー・想定外なことがあるとそうなる。 むしろ想定外事項として処理せざるを得ない事項が電算化による定型化によって増えてさえいる。
それらを担当者が本来の業務に時間を割けるように代替して効率よくやってくれていたのが庶務担当の人の存在であった。(総務との掛け橋・ 総務に対しての部門代表の役割もあった)
ところがそれがいなくなった結果、事務手続きが増え直接総務とのやりとりも増えた。結果、本来業務時間の減少を招いている。 そのつけは残業時間の増大につながる。残業時間の圧迫もされているため、業務の精度の低下につながる。
これら以外にもいわゆる汚れ役がある。他部門との交渉や物品・機材などの整理・整備や購入、顔が広いことが多く、 いざというときにいろいろとものをかき集めることができる。つまらない単純作業もある。
これらは結果として業績としてはなかなかカウントできないためこういうことばかりをやっている人というのは「仕事のできないやつ」 として考えられてしまう。しかし実際には必要な作業なのだ。
これらは存外、手間が多くかかり疲れるものである。
会社の仕事というのは「かっこいい仕事」ばかりではない。こうした脇役やエキストラのような仕事というのがあるのだ。 これらの仕事を結局誰かがやらなくてはいけない。「働かない人をやめさせても、また2割が働かなくなる」、 というのは実はこのことではないのか、と考える。
そして本来そういうのに向いていない人に、このような仕事役が回ることでその人には確実に疲弊感がたまる。

・「できるひと」の特質と均一化
できるひと、というのはおしなべてプライドが高い。プライドが高いからこそ自分を高め、 できるひとになろうと努力するという側面があるためそれ自体は悪いことではない。
「うっかりはちべえ」が必要だということに近いが、似たような人間ばかり集まってしまうとその環境は人間関係がギスギスしだすものだ。 多様な考えの人間、というか、固い人間もいればやわらかい人間もいることで職場環境というのは安定するのではないかと思う。 刺激というか頭がいろんな発想が固くなってくる。
よく会社組織の人間とばかりつきあっていると世間と乖離してくる、といわれるが、お互いに均質化しあうことでバランスがとれなくなってくる。 一度間違った方向に動き出すと、とめられなくなったりもする。
悪例をだせば三菱自動車のリコール隠蔽だが、あれも世間が見えなくなっておかしくなった例だろう。


私自身、いま職場の中で「できない人間」へとなり始めている。彼らがいなくなった隙間を感じ、 そこを埋めようと考えたりするとどんどんそこへの落ち込んでいくのを感じる。
そこでやる作業というのは「なにをやったのか」と思い出してもいわゆる尺度の成果では測れなくて主張もできない、 技術的には些細なことなのだ。しかしやらなければいけない。
そしていわれるのは「そんな誰でもできることをなんでやってるんだ?」。作業としては誰でもできるんだが、誰もやろうとしない。つまり成果・ 業績評価という尺度を意識すると実は誰もできない仕事だったりする。

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2005/02/03

松下のジャスト提訴に感じる憂鬱

なんとも大人気ないことだ・・というのは簡単だが、実はとてつもない危惧への幕開けを感じる。

ソフトウェアというのは個人が作っているものが実に多い。いわゆるパッケージはたいした数はない。 むしろオンラインでそれこそ星の数ほど存在している。
個人が自分のために作り、ついでで無償で提供されるものも数多くあり、毎日のように大量に公開されているとっても過言ではない。 おそらくその数を把握することは不可能であろう。
また有料で提供されているものも多く、小遣い稼ぎから生業にしている人もいる。 ほぼ同一のものがパッケージソフトとして販売されるものもある。

ソフトウェア特許というものはこれらすべてが提訴の対象となるわけである。

それは無償であろうが有償であろうが無関係。公開の差し止めで済めばまだしも賠償請求を求めることも可能である (特許権利者の気持ちひとつにすぎない)。

特許は公開されており誰でも閲覧することが可能ではある。 ではソフトウェア技術者が自らの作品が成立している特許をすべて調査してから公開することは可能であろうか。現実問題として否である。
特許は文章特有の難解さ(曖昧さの解釈)もさることながらその数には膨大なものがある。すでに存在するもので数百万はくだらない。 年間にひとつの会社だけで数万を超える数が出願されている。検索という手段をもってしてもかなり困難であり個人の手に余るものがある。 また任意の懸案に対する検索は無償というわけには行かない。
ちょっと大きな会社であれば専門部門が置かれているし特許に詳しい弁理士などと契約を結んでいることはごく普通のことであり、 それをもって技術部門などの負担を軽減する役割を担うほどの負担なのだ。
無論、特許案件に対する交渉なども彼らプロの手に委ねられている。

こんな状態で個人が勝てるわけがない。
多くのサンデープログラマーを含むオンラインソフトウェア作家にとっては危機的状況になる。
UNISYS特許で公開を取り下げた作家も多々いたが、あれはまだ期限が先に見えていたからましだ。
今回はこれからもこのような状況が多発しえることを暗示している。

より危険度の高いパッケージ系についても零細企業の多いソフトウェアハウスも決して少なくはない。
そしてそのような会社ほど非常にできに良い「切れのある」ソフトであることが多い。
彼らを苦境に立たせることになる。

本来は特許は装置や機器、薬品など膨大な金銭を投じて研究開発され製造も大規模な会社によって行われていた。 それ故に特許権を与え独占を許可し先行独占利益により開発費を回収させるという目的がある。
別の観点で言えば結果的には大企業同士の喧嘩の道具といっても過言ではないと思う。 個人が訴えられるということはほとんどありえない話である。

ところが今回のような訴訟が今後も起こるようであれば非常に危機的な状況に変化しうる。

たとえば既に世の中に定評のあるソフトがどこかにあり、あたかもそれのクローンのようなソフトを無料でばらまいて損害を与えた、 というのなら故意や未必を問わずある程度は訴訟されても仕方ないと思う。
その法的な根拠として特許を持ち出してくるのが本来の特許権の施行である。
しかし今回の訴訟ではWindowsソフトでは別に珍しくない手法で標準的手法ともいえる仕掛けをソフトに組み込んだのにもかかわらず、 その点について提訴され認められ差し止め処分の判決が下った(幸いにして実行はされないですんでいるが)。 そしてその点は争いになっているソフトウェアの特徴機能でもなんでもない。 松下の販売されているソフトウェアでそれを特徴とするソフトウェアは皆無である。 特許は知らなかったではすまされないにしろ納得がいくものではない。

ジャストシステムが業界トップシェアでなにがなんでも叩き落される立場にあるというのならともかくそうでもない。 むしろ独占禁止の疑いがありえるほどの数の多いマイクロソフトのOfficeシリーズで行われているのにも関わらずそれは看過されているが故にそれが侵害になっているとはなかなか認識できない。
特許の本来の趣旨でいえばまずたたくべきはもっとも侵害の数・規模の大きいものからであるためだ。

最高裁ではきっと逆転判決が出てジャストは無罪放免になると信じているが、もし仮に認められ、 差し止めになったとしたら暗黒時代の幕開けだ。ソフト業界だけではなくソフトの世界全般においてである。
知的財産国家、ソフトウェア国家どころか、草の根、裾野が根こそぎ断ち切られ、商業的に成立しうるものしか存在できなくなり、 結果として現在より貧困を呼ぶのは確実だ。

もし判決が松下の勝訴になってしまったとしよう、
松下がもし今後も同様な知的財産権を振り回すつもりなら、まずはマイクロソフトとの不公平条約ともいえる、 マイクロソフトへの特許に関する提訴の免除項目の排除をぜひともほかの企業の先陣を切って行って欲しい。
そうでないとマイクロソフトに特許を侵害されまくってもそれを黙認するという現状を甘んじて受けつづけるということで全くをもって知的財産を重視する会社などということはいうのは噴飯ものであるとしか思えない。
そしてその上で今回の件についてマイクロソフトときちっと争っていただきたい。
既に判例があるわけだから必ず日本の法廷で勝てるはずだ。当然差し止め請求を公平に行って欲しいものだ。

あまりにいいたいことが多くてとりとめもなくなってしまったがこれにて投稿する。
特許制度にはいろいろと不備があることは指摘されている。ソフトウェア特許というそのものに懐疑的な意見も存在する。
それらも含めて最高裁の結果がでてからまた改めて整理しそのときに書きたいと思う。

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